おかしな世界の受付とオブジェクトと愛の年代記
さて、ヤナタの天の川学園における長い一日目は続く。ヤナタの睡眠が妨げられたのは瑠奈によってだった。頭がガンガンする。朦朧とするふらふらの状態。ヤナタにも何かがぶつかってそうなったのは推測できた。
「何するの」
「何であんたがいるのにチナミはいないのよ」
理不尽な理由で起こされたらしいことはヤナタにもわかる。視界を埋める卵型の顔に浮き上がる小さな鼻、彫りこまれた二重の切れ長な目、小ぶりだが開くと大きく開花する口。視界が定まるまでの間、瑠奈の均整だといっていい顔に少しだけ見とれていたヤナタだが、やがて視線を泳がせてその後背のものを確認する。巨大な街。高層建築。経済惑星エコノスロロニーニの首都によく似ているが、どこと無くそれよりも画一的で統一されたデザインを感じる。つまりどの建物も同じに見えるというわけだ。異なる点といえば宣伝まみれの立体映像と多量な音声も存在しない静寂に支配された街並み。
「あー。チナミはいないし、ここは、面白くはなさそうだし。一緒に荷物まで抱え込んじゃったし。どうしよう」
「え、君まで荷物扱いするの」
「だって、どうしよう。ここ。さっきあったみたいな役柄によるオブジェクトへの移入じゃないから厄介なのよね」
「どうして。そっちのほうが楽だと思うけど。だってひどかったよ。さっきの最後」
ヤナタはそう口にして視界を移動させて建物と建物の間の無機を観察してみる。建物に向かって接近してみる。瑠奈はしばたかせた目をヤナタからそらすと、怒ったのか少しだけの紅潮とともに、地面に敷き詰められた舗装を蹴り飛ばしてみる。
「ひどかったって。何が。私だって好きでやったんじゃない」
「そうかもしれないけど。あんな痛い目にあうのってないよ。ひどいよね。本当にさ。死ぬかと思った。もうぐらぐらのくわんくわんに朦朧としたときに、そう耳鳴りもね、きーんきーんて鳴ってさ、そのときに、あれ、何だったんだろう。何か暖かいものが唇の辺りに触れて、広がって、それでね、お話しで聞いた最後のときが来て連れて行かれるのかなってさ。ひどいなあ、まだ何もやってないのにって。あの時、そう、思ったんだ」
功永ヤナタは綺麗に立ち並ぶ建物のガラスを静かに叩いて、それから写りこんだ自身の歪曲像をけだるそうに眺めた。像の背後に写る御前崎瑠奈の小さなうつむきを目に収めてヤナタはもう一度ガラスを叩く。
「御前崎さん。どうしたの。何か変なこと言ったかな」
「どこ見て言ってんのよ」
瑠奈はうつむいていた視線をあげるとその力強い目力を持ってヤナタを睨んだ。髪をかきあげながら足取りも鮮やかに近づいて行く。ヤナタはその光景をガラス越しに見た。遠近感が移動してヤナタの半分程度の小さな瑠奈の姿が少しずつ大きくなってヤナタの像が占めていた場所に侵入する。背後からガラスに映った部分。映らなかった部分。瑠奈を構成する要素が覆われるように隠れてしまう。その下半身が、カッターブラウスのお腹が、二の腕が、隠れてしまって見えなくなる。
「ガラスの中の君」
「馬鹿。つまんない」
「だってここ、あのガラス玉の中なんでしょ」
「そ。ヤナタと同じくらい詰まらなさそうだけどね」
御前崎瑠奈はそういうと足でリズムを取って功永ヤナタが振り向くのを待った。ヤナタはゆっくりと振り向くと自信を失ってしまった中学生のように困ったような笑みを浮かべて瑠奈を見た。
「それで。御前崎さん。今回は格闘しないの」
「だから今回は厄介だって言ったじゃない」
「そうなの」
瑠奈はヤナタと顔を合わせた途端にその姿を背けるように歩き出す。その背筋から延びる曲線を追って歩き始めるヤナタ。
「あまり面白いところじゃない。観察と変化が主目的の場所ね。私は役割に従って全力を尽くすタイプのオブジェクトに没入するのが好きだから」
「なにそれ」
瑠奈は歩みながら周囲を見回した。途端に周囲が現れる。雑踏が規則正しく響きだす。機械たちが慌しくうごめきだす。ヤナタと瑠奈の存在を感知して避けるように距離を取りタイヤを転がす機械たち。蠢いて、蠢いて、蠢いている。瑠奈は両手で胸の前に伸ばして屈伸させると、そのまま歩き出す。
「ようは自由に行動して反応を示すようなやつ。例えば、」
瑠奈はそう言うとカッターを取り出して比較的近くにタイヤを滑らせて進んでいた機械に向かって切りつけた。万能製作器具KNOCKが綺麗な切断面で機械を両断してしまうと周囲を蠢いていた機械たちがざわめいて遠くからが警笛音が響いて眩い閃光が照らし出される。瑠奈が機械を継ぎ目もなしにぴたりと合わせるとその機械は何事も無く走っていくのだが、警笛はそのまま。点滅灯もそのまま。
「こうすれば私の好きな展開になるわけ」
「そうなんだ」
御前崎瑠奈は走り出すと高層建築の隙間に向かって飛び込んでゆく。警笛とともに走り来る大き目の二輪車両。その車上には人の姿。
「機械都市ってわけでもないみたい」
瑠奈はそういうと万能製作器具KNOCKで高層建築の隙間に宿る古来よりの伝承物であるパイプを切り取ると、排気を吹き上げる切断面に万能製作器具KNOCKを押し当てた。溶接パイプを伸縮させて溶接する。
「便利だね」
「ま、ね」
瑠奈はパイプを構えた。警笛が接近する。駆動が一際高鳴ったかと思うと、静かに落ちる。人影が接近する。パイプを振りかぶる瑠奈。ヤナタがその腕をつかむ。瑠奈の鋭い視線が挑発的にヤナタを見据える。
「何」
「相手は治安維持役でしょ」
「そうね。私たちは侵入者ね」
小声で口にした後、ヤナタがつかんでいた腕を振りほどいた瑠奈は、後方に体重移動を行ったかと思うと、大きくなる人影に向かって横なぎに思い切りパイプを振り回す。ふらつく人影。額を押さえた影は小さく座り込む。瑠奈はそのまま隙間の路地を飛び出すと人影につかみかかる。あっけに取られているヤナタの眼前できっちりと腕を締め上げたまま、人影の男に向かって問いかける。
「あなた、偉いかしら」
「独裁都市ジェンセットイェーバーアルレスにおいて偉大なものはたった一人だ。君はそうではない。手元の持ち物を離さなければならない」
瑠奈はつかむ腕を厳しく律しながらヤナタに振り返ると苦笑を造ってみせた。声をひそめて呟く。
