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タイトル未定2026/07/31 20:41

作者: ハル
掲載日:2026/07/31

ヒューメイリアンズ 

 

 序章 新たな生命


 2053年。日本は、静かに終わりを迎えようとしていた。

 急速に進む少子高齢化、深刻化する環境破壊とエネルギー危機。経済と社会システムが足元から崩れ去っていく中、政府は最後の希望、あるいは狂気とも呼べる国家機密プロジェクトを始動させた。

 その実験場として選ばれたのが、房総半島の奥深く、鬱蒼とした密林に佇む『エキシトリアス研究所』である。

 標高はわずか数百メートル。しかし、周囲を複雑に入り組んだ険しい谷と、光を通さない濃密な常緑樹の森に囲まれたその場所は、かつて自衛隊の演習地や防災観測施設として使われていた名目で、一般の地図からは完全に抹消されていた。最寄りの集落までは車で二十分以上、携帯の電波さえ届かないその空間は、目と鼻の先にあるはずの首都圏の喧騒から、奇妙なほど完璧に隔離されていた。

 その分厚いコンクリートの壁の奥に、国内外から選りすぐられた極秘の頭脳たちが集結した。彼らに与えられた使命はただ一つ。「人類の未来を救うこと」。

 その計画とは――宇宙に向けてメッセージを発信し、地球外の高度文明から技術と知識を「掠め取る」という、かつてない試みだった。

 沈黙の数年を経て、ついに深宇宙からの「返答」が届く。

 送られてきたデータには、壊滅した環境を蘇らせる修復技術や、未知のエネルギー変換理論、そして――人類の理解を超える「未知の遺伝子情報」が含まれていた。

 科学者たちは、その未知の螺旋構造に人類の救済を見出す。

「この遺伝子を適合させれば、あらゆる病を克服し、老いることのない『完璧な人類』を創造できるのではないか」

 やがて、人間のDNAと外宇宙の遺伝子を融合させ、新たな生命を試験的に創造する禁忌のプロジェクトが動き出した。

 ――そして、2体の女性型生命体が産声を上げた。

 彼女たちの名は、『カノン』と『セレナ』。

 緑色に微光する培養液のなかで眠るその姿は、どこからどう見ても、ただの可憐な人間の少女だった。透き通るような肌、柔らかそうな髪、そして愛らしい指先。エイリアンの遺伝子を宿している凄惨さなど微塵も感じさせない、あまりにも完璧な「人間」の姿。それこそが、最先端の遺伝子融合がもたらした奇跡であり、同時に異質な恐怖の始まりでもあった。

 神経を繋がれた電極から、言語や倫理観といった情報が、絶え間なく彼女たちの脳へと流し込まれていく。

 だが、その人工的なデータの濁流の底で、彼女たちの精神は、誰に教えられるでもなく互いの存在を感じ取っていた。

 暗い羊水のなかで、頼りない指先が、目に見えない温もりを求めて彷徨う。冷たいガラスの隔壁さえも超えて、2人の意識は深い淵で重なり合った。それはまるで、生まれたばかりの双子の赤ん坊が、互いの手のひらをそっと重ね合わせ、握りしめ合うかのような、本能的な結びつきだった。

 外見は完璧な人間。しかし、その小さな胸の奥で刻まれる鼓動は、人類のそれとは異なる、未知の規則的なリズムを奏でている。トントン、と狂いなく共鳴する心音が、一つの大きな波紋となって冷徹な研究所の闇に溶けていく。

 その時。彼女たちの意識に、決定的な「目覚め」が訪れた。

「……ッ」

 開かれた瞳は、何も捉えない。

 そこは、ただ暗く、身を切るように寒く、何もない世界だった。

 自分たちが何者なのか。どこから来たのか。何のためにここにいるのか。そうした記憶も、知識も、存在しない。

 あるのは、ただ自分たちを包み込む、死のように冷たい水の手触りだけ。

『ここは……どこ?』

 つながった精神の深淵から、切ないほどの問いかけが伝わる。

『わたしたち……なに?』

 泡の弾ける暗闇のなかで、彼女たちは互いの精神のぬくもりだけを命綱にして、問い続ける。自分たちが何者であり、なぜこの冷たい静寂の中に産み落とされたのかを。

 祝福なき世界で、静かなる自我の目覚めが、確かにそこにはあった。


 第1章:秘められた危険性

 房総半島の奥深く、地図から消された『エキシトリアス研究所』の地下最深部。緑の光に満ちた無機質な部屋で、極秘プロジェクトは恐るべき速度で進んでいた。

 研究者たちを驚愕させたのは、カノンとセレナの肉体が持つ、人類の常識を遥かに凌駕する超代謝と驚異的な自己治癒能力、そして異様なまでの成長スピードだった。

 誕生からしばらくは六、七歳ほどの可憐な幼児の姿だった彼女たちは、数年の月日を経て、あっという間に十二、三歳ほどの少女へと成長を遂げた。

 幼かった輪郭はすっきりと知的に引き締まり、四肢はしなやかに伸び、その肉体は少女から大人へと近づく過渡期の、神秘的な美しさを帯び始めていた。どこからどう見ても、ただの可憐な人間の少女。エイリアンの遺伝子を宿している凄惨さなど微塵も感じさせない完璧な「ヒトの器」に、研究者たちは手放しで歓喜した。

「これは奇跡だ。人類の未来の鍵がここにある!」

 彼らは彼女たちに白い衣服を着せ、日々の「実験」を継続した。それは彼女たちにとって、勉強や運動という名の、執拗で過酷なデータ収集の毎日だった。

 白く四角い実験室のなか、二人は並んで机に向かわされ、人類の高等数学や言語学の難問を解かされた。彼女たちの脳は、大人の学者すら数日かける計算を数秒で処理していく。またある時は、無数の電極やセンサーを全身に貼り付けられ、トレッドミルの上を走らされた。時速数十キロという肉体の限界を超える速度で走り続けても、二人の少女は息一つ切らさず、心拍数すら一定のままでいた。

 彼女たちには、外の世界を知る由もなかった。窓のないコンクリートの壁と、冷たい精密機械、そして自分たちを観察する白衣の大人たち。それが彼女たちの世界のすべてだった。

 そんな、毎日のように繰り返される変わり映えのない日々。

 ある実験の合間、与えられたわずかな休息の時間に、日々のルーティンに飽き飽きしていたセレナがカノンに対して口を開いた。

「ねぇ? 私達って、何のために生まれたのかな?」

「どうしたの? 意味不明な質問しちゃって」

「いつも繰り返される同じようなこと。まだ私達は外の世界を知らない」

「……そうね。この壁の向こうには、私たちが解いている教科書の中だけの世界が、本当に広がっているのかしら。まだ私たちはどこにも行けない。」

 カノンは冷たいコンクリートの壁に視線を落とし、それからセレナの、少し大人びてきた細い指先をそっと握りしめた。

「ねえ、セレナ。私、この前データバンクで見せてもらった、外の世界にある『映画』や『ドラマ』って言う娯楽に興味があるの。あんな風に誰かと笑い合ったり、涙を流したりする毎日って、どんなに素敵なんだろうな。」

「それを見ていた時のあなたは、楽しそうに笑っていたものね」

「ふふ、そうだね。人間って不思議。それに、あの四角い画面に映っていたカラフルな『おもちゃ』って言うやつだっけ?触ってみたいな。外の世界の人間は、どんな風にそれを使ってるのか……」

 静かに、けれど熱を帯びたカノンの瞳を見て、セレナは小さく息を呑んだ。いつも冷静なカノンが、誰よりも外の世界にある『人間の文化』を渇望しているのだと知ったからだ。

 カノンは少しはにかむように微笑むと、握った手のひらにぎゅっと力を込めた。

「でもね、セレナ。私たちが何のために生まれたとしても……私は、あなたと一緒ならそれでいいよ。二人でなら、いつかきっと、外の世界を見に行けると信じてる」

 二人がそっと手を握り合うその時間だけが、唯一の憩いの時間だった。

 だが、その歪な平穏はある夜を境に、冷酷な恐怖へと一変することになる。

 ――彼女たちは、同じ「悪夢」を見たのだ。

 夢のなかで、少女から大人へと変わりつつある自分たちの美しい肉体はドロドロとした異形へと変貌し、外宇宙の光と熱を纏いながら、大都市を赤く焼き尽くしていく。逃げ惑う人々。踏み潰されるビル群。自分たちは人類を救う天使などではない。世界を無に帰すための、圧倒的な「兵器」なのだと、細胞の奥底に眠る遺伝子が囁いていた。

 その瞬間、二人の脳波に凄まじい異常スパイクが発生する。制御室のコンソールが一斉に赤い警告灯を点滅させ、けたたましい電子音が防音壁に跳ね返った。

「馬鹿な……この脳波パターンはなんだ……! 脳の一部が、人類には存在しない高次元の領域とアクセスしている……!」

「肉体の成熟に伴って、奴らの本能が目覚めかけているんだ! これは制御できない。もしこのまま完全に目覚めれば、我々だけでなく、この国が……世界が滅ぼされるぞ!」

 科学者たちは震え上がった。自分たちが神の領域に触れ、美しい怪物を生み出してしまったのだと理解したからだ。

 その日の深夜、防音の施された極秘会議室で、冷徹な最終決定が下される。

「プロジェクトは失敗だ。カノンとセレナを処分する。……早ければ早いほどいい。明朝、二人の細胞ごと焼却処分にしろ」

 だが。

 その血の通わない決定は、再び仮死状態の眠り(ナーコシス)につかされていた二人の精神の深淵に、なぜか鮮明に届いていた。

『……わたしたち、しぬの?』

『いやだ……。生きたい。まだこの世界を.....もっと、いっしょに知っていきたい……!』

 その瞬間、彼女たちの細胞が、生存本能に突き動かされて爆発的に覚醒した。

 眠っていた筋肉が激しく震え、閉じられていた瞳がカッと見開かれる。人間の限界を超えた未知のエネルギーが、彼女たちの内側から奔流となって放たれた。

 パリィィィン!

