最弱モフモフ(HP2)に転生しました。強面の最恐騎士に拾われましたが、この飼い主、働きすぎでは……?
目を開けたら、草だった。
(……は?)
空が青い。風が気持ちいい。どこかで鳥が鳴いている。
いや、待て。俺、昨日は自分の部屋で寝たよな?
起き上がろうとして、自分の手を見た。
短い。丸い。もふっとしている。
(なんだこの手)
(なんだこの身体)
(……なんだここ)
三連続で言った。誰も答えてくれない。
そのとき、目の前にぽんと光る板が浮かんだ。
――――――――
種族:モフモフ
HP:2
MP:1
――――――――
(弱っ!)
叫んだつもりが、口から出たのは『キュイ!』だった。
(鳴き声まで弱い!)
待て待て待て。
最弱から成り上がる話は、読む分には好きだった。でも、あれは主人公に才能があるからできるんだ。選ばれし者だけの特権だ。俺みたいなのがやったら、一話で終わる。
それに、気合と根性でどうにかなる世界は、前世でもう懲りている。
(でも、魔法くらいは使えるかもしれない)
HP2の次にMP1があるんだ。使えるはずだ。
俺は短い両手を、ばっと前に突き出した。
(ファイアボール!)
『キュイッ!』
ぷすん。
煙も出なかった。
しかも力んだ勢いで、身体がころんと前に傾いた。
ころころ、ころころ、ごつん。
石に頭をぶつけた。
視界の端で、数字が点滅する。
HP:1
MP:0
(転がっただけで減った!?)
あと一回で死ぬ。
転がって死ぬ。それはさすがに、死に方として情けなさすぎる。
俺は石の前で、微動だにせず考えた。
戦えない。魔法も出ない。走ったら転がる。
そうなると、残る選択肢は一つしかない。
(……ペットになろう)
強いやつに守ってもらう。
つまり。
ご飯をもらう。屋根の下で寝る。守ってもらう。完璧だ。「できるか?」と聞かれることもない。
問題は、飼い主選びを間違えたら即終了ってことくらいだ。
(優しくて、強くて、できれば金持ち)
そんな都合のいい人間が、草原に落ちてるわけないよな。
まあ、探すしかない。
俺は、HP1のまま、ちまちまと草むらを這い始めた。
---
日が傾きかけたころ、遠くから音がした。
金属のぶつかる音。重いものが倒れる音。
それから、人の気配。
(来た……!)
飼い主候補だ。逃したら次はない。
俺は草むらの手前で、深呼吸した。
(頼む、飼い主ガチャよ!)
(南無三!)
勢いよく飛び出した。
『キュイ!』
ぴちゃ。
足元が濡れた。
赤い。
(……え?)
血だまりだった。
顔を上げる。
でかい。
とにかくでかい。俺の視点が低いのを差し引いても、普通の人間の倍はある。そのでかい男が、全身血まみれで、抜き身の剣をぶら下げて立っていた。足元には、魔物が三体、ぴくりとも動かず転がっている。
男が、ゆっくりこちらを向いた。
目が合った。
(…………)
(魔物絶対許さないマンじゃん)
(あ、おわったわこれ)
飼い主ガチャ、ひどいレアを引いた。
いま俺は、魔物を三体斬ったばかりの男の目の前に、丸くてモフモフした魔物として飛び出したのだ。そりゃ斬られる。
逃げよう。
足が動かない。
動いても、転がって死ぬ。
(ええい、ままよ!)
俺は、全力で見上げた。
前世で鍛えた愛想笑いを、全部目に込めた。
『キュル……』
男は、動かなかった。
剣を持った手も、動かなかった。
長い沈黙。
「……小さい」
低い声だった。地面の底から響くのに、やけに小さかった。
男は、剣を地面に置いた。落とすのではなく、寝かせるように。
それから、しゃがんで、血のついた手を自分の服で拭き始めた。
拭いて、手を見て、また拭く。
(……何してんの?)