「独裁都市だってさ。信じられるヤナタ」
「何がおかしい。独裁都市ジェンセットイェーバーアルレスを笑うのならこの国を出ればいいのさ。いいか。偉大なる独裁者の名において勧告する。今すぐこの腕を、」
小さな呟きが男の耳に達したようだった。瑠奈はつかみ取っていた腕にひねりを加えてひざ付き合って座り込む男の口から悲鳴を搾り出させてセセラ笑う。セセラセラセラセセラセラ。要約すれば鼻で笑って意図した笑い声を上げたわけだ。
「腕を離し、て、立ち、去りなさい」
絞るような声が男の口からもれ出るのをヤナタは聞いた。瑠奈はわざと行う挑発的な態度にも礼儀を崩さない男に向かって見下すような視線をくれてやると必要があるのかわざと侮蔑的な言葉を投げかける。
「独裁都市ジェンセットイェーバーアルレスね。それで、ま、見れば分かるけど、あなたは何をやっているの」
「画家だ」
瑠奈は意表をつかれたように瞬きを繰り返した。ヤナタのほうは男の服装を上下に眺める。もう一度だけ男と二輪車両の形状を見比べてから下唇をつまんで考え込む。瑠奈は瞬きの後笑った。掴み取った腕を離すと憑かれたように笑い転げた。男は掴まれていた腕を何度も振って動きを確認する。
「痛たた。つ。ぅ。君らが何を不振がるのか分からないな」
「警察官じゃないんですか」
ヤナタは下唇をなでると普通であれば必要とも思われない質問を綺麗なマークに彩られた制服姿の男に向かって投げかけた。
「警察官。ああ突撃隊だな。世襲職名としては正しい。が、私は画家だ」
「世襲職名。あの。よくわからないんだけど、逮捕されるのかな」
「上の仕事をこれ以上増やすことは良いこととは思えないが」
制服の男はそう口にすると二輪車両に慎重に近づいていく。バイクを感知した機械の群れがその場所のみを空白にして残りの地面を埋め尽くしてタイヤを回す。
「あの。このロボットたちは」
「出勤時間帯だからな。当然だろう。この時間の事故は後々面倒なのだよ。とりあえず君たちには器物破損の容疑がかけられているのだが」
「はあ」
「ね、ね、それで画家って何。一体、何」
ヤナタの理解の伴わないうなずきとともに、ようやく笑いの渦をお腹の中に収めた瑠奈は開口一番でそう聞いた。
「世襲職と統制職の違いを知らないだって。有り得ない。そのくらいは独裁者学校に挑まなくとも周知のことだとは思うのだが」
「いいから」
「だから画家なのだよ。私は。我々には統制職が振り当てられているだろ。それとは別に世襲職が存在して、それが。いや、駄目だ。この話は。職務外のことを私にさせるんじゃない。教育システムにでも習うんだな 」
制服の男はそう口にして追い払うような仕草をすると、二輪車両の座席を持ち上げてデータブックを取り出した。それから迫り来る機械の群れに認識されるようゆっくりと移動しながら戻ってくる。
「何それ。有り得ない」
「はいはい。有り得ないと。それで。君の世襲職は」
瑠奈は笑いながらヤナタを見ると制服の男を指差して笑ってみせる。ヤナタは男の制服を見つめて笑いそうでいて泣きそうな顔をした。
「職質されちゃう」
「ヤナタ。笑わせない」
瑠奈がつられても一度笑う。笑うという字は失うという字と似ているような気がしないだろうか。制服の男はその表情を固くしてもう一度問いかけた。
「それで。世襲職は」
「知らないんです。本当に」
ヤナタがそう口にしたことで制服の男の表情はますます硬くなる。データブックと二人を見比べてそれから押し黙る。
「それでは統制職は」
「私たち知らないわよ。それにしても独裁都市なんて」
制服の男はもう一度データブックと二人の顔を見比べた後、ため息とともに上空の高層建築に囲まれた塀の中の空を眺めた。それからもう一度の深いため息とともにデータブックに情報を入力して言葉を漏らした。
「また二人、独裁都市ジェンセットイェーバーアルレスの彼岸に到達、と」
「ね。何それ」
「お前らみたいな世襲拒否、配給拒否の連中さ」
制服の男はデータブックを静かに繰って入力を済ませると、睨みつけるように言って二輪車両に向かいゆっくりと歩き出した。瑠奈はその背中に向かって答えられなかった問いへの声をかけてみる。
「ね、画家をやっているんでしょ。絵は。見せてよ」
制服の男は背を向けたまま二輪車両の駆動を作動させるとその座席を持ち上げてデータブックを収納する。飛び乗ってから声をかける。
「今から倉庫兼自宅に行くが、ついて来るか」
瑠奈はうなずいて、ヤナタは困ったように首を振った。男がまたがる二輪車両の駆動が響く。負けないように瑠奈が声を張り上げる。
「乗り物は」
「車両を貰い受ければいい。ほらそこの店だ」
制服の男はそう言って二輪車両をふかし始めた。二人の行動は決まったと言っていい。ヤナタが胸ポケットを漁ってカードを取り出そうとするよりも瑠奈の行動のほうが速かった。瑠奈はパイプを手に制服の男が指差した高層建築に近づくと、豪勢な音を立ててショーウィンドウを破壊する。二輪車両を進ませていた男は慌ててターンする。進み行く機械の群れの中、車体を傾けてすり抜けると瑠奈に向かって片手の拡声器を作りだす。
「馬鹿。そんなことをしなくても貰いますって言うだけでいいんだぞ」
「えー。そんなの面白くもなんとも無いじゃん」
叫び返す瑠奈は、だが、パイプを握るその手を緩めると一瞥をくれた後、投げ捨てる。
「御前崎さん。何だか不思議なところだね」
「ま、ね」
ヤナタの問いに瑠奈はつまらなそうに答えると、真っ赤にペイントされた二輪車両を選び出して試乗する。ヤナタはスクーター型の車両を手に取ると車輪を押して通路に出る。撒き散らされたガラスのせいで車両の身動きが取りづらい。ヤナタの押すスクーターのタイヤがガラス片を跳ね飛ばす。二輪車両を押してゆく場所が限られて非常に不便だった。駆動音を響かせる。店の奥から機械が現れて清掃を始める姿を背に、瑠奈とヤナタは男の先導に従って走り出す。駆動音とともに加速が始まる。風がのどをなでていく。機械の群れを抜けて走る。ヤナタは口を開いて大きく息を吸い込む。忍び込む空気の対流に一瞬、舌を詰まらせながら距離を近づけると瑠奈に並んで走る。瑠奈の真っ赤な二輪車両は加速を続ける。男の巨大な二輪車両はその速度を後方で走る二つの車両に合わせるかのようにゆるやかな加速とともにあった。どうやら、ヤナタたちが向かう方向は街中央ではなく郊外のようらしい。徐々に機械たちの蠢く群れとの遭遇度は減少し、車道はその空間をヤナタたちに対して開放しつつあった。郊外地を走り抜ける。ヤナタは瑠奈のよれよれにはみ出したカッターブラウスが揺らめいて白い波を立てるのを横目に、男の巨大な二輪車両の後を追う。ある開放感があるだろう。ヤナタは運転にも慣れて来たのかその短い髪を車上でかき上げてみる。横目で瑠奈が笑うのを見て、ヤナタ自身も苦笑する。空気を多量に口内へと取り込みながら答弁する。