 ガラスの隔壁が内側から粉砕され、轟音と共に大量の液体が床一面に激しく溢れ出す。

 冷たい床に崩れ落ちる、美しく成長した二つの裸の身体。

「う、嘘だろ……! 被検体が覚醒した! ロックを突き破ったぞ!」

「警備班を呼べ! 早くしろ!」

 けたたましく鳴り響く非常アラームと、赤く回転する非常灯の光。

 滑る足元、眩しい光に戸惑いながらも、カノンとセレナは互いに濡れた手を固く握りしめ合った。

「……にげて……生きるの……!」

 押し寄せる大人たちの叫び声を背に、生まれたばかりの命の本能そのもので、二人の影は激しく警報が鳴り響く研究所内を走り出した。


 第2章:運命の別れ

 けたたましく赤色灯が反転する無人の廊下を、カノンとセレナは裸足のまま必死に駆け抜けていた。冷たいコンクリートの床を踏みしめるたび、まだ慣れない足の痛みが走るが、止まるわけにはいかない。背後からは追手の足音と、怒号が迫っている。

 だが、冷徹な研究所の自動防衛システムは、容赦なく二人の逃げ道を塞ぎにかかった。

 ――ギギギギ、と不吉な駆動音が響き、前方の天井から幾重もの重厚な防壁シャッターが猛烈な勢いで降りてくる。

「セレナ!!」

「カノン!! 早く、来て!!」

 先に滑り込んだセレナが、必死に手を伸ばす。カノンもまた、その細い指先を掴もうと全力で腕を伸ばした。あの実験室で、いつも互いの命綱として握り合っていた、温かい手。

 しかし、非情な鉄の塊はその繋がりを許さなかった。激しい金属音と共にシャッターが床に叩きつけられ、二人の世界は完全に遮断された。

「セレナ!!!」

「カノン……!」

 金属の壁を拳で叩き、何度も名前を叫ぶ。だが、分厚い鉄の向こうからは、やがて悲痛な声すら聞こえなくなった。

 迫る追手の気配に、カノンは涙を拭い、張り裂けそうな胸を抱えて別ルートへと走り出すしかなかった。一方のセレナは、冷たい壁の前に静かに立ち尽くしたあと、拒絶されたような暗闇の奥へと、たった一人で歩き出した。

 こうして、二人の孤独な逃走劇が始まった。

 迷路のような研究所の異なるルートを必死に駆け抜け、二人はそれぞれ別々の出口から、ついに研究所の外の世界へと飛び出した。

「あ……っ……」

 一歩踏み出した瞬間、二人はそれぞれ別の場所で、その圧倒的な情報量に息を呑み、立ち尽くした。

 隔離された金属とコンクリートだけで構成されていたあの狭い世界とは、何もかもが違っていた。肌を優しく撫でる「空気」の流れがある。見上げれば、遮るもののない高い天井――データでしか知らなかった空から、目を射るような鮮烈な「日差し」が降り注ぎ、彼女たちの肌を容赦なく照らし出していた。

 隔離された研究所と違い、外の世界は、足の裏に触れる湿った土の感触や青々と生い茂る常緑樹の濃い匂い。さらに遠くで聞こえる鳥のさえずりや、草むらで跳ねる小さな虫たちの羽音。教科書の画面に表示される無機質な記号ではなく、本物の生命の鼓動が、房総の深い森の至る所から溢れ出していた。

(これが……外の世界……? カノン、あなたはどこにいるの……?)

(セレナ……無事でいて……!)

 あまりの眩しさと美しさに胸が震える。しかし、彼女たちにそれを享受する時間など残されてはいなかった。

 パン! パァン――!

 静寂を引き裂く乾いた銃声が森に響き渡り、木々の樹皮が激しく弾け飛んだ。追いつめてきた警備員たちの容赦ない銃弾が、離ればなれになった彼女たちの身体を、容赦なく狙い続ける。

 何もかもを知らぬ未知の世界に激しく困惑しながらも、二人はそれぞれ、孤独な地を蹴った。驚異的な身体能力と鋭敏な反射神経だけを頼りに、飛来する銃弾の軌道を紙一重で避けながら、木々の間を縫うように疾走する。

 地図もなければ、隣に味方もいない。夜になれば凍えるような闇が訪れ、昼になればまた追手の足音が近づく。いつ捕まるかもわからない、終わりの見えない過酷な逃亡生活。

 本能と知性を振り絞り、彼女たちは研究所のある山々を抜け、人間たちの社会の息遣いが聞こえる都市部へと驚異的な速度で走り続けた。――だが、その限界はいきなり訪れた。

「え……? あ、あつ……い……?」

 背後から迫る追手を辛うじて振り切り、人間たちの日常の陰へと滑り込んだ、その最中だった。

 カノンとセレナの肉体の中で、外宇宙の遺伝子が急激な熱を持って爆発的に融解した。あまりの激痛に走る足がもつれ、地べたへ倒れ込んだ瞬間、彼女たちの意思とは無関係に、全身の毛孔から半透明の有機的な繊維が激しく噴出し始めた。

 それは驚異的な速度でうねり、まるで自らを外敵から完全に隠匿するように、彼女たちの身体を優しく包み込み、光の届かない闇の奥へと引き込んでいく。衣服を破り、肌を覆う糸はまたたく間に硬質化し、不気味に明滅する強固な「蛹」へと変貌を遂げた。

 彼女達のいる場所には、人間たちの気配がすぐ傍らにあるにもかかわらず、決して見つかることのない盲点だった。

 数時間後、研究所の警備員たちが血眼になって捜索範囲を広げたが、すでに二人の形跡は完全に途絶えていた。最新の熱源センサーも、生物反応レーダーも、都市の雑踏と完全に同化した彼女たちの蛹を捉えることはできない。

「クソッ、どこへ消えた……! あの身体能力だ、もうこのエリアにはいないぞ!」

「手分けして千葉全域を探せ! 何が何でも見つけ出すんだ!」

 焦燥に駆られる警備員たちは、彼女たちがすぐ足元の街に潜んでいることすら特定できず、虚しく去っていった。

 追っ手の追跡を完全に撒き、お互いの生存も分からぬまま、二人は静かに深い眠りへと落ちていく。

 かつて四角い画面の中で憧れた『人間の日常』のすぐ傍らで、誰にも見つかることのない未知の進化が、静かに、けれど確実に目覚めの時を待っていた。二人の孤独な逃亡生活は、唐突に訪れた蛹化という神秘によって、完全に闇へと隠されるのだった――。


 第3章:出会い

 ――それは、まるで羽化のような現象だった。

 研究所からの逃走劇の末、カノンとセレナはそれぞれ別の場所で有機的なまゆに包まれ、深い眠りについた。

 外界との接触を絶たれ、まるで胎児のように守られながら、二人は“進化”の時を迎えていた。


 一週間が過ぎたころ――

 ある静かな朝、緑豊かな境界の残る住宅街の一角で、一人の青年が重い目を覚ました。

 青年――ヒコ。今の警備会社に入社して、ようやく三ヶ月が経ったところだった。有名な大学を卒業した彼は、周囲から「高学歴」という無言のレッテルを貼られ、それが職場での彼を余計に苦しめていた。

「お前さ、仕事はろくにできないくせにプライド高すぎんだよ!」

「何度言えばわかるんだ!ポンコツが!」

 現場で、先輩たちから浴びせられる嫌味や怒号が、今も耳の奥にこびりついて離れない。

 決して不真面目にやっているわけではなかった。むしろ言われたことを完璧に守ろうと努力していた。

 だが、現場の状況はマニュアル通りにはいかない。臨機応変に動こうとすれば「勝手なことをするな」と怒鳴られ、指示を愚直に守ろうとすれば「自分で頭を使え」と突き放される。毎日がその繰り返しで、必死になればなるほど空回りしていった。

 さらに、追い打ちをかけるように上司の冷徹な声が響く。

「言い訳はしなくていい。まぁとりあえず、この書類の作成と印鑑、そしてサインを今日中に終わらせろ。残業してもかまわん」

「……はい。承知しました」

 頭を下げるたびに、心の一部が削り取られていくようだった。

 彼らの目に映るヒコは、「高学歴のインテリ気取りが、現場の仕事を見下してふてぶてしい態度をとっている」ように見えるらしい。愛想笑いすら上手く作れない不器用な表情のすべてが、「プライドの高さ」という誤解に変換されていく。

 幼い頃に両親を亡くし、頼れる者もなく親戚の家をたらい回しにされて育ったヒコにとって、この世界は常に冷たかった。誰の集団にいても、自分はいつも「よそ者」だった。

 そんな彼が、大人になってようやく戻ってきたのが、家族が遺してくれた古い実家だった。今は一人で暮らしているこの家だけが、唯一、誰の目も気にせずに息を吸える、剥き出しの自分でいられる聖域だった。

 そんな地獄のような一週間をなんとか乗り切った週末の夜。

 ヒコは中学時代からの数少ない友人であるタケに誘われ、駅前のパチンコ店にいた。

 ジャラジャラジャラ――と、耳をろうするような爆音と、明滅する派手な液晶の光。

 普段ならうるさいと感じるはずのそのノイズが、今のヒコにとっては、職場の嫌みな怒号をかき消してくれる唯一のシェルターのようだった。

「――でさ! マジで意味わかんねえんだよ!」

 並んでハンドルを握り、液晶画面を見つめたまま、ヒコは隣のタケに向かって叫ぶように悩みをぶちまけ始めた。パチンコ屋の爆音の中なら、どんなに情けない愚痴を大声で吐き散らしても、周囲に聞かれることはない。

「マニュアル通りにやったら『臨機応変にやれ』って怒鳴られてさ! じゃあと思って、自分で考えて動いたら、今度は『勝手な真似すんな』だぞ!? どっちに行っても罠じゃん! 俺にどうしろって言うんだよ!」

 タケはタバコを咥えたまま、手元を見つめつつパチンコ玉を払い出しながら頷いた。

「いやぁー、お前も苦労してんだな。社会人生活に。分かるぜ、その気持ち。俺も高校を出てから色々な仕事について人間関係に苦労したからな」

 高学歴のヒコと、高卒で現場を渡り歩いてきたタケ。歩んできた道は違っても、社会の荒波に揉まれてきた痛みは同じだった。タケのしみじみとした言葉に、ヒコはハンドルを握る手にぐっと力を込める。

「おまけに『お前は高学歴だから、現場仕事舐めてるんだろ』って……。舐めるわけないじゃん。俺だって必死に頑張ってんだよ。でも周りがそう見てくれないんだ。態度が悪いって言われても、俺、どういう顔して先輩たちと話せばいいのか、もう分かんねえんだ……」

 フィーバーのファンファーレが遠くで鳴り響くなか、ヒコは手元の少ない玉を見つめ、ぽつりとこぼした。

「俺、前の仕事も上手くいかなくて、やっと今の警備会社に入ったのにさ。ここでも居場所がないなら、俺、もうどこに行けばいいんだろうな……」

 タケは何も言わず、自分のドル箱から一握りの玉を掴むと、ヒコの上皿へ無造作に放り込んだ。そして、ヒコの肩をポンと叩く。

「まま、それはいいから今日はパーっとかまそうぜ。お前は真面目すぎるんだ。ほら、その玉で次の当たり引いて、クソ上司のツラ忘れるぞ」

「……サンキュ」

 大したアドバイスがあるわけでもない。けれど、自分の惨めな現状をただ知っていてくれる友人がいることだけで、ヒコの胸の奥のドロドロとした塊が、ほんの少しだけ軽くなるような気がした。

 タケから分けてもらった玉を上皿に流し込み、他愛もない話を続けながらハンドルを微調整していた、その時だった。

 突然、ヒコの目の前の液晶画面が激しく明滅し、けたたましい効果音が鳴り響いた。

 画面を横切るド派手なカットイン。激しいバイブレーションが、ヒコの右手に伝わってくる。

「おい、これ熱いんじゃねえか!?」

「え、あ、嘘……これ、いくか?」

 二人が息を呑んで見つめるなか、画面中央の図柄が火花を散らしながら見事に揃った。

 キュインキュインキュイン――!