やがて、でかい両手が、おそるおそる伸びてきた。
指一本が、俺の身長くらいある。
(あ、握りつぶされる)
目をつぶった。
……フワッと体の浮く感覚に、そっと目を開ける。
すくい上げられて、両の手のひらで、そっと包まれている。
「怪我は、ないか」
くるくる回される。短い手。短い足。丸い背中。最後にお腹まで確認された。
(ちょ、恥ずかしいんだけど)
「血がついている」
(お前の返り血だ!)
『キュイキュイ!』
「痛いのか」
(違う!)
『ギュイギュイ!』
「そうか、怖かったな」
(……違うんだよなあ)
男は、俺を片手で包んだまま、もう片方の手で剣を拾った。
そのまま歩き出す。
揺れない。
歩いてるのに、全然揺れない。
(運搬のプロかよ)
魔物三体を一瞬で斬ったやつが、俺の身体を気遣って歩幅を小さくしている。
(……こいつ、めちゃくちゃ優しいじゃん)
(見た目は魔王、手つきは精密機械)
これ、当たりでは?
大当たりでは?
草原の向こうに、街が見えてきた。石の壁。高い塔。夕日に染まる屋根の列。
(へえ、街ってこうなってたんだ)
門の前の衛兵が、こちらを見て背筋を伸ばした。
「ガルド殿、お帰りなさ……その、手の中は……」
「拾った」
「ひ、拾った」
「小さい。怪我をしている。たぶん」
(してないって)
「しょ、承知しました! どうぞ!」
衛兵が、ものすごい速さで道を空けた。
街の人たちが、血まみれの大男と、その手の中の丸い何かを、ぎょっとして見ている。
(見られてる見られてる)
(まあ、いざとなったら、この街なら別の飼い主も見つかるだろ)
などと、早速保険をかけながら、俺は思った。
こいつなら、当たりだな。
---
ガルドの住まいは、騎士団の独身寮だった。
石造りの無骨な建物の、最上階の端。
扉を開けると、がらんとした空気が出迎えた。
ベッド。机。椅子。壁に剣立て。窓際に、植木鉢がひとつ。
以上。
(物、少なっ)
ガルドは、俺を持ったまま部屋の真ん中で立ち尽くした。
何をすればいいのか、本気で分からない顔だった。
「……ここに、いるか」
机に清潔な布を畳んで置いて、その上に、俺をそっと乗せる。
それから、鎧を外し始めた。
鎧の下は、傷だらけだった。古い傷痕が、いくつも。
(うわ、痛そう)
本人は気にもせず、湯を沸かして身体を拭いている。
(お前も怪我してんじゃねーか)
『キュイ?』
つい鳴いてしまった。ガルドが振り向く。
「どうした」
(手当てしろよ)
『キュイキュイ』
「腹が減ったのか」
(違う)
「少し待て。俺が先に拭く」
(順番の問題じゃねえ!)
……早々に諦めた。
丸くなって目を閉じる。こうなりゃ、ふて寝だ。
夜になって、ガルドがベッドに腰を下ろした。ぎし、とベッドが鳴いた。
「……名前は、ないのか」
(モフモフだよ。種族名だよ)
『キュイ』
「そうか」
何が「そうか」なんだ。
ランプを消す前に、ガルドの手が俺のほうへ伸びかけて、止まった。
「……眠そうだな」
全然眠くない。
『キュイ』
「そうだな。寝よう」
ランプが消えた。
暗闇の中で、ガルドの呼吸だけが聞こえた。
翌朝、身支度を終えたガルドは、扉の前で一度止まって、俺のところへ戻ってきた。
「行ってくる」
指先で、頭をちょんと撫でられた。
指が、でかい。
『キュイ』
「……いい子にしていろ」
扉が閉まった。
静かな部屋で、俺は首をかしげた。
(……俺に言ったの、今の?)
誰もいない部屋に挨拶する人間は、たまにいる。でも今のは、ちゃんとこっちを見て言っていた。
まあいいか。丸まって二度寝した。
---
夕方、扉の音で目が覚めた。
重い、でも静かな足音。
「ただいま」
『キュイ!』
反射で返事をしていた。
(あ、つい)
ガルドの動きが、一瞬止まった。
「……ああ」
何が「ああ」だ。
ガルドは椅子に座って、机の上の俺と向き合った。
しばらく、無言。
「……腹は」
『キュイ!』
(減ってる! 何も食ってない!)