「こういうの、やってみたいかなって」
「そういうの、自然だからいいんじゃん」
空気の奔流に邪魔されながら途切れがちの会話。やがて徐々に加速を止めていた男の巨大な二輪車両の駆動音が変化する。瑠奈の視線が男の背と二輪車両を捕らえようとするのに合わせてヤナタも視線を返しておく。制服の男がターンして二輪車両を止めた。続けて瑠奈、ヤナタもタイヤの回転を停止させる。制服の男が飛び降りる。瑠奈はスカートをはためかせると舞い落ちるように飛ぶと小さな着地音と降り立った。ヤナタはスクーター型のバイクなので楽なもの。右足から片足ずつ足を降ろす。制服の男は既に背を向けている。道路から歩道に向かって飛び移ると、腕を持ち上げるようにしてヤナタたちを手招きし、交互に行われた視認とともに、歩き出す。
ヤナタと瑠奈との間に秘密会談が持たれたのはこのときが最初になるだろう。ヤナタは高層建築の自動扉をくぐると、違和感なくふらふらと瑠奈の側に寄った。声を潜めて口を開く。
「ね、御前崎さん。気になっていたんだけど。あの、チナミのこと」
「そう。そうなの。チナミがいればね。もっと面白いことになったと思うんだけど、どう
してあんたが私の側なわけ」
「言いたいことはあるけど、それで、チナミはどこに」
ヤナタの顔がキリキリと引き伸ばされて歪む。小声は続いてゆく。
「多分、どこかに紛れ込んでいるんだと思う。さっきの騎士道のやつのときみたいに主要な役割をやっていると思うわ」
「独裁者だったりするのかな」
「チナミが独裁者とか。独裁都市ジェンセットイェーバーアルレスの独裁者チナミなの。とか大きな椅子に座って事務処理を続けながら言うわけ。ない。ないって。ありえない。そんな独裁者ない」
瑠奈はそう言いながらヤナタのちょっとした指摘に首を振って笑う。ヤナタは制服の男の背を振り返らないことを確認した上で指差してみる。
「でも、画家だよ。あの人。チナミ、独裁者なの。も、あるかもしれないと思うけど」
「何。そんな独裁者だったら、私たち倒せないじゃん」
「え、何、御前崎さん。何を倒すの」
瑠奈は前を行く制服姿の男の背中に向かって右手と左手をくっつけて構えると、一瞬の後、振り下ろす動作を行った。不適にふてぶてしいほどに輝いた笑みを作って見せる。それから瑠奈は声を潜めたままなのが惜しいくらいに清々しい言葉を持って、ヤナタに向かって宣言する。
「それはもちろん、極め付きの悪党の独裁者に決まっているわ。そうなると独裁者を支持する敵、国家の犬もやむを得ず倒すことになるわけ」
「えー、でも、そんなことやってどう終息するの」
「そう、ね。まあ、終息させる必要もないでしょ。チナミを見つけ出したら、オブジェクトから出ればいいんだし。私、こういうのは長引きそうだから苦手なんだけど、後でやるわ。ここ、一人でもくもくと進めるほうがよさそうだから」
秘密会談はそこで途切れる。制服の男が振り向いてから首で合図する。
「どうする。来るか」
「独裁者に仕える公僕が何を描けるのか確かめてやるわ」
「しばらくおともさせていただきます」
三人がエレベーターに乗り合わせる。制服の男の手が動いてボタンを押す。昇降が始まる。上下の感覚が鈍る。7,8,9。狭い部屋の中でヤナタは階数の表示を見つめることにする。止まったのは19階。制服の男が降りると、瑠奈、ヤナタも続く。階下に響く足音。エレベーターから左に二部屋を過ぎたところで立ち止まった制服の男は、胸ポケットから鍵を取り出す。金属の接触音。触れ合って小刻みに揺れて甲高い音で叫びあう。担保された家屋再侵入への保証書を鍵穴に触れ合わせる。刻まれるような感覚がする鋭い音を立てて錠が外れる。カタン。音の終わりとともに全開までひねられた鍵が中間点に戻り引き抜かれる。制服の男がゆっくりと内側に入り込むとヤナタと瑠奈も釣り込まれるように人気のない部屋に侵入する。生活感の薄い部屋に絵画が多数並べてあった。その多くは書きかけのもので完成品は少ない。風景画が半数を占めている。高層建築群を走る機械の群れの絵、一面に広がる無数の穂が漂うような農地を走る機械と収穫物の側で手元の機器で映像を眺めている人の絵、溶鉱炉に積み上げられる機械の山と沈黙するライン管理者の絵、巨大な店舗を走り回る機械たちの夜を映し出す画面とまぶたを真一文字につかみとって眠気に打ち勝ち管理する人の絵、同僚と話し合いながら機械の異常信号の点滅を見過ごしてしまっている場面を愚かしげに描かれた男、広大な草原の中に仰向けに寝転がる制服姿の女性の絵。よくわからない絵もある。山脈の合間から昇る機械仕掛けの太陽の絵、広大な海を行く客船の上で風に舞い上げられる機械の絵、干上がった砂漠を歩む機械の絵。そして人物画。どれも細緻な筆致と濃い濃淡によって力強く露に描かれている。機械のボタンを探しながら家屋の掃除を行おうと首をかしげている女性の絵、野菜を刻みながら調理機械の作業と金属なべの火加減を見比べる女性を描いたもの、スーツを着込んだ男性が機械の示すデータに視線を合わせずにうなずき客と客が連れる機械とに向かい会っている絵。
それから、機械の群れと人の群れに挟まれた奇妙な花売りの絵。この絵だけが余りに絵の感触がかけ離れていた。淡い筆致で淡々と描かれる売り子の女性。それと同じように、あるいはそれ以上に淡い色で描かれる人の群れ。そうして濃い輪郭を持って描かれる機械の群れ。遠近感が狂ったように感じるものぐるしい絵。
「あ、これ。何。どういうこと。チナミ、だよね」
「そうだね」