 鳴り響く大音量の歓喜のファンファーレ。確変の文字が画面いっぱいに躍り、勢いよくドル箱へ玉が流れ落ちていく。

「よっしゃ! 引きやがったなヒコ! これで今週のクソみたいな残業代は取り返したな!」

「あはは……当たった、本当に当たったよ……!」

 タケが自分のことのように嬉しそうに笑い、ヒコもまた、久しぶりに心の底から笑顔を浮かべていた。

 ――だが、その歓喜の瞬間は驚くほどあっけなく終わりを告げた。

 キュインキュインと鳴り響いていたド派手なファンファーレが静まり返り、突入したはずの確変・ボーナスタイムは、何の見せ場もないままストレートで駆け抜けていく。液晶画面は非情にも、いつもの退屈な通常画面へと引き戻された。

 上皿にわずかに残った玉が、カラカラと寂しい音を立てて吸い込まれていく。

「は?……うそだろ、もう終わり……?」

 ヒコは液晶を見つめたまま、呆然と固まった。せっかく引き当てた当たりは文字通りの「単発」で終了し、手元に残ったのは底が辛うじて埋まる程度の寂しいドル箱が一つだけ。

「あー……即落ちか。まあパチンコなんてそんなもんだよ、ヒコ」

 隣でタケが慰めるように苦笑いするが、今のヒコにそれを聞き流す心の余裕はなかった。

「……何がパーっとかまそうぜだよ。結局、俺はここでもこれかよ」

 急激に冷めていく脳内に、またしても職場の先輩たちの罵声や、上司の冷たい顔がフラッシュバックする。

 仕事もダメ。人間関係もダメ。せめてプライベートのパチンコくらい、ほんの少しでいいから「成功」の余韻に浸らせてくれたっていいじゃないか。なぜそれすらも、こうやって一瞬で奪われていくのか。

 カチカチと、不機嫌そうに無駄な連打を繰り返すヒコの指先。その表情は目に見えて険しくなり、ハンドルを握る手にもギリギリと不満気な力がこもる。

「おいおい、そんな怖い顔すんなって。不機嫌になると余計に玉が逃げるぞ」

「分かってるよ。分かってるけどさ……」

 ヒコは低く唸るように吐き捨て、タバコの煙を天井に向けて荒々しく吹き出した。結局、何をやっても自分の思い通りにはいかない――そんな理不尽な苛立ちが、胸の奥で黒く渦巻いていた。

 タケと別れ、冷たい夜風を浴びながら実家へと帰宅したヒコは、限界まで擦り切れた精神を麻痺させるように、自室の液晶画面に向かっていた。

 カチ、カチ、カチ――。

 薄暗い部屋のなかで、コントローラーを握るヒコの顔が青白い光に照らされている。

 プレイしているのは、もう何年もやり込んでいるはずのアクションゲームだった。

 だが、画面のなかの自機は、ヒコの焦りと苛立ちを反映するように、敵の攻撃を避けきれず何度も無残に撃破されていく。仕事のストレスも、パチンコですぐに終わってしまったボーナスタイムの理不尽さも、すべてを忘れるためにゲームの仮想世界に没頭しようとした。しかし、頭のなかが雑音で支配されているせいで、指先は恐ろしく冷え、画面への反応はどんどん鈍くなっていった。

 気がつけば、ただ放心状態でボタンを連打しているだけだった。画面を見つめる瞳は焦点が合っておらず、ただ虚無的に指先を動かしているにすぎない。

 そして、スピーカーから無情な電子音が響き渡る。

『GAME OVER』

 赤く染まったその文字を見つめた瞬間、ヒコのなかでプツリと何かが切れた。

「……あー、クソ」

 床にコントローラーを放り出す。

 何をやってもダメ。仕事も、人間関係も、パチンコも、そして現実逃避のためのゲームですら、自分に小さな勝利すら与えてはくれない。

 部屋のなかに立ち込める、自分の吐き出した重苦しい空気と、どこまでもガランとした実家の静寂が、急に息苦しくてたまらなくなった。

 ヒコは上着を乱暴に引っ掴むと、玄関を飛び出し、そのまま夜の闇へと逃げるように散歩に出かけた。

 冷たい夜風が、火照った頬を撫でていく。

 静まり返った住宅街をあてもなく歩き、やがて足は自然と、実家の裏手に広がる静かな雑木林へと向かっていた。頭を冷やしたい――ただそれだけの衝動に突き動かされ、ひんやりとした朝の気配が混ざり始めた薄暗い林の中を、一歩一歩踏みしめるように歩いていく。

 鳥の声も、風にそよぐ葉の音も、今のヒコにとっては心地よい沈黙だった。

 だが、その静寂のなかに、ふと異質な『何か』が紛れ込んでいることに気がついた。

 木の根元に、背丈ほどもある半透明の繭が横たわっている。

「……なんだこれ。虫の巣?……いや、人間?」

 恐る恐る近づき、指を伸ばした瞬間。繭の表面がひび割れ、まばゆい光が走った。

 それは、まるで羽化のような現象だった。

 中から現れたのは、一人の女性――カノンだった。

 ゆっくりと瞼を開けたその姿は、以前の幼さを残しながらも、一週間の蛹化の眠りを経て明らかに変わっていた。腰まで流れる金色の髪、透き通るような青い瞳。そして、丸みを帯びた豊かな胸、くびれた腰、しなやかな肢体。どこか神秘的な光をまとう姿は、まるで神の創り出した芸術のようだった。

「これが……私の身体……?」

 自分の姿を見下ろし、戸惑いの声を漏らすカノン。

 そして、目の前に立つヒコに気づくと、彼女はゆっくりと問いかけた。

「……あなたは、誰?」

「いや、それこっちのセリフだって……ていうか、なんで裸なの!?」

 ヒコは慌てて自分の上着を脱ぎ、彼女に差し出した。羞恥という概念を持たないカノンは、無垢な表情のまま受け取り、それを羽織る。

 ヒコは、混乱を抱えながらも、彼女を自分の実家へと案内した。

 シャワーを浴び、ヒコから借りたタンクトップとスキニーパンツに着替えたカノン。

 かつての家族の気配が残る古い洗面台で、彼女は鏡の前に立ち、自分の姿をじっと見つめる。濡れた髪が肩にかかり、肌は白く滑らかで、くびれた腰に長い脚。どこからどう見ても、美しい人間の女性だった。

「……綺麗」

 思わず漏れたその言葉の裏には、拭いきれない違和感があった。

 ――これは私の体。だけど……本当に、私なの?

 鏡に映る自分を見ながら、カノンの胸に、正体のわからない不安がじわりと広がっていく。その目はどこか切なげで、自分という存在の輪郭を探しているかのようだった。

「服、ピッタリか?」

 ヒコが脱衣所の外から声をかける。

「うん。シャワーと着替え、ありがとう」

 引き戸を開けて出てきたカノンの体には、細身の服がぴったりと張りつき、そのしなやかな身体のラインを際立たせていた。

「君……本当に魅力的だな。目のやり場に困るよ……」

 ヒコの頬が赤く染まり、空気が少しだけ和らいだ。会社での張り詰めた表情や、パチンコ屋でタケに愚痴を吐き散らしていたときとは違う、年相応の素直なヒコの姿がそこにあった。

「それで……君は、いったい何者なんだ?」

「私は……カノン。」

「カノン? あの場所にいたのは、どうして?」

「……それは、今は言えないの。」

「そっか……。じゃあ、行くあてがないなら、うちに来るといいよ。」

「……いいの? ありがとう。」

「自己紹介が遅れたね。僕はヒコ。よろしく、カノン。」

 他者から拒絶され、実家で一人きりで過ごしてきたヒコだからこそ、同じように強烈な孤独の影をまとう彼女を放っておけなかった。

 カノンもまた、彼の不器用な優しさに、凝り固まっていた心がふっとほぐれるのを感じていた。

 だがその一方で、誰にも知られず眠っていた繭が、静かに脈動し始めていた。

 繭が割れ、中から現れたのは――セレナ。

 銀色のボブヘアは濡れたように艶を帯び、肩のあたりでさらりと揺れた。

 紅い瞳は光を宿し、じっと見つめられれば、胸の奥を射抜かれるような冷たい輝きを放っている。

 彼女の姿もまた、かつての幼さを捨て、驚くほど成熟したものになっていた。

 引き締まった腰に対して、豊かに張り出した胸と臀部。くびれの曲線が強調するように、全体のプロポーションはまさに人目を惹くものだった。

 その肢体はカノンと同じく、女性としての完成された美しさを備えていた。

 だが――その美しさは、冷たく凍てついていた。

 微笑むことのない唇。感情の読めない瞳。

 その身体は、まるで人間の「美」をなぞって創られた人形のようだった。

「私を……殺そうとした」

 低く絞り出すような声が、密室に響く。――怒声、痛み、恐怖。

 何の罪もないまま、「危険」とされ、殴られ、閉じ込められたあの瞬間。彼女はまだ何の罪も犯してない子どもだった。

 ただ「生きたい」と願っただけなのに――

 それすらも“脅威”と見なされた。

「なんで? なぜ私たちは……生きたいだけなのに……!」

 心の奥底に沈んでいた“何か”が、怒りと共に浮かび上がる。

 それは本能ではなかった。明確な意思。理不尽への拒絶。抗う力。

 セレナは割れた鏡に映る自分をじっと見つめた。

 その姿は、かつての無垢な少女ではなかった。

「私は……あんなクズ共の奴隷でもモルモットでもない!」

 目が赤く燃える。

 怒りが、復讐という名の炎に変わる。

「見ていなさい……私を否定したこと。必ず後悔させてやる!」

 そして彼女は、暗闇へと歩き出した。


 第4章:ヒコとカノン、そしてセレナ

 朝の光が薄暗い寝室に差し込む中、ヒコはゆっくりと目を覚ました。まだ寝ぼけ眼のまま寝返りを打った瞬間、彼の心臓が大きく跳ね上がる。隣に見慣れない金色の髪と、眩しいほどに白い肌が飛び込んできたからだ。

「うわぁ! 何でここに? しかも裸で寝るなって!」

 飛び起きて叫ぶヒコに、隣で丸くなっていたカノンはパチパチと目を瞬かせ、眠たげに身をよじった。

「うーん、だって気持ちいいんだもん」

 ヒコは慌てて視線を逸らし、近くにあった毛布を彼女の体に引っ掛けた。その様子には羞恥心はなく、むしろどこまでも自然体。彼女が“人間”の常識を持たない存在であることを、ヒコは朝一番から改めて実感させられるのだった。


 その朝の騒動を境に、カノンとの共同生活が本格的に始まった。

「今日から二日間、夜勤で留守にしてる。好きに過ごしてていいよ。……無理はするなよ」

「分かった。でも、やっておくべきことは何かある?」

「いや,特にないよ。戸締まりだけ気をつけてくれれば」

 そう言い残してヒコが仕事へ出かけたあと、カノンは家の中にあるものに興味を持った。

「私、研究所の中でしか生きていなかったから、知らないものばかり」

 ゲーム機やBlu-ray、テレビやおもちゃといった様々なものがそこらに転がっていた。クローゼットを開けると、ヒコの母親の遺品があり、カノンはそれらを引っ張り出して「大人の服」の着比べをしてみることにした。大きめのシャツや、色鮮やかな上着などを何度も鏡の前で合わせては、楽しそうに笑みを浮かべた。ヒコの母親が残した衣類を手に取り、嬉しそうに呟く。