「……一体、何を食べるんだ」
(それを今から考えるんだろ)
ガルドは真剣に腕を組んだ。
「花の蜜、とかか」
(何言ってやがるコイツ)
確かに見た目は蜜でも吸ってそうだけど。中身は残業続きの元会社員だ。蜜では生きていけない。
ガルドは部屋の棚を漁って、野菜の載った皿を持ってきた。
「これなら、食べられるか」
一口、かじる。
しゃく。
(野菜だな)
野菜だった。普通に野菜。
満たされない。
顔を上げると、ガルドが自分の夕食を食べようとしていた。
皿の上には、分厚い肉。
焼けた匂いが、鼻の奥に刺さった。
(……肉)
目が離せない。
ガルドが、俺の視線に気づいた。
肉。俺。肉。俺。
「……これ、か?」
(そう、それだ!)
『キュイ!』
「人間の食べ物だ。お前には、強すぎるかもしれない」
(元人間だぞ!)
『キュイキュイキュイ!』
「……少しだけ、だぞ」
ガルドは、自分のスプーンで肉をすくった。
本当に一かけだった。指の先くらいの。
それを、そうっと俺の口元に近づけてくる。
スプーンが、小刻みに震えていた。
魔物を三体斬ったやつの手が、肉一かけで震えている。
(緊張しすぎだろ)
はむり。
はむり。
(…………うまい)
(肉、うまい……!)
夢中で噛んでいたら、ガルドがスプーンを、ぴくりとも動かさずに持ち続けていることに気づいた。
食べ終わると、ガルドは小さく息を吐いた。
「……食べた」
それから、俺がじっと見ていると、少し戸惑ったように聞いてきた。
「もう少し、いるか」
『キュイ!』
「……ああ」
その夜、ガルドは、自分の肉を三分の一ほど俺に分けた。
自分の皿が減っていることには、気づいていたと思う。何も言わなかったけど。
翌日の夕食。
ガルドが肉にフォークを入れようとして、手を止めた。
俺は、机の上で前足を揃えて、じっと見ていた。
「……これか?」
『キュイ』
肉を一かけ。
はむり。
(うむ)
「よかった」
翌々日も。その次の日も。
三日目には、ガルドは最初から、スプーンを持って食事を始めるようになった。
五日目には、俺が何も言わなくても、スプーンが近づいてきた。
十日目の夜は、魚だった。
肉じゃない。皿の上は、どう見ても魚。
ガルドは魚をひとかけ、スプーンに乗せて、俺の口元に持ってきた。
(いや、肉じゃなくて……)
(……うまいけど)
はむり。
(うむ)
「よかった」
……そうなるのか。
肉じゃなくても、一かけ分けるのか。
---
半月も経つと、生活のリズムができてきた。
朝、ガルドが先に起きる。ベッドの揺れで、足元の俺も目を覚ます。
「起きたか」
『キュイ』
「まだ寝ていていい」
(もう起きたよ)
身支度をして、剣を腰に下げて、扉の前で振り向く。
「行ってくる」
『キュイ』
頭をちょん。
夕方になると、扉が開く。
「ただいま」
『キュイ!』
これを、毎日やる。
休みの日は、ガルドが俺を肩掛けの袋に入れて、街へ出る。
袋の内側には、柔らかい布が敷いてあった。縫い目が、ところどころ曲がっている。
(……これ、自分で縫ったのか)
あの手で、針を。
想像して、ちょっと笑ってしまった。
袋の縁から顔だけ出して、街を眺める。市場。屋台。行き交う人。
ガルドが歩くと、人が避ける。
本人はただ歩いているだけなのに、人の波が、すっと割れる。
(どんだけ怖がられてんだよ)
ふと、通りすがりの子どもと目が合った。
「あ、モフモフ!」
子どもが駆け寄ろうとして、ガルドの顔を見上げた。
固まった。
「……ひっ」
母親が慌てて子どもを抱え上げて、ぺこぺこしながら去っていく。
ガルドの肩が、ほんの少し落ちた。
「……すまない」
誰に謝ってるんだ。
(お前が悪いわけじゃない。顔が怖いだけだ)
それは悪いのでは、と思いながら、袋から短い手を伸ばして、ガルドの腕をぺたぺた叩いた。
『キュイ』
「……励ましてくれているのか」
(そう! それ! 合ってる!)
