音曲の少女と探しもの
ヤナタは重いまぶたと重い首を丁度傾けたところだった。チナミが静かに事務処理を続けるために空中に向かって手を伸ばした指を動かした。瑠奈が抱きついたまま動かないのもお構いなしに作業を進める。ヤナタはまぶたをこすると椅子から立ち上がって大きく伸びをした。そこで、ふと視線が止まった。受付の机の下にそっと置かれているキャンバスと花かごの場所で。ヤナタはもう一度まぶたをこすって確認してみた後、首を回転させてみると、チナミに向かって口を開いた。
「あのチナミ」
「なんなのでしょう。ヤナタ」
「チナミはさ。あの場所で何していたの」
チナミは作業を続けながら、ヤナタの質問に対して答える時間を練り出そうとしていた。チナミは複雑なタッチで空中を叩き、時折髪の毛を躍らせて、いくつかのヤナタには理解できない呟きを発した。それから虹色のグラデーションに髪を彩らせると流すように傾けてヤナタを見る。
「何、とは」
「ねえ、あのワーナーって人、チナミの絵をたくさん描いていたみたいだけど、チナミ、そう長いこといたわけじゃないんだよね」
「どういう意味でしょう」
「つまりね。チナミだけがあそこに長くいたわけじゃないんでしょ」
しばらくの中断。長い音声がチナミの硬いソプラノで発音される。いくつかはヤナタには聞き取れないものだ。ヤナタに向かい視線が戻った。
「おそらく、ヤナタたちと同じなの」
「それじゃあどうしてチナミはあの中で何枚もの絵になっていたの。どうなのかな。前に瑠奈と一緒に演じたんだけど、そのときみたいにチナミがあの絵に描かれる人と置き換わっていたのかな」
「瑠奈のオブジェクトの中でのことですか。ヤナタ」
チナミが揺れ動く髪の動きとともに様々なデータ交換を目まぐるしく行うと、ヤナタの他に誰もいないはずの受付に低い狂騒音が響き渡った。驚いて受付の中を見渡してしまうヤナタに向かってチナミは言う。
「音而課―Dの生徒なの。気にしないことです。ヤナタには見えないの。うー、はい。それじゃあ。と。うー、終わりました。これで、しばらくはチナミも暇なの」
チナミはそう言ってしまうと首を左右に振り回して、輝く色を失ってしまった黒髪をチョコレートのデコレーションのように撒き散らした。動きを止めている御前崎瑠奈の顔をなでた髪は、ふわりと流れて、落ちて、跳ね返るようにチナミの薄い布が巻きつけられた肩に乗せられてゆく。チナミは瑠奈の腕を剥がし取ると、椅子の上で天井に向かって届いてしまえとでも言いたげな長い伸びをする。
「ふー。ヤナタ。あの絵のことなの。難しいことではないの。チナミがあの世界で絵に描かれていた理由は簡単なの。何度もあの世界に行ったことがあるからなの」
「前にも行ったことが」
ヤナタは静かに呟いてみると、そのまま押し黙った。チナミのどこともなく漂う視線にヤナタの遠くを眺める視線。交わるようで交わらない視線は沈黙の時間に漂い行く。静かな時間が過ぎてゆく。
「ねえ、チナミ、それって、」
ヤナタの声は途中で断ち切られた。受付の机の上を小さなガラス玉が転がり始める。ヤナタが伺うように発した言葉はその視線の中ではじけ始めたある人物の動きと勢いのあるソプラノにさえぎられたのだった。
「おっす。たっだいま。チナミ」
御前崎瑠奈は勢いよくそう叫ぶと、チナミがせっかく剥がしておいた腕でもってわっかをつくり、再びその首周りに巻きつけてゆく。功永ヤナタはせっかく開きかけた口を閉じてしまい、そのまま瑠奈の様子を眺めてしまう。
「瑠奈。また無茶をやったのですか。チナミは信じられないの」
「うん。チナミ。結構、楽しかったよ。独裁者セムイのとこにルドルフと一緒に殴りこみをかけてやったんだ。私」
「セムイ。かわいそう」
「でも、あの独裁者少年、笑っていたわよ。楽しそうに」
瑠奈はそこでヤナタの開きかけの口を見つめてそれからチナミを見つめる。交互に見比べると唇を上方に寄せてすねたような顔になってしまう。
「で、何。二人で向き合って。何の話をしていたのよ」
「大したことではありません」
「何。何話していたの、ヤナタ」
問われてヤナタは考え込むのをやめた。瑠奈に向かって朗らかに笑う。
「うん。御前崎さんが、瑠奈が、とっても可愛いおてんばだって話をしていたんだ。ね、チナミ」