花売りの絵。そこには確かに淡く滲むようで分かりづらいものではあるが、チナミの姿が描かれていた。たなびく虹色の髪、透き通るような肌を隠すものは受付で見るチナミが着込むものとは異なっている。受付で焼き付けられる薄い布が何枚も何枚も折り重なったような服とは異なり、男が着る制服より幾分スタイリッシュではあるものの沈思といっていい色の制服を着込んでいる。その腕に当たる布をまくり上げ、微笑みとともに歩き行く人に花を配る女性。ヤナタと瑠奈の凝視はその絵のところでたっぷり一分はあっただろう。制服の男はしばらく未完成の絵を眺めていたのだが、珍客が固まっているのを見つけると、自身も二人が寄せ合うお顔の展示会に参加した。側に寄ると絵の中の人物と二人の顔を見比べる。
「この絵が気になるのか」
「あ、そうなの、そうなの。ね、この人だれ。ね、ね」
「さあな。この絵は俺が描いたものじゃ無いから」
制服の男は絵の中で笑顔を振りまく女性をしげしげと眺めた後、肩をすくめた。二人の側に寄せていた顔を持ち上げる。その後を追うように動く四つの視線に制服の男は離れた角度から絵を
「俺が属するアトリエに出入りしている画家が描いたものさ。何作も同じものを描いているらしくてね。一つ譲ってもらったのさ。貰い手もない絵だからな」
「どうして。綺麗なのに」
「この手の淡いタッチのものは独裁者法令の第何条だかの大昔の法規に抵触するらしいのさ。健全ではないとか」
瑠奈は男の言葉に期待に満ちた笑みを浮かべる。小声でヤナタに耳打ちする。
「ね、ヤナタ。そのアトリエ。怪しくないかな」
「どうしてだよ」
「チナミの絵だよ。気になるでしょ、普通」
瑠奈はチナミそっくりの女性が花を配っている絵から視線を後方に移すと、倉庫兼自宅奥のキッチンで飲料を漁っている制服の男に向かって声を上げる。
「ね、あなた。私たちをそのあなたの属するアトリエに紹介しなさいよ」
「どうしてだ。この絵にそんなに興味あるのか」
制服の男はキッチンの棚から取り出した陶器のカップで飲料をなめながら、ヤナタが遠い視線で見入っている絵を指差した。
「興味あるっていうか。この絵に描かれた子が知り合い、な感じ」
「ほお、それは」
制服の男はうめくように言葉を吐き出すと、二つのカップを手にキッチンから歩み寄る。一つ目のカップを瑠奈に手渡すと、もう一つのカップを動こうとしないヤナタの視線の前に突き出した。
「お約束は無しにしてくれ。つまり、零すな。ふむ、で、こいつか」
制服の男はヤナタの腕がカップをつかむのを見届けると、カップの先に移されたヤナタの視線の代わりに二つの目で絵を射ると、うめくようにそう呟き、花売りの女性を何度も眺めた。
「どうかしたかしら。おじさん」
「いや、実在画だとするならこうまで淡いタッチで描く必要はないだろうと思ってな」
制服の男はそう言った後、コップを握ったままの瑠奈に振り向くと眉を持ち上げて片手をひねるような動作をする。
「で、だ。おじさんはやめてくれないか」
「それじゃあ、どう呼べば」
「独裁都市ジェンセットイェーバーアルレスの独裁者メンデル=メンヘルの時代よりの画家ルドルフと」
「ルドルフ。それであなたの属するアトリエに連れて行くの、行かないの」
瑠奈はそう言った。制服の男、ルドルフの視線は考え込むように宙に浮いた後、瑠奈のコップの場所で止まった。
「飲まないのか」
「独裁者に従う国家の犬が差し出すものなんて危なくて飲めたものじゃないわ」
「お友達は飲んでいるぞ」
ヤナタは言われてみて視線をカップの中に落としてみる。それから困ったような顔で研ぎ澄まされた瑠奈の視線と向き合った。ルドルフの方に向き合ってみてそれから思い切ったように液体を飲み干してみる。
「何も入ってない、よね」
「ああ。入っていないとも」
ヤナタは確かめるようにそう言って、制服を着たルドルフは口を大きく開け広げたどちらとも取れない笑みを浮かべる。そのまま瑠奈を見る。
「さて。いいだろう。連れて行こうじゃないか。彼岸に住まう諸君を。それにしても国家の犬とは良く言ったものじゃないか。ええ」
「そう。良かった」
勢いのある口調でそう言葉を吐き出したルドルフの前で瑠奈はカップの中身を一気に飲み干して見せた。
「なかなか美味しいものだわ」
「それは良かった」
瑠奈の顔に向かって笑みを浮かべたルドルフは描きかけていた絵を一枚取り出すと丁寧に包み始める。大き目の絵だ。包装してしまうとそれからそのまま無造作に持ち上げる。ヤナタは静かにその様子を見守っていたのだけど無造作に突き出された制服姿のルドルフの腕に困惑する。
「カップ」
ヤナタは言われる通りにカップを手渡す。
「先に外に出ているといい。俺は機械を呼んで荷物を渡してから行く」
御前崎瑠奈はうなずいてコップを渡して歩き出す。功永ヤナタの方はコップをルドルフに手渡した後は一枚の絵を見つけて今度はその前で立ち止まっている。瑠奈はヤナタの側まで寄ると、見つめているヤナタにつられてその視線の先を追ってみる。
「これが、どうかしたの」
「うん。これ、独裁者の肖像画なのかなって」
ヤナタの視線の先には大量の情報画像の上へと落ちる巨大な影の絵が描かれていた。瑠奈が首をかしげる。
「どこに肖像があるの」
「それは、」
「そうだ。そういうことだ。実際の独裁都市ジェンセットイェーバーアルレスの支配者である独裁者はそんな巨大な影は持ってはいないがな。肖像画なら、ほら、あれだ」
ルドルフはカップを洗浄機の中に立てかけると、倉庫兼自宅奥のキッチンの右隣の部屋に向かっていた足を止めて、二人の視線の先にある影が主題の絵と、それから自分の指先が示したものとを確認する。ヤナタはルドルフの指先を追って腰を落とした。焦点を合わせる。存在しているのは小さな少年の姿だ。どこかで見たことがあるような小さな少年。十五を超えないような姿でルドルフと同じような制服を着込み、どこか遠くを眺めている。瑠奈もルドルフの指先にいる制服姿の少年の絵の前で右腕に添えるように左腕を触れさすと、ゆるやかな体重移動で体を揺らした。何かを考えているようにもみえる。ルドルフはキッチンの右隣の部屋から機械を一体呼び出してしまうと自身が抱えていた包装された絵を慎重に預けることにした。それから相変わらず絵を眺めている二人の側にやってきて声をかける。