『キュイキュイ!』
「……ありがとう」
当たった。
数少ない、噛み合った瞬間だ。
で、その五分後。
(あの焼き菓子、食ってみたいな)
『キュイ』
「どうした」
(あの屋台の、あれ)
『キュイキュイ』
「……疲れたか」
(違う)
「少し休むか」
ベンチに座らされた。
(だから違うって!)
『ギュイギュイ!』
「眠いのか」
(ちがーう!)
手をばたばた振って、屋台のほうを指す。
ガルドの視線が、やっと動いた。
「……あれが、欲しいのか」
『キュイ!』
ガルドは、しばらく屋台を見つめて、ぼそりと言った。
「あの店の主人は、俺を見ると怯える」
(……あー)
(それは、そうだな)
しゃーない。
俺は袋から身を乗り出して、ガルドを見上げた。
『キュイ』
(行こうぜ。俺がついてってやる)
ガルドが、立ち上がった。
屋台の主人は、ガルドを見るなり青ざめた。
「へ、へい! い、いらっしゃ……」
「その、丸いのを、ひとつ」
「はいぃぃ!」
震える手で焼き菓子が差し出される。
そこで、俺が袋から顔を出した。
『キュイ!』
「……あっ、モフモフ!」
「連れだ」
「かっ、かわいい……! おまけします! もうひとつ!」
「いや、金は払う」
「いえいえ! いえいえいえ!」
焼き菓子は、二つになった。
帰り道、ガルドが、焼き菓子をひとつ割って、俺の口元に差し出した。
はむり。
(……甘い)
残りは、ガルドが食べた。
ひげの奥で、口元が少し緩んでいる。
(こいつ、甘党か)
ひとつ、飼い主のことを知った。
その夜。
ガルドは、椅子に座ったまま、ぼんやりしていた。
疲れているのか、何か考えているのか、分からない。
俺は、机から椅子の背へ、椅子の背からガルドの膝へ、のろのろよじ登った。
のろ。のろ。
膝に着いて、丸くなる。
ガルドが、固まった。
「……」
(なんだよ。重いか)
しばらくして、背中に、大きな手がそっと置かれた。
撫でるというより、乗せているだけ。
そのまま、動かない。
窓の外で、街の灯りが揺れていた。
(……悪くないな、これ)
ペット生活、悪くない。
---
ガルドは、とにかく呼ばれる。
朝、出かけて。夕方、帰ってくる。……のはずが、帰りが遅くなる日が出てきた。翌朝になる日も。二日、帰らない日も。
そして帰ってくると、必ず怪我をしている。
その夜も、扉が開く音で、俺は飛び起きた。
足音が、いつもと違う。
引きずるような、重い音。
「……ただいま」
声が、掠れていた。
『キュイ!』
飛び出した俺は、ガルドを見て、固まった。
左腕が、赤い。
布で縛って止血してある。顔色も悪い。
(おい)
(おいおいおい)
「大丈夫だ。たいした傷ではない」
(たいした傷だろ!)
『ギュイギュイ!』
俺は、ガルドの足元で、全身を使って怒鳴った。
短い手足をばたばたさせて、その場でぴょんぴょん跳ねて。
(お前、なにやってる!)
『ギュイ!』
(無茶しすぎだろ!)
『ギュイギュイ!』
「……すまない」
(謝るところ、そこじゃねーんだよ!)
ガルドは、おろおろと俺を見下ろしている。
何を怒られているのか、よく分かっていない顔だ。
それでも、ぽつりと言った。
「……心配してくれているのか」
俺の動きが止まった。
(……べつに)
(べつに、してねーし)
『キュル』
「そうか」
そうか、じゃない。
なんか顔が熱い。怒ってるのか照れてるのか、自分でも分からない。
(とにかく手当てだ!)