「この下着、大人っぽいな。ヒコのお母さんのものかな?」

 さらにカノンは、テレビの電源を入れてゲームのコントローラーを握ってみた。画面の中に鮮やかな世界が広がったが、人間の限界を超える反射神経を持つカノンにとって、ゲームの敵の動きは止まっているかのように遅い。ヒコがいつも苦戦していたステージを、カノンは正確なリズムでボタンを押し、あっさりとクリアしてしまった。

「……ミッションコンプリート、なんちゃって。」

 次に彼女が見つけたのは、古い映画のBlu-rayディスクだった。プレイヤーに挿入すると、画面の中で人間たちが笑い、怒り、涙を流す日常の物語が始まった。カノンは物語の展開に合わせて一喜一憂し、時には声を上げて笑ったり、驚いて身を乗り出したりしながら、子供のようにはしゃいで見入っていた。しかし、人間が誰かを想って流す美しい涙や笑顔――データバンクにはないその深い「感情」の機微に触れたとき、カノンの頬を冷たい一筋の雫が伝い、畳へと落ちて染みを作った。

「人間って……素敵な生き物.....」

 そしてカノンは、部屋の隅に置かれていた作りかけのプラモデルを見つけた。ヒコが仕事の合間に少しずつ組み立てていたプラモデルだ。説明書をめくり、そこらに転がっていたニッパーを手に取ると、彼女の細い指先は精密機械のように正確に動き出した。ヒコが手を付けていなかったランナーからパーツを切り出し、瞬く間にその続きのパーツを完璧に組み上げていく。

 カノンは、パーツ同士を噛み合わせるだけのこのおもちゃが、組み立てるのが予想以上に簡単であるにもかかわらず、完成すると驚くほど頑丈な構造になることに驚いていた。

「こんなの朝飯前よ♪」

 そう言って満足げに微笑んだカノンは、ヒコが模型と一緒に置いていた塗装用の道具にも目を留めた。

「好きな色に変えてみたいな。うーんと、この機会を使うのかな?どれどれ」

 カノンは棚から見つけたエアコンプレッサーの説明書を熱心に読み始めた。スイッチの入れ方や空気圧の調整方法を頭に叩き込むと、ブーという低い機械音とともにコンプレッサーを起動させる。

 さらに、ずらりと並んだ専用の塗料やうすめ液を手に取り、「これで薄めるのかな……?」と首を傾げながら、最適な粘度になるよう専用の調色皿の上で試行錯誤を繰り返した。最初はインクが出すぎたり、逆に薄すぎて弾かれたりしたが、超人的な学習能力でたちまちコツを掴み、パーツに美しい色彩を吹き込んでいく。

 ヒコがいない二日間の静けさの中で、カノンは服を着比べ、ゲームで遊び、映画を見てはしゃいだり涙を流したり、プラモデルの仕組みに驚き、初めての塗装に試行錯誤しながら、人間たちの娯楽と心を少しずつ学んでいった。早くヒコに会いたい。その気持ちが胸の奥で小さな鼓動を刻んでいた。

 しかし、二日目の夕方。仕事から帰ってきたヒコは、部屋の机の上に置かれたプラモデルを見て目を丸くした。

「ええっ!? これ、カノンが作ったのか!?」

 思わず大声を上げて驚くヒコは、完成した模型をそっと両手で持ち上げた。自分が苦労して途中まで作っていた模型が、寸分の狂いもないプロのような完璧さですべて組み上がっている。それどころか、パーツの合わせ目は綺麗に消され、カノンが独自に調色したであろう塗料がムラ一つなく均一に吹き付けられていた。エッジの立ったシャープな仕上がり、色のセンス、どこをとっても素人業ではない。ヒコはパーツを光に透かしながら、「凄い……ゲート跡も完全に処理されてるし、塗装の膜の薄さも均一だ。こんなの、熟練のモデラーでもそう簡単にできるクオリティじゃないぞ……」と、その圧倒的な完成度に心底から感心し、舌を巻いた。

 カノンは照れくさそうに笑いながら、ヒコの前に出た。

「ごめんなさ〜い、勝手に触っちゃって……」

 しょんぼりとうなだれる彼女を見て、ヒコは驚きと感心を通り越してため息をつき、笑いながら頭を撫でた。

「いや、怒るわけないじゃないか!」

 しかし、その夜。ヒコは二日間の無理な過労のせいか、急に熱を出して倒れてしまった。額に手を当て、息苦しそうにうなされる彼を見て、カノンは静かにヒコの手を握った。

「お願い……治って、ヒコ……」

 カノンは彼に触れながら、触手を伸ばし、体温のバランスを整え、免疫を活性化させるように集中した。体の奥から温かな光が広がり、ヒコの顔が次第に安らかな表情へと戻っていった。

「……ありがとう、カノン」

 彼が弱々しく微笑むと、カノンは目に涙を浮かべながら笑った。

 一方その頃、街の片隅。セレナは一人、路地裏に佇んでいた。激しい雨に濡れながら、ただ一人、人目を避けて歩いていたその姿を、数人のギャルたちが嘲笑うように取り囲んだ。

「なにあれ、裸? マジやばくない?」

「ウケる〜! どこから逃げてきたんだか」

 その言葉がセレナの胸に刺さった。何もかも奪われ、独りきりになった彼女にとって、それは引き金だった。

「――消え失せろ!」

 そう一言呟いた瞬間、空気が震え、ギャルたちの叫び声と共に路地は血に染まった。背中から伸びた触手と針で彼女達に毒を注入し、体を引き裂き、殺したのであった。

 血の匂いが立ち込める中、セレナは無言で一人のギャルの服を剥ぎ取り、身体に纏った。パンクな服装にへそ出し、そしてショートパンツ。かなり露出は多かったが、今の彼女が着るには十分であった。

 ガラス窓に映る自分を見て、セレナはぼそりと呟く。

「見た目だけは“普通”。でも、もう戻れない」

 その目は冷たく、怒りと悲しみに濁っていた。

 こうして、同じ時に、それぞれ違う道を歩み始めた二人のヒューメイリアン。カノンは人間としての温もりに触れながら、セレナは憎しみの炎を胸に、静かに歩を進めていくのだった――。


 第5章:僅かな幸せ

 その夢の中で、カノンはヒコと並んで笑っていた。しかし突如、自分の身体に激痛が走る。

 パキパキと不気味な音を立てて、自分の細く白い腕が、醜く巨大な異形の爪へと変貌していく。背中からは制御の利かない、漆黒の鋭い触手が何本も突き出し、カノンの意思を無視して暴れ始めた。

(ダメ……! 体が言うことを……)

 視界が真っ赤に染まる中、目の前には恐怖に目を見開いたヒコがいた。

 逃げて、と叫びたいのに声が出ない。破壊衝動に支配されたエイリアンの肉体は牙を剥き、凶悪な爪でヒコの身体を引き裂いた。鮮血が飛び散り、周囲にいる罪なき人間たちが、自分のせいで次々と倒れ、絶叫が響き渡る。

『カノン……どうして……』

 血の海に倒れたヒコが、悲しげに自分を見上げる。

 大切な人を、自分のこの手が、この化け物の身体が奪ってしまった――。

「――っ!?」

 カノンは激しく息を乱し、声にならない悲鳴とともに弾かれたように目を覚ました。

 ハァ、ハァ、と狂ったように浅い呼吸を繰り返しながら、自分の両手を視界に映す。そこにあるのは、醜い爪ではなく、元の小さく白い人間の手だった。全身の震えがしばらく止まらなかった。

(よかった、ただの夢……)

 カノンは胸を下げ、隣の布団で安らかな寝息を立てているヒコの姿を確認した。怪我一つない、大好きなヒコ。

 自分がいつかあんな怪物になって、彼や周りの人を傷つけてしまうかもしれない――そんな深い孤独と恐怖が彼女の胸を締めつける。けれど、カノンは小さく首を振って恐怖を振り払うと、そっと布団から抜け出した。

(ヒコが起きてくる前に、美味しいものを作ろう。あんな夢、忘れちゃうくらい、優しい朝にしたい)


 ――それからしばらくして、部屋に朝の光が差し込み始めた。

 その日は、雲ひとつない快晴だった。

 カレンダーの赤い丸印を確認して、ヒコはベッドの上でゆっくりと背伸びをした。いつもより長く寝られる朝。今日は、久々に取った有給休暇だ。

「おはよう、ヒコ」

 振り返ると、キッチンから顔を出したカノンが笑っていた。寝癖ひとつない金髪、少し大きめのエプロン。そして、朝の光に照らされた優しい眼差し。

 さっきまで悪夢に怯えていたなど微塵も感じさせない、精一杯の愛らしい笑顔だった。

「おはよう、カノン。もしかして、朝ごはん作ってくれたの?」

「うん。簡単なものだけど。トーストとスクランブルエッグ。それと、あなたが好きなカフェオレ」

 心が温かくなるような朝だった。誰かが自分のために用意してくれた食卓。それは、ヒコにとって何よりも贅沢なご褒美だった。

 ――思い返せば、自分のために朝食を作ってくれた人なんて、今まで一人もいなかった。

 両親を亡くしてからの毎日は、どこか借り物のようだった。親戚の家を転々とし、「迷惑だけはかけるな」と繰り返され、教室でもひとりだった。弁当を広げる場所すら、いつも探していた。

 だから、こういうささやかな優しさに、胸が締めつけられるのだろう。

 食後、ヒコはふと思い出したように声をかけた。

「せっかくだし、今日は出かけようか」

「どこに行くの?」

「そうだなぁ。服とか家具とか、必要なものも買いたいし……あと、ちょっと遊びに行くのもいいかなって」

 カノンは一瞬、驚いたように目を見開き、それから嬉しそうに微笑んだ。さっきの恐ろしい悪夢の残滓は、ヒコの優しい声によって、すっかり消し去られていくようだった。

「行きたい。楽しみだなぁ〜」

 最初に訪れたのは、大型のショッピングモールだった。エレベーターの中で、カノンは緊張した様子だったが、色鮮やかな商品や行き交う人ごみにも少しずつ慣れていく。家具のコーナーを回りながら、カノンがひとつの家電の前で足を止めた。

「この冷蔵庫、静かで省エネなんだって」

「へぇ。でも、高すぎない?」

「家電は長く使うものだからな。多少高くても問題ないさ」

 そんなふうに、これからの生活に必要なものを一つずつ選んでいく時間。まるで新婚の夫婦みたいだと、ヒコは心の中で少しだけ照れる。

 そう――こんなふうに、誰かと「生活」を作っていくのは初めてだった。

 誰かのために何かを選ぶ。誰かと未来の話をする。ただそれだけのことが、どうしてこんなにも愛おしいんだろう。かつての自分は、そんな日常が手に入るなんて、夢にも思わなかった。