「どうした。あの方の肖像画が珍しいか」
「小さな子だね」
「これが、独裁者なわけ」
「そうだ。一昨年、独裁者試験で最高点を叩き出したこの都市での最高位のお方だ」
「なんなわけ、それ」
瑠奈はルドルフの言葉にその切れ目長の大きな目をさらに尖らせて大きく開く。ヤナタは小さな少年の制服姿の絵を視点の赴くままに眺める。
「世襲職も統制職も否定している点ではあの方もお前たちも変わらんが。独裁者試験は知っているだろう。お前たちも。あれの高得点者たちは世襲職からも統制職からも自由であるのさ。このお方はその象徴さ」
「独裁者試験。どうせ、独裁者が作った腐敗した制度なんでしょ」
ルドルフは吐き捨てるような瑠奈の言葉に瞬きしてそれから沈んだように肩を落とした。ルドルフは瑠奈から目を逸らし、絵を眺め続けるヤナタに視線を落とす。その視線の追う先を丁寧同じように追ってゆく。
「どうだ。いるか。その絵」
「そうだなあ、どうだろう」
ルドルフはヤナタの肩に手を置いてそう口にすると目を細めた。絵の中の小さな少年はきりりとした制服をまとうと、はにかみながら、その片手でデータブックをつかんで片手で何かの文字を刻んでいるところだ。今にも文字を刻み始めようとするその姿。ヤナタはしばらくの間は肩に置かれた手も気にせず見ていたのだけど、やがて瑠奈の方に視線を移して腰を上げた。ルドルフに向かって声を出す。
「そうだね。いつかはいいかもしれない」
「そうか。一目のときで駄目だったとしたら、多分、その日は来ないだろうな」
「どうかな。わからない、かな。それより。ね。行こう御前崎さん」
「うー。そう。行くのよね。私たち。そうよね。でも、行ってみてもなぁ。どうだろう。こんな独裁者」
瑠奈は何かを迷っていたようだが立ち上がるとルドルフの倉庫兼自宅を後にする。ルドルフもヤナタも。再びエレベーターで移動し、二輪車両に飛び乗ってみる。変わり行く景色。静かな振動と加速に伴う派手な振動。郊外から振り返って中心部に向かっているような気もするし、はたまた郊外からさらなる外延部に向かっているような気もする。制服姿のルドルフの後を追って真っ赤な二輪車両とスクーターが行く。長いようなそれでいて短いような時間。四十五分を超えるか、満たないかの時間。流体を裂いて爆発するような駆動音が鳴る。生まれ出る動力がタイヤと路面を摩擦する。前方の大きな二輪車両が操作者の後方確認とともに路面を端へと寄り始めた。駆動の音が落ちる。片足が持ち上がって路面に向かって人影が飛び上がる。ルドルフは座席を持ち上げてデータブックを取り出すと制服の内側に収め置く。瑠奈の真っ赤な二輪車両が徐々に駆動音を落として停止する。ヤナタのスクーターが滑るように進入する。制服を整えたルドルフは、二輪車両から降りたばかりの二人に向かい、親指で行き先を示すと歩き出す。足の向く先は前面の建物。軽い建築物だ。高層建築の合間に埋まるように身を横たえている広い二階建ての洋風建築がヤナタたちの目に迫ってくる。ミュージアム。開かれる扉。受付の机の上で半睡のまま漂っている女性に向かってルドルフが声をかける。
「ワーナーは来ているか」
「来れるはずないじゃない。と言いたいところだけど。来ているわ。珍しいことにあなたで今日は二人目の来客ね」
「そうか」
「それでその子達は」
「彼岸行きの拒否連中さ」
受付の机の上で半睡していた女性はルドルフとの会話の中で何度も目をこすった。横たえていた体を垂直に起き上がらせると、ヤナタと瑠奈を視界にとらえて笑った。言葉を選びながら会話をつなげる。
「そう。あなたたちも。ね。生まれが悪かったのよ。でもね、良く考えることね。世の中、妥協してしまいさえすればそう難しいことなんてないのだから」
ルドルフは女性の視線の中に潜むものに忌々しそうに顔を歪ませたが、直ぐに柔和な顔に戻り問いかけるべきことを問いかける。
「それでワーナーは」
「いつも通りよ。一階の彼の専用アトリエにいるわ」
ルドルフは丁寧に会釈して女性に型どおりの挨拶を済ませると、二人を先導して通路を指差しながら歩き始めた。瑠奈はその指先を睨みつけたまましばらく口を閉ざしていたのだけど、やがて我慢しきれなくなってヤナタに向かい口を開く。
「どういうことよ。ヤナタ。ルドルフは本当に画家じゃない。ここは普通のアトリエだし」
「本人がそう言っているんだからさ。そうじゃないの」
ヤナタは場所柄に従って小さなささやくような声でそう答えると小走りでルドルフの背中を追いかける。瑠奈は納得いかないように建物の内装をぐるりと見回してみる。芸術的なようにも見えなくはないものがいくつもいくつも並んでいる。裸像。壁画。つぼ。貴金属。そしてたくさんの絵画。やや抑え目のオレンジの光源に照らされて様々に照り返す人々の痕跡たち。瑠奈は視線を二つの背に戻すと左右の足で強めに床を蹴って後を追う。いくつかの展示室を過ぎ、いくつかの乱雑な制作室を過ぎる。
「ルドルフはここには部屋を持ってないの」
「ああ。俺の絵はそんなに高い評価を得てはいないからな」
ヤナタの問いに答えたルドルフは、製作部屋の中を覗いてゆく。そこに立てかけてある完成間近の絵と、覆われているいくつかの秘密の絵を眺める。それから肩を落として頬骨の辺りを叩いて少しばかり立ち止まった。
「どうしてああいう絵が描けないのか。自分では分からないな。おそらく、そういうところが未熟なのだろうな」
「当たり前。国家の犬が移り気なあの瞬間を捕らえられるわけないじゃない」
ルドルフは瑠奈の言葉に沈黙し、それから漏らすような声をしぼり出した。ぼそぼそとした呟きはヤナタの耳には聞こえなかったし、瑠奈の方を驚いたように眺めていたのだから聞こえたとしても気づかなかっただろう。ルドルフは瑠奈の言葉にそれ以上の返事を行おうとはせず、制作室内で描いている人影と挨拶を交わし、歩き始めた。怒りからなのかその歩調はわずかながら強いものであって、ヤナタの歩幅で追いつこうとすると小走りにならざるを得ないものだ。制作室を四部屋分通過して突き当りを曲がるとそこから直線に歩き二つ目の部屋でルドルフは足を止めた。
「ワーナー。ルドルフだ」