棚から薬箱を引っ張り出して、包帯をずるずる運ぼうとした。
重い。
包帯と一緒に、ころころ転がった。
(あっ、HP!)
ひやっとした。
結局、ガルドが自分で包帯を巻いた。俺はその横で、最後まで見張っていた。
翌日の昼。
ガルドは、また呼び出された。
傷はまだ塞がっていないはずなのに、普通に鎧を着て、剣を下げる。
俺は、扉の前に立ちふさがった。
『ギュイ!』
両手を広げて。
ガルドが、立ち止まった。
「……どうした」
(休め! 怪我してるだろ!)
『ギュイギュイ!』
「……仕事だ」
(仕事とか知るか!)
ガルドは、しゃがんで、俺の頭に指を置いた。
「すぐに戻る」
(嘘つけ)
……こうなったら、見に行ってやる。
俺は壁にかかった袋に、自分から飛び込んだ。
扉の前で、ガルドが振り返る。
袋を見て、中を見て、止まった。
「……来るのか」
『キュイ』
(行く。連れてけ)
「…………静かにしていろよ」
袋が、ガルドの肩にかかった。
騎士団の詰所は、石造りの立派な建物だった。
廊下を行くと、騎士たちがガルドを見て、道を空ける。敬礼なのかびびっているのか、微妙な動きをしている。
(人気者なのか恐れられてるのか、どっちだ)
一番奥の扉の前で、ガルドが止まった。
「団長。ガルドです」
「入れ」
白髪まじりの、目の鋭い男が座っていた。
団長は書類から顔を上げて、ガルドを見て、それから袋の縁に目を向けた。
俺は、袋の縁から顔だけ出していた。
団長の眉が、ぴくりと動いた。
「……それが、噂の」
「はい」
「まあいい。本題だ」
団長は、机の上の地図を、とんと叩いた。
「北の街道に、大型の魔物の群れが出た。商隊が三つ、足止めされている」
「はい」
「うちの隊は、他で出払っている。人は割けない」
少し間が空いた。
「……できるか?」
「はい」
一秒も、間がなかった。
(…………)
(…………は?)
(今、考えなかったよな? 怪我は? 一人で? 一人で行くの?)
「すまない。頼りにしている」
「はい」
あ。
この感じ。
この、机を指で叩く感じ。
断れない空気。
「できるか?」の次に来る、「はい」。
(前世の上司かよ!)
思わず袋の中で叫んでいた。
『ギュイッ!』
団長が、こちらを見た。
ガルドも見た。
「……どうした」
(どうしたじゃない! 「はい」以外の選択肢を持て!)
『ギュイギュイ!』
「静かにしていろ」
(お前もか!)
団長が、小さく咳払いをした。
「ガルド。そのモフモフは、お前の連れか」
「はい」
「大切にしているか」
「はい」
即答だった。
ここは即答なのか。
団長の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……そうか。ならいい」
廊下を歩きながら、俺は袋の中で考えた。
あの団長、悪い人には見えなかった。目が、ちょっと申し訳なさそうだった。
それでも、「できるか?」「はい」は危険信号だ。
このままだと、ガルドはまた傷だらけで帰ってくる。
(……見張っとくしかないな)
その夜、ガルドは、背中に怪我をして帰ってきた。
俺は肩に飛び乗って、耳元で怒鳴った。
『ギュイギュイギュイ!』
(いい加減にしろ! 身体は一つしかないんだぞ!)