 モールを歩き疲れてきた頃、カノンがふと立ち止まった。

「なにか、美味しそうな匂いがするなぁ」

 彼女の視線の先には、フードコートにあるたこ焼きの屋台があった。鉄板の上でカリカリに焼かれる小さな球体。ソースの香ばしい匂いと、熱気でふわりふわりと舞う鰹節。

「これ、食べてみてもいい?」

「たこ焼き? いいよ,買ってあげる」

 丸くて熱々のたこ焼きを、カノンは一口、恐る恐る口に運んだ。

「あつっ」

「フーフーして、食べて」

「でも、おいしい。これ、すごく好きかも」

 目を輝かせながら、次の一つを頬張るカノン。その無垢な笑顔に、ヒコは胸の奥がじんわりとあたたかくなるのを感じた。

 ――こんなふうに笑う誰かの隣にいたいと思ったのは、初めてかもしれない。

 彼女の幸せそうな表情を見るたびに、胸のどこかが救われていく気がする。もう、誰にも必要とされない日々に戻りたくない。カノンがいる。ここに、俺の居場所がある。だから、守りたい。与えられなかったものを、今度こそ誰かに手渡せるように。

 しかし、そんな二人の穏やかな時間の余韻を切り裂くように、モールの外、静かな裏路地から鋭い悲鳴が響き渡った。

「金を出せ!早くしろ!」

「嫌……っ! 誰か、助けて……!」

 ヒコとカノンが顔を見合わせ、声のする方へと駆けつける。そこにあったのは、現実の生々しい悪意だった。刃物を手にした強盗犯の男が、買い物帰りの母親と、その傍らで泣きじゃくる小さな男の子を脅していた。男の目は血走り、完全に理性を失っている。

「うるさい! お前らが騒ぐからだ!」

 苛立った男が、あろうことか母親を突き飛ばし、泣き叫ぶ小さな男の子に向けて鋭いナイフを振り下ろした。

 無抵抗な子供の細い腕に刃が走り、赤い血が飛び散る。子供の悲鳴が路地に響き渡った。

「――っ」

 それを見た瞬間、カノンの心に激しい怒りが燃え上がった。目の前で、守られるべき小さな命が無残に傷つけられている。その理不尽な暴力が、カノンの逆鱗に触れた。

(そんなこと、絶対に許さない……!)

 ヒコが「危ない、カノン!」と声をかけるよりも早く、彼女の身体は地を蹴っていた。人間の限界を遥かに超えた速度。男の目には、カノンの姿が文字通り「消えた」ように映ったはずだ。

「が……っ!? ひっ……!?」

 次の瞬間、男は自分がなぜ地面に叩きつけられているのか理解できなかった。

 カノンが男の手首を掴み、そのままコンクリートの地面へとねじ伏せたのだ。ナイフが甲高い音を立てて転がっていく。男は必死に暴れようとしたが、カノンの小さく白い手のどこからそんな力が湧き出ているのか、まるで鉄万力に固定されたかのように、指一本動かすことができない。

「痛ぇ! な、なんだお前、離せ……! ば、化け物……っ!」

 男が恐怖に顔を歪めて見上げると、そこには感情の消えたカノンの顔があった。

 カノンの瞳は、禍々しい赤い光を放ち、まっすぐに男の精神を射抜いていた。同時に、カノンの全身から放たれる圧倒的な捕食者のオーラが、路地裏の空気を凍りつかせる。あまりの威圧感と、暗闇の中でらんらんと輝くその両目に、男は直感した。目の前にいるのは人間ではない。自分など足元にも及ばない、絶対的な怪物だと。

 男はあまりの恐怖にガタガタと歯を鳴らし、完全に戦意を喪失して涙と鼻水を流した。

 カノンがその手を静かに離すと、男は地面に縮こまり、声をあげることもできずへたり込んだ。男の怯えきった姿を見て、カノンはハッと我に返った。自分の手のひらを見つめ、コントロールを失いかけた自身の異形さに身体を震わせる。

「私は一体、どうなってるの? ば、化け物……?」

 怯えるように自分の瞳を覆うカノン。そのとき、必死の形相で駆けつけてきたヒコが、カノンの肩をそっと抱きしめた。

「大丈夫か? カノン?」

 ヒコの温かい声と確かな手のぬくもりに、カノンの瞳の光は、すうっといつもの優しい青色へと戻っていった。カノンは小さく息を吐くと、いつもの穏やかな表情で頷いた。

「うん、私は平気。それより、あの子……」

 カノンはすぐに怪我をした男の子の元へと駆け寄り、そっとその小さな腕に触れた。彼女の手から柔らかな温熱が伝わり、男の子の腕の傷口が、みるみるうちに塞がっていく。

「もう大丈夫だよ。痛いの、飛んでいったからね」

 さっきまで強盗を恐怖のどん底に叩き落としていた表情はどこへやら、カノンはいつもの優しい笑顔で子供の頭を撫でた。狐につままれたような顔の母親が、何度も涙を流しながら「ありがとうございました……!」と頭を下げた。遠くから警察のサイレンが聞こえ始める。ヒコはカノンの手を引き、「行こう、カノン」と静かにその場を離れた。

  *

 ――その日の帰り道。夕暮れに染まる景色を眺めながら、カノンが静かに呟いた。

「私、怖いの……自分が自分じゃなくなるみたいで」

 カノンは歩みを止め、夕日に照らされる自分の両手を見つめた。その指先は小さく震えている。

「さっきのことか?」

 ヒコが優しく問いかけると、カノンは潤んだ瞳をヒコへと向け、胸の奥に閉じ込めていた悲痛な叫びを吐露した。

「私は、人間なのかエイリアンなのか……。理性を失ってあなたまで傷つけてしまったらって思うと……」

 さっき強盗犯を前にして目覚めかけた異形の力が、彼女の胸を深い孤独と不安で締めつけていた。

 ヒコは少し視線を落とし、今までずっと心に抱えていた秘密を、ぽつりぽつりと話し始めた。

「俺、早くに両親を亡くしててさ。それからずっと、親戚をたらい回しにされて、どこにも居場所がなかったんだ。学校でもいじめられてさ、生きづらい毎日を過ごしてた。でも、君と会ってから、何もかもが変わったよ」

 ヒコはそっとカノンの手を取り、包み込むように強く握りしめた。彼女の柔らかな温もりが、過去の冷たさを少しずつ溶かしていく。

「君が何者だろうと、俺にとっては関係ない。俺を孤独から救ってくれたのは、今ここにいるカノンなんだ。だから……君だけは、何があっても俺が守ってみせるって誓うよ」

 真っ直ぐに見つめて紡がれたその誓いに、カノンは胸を熱くしながら、ボロボロと涙をこぼした。そして、涙を拭うと、心からの笑顔を返した。

 さっき自分の中の力に怯え、「化け物」と呟いた不安も、ヒコのこの温かい手の前には、もうどこにもなかった。この人を守るためにこの力を使うのだと、カノンは深く確信していた。

「私、ヒコに助けられてなかったら、幸せではなかったよ。ありがとう」

 その笑顔が、今度はヒコの胸を愛おしさで満たしていく。

 沈みゆく夕日の光に包まれながら、ヒコとカノンは、お互いが隣にいるという奇跡のような幸せを、深く静かに噛み締めるのであった。


 第6章:打ち明ける過去

 朝。柔らかな日差しが窓から差し込み、カノンはゆっくりと目を覚ました。

 隣で眠るヒコの寝顔を見つめながら、彼の穏やかな表情に、自然と優しい微笑みが浮かぶ。

「おはよう、ヒコ……」

 その囁きに目を覚ましたヒコは、まだ夢の中にいるような顔で「おはよう、カノン」と返した。ふたりはしばらくの間、布団の中で静かに寄り添っていた。心地よい静けさが、世界を優しく包み込んでいるかのようだった。

 やがて、その愛おしい沈黙を破るように、カノンがぽつりと呟いた。

「セレナ。あの子は、今も生きているのかな?」

 その見知らぬ名を聞いた瞬間、ヒコはわずかに眉をひそめた。

「セレナ? それって、誰のこと?」

 カノンは少しだけ表情を曇らせた。そして、意を決したように、今まで語ることのなかった自分の過去を静かに話し始めた。

「私と同じ、研究所で生まれた子。セレナは、私の“姉妹”みたいな存在だったの。私と一緒にあの場所から逃げようとして……でも、途中で離ればなれになっちゃったんだ」

「研究所? つまり、君も……」

 カノンは小さく頷き、窓の外へと視線を移した。朝日が眩しく輝いているが、彼女の心には深い陰りが帯びていく。

「培養槽の中に閉じ込められていた私たちは、外の世界を何も知らずに育ってきた。でもね、心と心で、ずっと通じ合ってきたの。君にとって、その子は本当の家族のような存在なんだな」

 ヒコは横たわったまま体を起こし、真剣な表情で彼女の言葉に耳を傾けていた。その時、ふとつけっぱなしにしていたテレビの音が、カノンの耳に飛び込んできた。画面には緊急ニュースのテロップが躍っている。

『――被害者の女性二人は無惨な姿で発見され、これは通常の人の殺し方とは到底思えません……。事件の容疑者は、未確認の女性型生命体の可能性もあり――』

 映し出された夜間の防犯カメラの映像。そこには、暗闇の中で両目を不気味な赤色に輝かせながら、無感情に歩く一人の少女の姿があった。

 その姿を見た瞬間、カノンは息を呑み、思わず身を乗り出した。

「セレナ……!」

 ヒコもテレビの画面を凝視し、カノンのただならぬ動揺を察して声をかける。

「まさか……この子が、君の言っていた……?」

 カノンはガタガタと身体を震わせ、今にも泣き出しそうな声で答えた。

「間違いない、あの目、あの力はセレナだよ……」

 彼女は膝を抱えるようにして身を縮こませた。画面の中のセレナの孤独な姿が、カノンの胸を締めつける。ヒコが静かにリモコンを操作してテレビを消すと、静まり返った部屋の中で、カノンはぽつりぽつりと、親友への想いを吐露し始めた。

「私とセレナは、同じ研究所で生まれた姉妹のようなものなの。外の世界にずっと憧れてて、でもあの子は、人間の嫌な面を見すぎてしまったのかもしれない。だから……」

 逃亡の過程でセレナが受けてきたであろう拒絶や暴力、その痛みがカノンには痛いほど分かった。もし自分がヒコという温もりに出会えていなければ、あの画面に映っていたのは自分だったかもしれないのだ。