キャンバスがいくつもいくつも並んでいる制作室に足を踏み入れるとルドルフは椅子にちょこんと乗り上げている細身の男の耳元に近づいて、それから大きな声でもう一度同じ台詞を口にした。
ようやく男の顔が持ち上げられた。ルドルフの姿をとらえた視線が左右に微細な振動を起こす。たてかけられている描きかけの絵。制服姿のルドルフ。乱雑で擦り切れた制服を着込むやせこけた男は繰り返された眼球の移動の間に置くべき比重を考えたのだろう。
「ちょっと待ってくれ。絵を描き上げなきゃ」
「ああ。ワーナー。この絵か。また描いているんだな。丁度言い。俺の話も、その絵の女についてのことだから。描きながらでいいから話をやってみないか」
ワーナーはその枯れ枝のような腕で絵に向かって着色を進めて行く。ルドルフの声が聞こえているのか聞こえていないの。沈黙のまま着色を続ける。
「その女のことをこいつらは知っている」
「君たちが誰であろうとも」
ワーナーは着色の筆を休めると振り返ってルドルフ、次いで二人を眺める。筆先を突きつけて瑠奈、そしてヤナタの順に向けてゆく。
「彼女のことを知っているわけなんてないんだ」
厳しい視線とともにあるワーナーはそう言うと二人への興味を失ったかのように、筆にのっている油脂の具合を光源にかざして確かめてみる。
「知っているわ」
瑠奈は言う。
「いいや、知らないね」
「知っているわ。私。チナミでしょ。その絵の女性」
ワーナーは筆をキャンバスに向かって運ぶと着色を再開する。そのまま境界色を幾重にも塗り重ねて、椅子に座っているチナミと瓜二つの女性の濃淡をあらわしてゆく。鋭く見据えられるワーナーの視線の先。色の濃度にいらだったのだろうか、苦虫を噛み潰したような表情がワーナーの顔に浮かんだ。キャンバスに向かいしみこませるように丁寧に布のようなものを押し付ける。
「あなたチナミとどこであったの。早く言いなさい」
瑠奈の声。慎重にふき取られた油脂が布状のものを染め上げる。ワーナーはため息とともに振り向いて瑠奈にその鋭い視線をぶつけ当てる。
「知らないな。チナミなどという名は。どちらにしろ、この子の居場所は口にすることはできない話さ」
「あの、描くのはいいんですか」
ヤナタの声。ワーナーは再びのため息を吐き出すと、ルドルフを鋭く睨んだ。その後、肩をすくめるルドルフを横目にして、ヤナタの遠くを見るような視線を引き受けると視界を交差させる。
「描いたところで誰が信じる。口にしたところで誰が信じる。記憶の波の中でしか出会えないのに。この子と私はそこでしか出会えないのに」
そのままワーナーは塗り重ね続ける。
「つまり想像上の、か」
ルドルフはすくめた肩を戻す間もなく再び持ち上げる。
「嘘ね」
瑠奈はそう言い切ってそれからいくつもいくつも描かれているチナミと瓜二つの女性の絵を見回した。その中の一つを選んで指差すと声を上げる。
「チナミだわ。鮮やかな虹色の髪。絶対そうなのよ」
「私には分からないな。想像上の存在である証その虹色の頭髪を持って実在と言い募るなどとは」
ワーナーは沈着と色づけを続けていく。重なり合う色が変化の波にあるいは飲み込まれて、あるいは飲み込んで、そうして椅子の上にたたずむ人物を椅子の上にたたずむ人物を仕上げていく。と、擦り切れた制服を持ち上げたワーナーは絵から視線を逸らすと口元を押さえた。ルドルフが顔を歪める。ワーナーが伸ばす手が制するのも構わずにその背によると椅子の上からワーナーの体を持ち上げるとヤナタと視線を合わせる。首が動かされて方向を示す。
「あの毛布を取って来てくれ」
ヤナタは言われたとおりに従った。油脂が染み付いた床に油脂が染み付いた毛布を覆いかぶせるように敷き広げる。ルドルフは柔らかさを確認した後、ワーナーのやせこけた、まるでその手に握られた筆のような体を静かに横たわらせる。
「ワーナー。会いに来ておいてなんだが、ここにいること、大丈夫なのか」
「もう、ここしか、ない」
ワーナーはそう口にすると体を起こそうと擦り切れた服がのっぺりと張り付いている腹筋に力を入れる。瑠奈は沈黙とともに目を背けていた。ヤナタは折れ曲がっていた毛布のはしを伸ばしてしまうとルドルフを見、ついでワーナーを見下ろし、そして瑠奈の逸らされている視線をとらえる。衣擦れとプラスチックが擦れ合う音が制作室に響く。ワーナーがその擦り切れた服のポケットから数錠の薬を取り出して服用する。荒い息が響いては消える。ヤナタは瑠奈の視線がますますそらされてチナミを描いた淡い筆致の絵に向けられてゆくのを見た。
「仕上げなければならないんだ。今日中に。起こしてくれるか。ルドルフ」
「それは、」
ルドルフはその制服の肩の辺りを摘み上げたまま答えを渋った。ワーナーは返らない答えにルドルフの制服と椅子とにつかまって起き上がると口にした。
「仕上げなければならないんだ」
「彼女、来ますか」
ヤナタが口にした言葉によってワーナーの目は大きく見開かれた。そのまま、ヤナタを見つめたままワーナー椅子につかまって半身を起こし上げる。ルドルフがようやく手を貸し始める。ワーナーの両手でつかめてしまいそうな腰を引き上げて椅子の上まで持ち上げてやる。ワーナーは凝視し続けた。
「記憶の波の中にしか存在しないはずの女が来ると思うか」
ワーナーはそう呟いて絵筆を取った。ルドルフは静かに首を振ると、瑠奈と同じように視線を背けた。
「来たんですね。彼女」
「この子の居場所を私は口にすることはできないのさ」
ヤナタは聞いてワーナーは細枝の先に継がれた更なる細枝によって着色を進めていく。瑠奈はヤナタの問いに振り向くと痩せすぎの絵描きの体を上下に見渡した後、唇を噛締めた。ルドルフは一枚の絵を凝視している。小さな少年と並んで描かれているチナミと瓜二つの女性の絵を沈黙とともに眺めていた。
「あなたとチナミは会ったんだ。そして約束した。絵を捧げることを、受け取ることを」
「君は豊かな想像力を持っている。想像上においてのみ会うことが許されている女が私の前に現れて絵を受け取ろうとすると本気で思っているのかな。それも、この女性が存在するのだと主張する君たちの目の前で」