「な、な、何、」
御前崎瑠奈はすねた顔を膨らませてみたり、口の形をごにょごにょと変化させてみたり、真っ赤になってみたりと色とりどりの変化をすると、チナミのことを見つめてしまう。首周りに巻きつけられていた腕のわっかが少しだけ小さくなる。
「チーナミィ。ヤナタが何を言ったのか言いなさい」
「瑠奈。それはヤナタに聞くべきなのですが、チナミは暇だから答えることにするの。実際にはヤナタが言うような会話は行ってはいないの。だけど、瑠奈はとっても可愛いおてんばなのは事実だとチナミは思うの」
「な、チナ、ば、く、こらー」
瑠奈は真っ赤になると、そのまま言葉にならない言葉を口にしてチナミの首と腕のわっかにあった隙間を埋めてしまう。チナミは首を揺らして巻きついている瑠奈の腕を振り回しながら硬いソプラノを絞り出した。
「瑠奈。苦しい」
瑠奈はそうしてチナミの首にかけた腕を揺らしていたのが、視線のはしで口を押さえているヤナタの姿に気がつくと、口をへの字に曲げてチナミの首へ巻きついていた腕を解き放った。後ろを向いてつぶやく。
「ヤナタとチナミにからかわれるなんて、最悪」
「チナミは別にからかっていないの。本心なの」
チナミの言葉に瑠奈はまぶたを持ち上げて、その整った二重の目を一重に見えるまで持ち上げて、チナミのことを見つめてみる。その相好が崩れた後にもれ出てくるものは穏やかな笑い声。
「そんなことわかってるわ。チナミ」
瑠奈は暫時に訪れたにっこにこの笑顔が現している気分がおもむくままにスカートポケットから小さなディスクを取り出して、チナミとヤナタとをさえぎっている受付机の上の乗っけると、入れ替わりにガラス玉を手に取った。それから瑠奈は鼻歌交じりに胸ポケットに挿してある丘の上に咲く漆黒の花を見下ろした。
「あのさ。この花、ありがとね。チナミ。それと、これだけど、さっきの独裁都市のやつ。終わりのマロビ。あのオブジェクトの製作者の声が入っているの。私、先に少しだけ聞いたんだ。この製作者もね、チナミが果たした役割をやったことがあるみたいなんだよ。どう、チナミ、面白そうでしょ。ね、チナミ、私、後でヤナタとチナミと一緒に残りのを聞きたいって思ったんだ。だから、ね、チナミ、預かっておいてね」
チナミは机の上の小さなディスクを見つめながら手元に持っていくと、持っている方の人差し指で中心を保ち中指と親指で回転させて見せる。
「瑠奈はあの独裁都市を創ったもののことを知っていると考えていいのでしょうか」
「私、実は知らないんだ。でも会ったことがあるような気はしているわ。ひょっとしたらオブジェクトの中に隠れてしまっているのかもしれないけど、でもいいの、私。そうだとしても探し続ければいつかは会えるから」
「では、あの、瑠奈。瑠奈はこのもののことを、どう、思っているのでしょう」
チナミはそうこもったように口にして、小さなディスクを回転させることを止めると静かに机へと押し戻した。ヤナタはそのさえぎられている受付の机に載せられた小さなディスクを手にとって見ると、同じように回してみようと試みてみたのだがどうもうまくいかないようだ。さて、御前崎瑠奈の様子だ。瑠奈はチナミの言葉を聞くと少しためらった。瑠奈はチナミと同じようにこもった声で呟いてゆく。
「最初、追っていたころは好きじゃなかったんだ、私。でも、今は、そんなに嫌いじゃないの。なんて言ったらいいのかな。うー。ちょっとわからないんだけど。最初はね、音楽の歌詞だけを聴いているような感覚だったんだけど、今はね、だんだん少しずつだけど音階がね、こう、微妙にだけど変化している感覚」
「瑠奈。チナミには良く分からないの。でも、」
チナミはそういうと視線を落とした。それから体を乗り出すとヤナタが回している小さなディスクを取り上げる。ヤナタは小さな驚きの声を上げ、チナミの腕が取り上げてしまった今は自身の手の中にはないディスクの行方を眺めていた。
「預かっておくの。初等部創造課Z―404、御前崎瑠奈。荷物預かり。確認」
「お願いね」
「瑠奈。ではまた。次回会うときにはチナミも必要な話ができると思うの。形見透と今先洋介が決着をつけた後には」