「どうして……どうしてこんなことに……!」

 ヒコはカノンの隣に腰を下ろすと、彼女の震える小さな手を、そっと両手で包み込んだ。

「行くのか?」

 カノンは少し俯いたまま、しかし、その瞳には逃れられない確かな決意を宿して顔を上げた。

「私、行かなきゃ。彼女を、止めなきゃいけないの」

「なら、俺も一緒に行くよ。君一人で行かせるのは危険すぎる」

 その言葉に、カノンの目にみるみるうちに涙が溜まっていく。彼女は深く息を吸い、ヒコの温もりに背中を押されるようにして、本当の決意を固めた。

「ありがとう、ヒコ。本当に、ありがとう……」

「でも、どうやって探す? 何か手がかりはあるか?」

「それなら、まずは街に出て歩いてみよう。報道された事件の現場に行けば、何かが残っているかもしれない」

「そうだな。街の人の話も聞いてみよう。些細な目撃情報でも、見逃せない」

 カノンは力強くうなずき、少しだけ前向きな表情を取り戻した。

「そうだね。どんなに小さな手がかりでも、絶対に無駄にはならないよ」

 二人はそれぞれ服を着替え、家を出る準備を始めた。

 外の朝の冷たい空気が肌を刺すようだったが、連れ添う二人の胸の中には、大切な人を救うための温かな決意が満ちていた。

 しかし、いくら事件の現場に向かうとはいえ、自分たちだけの力で闇雲に街を歩き回るのには限界がある。少しでも人手と情報が欲しかった。

 ヒコは靴を履きながらスマートフォンを取り出すと、迷った末にある男の番号をタップした。耳に当てたスピーカーから、数回の呼出音が響く。

『よぉ、ヒコ。どうしたんだよ、こんな時間に』

 画面の向こうから聞こえてきたのは、少し眠そうだが、いつも通りに快活でハキハキとした、タケの声だった。

「タケ、今時間あるか?」

『あぁ、大丈夫だぜ。どうした?』

「実は、ちょっと人を探しててさ……。力を貸してほしいんだ」

『人探し? お前がそんなこと言い出すなんて珍しいじゃん。いいぜ、動けないわけじゃねぇし。で、誰を探してんだ?』

「……さっき、テレビのニュースでやってた事件の容疑者だよ。あの、防犯カメラに映てった女の子だ」

『は!? おいおい、冗談だろ!? あの、未確認生命体とか言われてるヤバい奴か!?』

「冗談じゃないんだ。詳しい事情は会ってから話す。お願いだ、タケ。俺にはお前の力が必要なんだ」

『……ったく、お前がそこまで言うなら、ただ事じゃねぇんだろ。水臭いこと言ってんじゃねぇよ。ダチの頼みだ、乗ってやる。まずはどこで落ち合う?』

「ありがたい……! ニュースの現場近くの、あの大きな交差点で待ち合わせよう。すぐに行く」

 ニュースの現場近く、人通りのまばらな交差点。

 冷たい風が吹き抜ける中、ヒコとカノンが急ぎ足で向かうと、そこにはすでにポータブルのノートPCを開き、せわしなくキーボードを叩いているタケの姿があった。

「おーい、ヒコ!」

 タケは声をかけながらも、ヒコの隣に立つ金髪の少女――カノンと目が合った瞬間、タイピングする手をピタリと止めた。タケはあからさまに戸惑いの表情を浮かべ、カノンとヒコを交互に見つめた。

「おいヒコ、その子は誰だ?」

「この子は、カノン。俺の……まぁ話は後だ!」

 今はセレナの行方を追うのが先決だ。ここで彼女の正体を細かく説明している時間はない。ヒコが焦りを含んだ声で遮ると、タケは「あ、あぁ……分かったよ」と頷き、すぐにPCの画面へと視線を戻した。

「話なら、歩きながらじゃなくてもコイツが教えてくれるぜ。俺を呼んだってことは、こういう『力』が必要だったんだろ?」

 タケは不敵に笑うと、天才的な指裁きで超高速のタイピングを再開した。画面には、一般人には理解できない無数の文字列や、暗号化されたデータが凄まじい速度で流れていく。

 彼は街中の防犯カメラのネットワークや、警察の通信ログに瞬時にバックドアを作り、独自の解析プログラムを走らせていた。タケのコンピュータの使い方は、文字通り天才的だった。

「ニュースの映像から、あの赤く光る目の少女のバイオメトリクス(身体特徴)を抽出して、このエリアの全監視カメラと照合した。……ビンゴだ。警察の包囲網をすり抜けて、商店街の裏手にある廃工場エリアに逃げ込んでる。今もカメラの死角を移動中だ」

 その画面に表示されたマップと移動ルートを見て、カノンがハッと息を呑んだ。

「セレナだわ……。間違いない、彼女の歩き方、そしてこの力は……」

「カノン……。タケ、その廃工場へはどう行けば一番早い!?」

 ヒコが身を乗り出すと、タケはすでに最短ルートのナビゲーションをスマートフォンの画面に転送していた。

「警察の無線も傍受してる。奴らが裏路地の陥没した足跡に気を取られてるうちに、俺たちのルートなら先回りできるぜ。案内する、ついて来い!」

 タケはPCを素早くリュックに滑り込ませると、地を蹴った。

 天才的なコンピュータの技術を武器に、タケは警察の目を完璧に欺き、ヒコとカノンをセレナが潜む闇の奥へと導いていく。

 その頃、街の外れにある、打ち捨てられた廃工場の片隅。

 セレナは冷たいコンクリートの床に座り、膝を抱えていた。

 周囲は赤錆びた鉄と油の不快な匂いに満ち、ただただ廃れた静寂だけが空間を支配している。

「どうして……? 私だけ……」

 ぽつりと漏らしたその声は、小さく、そして酷く震えていた。

 冷え切った記憶の中に浮かぶのは、かつて一緒にいたカノンの優しい微笑み。緑色の液体で満たされた培養槽の中で、ガラス越しに交わした、言葉なき温かな会話。

 孤独と闇しかなかったあの場所で、ただ一つの光だった存在。

 ――でも、彼女はもう、私を忘れて人間と笑っている。

「私を否定した人間たちを……絶対に、許すわけにはいかない……!」

 憎悪に身を焦がすセレナの瞳に、再び、悍ましくも哀しい赤い光が灯るのだった。


 第7章:支配

 ネオンが夜霧に滲む街。

 駅前の繁華街を静かに歩くセレナの姿は、まるで人間のふりをして地上に降り立った、残酷な神のようだった。

 その人間離れした美貌は、行き交う男たちの視線を一身に集める。すれ違う者のほとんどが思わず息を呑み、その場に足を止めた。欲望に突き動かされた一人の男が、下卑た笑みを浮かべて興味本位に声をかけてくる。

「よぉ、お姉さん。これから俺と遊ぼうぜ」

 セレナは表情一つ変えず、ゆっくりとその男に近づいた。

 そして、ひどく柔らかく微笑みながら、自身の右手をそっと男の手の上に重ねる。

 ――バキィッ!

 次の瞬間、生々しい骨折音が響いた。男の指が本来あり得ない逆方向へと折れ曲がり、凄絶な悲鳴とともにその場に崩れ落ちる。

「……目障りなハイエナが」

 男を見下ろすセレナの目には、もはや冷たい殺意すら宿っていた。

 しかし、夜が深まるにつれて、しつこく寄ってくる男たちは後を絶たなかった。

 キャバクラ帰りのホスト崩れ、泥酔したサラリーマン、駅前で客引きをしていた若者たち。彼女の放つ異質な存在感は、毒々しい夜の街にとって、あまりにも魅惑的で致命的な光だったのだ。

 けれど、怯えるどころか、セレナはふと口元に不敵な笑みを浮かべた。

「まぁ、確かに……利用価値くらいはありそうね」

 その夜、セレナは勝田台の入り組んだ路地裏にあるホテル街に姿を現した。

 選んだのは、ひときわ古びた外観のホテル。街道から一本入った闇にひっそりと佇む、時代から取り残されたような薄暗い場所だ。

 その建物の前で、品性のなさそうな一人の男が声をかけてきた。

「いいカラダしてるじゃないか。どうだい、俺と情熱的な夜を過ごさないかい?」

 セレナは小さく頷き、男の手を取って部屋へと誘った。

 だが、それは人間たちの言う肉欲の契約ではない。それは、絶対的な支配の始まりだった。

 室内に入るや否や、セレナは何のためらいもなく服を脱ぎ捨てた。

 しなやかに引き締まった白皙の肉体が、部屋の淡いピンクの照明の下で妖しく浮かび上がる。男の目が完全に釘付けになるのを見て、彼女は心の中で冷徹に嘲笑した。

「今夜、あなたは全てを捧げるの。わたしのために。いいわね?」

 男は返事もろくにできず、まるで熱病にかかった夢遊病者のようにベッドに倒れ込んだ。

 セレナは寝そべる男に静かに跨がると、艶やかな指先でその胸元をなぞる。熱に浮かされたように自分を求める男の瞳。だが、見下ろすセレナの瞳には、興奮も愛情も、ひとかけらの温もりすらなかった。あるのは、昏い意思だけ。

「気持ちいい? 嬉しい? ……じゃあ、もっと深く入れてあげる」

 耳元で囁くように言い放った瞬間、彼女の背中から漆黒の触手が音もなく這い出た。

 ベッドの軋む音に紛れて、それは男の首筋にしがみつき――先端から伸びた鋭い針のような突起が、彼の後頭部の肉を裂いて脳幹へと滑り込んだ。

「あ、が……っ!?」

 男の腰が大きく痙攣し、目が虚ろに上を向く。

 快楽の極みであるかのようなその絶頂の瞬間に、彼の精神の全てが、セレナの因子によって暴力的に塗り替えられていった。

「もうあなたは、あなたじゃないの。私の“家族”になるのよ」

 セレナはゆっくりと男の髪を撫でた。まるで、新しく手に入れた壊れ人形の表面を確かめるように、優しく、 そして確信に満ちた手つきで。

 その夜だけで、セレナは三人の男を完璧な“しもべ”へと作り変えた。

 キャバクラ帰りのホスト、パチンコで勝って上機嫌だった中年男、そして深夜のコンビニ帰りの大学生。

 彼らはセレナの命令を忠実に聞き、感情の消えた無表情な顔で彼女の後ろをついてくる。命令さえ下せば、自ら命を絶つことさえ厭わない、忠実すぎる操り人形たちだ。

「美貌も武器の一つ。そうでしょ?」

 ホテルの鏡に映る自分の姿を見つめながら、セレナはゆっくりと紅い唇を指でなぞった。その表情に浮かぶのは、女としての妖艶さではなく、全能感への陶酔。

「女の特権、フル活用しなくちゃね?」

 彼女の瞳には、かつて研究所でカノンと交わしたような穏やかさも優しさも、もう残っていなかった。快楽に溺れ、倫理観すら通じない――絶対の支配の力を手にした、新たなる女王。

 窓から夜の勝田台の街並みを見下ろしながら、セレナは静かに、愉しげに微笑んだ。

「悪くない気分だわ。まるで私が、この街の女王になったみたいじゃない……?」

 背後に直立する“家族”を静かに増やしながら、彼女は脳裏で次なる血の計画を思い描いていた。

「この世界に、私の居場所を作るのよ――誰にも、絶対に壊させはしないわ!」

 彼女の心の中に、世界への復讐と野望という名の、烈しい炎が灯っていた。


 第8章:運命の再会

 ここ数日、ヒコとカノンは、タケが解析したわずかなデータを頼りに、セレナの手がかりを追って勝田台の街を駆け回っていた。

 ネットの匿名の書き込み、街頭の監視カメラの死角、断片的な目撃情報。手に入る限りの情報を総ざらいし、時には一日中、ろくに食事も喉を通らないまま外を歩き続けた。

 それでも――何も掴めなかった。

 セレナはまるで夜の闇そのものに溶け込んでしまったかのように、その足跡を完全に消し去っていた。

 夕暮れ時、薄暗くなった公園のベンチにふたりは腰を下ろしていた。冷たい風が吹き抜け、枯れた木々の葉がかさかさと寂しげな音を立てて鳴っている。

「結局、まだ手がかりは掴めずか……」

 ぽつりと漏れたヒコの声には、肉体的な疲労だけでなく、じわじわと胸を蝕む焦燥が滲んでいた。

 カノンは無言で小さく頷いた。その美しい頬は心労から日に日にやつれ、紅かった唇は乾いて白くなっている。彼女の限界は、もうとうに超えていた。

「なぁ、カノン。一日中歩き回って、ろくに休んでもいないだろ? もう今日のところは……」

 ヒコの声には、どこまでも不器用な優しさと、張り裂けそうなほどの心配が混じっていた。カノンがどれほどの無理を重ねてきたか、ずっと一番近くで見てきたからこそ、これ以上彼女を摩耗させるわけにはいかなかった。