ワーナーは口を開きながらも絵筆の動きを止めることはない。一度だけ奇妙に歪められた表情とともにキャンバスに向かって体の側面をさらし大きく咳き込んだ。ヤナタは徐々に色彩を帯びて行くチナミと瓜二つの女性の姿を凝視する。その側でルドルフは視線の先にある小さな少年の姿を食い入るように眺めていた。瑠奈はルドルフの視線の先にあるものに気がつくと一度は首を振ったのだが、それからルドルフと同じように食い入るように眺め始めた。
「どうだろうか。私が嘘をつく必要があるのだろうか。そもそも、私は死にかけているというのに」
ワーナーの言葉。ヤナタは手だけを一心に動かしている痩せすぎた男をしげしげと眺めた。それから視線も鋭くワーナーが見つめる先でキャンバス上へと実体を現してゆく女性の姿を眺めたのだった。
「独裁者の名前って何て言うのかしら」
瑠奈はルドルフに向かって視線を動かさないままでそう問いかけ、ルドルフは視線を動かさないまま答えを返した。
「独裁都市ジェンセットイェーバーアルレスの唯一にして絶対の侵されざる第一人者。独裁者セムイ」
「セムイね」
瑠奈は呟くと噛締める。
「行くわよ。ヤナタ」
「どこに」
瑠奈はヤナタを引っ張って制作室を後にする。ルドルフが振り向いて口を開きかけるのがヤナタの視線に入り込んでくる。引っ張られるままに、腕が抜けない程度に足元をもたつかせるヤナタは瑠奈の方へと視線を移そうと努力する。そのまま制作室が連なる部屋を抜け展示室を抜け受付へ。女性に向かって一言の挨拶とともに接近した。
「独裁者セムイの居場所って知っているかしら」
「え、面会は、郊外のN区画で行われているはずだけど」
追ってくるルドルフに向かって瑠奈は声向けた。
「N区画ってどっち」
「何故だ。どこに行くつもりだ。N区画はここから北だが」
「有難う」
瑠奈は目をぱちぱちと見開いている受付の女性に礼を言うとヤナタを引き連れて外に飛び出る。そのまま真っ赤な二輪車両に掴み乗る。ヤナタを持ち上げるとそのまま後ろに乗せて駆動音を響かせてそこで止まった。ルドルフが自身の巨大な二輪車両の駆動をふかす音を背にする真っ赤な二輪車両は二つの重りを乗せて今にも走り出そうとするところだった。響き渡る駆動の音がなかったら瑠奈は走り出していただろう。瑠奈はそのままの姿勢で幾重にも連なる車両の中心から降り立った人影を眺めていた。制服姿がおぼつかない小さな少年と制服姿の女性の姿を。小さな少年はミュージアムの前まで到達するとエスコートしていた制服姿の女性からその腕を取り外してたおやかに頭を下げる。
「チナミ」
制服姿の女性は、チナミは、小さな少年と向き合わせていたその視線を瑠奈へと移すと、唇に人差し指を押し当てる。瑠奈の方へと向いていた小さな少年の、あるいは車両上の、あるいは既に車両から降り立とうとする、視線の数々に告げる。
「どうやら私に用事みたいですね」
チナミは、言葉とともに右手の平を下に向けて抑えるようにという合図とも取れる動作をする。それから、車の中から綺麗な木目の編みこみがある花かごを取り出すと小さな少年に向かって声をかける。
「それでは閣下」
小さな少年はうなずいて、車両に乗り込もうと腰をかがめる。同時に瑠奈に向かい合わされていた視線の量が減少して行く。車両が移動してゆく。同時にチナミは歩き出し、真っ赤な二輪車両にまたがったままの瑠奈に向かって近づいて行く。
「チナミ、やっぱりあの絵はチナミだったんだ。じゃあ、今のは、」
「静かに。瑠奈。少し、待ってね」
瑠奈の言葉をさえぎったチナミは花かごを地面に置くと制服の両腕から裾を捲り上げる。それから御前崎瑠奈に抱きつくように二輪車両の後部にまたがっている功永ヤナタを見つけると少なからずの笑い顔を見せたままのチナミはヤナタに向かってその手を差し出した。瑠奈の胴体に巻きついていた腕がチナミの腕をつかむと、ヤナタの足が地に着いた。同じようにしてチナミの腕は瑠奈の手をつかむ。その間、ルドルフは呆然と去り行く車両を眺めていた。
「それじゃ、行きましょう」
花かごを持ち上げてチナミは言った。同じように二階建てのミュージアムに向かって二人は逆戻りする。一つの異なるものを連れて。受付の女性がチナミの姿に驚愕する。それから、ワーナーの絵の、と呟いたきり黙りこんだ。展示室を過ぎ、制作室を過ぎ、突き当りを左に曲がり二部屋目。ワーナーの室内。その着色も終盤に差し掛かったワーナーの絵。そしてその腕だけがせわしなく動くやせこけた一人の男。
「こんにちは。ワーナー」
「ああ。こんにちは。名前も知らない女神よ」
椅子の上に映る影は手を止めた。ワーナーは声とともに振り向いた。そのやせすぎた顔に幾重ものえくぼを浮かべて一言を口にした。それから眼前で微笑むチナミと自分の描くチナミとを見比べる。少し首をひねる。それから筆をキャンバス中央に固定するように浮かべ、その絵を凝視する。結局、ワーナーはため息を一つ吐き出した。
「最後の最後の絵も、上手くいかないな」
「そうでしょうか」
「そうだ」
ワーナーは側に佇んでいるチナミとキャンバス上のチナミを見比べるともう一度ため息を吐き出した。それから筆を握りなおし、最後の仕上げにかかる。
「私の女神よ。あのときのままだ。あなたは」
「そうでしょうか」
「そうだ」
ヤナタはキャンバス上に輪郭を現したものとチナミとを見比べてしばらく瞑目していたが、瑠奈へと視線を移す。瑠奈はチナミのことを凝視している。何か言いかけてそしてやめることを繰り返していた。
「もう少し、この絵には、あなたが抱いている葛藤のようなものと、私が勝手に抱いている淡い思い出とを描き出せるはずだったのだが」
「そうでしょうか」
「そうだ」
ワーナーはそう言うと筆を降ろした。キャンバスに描くべきものはもうなかった。それからチナミに向かってか細い笑みを浮かべた。
「独裁都市ジェンセットイェーバーアルレス。なぜこの街には独裁者がいるのだろうか。残酷なことだ。私はわからない」
「そうでしょうか」
「そうだ」
