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短いです。

彼女が失った記憶を私が話そう。有り得ないからこそ、言外に修正され、もう欠片として彼女の中には宿っていない記憶。しかし、私は二度と忘れることはない。


黒いワンピースドレスを着た彼女はご機嫌だった。そのワンピースドレスは一番のお気に入りだったからだ。

逸る気持ちを抑えることができず、彼女は祖母の手を離してしまう。話好きの近所のマリおばさんとのお話に夢中になった祖母のもとを、つい離れてしまう。


彼女の目の前に広がるのは、ただひたすら森だった。

未だ虫にすら畏怖を覚えない程に幼い少女は、初めて目にする色とりどり鮮やかな虫や草花に好奇心のリレーをしながら、どんどん森の奥深くに潜り込んでしまう。

祖母が彼女の不在に気付いたのは、夕日の朱が空を彩る時刻を回ってからだった。


一方、彼女を我に返らせたのも、空気ごと色や匂いを飲み込んでしまう空の色だった。

彼女からすれば途方も無いほど背の高い緑たちが、未だ沈まぬ太陽から庇うように彼女を覆い尽くしており、あっという間に淡闇を呼び寄せた。

夏が吹き出させていた彼女のほのかな汗。一人でこんなに深い森の中にいる自分に気付いた彼女は、その存在感を背に感じる。

相変わらずの熱気はまだまだ冷めやらぬ気配もないし、この瞬間に急速にその熱気が消え失せる訳もないのに、彼女は今まで感じたことのないほどの冷たさを実感していた。


先程まで自らを夢中にさせていた草花に、今や何の興味も抱くことはない。

家。家はどこだろう。どっちに行けばいいんだろう。

自分はどこへ戻っていけばいい? 自分はどこから来たのだろう。


彼女はなかなかクレバーだった。そのことばかりを考えて、泣き叫ぶことを忘れていた。不安に押しつぶされる前に、彼女は歩を進める。

しかし、気の向くまま、興味の向くままに来てしまっている為に、自分の中にある記憶はまるで役に立ちそうになかった。霞の中をくぐるような記憶を前に、彼女は匙を投げざるを得なかった。

お気に入りのスカートを履いていることも忘れて、彼女はその場にへたり込む。厭に柔らかな土が、彼女の幼い膝のクッションになる。

不安がここに来て押し寄せる。自分ではよもやどうしようもないのに、もう自分以外の人間に頼れる余地もない。

このまま二度と、家には帰れないのか。お母さんが作る、甘いポタージュはもう飲めないのか。

家に置いてきた安心感に馳せる度、感情は増幅する。彼女は悲しみの為に破顔し、わあん、と声を上げた。

木々がその声を遮ってしまい、所詮子どもの足なのだから、さほど離れている訳でもないのに、大人たちの耳には届かなかった。


その頃、彼女の母親も家に戻り、彼女の不在を知る。

祖母である自分の母の過失に怒り、探し回るも見つからない。そのことに、母は彼女と全く同じように泣いた。親子の証だ。わあわあと、二つの場所で深い悲しみの声があがるのに、それを払拭することは、この世界の誰にもできなさそうだった。


僕は所詮、こういう時にしか登場できない。本来は、こんな時にだって登場してはならない。しかし、彼女への気持ちは不可能を可能にする。

くだらない運命を背負ったせいで、僕は彼女に何もしてやれなかった。その後悔を後ろ盾にした願いは、今こそ届く。

「こっちだよ」

必死に唱えた言葉。既に顔を覆っていた彼女は、驚いて顔を上げる。必死になりながら、それでも僕は笑顔を保つ。不安を少しでも取り除きたい。その一心で。

戸惑いながら、彼女は僕の後を追ってくる。よし。まずはひと安心。


透けてしまうのを悟られない為に、僕は彼女が自分に追いつかないように、微妙に距離を取りながら先を走った。

目の前に餌を釣られているかのように、彼女は必死に僕を追いかけている。こんなところで一人きりになってしまった彼女は本能的に、人の温もりを欲しているのだ。

彼女が転ばないように道を選びながら導いていく。


僕は走る。もう、走る必要なんてなかったはずなのに。そのことに、泣きそうになる。

幼い頃、僕もこの森を駆け抜けた。追憶は露と消えていくけど、走ることへの感慨が、闇に冷やされた空気が喉を切り裂きそうになる。

水分を伴わない涙がこぼれる。ああ、僕はもっと走りたかったんだ。


生きたかったんだ。


道のりは永くなかった。少なくとも僕にとっては。

光が見える。我を忘れていた僕は振り返るのをしばらく忘れていることに気づく。慌てて振り向くと、彼女はもう、息も絶え絶えだった。

僕は振り向いたまま立ち止まる。ここまで来れば、彼女も見慣れた道だと気付くはず。

僕の目の前で膝をついた彼女は、僕を見上げる。彼女も泣いていた。その頬に余る涙を拭いてあげたかった。

いや、できることなら抱き上げて体温を伝播させてあげたかった。血も水も流れないこの身体には、叶わぬ願いだったけれど。


彼女が道の奥の光に気付き、安堵した瞬間のことだった。

奥の道から、彼女の母親が姿を現した。懐中電灯の光がちら、ちらと何度か向きを変えた後、こちらにいる彼女の姿に気づいた。懐中電灯の光の焦点を彼女にあてる。彼女は眩しそうに目を細めた。

母親はその名を叫んで、こちらに駆け寄ってくる。彼女の身体は僕の身体をすり抜け、きっと彼女を抱きしめる。僕の役目はこれで終わりだ。


しかし次の瞬間、信じられないことが起きた。


こちらに駆け寄った彼女の母親は、僕を抱きしめた。僕の背後にいる娘ではなく。


そう言えば、彼女が先ほど叫んだ名は。殆ど金切り声になっていたこともあって、僕は気付けていなかったんだ。

僕と彼女の名前は、そう言えば似ている。前半を僕、後半を彼女の母の名で合体させて名付けた、少しばかり不格好な彼女の名。だから似ていて当然なのだ。涙でぐしゃぐしゃになった声は、彼女を呼んでいた訳ではなく。

「やっと会えた」

僕の最愛の人である、彼女の母親が絞り出したような声を僕の身体に染み込ませる。ああ、と思う。彼女の母親の、熱を感じる。汗を感じる。そして。

自分の体温を感じる。魔法が、解けたんだ。


最後に、僕が救ったと思っていた僕の救世主、小さな天使が僕の腿に絡みつき、新たにまた体温をくれた。

あれだけ、触れないように気をつけていたのに。この体温は感じられないはずだったから。本当は、触れられないはずだったから。


泣きはらし、きつく閉じたままだった目を開ける。三者は未だ寄り添ったままだ。見上げた朧月の光が降り注いでいた。

月光が注ぐのを身体で感じた時、僕は今さら、ああ、生きているんだと感じた。まるでそれは、祝福のようだった。



――こんな話を、成長と共に立派な一人の女性になった娘に話しても、世迷言と思われて終わりなのだ。

忘れられたからこそ、彼女はありふれた、されど素晴らしい人生を送っている。

僕は密かに誇らしい気持ちになりながら、妙に嫌がる彼女へ、無神経に微笑みかける。





何だこれは。

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