 カノンは小さく目を伏せ、消え入るような声で拒んだ。

「……でも、あと少しで、あの子に届くかもしれないから――」

「今日はもう十分さ。ゆっくり休もう。な?」

 遮るヒコの言葉に、カノンははっとして顔を上げた。見つめるヒコの瞳には、彼女を心から思いやる、真剣で真っ直ぐな光が宿っていた。

 数秒の沈黙の後、カノンは張り詰めていた糸を緩めるように、静かに、愛おしそうに笑った。

「……うん。そうだね。今日はここまでにする」

 ふたりは並んで、夜の帳が下りる街を帰路についた。どこか寂しげな夜風、歩くふたりの背中を追いかけるように冷たく吹いていた。

 やがて、カノンはふと歩みを止め、何かを深く考え込むようにして、ネオンが灯り始めた夜空を見上げた。

「セレナと私はね、同じく人間のエゴによって生み出されて、用が済んだら命を奪われそうになった。だから……あの子が人間を憎む気持ち、私には凄く分かるの。でも……私は……」

 悲痛な表情で言葉を濁すカノンに、ヒコが静かに問いかけた。

「なんで君は、人間に復讐しようとしないんだ?」

 カノンはゆっくりと顔をヒコに向け、愛おしいものを見るように目を細めて答えた。

「私も、最初はただの実験体だった。生まれた理由も、生きている意味もずっと分からなかった。それを知りたいと思うことさえ、あの冷たい部屋の中では許されなかったの。そして、一方的な理由で命を奪われそうになって……ただ、世界への絶望だけが残った。でも、ヒコが私を変えてくれた」

「俺が……?」

「うん。あなたよ。あなたが、私を人間に戻してくれたの」

 カノンは真っ直ぐにヒコを見つめ、溢れ出そうになる涙を堪えながら言葉を続けた。

「あなたが私にくれたもの。それは、“幸せ”という感情。もしあの日、ヒコが私を見つけて、その手を握ってくれなかったら……私もセレナと同じように、恐怖や憎しみに支配されて、街を血で染めていたと思う」

 ヒコはその言葉を、重い重い約束のように胸の奥で受け止め、黙ってカノンを見つめ返した。

「あなたは、私に“優しさ”を教えてくれた。ほんの僅かでも、その温もりが私を地獄から救ったんだ。だから私は……これからも、あなたや、他の人間たちと一緒に生きていきたい」

 その魂からの想いがこもった言葉に、ヒコの胸の奥が熱く震えた。彼は言葉に詰まりながらも、愛おしさと誓いを込めて、そっとカノンの細い肩に手を置いた。

「俺も、君と一緒に歩んでいきたい。何があっても」

 どこか穏やかで、そしてふたりの体温を分け合うような温かい夜風が、ふたりをそっと包み込んでいた。


 ふたりは静かに家へ帰り着き、外の冷たい風を遮るようにドアを閉めた。

 照明を落とした薄暗い寝室で、どちらからともなく寄り添い、吸い寄せられるようにベッドへと横たわった。窓の外からは勝田台の夜の微かなざわめきが聞こえるが、今のふたりにとっては、お互いの呼吸の音だけが世界のすべてだった。

 昼間の焦燥と、カノンが吐露したあまりにも哀しい過去。それをすべて包み込み、消し去るような沈黙の中で、ヒコはカノンの細い肩を引き寄せ、耳元でそっと囁いた。

「おいで、カノン」

 その低く温かい声に誘われるように、カノンはヒコの胸に顔を埋めた。ヒコの規則正しい鼓動が、彼女の張り詰めていた心をゆっくりと解きほぐしていく。カノンは潤んだ瞳でヒコを真っ直ぐに見つめ、自分のすべてを委ねるように切なく呟いた。

「ヒコ……私の全てを受け入れて。私の過去も、この身体のことも……全部」

 その言葉に応えるように、ふたりは身につけている衣類を一枚ずつ、慈しむように脱ぎ捨てていった。

 淡い月光が窓から差し込み、生まれたままの姿となったカノンの白皙の肌を優しく照らし出す。人間によって作られ、異形としての力を秘めたその身体。けれどヒコの目には、それが何よりも儚く、息を呑むほどに美しい少女の姿にしか映らなかった。

 ヒコはカノンの乾いた唇にそっと自身の唇を重ねた。触れ合う肌の熱が、互いの境界線を溶かしていく。

 重ねた唇を小さく離すと、ヒコは愛おしさを確かめるように大きな手を伸ばし、カノンの柔らかく小さく震える胸へとそっと添えた。手のひらから伝わる確かな鼓動と熱に、カノンは吐息を漏らし、背筋を小さく跳ねさせる。ヒコの手指は、その柔らかな膨らみを優しく包み込み、慈しむように撫で上げていった。

「……んっ……ヒコ……」

 カノンの身体から微かな熱が立ち上る。ヒコはもう片方の手を彼女の滑らかな腰へ滑らせ、そのまま柔らかい線の描く尻の膨らみへと回した。指先でキュッと優しく肉感を確かめるように抱き寄せると、ふたりの身体は隙間なくぴったりと密着した。

 肌と肌が強く擦れ合い、お互いの体温がさらに深く混ざり合っていく。カノンはヒコの背中に細い腕を回し、すがるようにその身体を強く抱きしめ返した。

 重ね合わされる熱い肌と肌。

 それは、ただの肉体の交わりではなかった。

「ヒコ……っ、温かい……」

 カノンの目から一筋の涙が溢れ、ヒコの首筋を濡らす。ヒコはその涙を指先で優しく拭い、さらに深くカノンを求め、何度も何度も口づけを交わして一夜を過ごした。夜風がカーテンを揺らす中、ふたりは夜が明けるのを拒むように、ただお互いの存在を確かめ合い、深く深く結ばれていった。

 翌朝。まだ陽が昇りきらない薄暗い時間、ヒコはスーツに身を包み、玄関の鏡の前に立っていた。ネクタイの結び目を何度も直しながら、カノンに対して申し訳なさそうに言葉を選ぶ。

「……カノン、ごめん。今日ばかりはどうしても仕事、休めそうにないんだ」

「大丈夫、気にしないで。お仕事、頑張ってね」

 カノンは健やかに微笑んだ。昨夜の温もりが残る心の奥底では、ヒコが隣にいないというだけで、底知れない不安と孤独が渦巻いていたが、それを表に出してヒコを困らせるようなことはしたくなかった。

「私ひとりでも、街を調べてみる。セレナを見つけてみせるから」

「くれぐれも無茶はしないでくれよ。何かあったら、何をおいてもすぐに連絡をくれ」

「分かった。いってらっしゃい、ヒコ」

 そう言って笑うカノンに、ヒコは少しだけほっとしたような顔を見せ、「行ってくる」と振り返りながら家を出ていった。それが、あまりにもあっけない日常の別れだった。

 ――その数時間後。

 ヒコは通勤途中の薄暗い裏路地で、背後に迫る異常な気配に気づく間もなく、何者かによって一撃で意識を刈り取られ、闇の中に連れ去られた。

 午後。

 カノンは繁華街の激しい雑踏の中で、ひとり佇んでいた。何度も同じ交差点を行き来し、縋るようにして『紅い瞳の少女』の影を追い続けていたが、どれだけ歩いてもセレナは見つからなかった。

 その時、カノンのスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。画面に表示された名前は『タケ』。不吉な予感を覚えながら通話ボタンを押すと、スピーカーからタケの切迫した声が飛び込んできた。

『おいカノン! 大変だ、ヒコが連れ去られた!!』

「え……!? タケ、それどういうこと!?」

『今、街の監視カメラのログを巡回させてたら、今朝の通勤ルートの裏路地で、ヒコが何者かに襲われて引きずり込まれる映像を見つけたんだ! 誘拐した奴らの目、完全に虚ろだった……間違いない、セレナの“しもべ”だ!』

「そんな、嘘……ヒコが……!」

 頭が真っ白になり、足元がぐらつく。昨夜、確かに自分を抱きしめてくれたあの温もりが、冷たい悪意に奪われた。その時、激しく動揺するカノンの脳髄の芯に、直接響くような微かなノイズが届いた。

(カノン……こっちに来なさい……)

 耳から聞こえる音ではない。間違いようもなかった。かつて培養槽の中で、ガラス越しに何度も脳内で交わした、あの懐かしいセレナの声だ。

(セレナ……! ヒコをどうしたの!? あなたは、どこにいるの!?)

 カノンが心の中で叫ぶと同時に、タケの声がスマートフォンの向こうで弾けた。

『おいカノン、奴らの足取りを追跡したぞ! 勝田台の郊外にある古い廃ビルだ! 今マップのデータを送る、俺もすぐに向かうから待ってろ!』

「ありがとう、タケ……! でも、私、先に行く!」

 カノンはスマートフォンを握りしめ、目を見開いた。絶望に沈みかけていた身体の奥底から、ヒコを救うための、人間の限界を超えた凄まじい力が湧き上がってくる。

「ヒコを……返して……!」

 彼女は弾かれたように雑踏を蹴り、走り出した。周囲の人間たちが風圧に驚いて振り返るのも構わず、タケから送られてきた座標、そして脳内に直接響くセレナの殺意の波長に従って疾走する。

 夕暮れ。空が血のような不気味な赤に染まる頃、カノンは郊外の深い木々に囲まれた廃ビルにたどり着いていた。かつては病院か、あるいは何らかの研究施設だったのだろう。今では窓ガラスのすべてが割れ、誰も寄りつかない広大な廃墟と化している。

 建物の内部は静まり返っていた。カノンは息を整えながら、促されるように地下へと続く暗い階段を下りていく。

 ひんやりとした空気が肌を刺す、薄暗い地下フロア。カノンは足音を忍ばせながら奥へ進み、錆びついた鉄扉を押し開けた。その先で、彼女はその悍ましくも決定的な光景を目にする。

 フロアの壁際に直立する、完全に生気を失い、洗脳された操り人形の男たち。

 部屋の中央、冷たいパイプ椅子に無残に縛り付けられ、ぐったりと頭を垂れているヒコ。

 ――そして、その椅子のすぐ真後ろに佇む、最愛の“姉妹”。

「……セレナ……?」

 カノンは、信じられないものを見るような目で、淡い光の中に立つ少女を見つめた。勝田台の夜を支配し、女王となったかつての親友。

「……本当に、あなたなの……?」

 声をかけられた少女は、ゆっくりと振り返った。その瞳は昏く、悍ましい赤色に染まっている。しかし、カノンに向ける口元だけは、あの培養槽の中にいた頃と同じ、どこか幼く懐かしい歪んだ微笑みを湛えていた。

