その紙、大切な物なり。3ページ
「合宿の時に寄った、十和菓子と言うお店、覚えていますか?」
悩んでいる事がある。そう言って話し始めた香織は、まずこんな事を聞いてきた。
「そりゃ覚えてるよ。みんなでお土産買ったり饅頭買ったりしてたからな」
悩み相談じゃ無かったのか? そう思いながら、俺は質問に答える。あの和菓子屋がどうかしたのだろうか。
「そうですか。では、その十和菓子の入り口で、龍夜君が人とぶつかった事は……」
「覚えてるよ。痛かったからな。」
あのやけによく似た双子と、一組の男女。名前は流石に分からないが、よく覚えてる。
あの人達がどうかしたのだろうか?
香織の方を見ると、彼女は寂しそうに顔をやや俯かせていた。唇を震わせ、悩みの種を隠す様に、手を握りしめている。
だが、踏ん切りがつかないだけで、打ち明けようとしていたのだろう。口から滑り出た声は落ち着いた物だった。
「あの人達……全員では無いのですが、あの人達は、私の、小学校時代の旧友なんです」
「……はい?」
「ですから、昔馴染みなんです」
俺の反応が意外だったのか、香織は首を竦め、上目遣いでこちらを見てきた。
だけれども、意外だったのは俺の方だ。まさか、あの人達が知人だったとは。世界は狭いな。
あの招待券を当てて、その旅行先で知人に会うなんてな。あの招待券は不思議な力でもあるのだろうか? 思わず苦笑いをこぼしてしまう。
あれ? でもちょっと待てよ?
「どうしてあの人達は、香織の事に気がつかなかったんだ? 直接会ってる訳だし……」
昔仲がよかった奴なら、街ですれ違ってもお互い気付く事がある。そのまま近くのお店で長話。と言う訳にはいかないが、俺達は話していたんだ。無視したりはしないだろう。
そう言うと、香織は姿勢を正して言った。
「龍夜君も先程は気付かなかったじゃないですか。眼鏡と髪だけで」
「あ……」
本当だ。髪を耳にかけて後ろに流して、普段していない眼鏡だけで、俺は香織と分からなかった。なるほど、納得した。
あれ? でも待てよ? 十和菓子の前だと香織はコンタクトだった訳だし、髪の毛も普通におろしていた。気付かなかったのはどうしてだろう。あ、コンタクトは最近始めたのかな?
「なるほどな。でも眼鏡だけで印象ってだいぶ変わるんだな。旧友が分からなくなる程に」
「鳴川町に住んでいた頃は、髪も首より上でしたから。十和菓子の主人も、分からなかったみたいで」
そう言いながら、香織は自分の前髪を弄くった。ショートヘアーの頃ねぇ。……まったく想像出来ないな。
それよりも今の言葉、少し引っかかる所があった。
「香織は昔、鳴川町に住んでいたのか?」
「ええ。小学校の四年生程まで。今、言ってませんでした?」
「いや、あの人達が知人って事しか……」
たまたまあの人達と旅行先が被っただけだと思ってた。
小学校四年生ごろって事は、六年前か。俺は昔からこの街に住んでいるから分からないが、随分前に自分が住んでいた街と、仲の良かった友達にあうと、どう感じるのだろうか。
「それで」
そんな事を考えた後、俺はおもむろに口を開いた。
「それで香織は、ホームシック……じゃないな。望郷心が芽生えてしまったと」
「望郷心……。そうですね。ちょっと感傷気味に」
そう言うと、また香織は下を向いた。なんだか少しだけ回りくどかったけど、悩み事とはこの事だろうか? 旧友に会って、望郷心が芽生えて、多分、これからどうすれば良いのかって言う悩み。
ふと、天井を見上げる。ちょっとだけ強すぎるLEDのライトをぼんやりと眺めながら、長く息を吐き出した。
椅子に座り、腕を組んで天井を見上げた格好のまま、呟く様に俺は言った。
「会ってくれば良いんじゃないか?」
視界に映るのは、図書館の室内を照らす照明だけだ。
しばらくして、市民図書館の読書スペースで、何の特異性も無い天井の照明を見続けている俺の耳に入って来た声は、震えていた。
「そんな事……出来ませんよ……」
彼女はか細い声で、俺の提案を否定した。