チナミはそう口にしてその黒くしっとりとした髪を再び輝かせ始めると、薄布を何重にも重ねているその服に採光を反射させる。空中を指先で弾き、虹色の髪をたなびかせ、ヤナタには把握不能な音律の発音を呟いてゆく。瑠奈はチナミの言葉に表情を硬くするとヤナタに声をかけた。
「ヤナタ。行こう。ちょっと厄介なことになっているのかも」
「どうしたの。急に」
ヤナタはふかふかの椅子から腰を上げた。
「チナミ。二人はどんな問題を起こしたの」
「別に。特に問題ではないと思うの。洋介が創造を完成させようとしているだけなの。透が少し感情的だけど、」
チナミは途中で言葉を切った。その表情が険しいものへと変わってゆく。髪の色と肌の色が黄色と赤に交互に輝く。
「駄目なの。チナミの管理領域を外されちゃったの。瑠奈、ちょっと問題なの」
「洋介が。そう。もうそこまで進んでたんだ。あいつ」
「どういうことなの」
瑠奈は問いかけたヤナタを見つめて警戒色に染め上げられて困惑するチナミを見つめる。首を振る。瑠奈は眉間にしわを寄せる。その盛り上がった眉間を右手で、前髪の生え際を左手で押さえる。一瞬の迷いと選択。前髪をかきあげる。
「ヤナタ。あなたはチナミとここに。私は今から行って確かめてくる。チナミ、ヤナタをよろしく」
「瑠奈、それは」
チナミは瑠奈の言葉とともにヤナタを見つめる。立ち上がったまま首をかしげているヤナタのことを。
「瑠奈。チナミはヤナタを連れて行くべきだと思うの。創造課は、」
「創造課は。そうね。チナミ。そうすべきなのかもしれない。でも、」
御前崎瑠奈は功永ヤナタに振り向いた。そのまま駆け寄って瑠奈の腕は一瞬でヤナタのほほを掴んでいた。瑠奈の腕。その向かう先であるヤナタのほほを思い切りはたき切った。ヤナタはひどい衝撃とともに目を回してしまうと、それから不意に暖かい感触が口内とそして唇に広がった。瑠奈は満面の笑みを浮かべてヤナタから離れると、一言、朗らかに呟いた。
「うん。これですっきりした」
御前崎瑠奈はそう言うと首を左右に四回振った後、たなびく黒線を揃えてしまうとチナミに向かって手を振った。そのまま天の川学園の受付ののれんをくぐり抜ける。ヤナタはいまだ唇に残る暖かな感触と口内に一瞬だけ広がった鉄の味に目を白黒させていたが、チナミに向かって問うような視線を投げかけた後、瑠奈と同じように左右に首を振り、チナミに一礼する。
「よくわからないけどさ。とりあえず。行ってくるよ。チナミ」
「そうなの。チナミもそうしたほうがいいと思うの」
ヤナタはそのまま瑠奈の後を追ってのれんをくぐろうとして立ち止まる。チナミが怪訝な顔でヤナタの停止した姿を凝視する
「ねえ、チナミ。教室にはどう行けばいいんだっけ」
「初等部創造課Z―404はZ空間ですからY組みの隣なの。通路は、」
ヤナタは答えとともに走り出す。両足を伸ばし走る。重心を前方に腕を振り子のように往復させる。巨大な直方体から突き出したいくつもの歪曲した曲線建築の姿を視界の外に置いてしまい校内へと走り込む。行く筋にも伸びているように感じる階段に両足の回転を繰り返し、飛び、跳ね、階段を上りきる。合計で九十六段。ヤナタは数えるつもりもなかったのだがなぜか数えてしまった階段の先で、独り言とともに方向を確認するとそのまま直進する。一部屋、二部屋、三部屋。四部屋目。奇妙な人だかり。扉の前でざわついている。あるいは人だかりとは呼べないのかもしれない。小さな人型、大きな影、鳥獣の面影と4足の足、あわ立つ奇妙な風泡、不可思議な閃光。Z―404の扉と窓の周りには眺めている視線たちが集い、ざわめいていた。ヤナタはあるいはその人だかりをかきわけて、あるいは声を出して、あるいはジェスチャーで、あるいは胸ポケットのカードが輝いて、その無形、有形の人だかりをやり過ごしてゆく。扉の前でのざわめき。空白地帯。瑠奈が扉の前で争っているのが見える。相手はヤナタが見たことのある顔だった。ヤナタに向かってナイフを突きつけた女兵士。迷彩服姿のアリス=ディアナが扉の前で歩哨のように直立不動をなして御前崎瑠奈との間に口論を成していた。瑠奈は足を踏み鳴らして怒りのおもむき先もなく歯を喰いしばり、奥歯を支える骨が離れていてさえ浮き上がって見える。ヤナタは有形の姿をした人だかりに一声残してかき分けて行く。扉との距離が縮まる。ようやく口論の内容が聞こえてくる。