「……分かった。分かったから」
何も分かってない。
それでも、ガルドは、俺を両手で包んで胸の前に抱えた。
「……心配をかけた」
(……分かってるなら休め)
『キュル……』
そのあと、肉を一かけ。
「……これか?」
はむり。
(……うむ)
怒っていたのに、肉はうまかった。
悔しい。
---
それから、ひと月ほどが過ぎた。
朝、「行ってくる」。夕方、「ただいま」。夜、肉を一かけ。
ガルドの怪我は、減らなかった。
俺の怒鳴り声も、減らなかった。
ただ、少しだけ変わったこともある。
『キュイ!』
「……肉か」
(違う)
『キュイ?』
「……撫でるか」
(それも違う)
『キュイキュイ!』
「……窓を、開けるのか」
(……当たり)
当たったときの、ガルドの顔が、ちょっといい。
ひげの奥で、目だけが少し光る。
悪い気はしない。
その日、ガルドは、いつもより早く部屋に戻ってきていた。
扉が、勢いよく開く。
「ガルド、急ぎだ」
団長だった。息が上がっている。
「南の国境で、大規模な襲来だ。精鋭は先に出ている。お前の力が必要だ。今から出られるか」
「はい」
「頼む」
「はい」
ガルドは、もう動き始めていた。
鎧。剣。小さな荷物。迷いのない手つき。
その手が、ふと止まった。
机の上の、俺を見る。
近づいて、屈んだ。
「……少し、出る」
『キュイ?』
(少しって、どのくらいだ)
「すぐに戻る」
『キュイキュイ?』
(すぐって、いつだよ)
ガルドの指が、俺の頭に伸びて、途中で止まった。
それから、指ではなく、手のひら全体で、そっと包んだ。
いつもより、長く。
「……行ってくる」
『キュイ!』
(おい、待て! いつ帰ってくるんだ!)
『キュイキュイ!』
ガルドは立ち上がって、団長に頭を下げた。
「こいつを、頼みます」
「ああ」
「餌は、肉を、一かけ。夕食のときに」
「……肉を、一かけ?」
「はい。それだけは、必ず」
団長は、少し目を丸くしてから、頷いた。
「……分かった」
ガルドは、もう一度だけ俺を見て、扉を開けた。
足音が、階段を降りていく。
重い音が、聞こえなくなるまで、俺は机の上で動けなかった。
---
団長は、扉を閉めて、息をついた。
「あのガルドがな……」
それから、俺の机に近づいてきた。
「おい、ガルドに君の世話を頼まれたぞ」
『キュイ?』
「お前のご主人は、急な遠征だ」
(遠征?)
『キュイ?』
「任務が終わるまで、帰って来られない」
(いつだ? 何日だ? 一週間か? 一ヶ月か?)
『キュイキュイ! キュイ!』
団長は、必死な俺をじっと見て、考えて、言った。
「……餌が、欲しいのか」
(ちがう!)
「これか?」
ざざざ。
皿に、穀物が流し込まれた。
(そうじゃなくて!)
「おい! いつ帰ってくるんだ!」
『キュイ! キュイキュイ!』
「大人しくしていてくれよ」
団長は、扉へ歩いていく。
「夕方、また来る。肉は、そのときだ」
(待て! 話が終わってない!)
『キュイイイ!』
ガチャ。
扉が閉まった。
(違うんだよ……!)
皿の前で座り込んだ。
穀物は、食べる気がしなかった。
夕方、団長は約束どおり来た。
小さな肉の包みを開けて、ナイフで、慎重に切り分ける。
「……こう、か?」
指でつまんだ肉が、ぐいっと口元に差し出された。
(違う。そうじゃない)
ガルドは、スプーンだった。
ガルドは、揺らさなかった。
……仕方ない。はむり。
肉の質は同じはずなのに、なんか違った。
「食べたな」
団長が、ほっと息をついた。
(……うむ)
その夜、団長は帰らなかった。
椅子に座って、ベッドの足元の俺を、黙って眺めている。
いつもなら、足音を待つ時間だった。
扉の外に、耳を澄ませる時間。
でも、今日は来ない。
『ギュイ……』
「……落ち着かないか」
(当たり前だろ)
「ガルドのことが、気になるか」
(お、分かってるじゃないか)
『キュイ』
「そうか」
団長は、しばらく黙っていた。
それから、独り言みたいに、話し始めた。
「あいつは、孤児でな」
俺は、顔を上げた。
「親の顔も、知らん。小さい頃はメシもろくに食ってなかったんだ」