ワーナーは大きく息を吸い込んだ。咳き込もうとするものを、吐き出そうとするものを抑えつける。チナミは素肌をさらした腕でその背にそっと触れると寄り添った。背中を支えるような仕草に、花かごが揺れて数本の花が傾いてかごの上でダンスを踊る。チナミの笑みは揺れなかったし、ワーナーの笑みもほとんど揺れることはなかった。二人の視線が交錯する。チナミはワーナーに向かってうなずくと、花かごから抜き取った数輪のカーネーションの形をしたものから、真っ白な花を選び取った。花かごから取りあげるセロファンで根元をくるむ。チナミは光源に向かってセロファンと真っ白な花をかざした。それから、自然に折れ曲がるチナミのひざが椅子に座っているワーナーとチナミの間の距離を縮めて合わされる
「これを」
「ではこれを」
チナミは揺るがないほほ笑みとともに力もなく開かれているワーナーのひざの上に一輪の真っ白な花を置いた。ワーナーは自身のひざの上に横たわっている小さな花弁、がく、茎、とを順列に眺めた後、チナミと視線を交錯させたまま自身が描き上げた一枚のキャンバスに写されたもう一人のチナミを指差した。
「約束のお品ですね」
「そうだ。約束の品だ」
ワーナーそう口にすると筆の代わりに花を持ち上げてキャンバスに向かって振りかざした。真っ白な花は何かを描くように動かされ、ワーナーはその後、一言だけを漏らして黙り込んだ。
「私は、どうしてだろう。花を描けなかったようだ」
チナミはうなずいて同じように沈黙した。ヤナタと瑠奈は静寂の中お互いに見つめあう二人の姿に向かって口を開きかけたのだが、背後から姿を現したルドルフが一つの行為によってその行為を止めさせた。ルドルフは似合わないことに親指と人差し指でつまみ上げ、口に向かってチャックする仕草を行って見せたのだ。
「あのころは人通りがあった。機械の群れが蠢くだけの都市ではなかった。女神よ。あなたは花を売っていた。私は画題を探していた。私はあなたから花を受け取った。あなたは私から絵の約束を受け取った」
「いつ受け取りましょうか」
「今だ」
「また会いに来ましょうか」
「そうだな。いつか、どこかに」
「いつか、どこかで」
チナミはワーナーと同じときをもってうなずき合い、懐中にあるものに従う微笑みを二人して向かい合わせた。チナミは花かごを脇にどけると、ワーナーの細い木切れのようになってしまっている腕を取って口付けした。花かごを腕にからませて立ち上がったチナミは瑠奈とヤナタに向かい合い、一言だけ呟くと片方の瞳を閉じてみせる。
「後で、ね」
チナミは乾きかけのキャンバスの両端を持ち上げ、そのまま音もなく部屋を出ると通路際に控える機械にキャンバスを預け置く。それっきり、チナミが戻ってくることはなかった。瑠奈は目を白黒させ、ヤナタは左右を見回した。ルドルフはワーナーを見つめるだけ。
「どうやら君らは彼女と真実知り合いのようだ」
ワーナーはキャンバスが置かれていた今はもう何も置かれていない橋脚を見つめながら沈黙を断ち切った。受け取った真っ白い花を膝元で回転させながら瑠奈を見つめた。床に置いていた筆を取るとセロファンの中に差し込んで、筆と花を眺めてみる。筆に残っていた油脂が花の茎を肌の色に染め上げる。
「ワーナー。あの女は何者だ」
「言った通りさ。記憶の中でしか会えない女性だよ」
「独裁者ね」
瑠奈はワーナーに向かって口を開いた。
「そうなんでしょ。理由は独裁者なんでしょ。なんて下劣な奴なの」
ルドルフは左右を見渡してワーナーは忍び笑いを漏らした。セロファンの擦れあう音が響いてワーナーの腕が震えた。その真っ白な花をつかんでいた右手の手元を空いていたもう片方の手でつかみとる。笑いながら、それでも震えて、顔をしかめる。
「彼女は独裁者セムイの最高顧問だ」
「あの女が」
ルドルフは唸ってワーナーはうなずいた。ワーナーはのどをさする。おとがいを鳴らしていたが、やがて黄色い悪魔を吐き出させようとしてのどを揺らす。擦り切れた服のポケットから布切れを取り出して吐き出した。荒い息が吐き出される。布切れを丸める手の震えは止まることはない。
「ルドルフ。帰ってくれないか。私は、一人でいたいのだ」
ワーナーはかすれた声でそう口にすると、ルドルフの見下ろしてくる視線を受け止めた。ルドルフの眼球は揺れる。
「お前たちも来るんだ」
ルドルフの視線が逸らされる。瑠奈とヤナタに向かい制作室の出口を指差した。
「どうして」
「なぜ、だと」
ヤナタの言葉にルドルフは声を沈め、その腕を無言でつかみ取ると引っ張ってゆく。瑠奈がワーナーの制作室に背を向ける後を、ルドルフと渋い表情のヤナタが続いた。展示室を抜け、受付へ。そこにあるべき受付の女性が机にひじを押し付けて首枕をしている場面には、一人の女性がたたずむ姿が加わっている。チナミは硬質な表情で花かごを片手に一本の水仙のようにもみえる青い花を見つめていた。瑠奈が足もとを叩きつけて走り出すとチナミに向かって飛びついた。
「チ、ナミー。どうしちゃったのよ。今日はいつものチナミじゃないみたいじゃん」
「瑠奈。チナミは何も変わりません」
御前崎瑠奈はチナミの首に抱きついてそう言うと、揺れる花かごから一本のユリのように見える黒い花を取り出した。花びらのはしを沿うように中指で追ってゆく。それから、その黒い花を茎の半分ほどのところで手折るとカッターブラウスの胸ポケットに押し込んだ。笑いながら声を上げる。
「そだね。でもさ、独裁者の最高顧問役、やってたんだ。チナミ。ね、私、まだ、やることがあるから先に帰っていてよ。ヤナタと一緒に」
「分かりました。瑠奈。チナミはそうするでしょう。IO来なさい」
チナミは言葉とともに側に侍っていた機械を呼び寄せると、花かごをかかげ直してからキャンバスを再び両手で抱え込んだ。それから功永ヤナタとその側でまじまじと見つめてくるルドルフに向かって近づくと御前崎瑠奈に向かってうなずいた。
「ルドルフ。ちょっとこっちに来ていてね」
「ああ。構わないが、それよりも、あの女は、」
「いいから、いいから」
瑠奈はルドルフを招き寄せると一編の唄を歌った。“♪真っ赤な瞳で夜を超え I FORGAT DREAMING TO”。瑠奈は、はきはきとしたソプラノで声を流すと、イヤーパッドを取り出して追従させるように音曲を乗せてゆく。ルドルフはあっけに取られていたし、受付の女性は瑠奈のことを凝視した後、リズムに合わせて机に人差し指を叩きつけた。ヤナタはチナミとともに瑠奈の弾けるような声量と重なり合ううつろう表情を眺めていた。音楽が途切れた。