(……)
「冬に衛兵に拾われたことがあってな。温かいスープをもらった。それが、よほど嬉しかったらしい」
団長は、少し笑った。
「大きくなったら、自分も衛兵になる。そう言っていたそうだ」
(……いいやつだな)
「ところが、あいつの身体が、規格外でな」
(それは知ってる)
「力も速さも、衛兵の枠に収まらなかった。……気がついたら、騎士団にいた」
「実力があるから、危険な任務ばかり回される。身寄りもないから、誰も止めない」
団長は、自分の手を見下ろした。
「最初に仕事を頼んだのは、あいつが十八のときだ。迷わずに、『はい』と言った」
「……それから、一度も、断られたことがない」
(……断れよ)
『ギュイ』
「あいつは、断り方を、知らんのだろう」
(教えてやれよ)
『ギュイ!』
「……私は、あいつを信頼している」
団長は、そこで一度、言葉を切った。
「……頼りすぎてもいる」
団長の声が、少し低くなった。
「分かっているんだ」
(分かってるなら、やめろよ)
『ギュイギュイ!』
「だがな」
団長は、俺のほうを見た。
「最近、あいつは変わったんだ」
「任務が終わるとな、『帰ります』って言うようになった」
「前は……そのまま次の仕事を受けていたんだがな」
団長は、少し黙った。
「任務中にも、君の話をするらしい」
「出かける前には、必ず君の顔を見ていくそうだ」
(……そんなの、俺は聞いてないぞ)
ガルドは、俺に何も言わなかった。
言ったのは、「行ってくる」と、「ただいま」と、肉を一かけ。
それだけだった。
団長が、静かに頭を下げた。
俺に向かって。
小さい、丸い、モフモフに向かって。
「あいつのそばに、君はいてくれ」
(…………)
(勝手すぎるだろ、お前ら全員!)
『ギュイギュイ!』
「分かっている」
(もっと休ませろ!)
『ギュイギュイ!』
「……ああ」
(出世しすぎなんだよ! キリねーんだよ!)
『ギュイ!』
団長は、苦笑いに近い顔で、俺の怒鳴り声を受け止めていた。
「……そうだな」
団長は、もう一度、言った。
「あいつのそばに、君はいてくれ」
前世では、頼まれるたびに「はい」と言っていた。あいつと一緒だ。
だから、これは断れないんじゃない。俺がそうしたい。
『キュイ』
(……それは、約束する)
団長は、小さく頷いた。
「ありがとう」
扉が閉まる。
部屋が、静かになった。
---
団長は、毎日来た。
肉を一かけ。毎日。
持ち方は、日に日にうまくなった。指でつまんでいたのが、三日目には、スプーンになった。
「……こう、か?」
はむり。
(……八十点)
『キュイ』
「……そうか」
団長が、少し誇らしそうな顔をした。
でも、ガルドの肉のほうが、うまい。
不思議だ。同じ肉なのに。
夜は、静かだった。
ベッドの揺れも、呼吸も、衣擦れもない。
俺は毎晩、扉の外に耳を澄ませた。
足音。階段を上る、重い音。扉の前で、一度止まる気配。
(……別に、待ってるわけじゃない)
(あの怪我だらけの馬鹿が、どうなってるか、気になるだけだ)
(ペットとして、飼い主の安否は確認しないとな)
誰も聞いていないのに、言い訳をした。
一週間。十日。二週間。
夜風が、冷たくなってきた。
俺は、ガルドが使っていた毛布の端に、ぴったりくっついて眠った。
少しだけ、ガルドの匂いがした。
(……帰ってこいよ)
(肉の渡し方、団長より、お前のほうが上手いんだから)
---
その夜も、眠れなかった。
足音。
階段を上る足音。
重い。ゆっくり。
少し、引きずるような。
(……!)
扉の前で、一度止まる気配。
知ってる。
この気配は、知ってる。
扉が開いた。
ぎい、といつもの音。
泥だらけで、血だらけで、でも確かにそこにいる、でかい男が立っていた。
「ただいま」
その声を聞いた瞬間、身体が勝手に動いた。
『キュイイイイイイイ!』
ベッドから飛び降りて、床をぺたぺた走って、ガルドの足元に突っ込んだ。
『キュイ! キュイキュイキュイ!』
(遅いんだよ!)
(何日かかってんだ!)
(怪我してるじゃねーか!)
(心配しただろうが!)
ブーツに頭突きをした。短い手で、足をぽかぽか叩いた。
全然痛くないはずだ。
ガルドは、足元の俺を見下ろして、動かなかった。
何も言わなかった。
それから、ゆっくりしゃがんで、両手を差し出した。
傷だらけの、大きな手。
その手が、ほんの少し震えていた。
俺は、迷わず乗った。
胸の前に抱え上げられる。
泥と血と鉄の匂い。
その奥に、いつもの匂いが、ちゃんとあった。
「……ただいま」
もう一度、ガルドが言った。
さっきより、小さい声だった。
『キュイ』
(……帰ってきてよかった)
ガルドが、長く息を吐いた。ずっと止めていたみたいな息だった。
「……ああ」
それだけだった。
しばらくそのままでいて、ふと我に返った。
(……いや、待て。手当てしろ)
ばたばたして、腕から抜け出す。
「……どうした」
(怪我だよ! まず座れ!)
『ギュイギュイ!』
「……ああ」
ガルドは、素直に椅子に座った。
手当てが終わるころには、夕食の時間は、とうに過ぎていた。
ガルドは、荷物から小さな包みを出した。一口ぶんだけ切って、スプーンに乗せる。
「……土産だ」
俺の前には、一かけの肉。
……土産。
俺に?
ガルドが、遠征先から?
スプーンが、そっと近づいてくる。
揺れない。
はむり。
(…………)
やっぱり、ガルドの肉はうまかった。
(……うむ)
「よかった」
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ガルドの怪我が治るまで、団長は、長めの休暇を出した。
最初、ガルドは「働けます」と言って断ろうとした。
そこに俺が全力で割り込んで怒鳴ったら、おとなしくなった。
『ギュイギュイギュイ!』
(休め! いいから休め!)
「……分かった」
団長が、横でぼそりと言った。
「……こいつ、君の言うことだけは、聞くよな」
(当たり前だ)
このデカいのを止められるのは、俺しかいない。
翌朝。
ガルドが、起きる。
俺も、足元でもぞもぞ起きる。
「おはよう」
『キュイ』
ガルドは、身支度をして、扉の前まで歩いていって、振り返った。
「行ってく……」
止まった。
「……今日は、休みだったな」
(そうだぞ)
しばらく考えて、ガルドは言った。
「散歩にでも、行くか」
『キュイ!』
俺は、自分から、壁の袋に飛び込んだ。
縫い目の曲がった袋に、すっぽり収まる。
顔だけ出す。
焼き菓子の屋台の前を通ると、店の主人が手を振った。
「あ! モフモフ! お連れ様!」
「……ああ」
「おまけ、つけますよ!」
「いや、金は払う」
「いえいえ! いえいえいえ!」
この押し問答は、もう四回目だ。
公園のベンチで、ガルドが焼き菓子を割る。
はむり。
(……甘い)
残りを、ガルドが食べる。
「……うまいな」
『キュイ』
(うまい)
空が高い。
風が、ゆっくり吹いている。
「……どうした」
手のひらの上で、俺はぺたんと座り込んでいた。
『キュイ』
「……肉か?」
(違う)
「……撫でるか?」
(……それは、当たり)
指が、頭にそっと触れた。
いつもより、ほんの少しだけ、やさしい気がした。
(しょうがねーな)
(このデカいのは、俺がいないと駄目なんだから)
夕方、寮に戻った。
階段を上って、扉の前でガルドが足を止める。
鍵を回して、扉を開ける。
誰もいない部屋に向かって、ガルドが小さく言った。
「ただいま」
いや、誰もいないんじゃない。
袋の中に、俺がいる。
『キュイ』
ガルドが、袋の中をちらりと覗いて、目を細めた。
「……ああ」
何が「ああ」なのかは、相変わらず分からない。
でも、たぶん、それでいい。
夕食の時間。
机の上に、湯気を立てる分厚い肉。
俺は、定位置で、前足を揃えて待っていた。
ガルドが、スプーンを手に取る。
肉を、一かけ。
はむり。
(……うむ)
「よかった」
今日も、肉はうまかった。
ペットになる覚悟は、できていた。
飼い主の面倒まで見る覚悟は、してなかったけど。
まあ、悪くない。