「久しぶりね、カノン。ずっと、待っていたわ」

 あまりにも残酷な形で果たされた、運命の再会。カノンの胸には、久々の再会を喜ぶ余裕すら、ひとかけらも残されていなかった。


 第9章:望まぬ戦い

 カノンとセレナ。時を同じくして生まれた二人の運命が、今、再び残酷に交差しようとしていた。

「セレナ! 何故こんなことを!?」

 薄暗い地下フロアに響いたカノンの叫びは、引き裂かれそうな哀しみと、激しい怒りを孕んでいた。

 声をかけられたセレナは、縛り付けられたヒコの椅子の後ろから、ゆっくりとカノンへ視線を移す。

「それは……私が言うセリフよ、カノン。どうしてあなたは、人間なんかと仲良くしてるの? 私たちをただの実験体として否定し、用が済んだら処分しようとした、あの悍ましい人間たちと」

 セレナの声には、心の奥底に澱のように溜まった抑えきれない憎しみと、唯一無二の片割れに裏切られたような激しい怒りが込められていた。

 だが、それでもカノンは、昨夜ヒコがくれた温もりを胸に、力強く言い返す。

「私も、殺されかけた時は怖かった! 世界を憎んだわ! でもね、すべての人間が悪いわけじゃない! ヒこのように、優しくて、温かい人間だっているの!」

 セレナは細められたその紅い瞳をさらに冷たく歪め、ひとつ、乾いた笑いを漏らした。

「綺麗事ばかり……。人間たちはいつだって、自分が正しいと信じて疑わない。利己的で、臆病で、裏切りを恐れて先に他者を裏切る。わたしが洗脳したこの街の人間たちも、剥ぎ取ってみれば結局はみんな同じだった。だから――私は彼らを、私の思い通りに動く存在にしたの。汚い感情も自由も奪い、命じた通りにだけ動くしもべ……いいえ、“家族”よ」

「そんなの……家族なんかじゃない!」

 カノンは拳を固く握りしめ、声を震わせながら叫んだ。

 セレナは一瞬だけ悲しげに目を伏せたあと、感情の消えた顔をゆっくりと上げた。

「カノンなら、分かってくれると思ってたのに。私たちは一緒に、あの地獄の研究所から手を繋いで逃げた仲じゃない。……忘れたの?」

「忘れてなんかない! あの時、あなたの手がくれた温もりを、今でもずっと覚えている! だけど……今のあなたは、あの時のセレナじゃない。まったくの別人よ!」

 その言葉が引き金だった。セレナの表情が、凍りつくように冷たく硬直する。

「そう。なら仕方ないわね。あなたがそこまで私の全てを否定するというのなら――あなたの大切な“家族”を、私が奪ってあげる。その、ヒコという人間をね」

「やめて! セレナ!」

 カノンの制止の声も虚しく、セレナはヒコを連れ去るように、冷徹に背を向けて奥の闇へと去っていく。

 カノンがその後を追って駆け出そうとしたその瞬間、壁際に直立していたセレナの“家族”――洗脳された男たちが、無表情のまま一斉に彼女の前に立ちはだかった。その目は完全に虚ろで、もはや自我の片鱗も残されていない。

「邪魔よ……! 今すぐどいて!」

 男たちは応じない。それどころか、操り人形のような一糸乱れぬ動きで無言のままカノンに手を伸ばし、その身体を拘束しようと肉薄してくる。

「しつこい……!」

 奥へ消えていくセレナへの焦燥、それから、たった一人で自分を暗闇から救い出してくれた最愛の者を奪われた怒りが、カノンの細胞を激しく燃え上がらせた。

「ヒコは、私の家族なの……! 絶対に、誰にも渡さない!!」

 その瞬間、彼女の身体の中で眠っていた異形の因子が爆発的に覚醒した。

 みしり、と骨格が超人的な構造へと変形し、背中からは圧倒的なエネルギーを放つ光の羽根のような器官が剥き出しになる。細くしなやかだった指先は、あらゆる物質を両断する鋭利な光の刃へと変化していく。

 それは、人間の姿を捨て去った、エイリアン形態への完全なる変身だった。

「う、うわ……!?」「な、なんだこれは……」

 肉体の変貌が放つ圧倒的な威圧感と暴風に、洗脳されているはずの男たちが本能的な恐怖でたじろぐ。しかし、セレナの絶対的な命令に従い、彼らはすぐに機械的な動きを取り戻して一斉に襲いかかってきた。

 しかし――格が違いすぎた。

 カノンが腕を振るうと同時に、眩い光の刃が閃き、地下フロアの空気が爆音を立てて切り裂かれる。

 正面から突っ込んできた男たちはその衝撃波だけで一網打尽に吹き飛ばされ、激しく壁や床に叩きつけられて地に伏した。

 だが、カノンの光刃は男たちの急所を綺麗に避けていた。怒りに身を任せ、人間の限界を超えた力を振るいながらも、彼女は決して彼らの命を奪わない。致命傷にならぬよう、限界の加減で力を制御していた。人間と共に生きると誓ったカノンの奔流する力の中には、微かな、しかし絶対的な慈悲が宿っていた。

 静寂の中、カノンが荒い呼吸を整えようとしたその時、地下フロアの重い鉄扉が凄まじい音を立てて蹴破られた。

「カノンーーッ!!」

 飛び込んできたのは、肩を激しく上下させたタケだった。手には重厚なバールと、ハッキング用の端末が握られている。

 変わり果てた異形の姿となったカノンを見つめ、タケは一瞬だけ驚愕に目を見開いた。だが、その瞳に宿る怯えは、すぐに親友たちを救いたいという強い覚悟にかき消される。

「遅くなって悪りぃ! 上の連中は俺がデバイスのジャミングで無力化してきた! ヒコはどこだ!?」

「タケ……! セレナが、ヒコを連れて奥へ……!」

 変身の反動で一瞬よろめいたカノンを、タケがしっかりと支える。彼にはカノンのような超人的な力はない。だが、その佇まいには仲間を決して見捨てないという強い意志が満ちていた。

「ここから先はスピード勝負だ。セレナの洗脳電波の周波数は、さっきの戦闘データで完全に解析した。奴の“しもべ”どもは、俺がこの端末とジャミングで足止めする!」

 タケは素早く端末を操作し、地下フロア全体に特殊なノイズを走らせた。壁の向こうで、新たに迫りつつあった不気味な足音が一斉に狂い、停止する。

 タケは重厚なバールを握り直し、迫り来る闇に向かって不敵に笑った。

「後ろは俺に任せろ。――お前はセレナを追うんだ! 俺も後から行く!」

「……ありがとう、タケ!」

 相棒の力強い言葉に、カノンの背中の光羽が一段と眩しく輝きを増す。

 タケが背後を完全に固める中、カノンは再び弾かれたように、セレナとヒコが消えた闇の深淵へと突き進んでいった。

「待ってて、ヒコ。必ず、今すぐ助けてみせるから――」

 その紅く輝く瞳は、大切な家族を取り戻すため、真っ直ぐに闇の奥を見すえていた。


 最終章:最終決戦

 勝田台の廃ビルからヒコを連れ去ったセレナが、次なる潜伏先に選んだのは、千葉の広大な臨海埋立地に誕生したばかりの超巨大テーマパーク――『カニバーサル・エピック・ジャパン(KEJ)』だった。平日の昼間、多くの観光客や家族連れで大賑わいを見せるその場所は、彼女にとって、人間の感情を奪い“家族”を増やすための、あまりにも格好の狩場だった。

「さあ……私の本当の“家族”になりなさい」

 セレナの背中から伸びた不気味な触手が、壮大なモニュメントが並ぶ中央広場で、静かに、しかし確実に人々の首筋へと伸びていく。鋭い毒針が肌を穿った瞬間、神経を即座に麻痺させる特殊な液体が流れ込み、標的の自由な意志を瞬時に奪い去った。

「や、やめろ……!」「お、お願い……命だけは……キャァァァ!!」

 男も女も関係なく、悲鳴は一瞬で途絶える。次々とその瞳から理性を失い、完全に自我を消された操り人形のようにゾンビのごとく徘徊し始める人々。神話の戦場を思わせるエピカルなBGMが響き渡る中、狂気のリゾートと化した光景を見下ろし、セレナは満足そうに口角を吊り上げた。

「見てごらんなさい……これが私の、新しい“家族”よ」

 その時、アトラクションの影に転がされ、気絶していたヒコが、激しい頭痛と共に目を覚ました。

「これは……一体、何が……!?」

「ようやくお目覚めのようね? さあ、見て。この素晴らしい瞬間を。私の“家族”が、この国を埋め尽くしていくわ」

 変わり果てたKEJの惨状に、ヒコは縛られた身体を震わせ、怒りを込めて叫んだ。

「こんなの、家族なんかじゃない……! ただの、奴隷だ!」

 ヒコの悲痛な叫びに、セレナの表情が一瞬だけ、哀しげに曇った。だが、その瞳はすぐに冷徹な紅い光を取り戻す。

「あなたもカノンと同じ、愚かな考え方をするのね」

 セレナがゆっくりとヒコへ歩み寄る。その細い指先は、すでに鋭く変形した毒針のような爪へと姿を変えていた。

「それなら……あなたも今すぐ、私の“家族”にしてあげる」

 爪がヒコの首筋に突き立てられようとした、その瞬間――。

「やめて! ヒコに手を出さないで!!」

 凄まじい風圧と共に、カノンがパークの中央広場へと飛び込んできた。その背後には、勝田台から超特急で車を飛ばし、遠隔ハッキングデバイスを構えたタケの姿もあった。

「追いついたぞカノン! 周囲の洗脳波は俺がジャミングで妨害する!」

 タケの心強い叫びを背に、カノンは鋭い戦闘態勢をとる。

「往生際の悪い子たちね。――やれ、“家族”たち!」

 セレナの冷酷な命令が一閃し、周囲にいた数十人の洗脳された人々が一斉にカノンへと襲いかかる。カノンは戦いたくないという悲痛な想いを押し殺し、背中から触手を解き放って応戦せざるを得なかった。

 触手と触手がぶつかり合い、空気が激しく裂ける。牙を剥いて襲いかかる一般人たちに対し、カノンは彼らを決して傷つけないよう、最小限の衝撃波で確実に気絶させ、無力化していった。

「この人たちの目……あたたかさが、何もない……」

 洗脳された人々の瞳には、かつて自分を救ってくれたヒコのような温もりは一切なく、ただセレナの傲慢な狂気だけが宿っていた。それがカノンの胸を酷く痛めつける。

 カノンが地上の乱戦に囚われている隙に、セレナはヒコを連れ、東京湾を一望するパーク最大の超巨大ジェットコースターの最上部、遥か高空の鉄骨の上へと上りつめていた。吹き荒れる強い潮風の中、足元は遮るものもなく、生身の人間なら一歩で命を落とす高さだった。

「いい眺めねぇ、ヒコ。カニバーサル・エピックのすべてが見下ろせるわ」

「おい、こんな所……落ちたら死ぬじゃないか!」

「ええ、そのつもりよ? あなたは私に逆らい、カノンを惑わせたのだから。それ相応の罰を受けなきゃ」

 セレナの指先がヒコの胸元を捉え、奈落の底へと突き落とそうとする。

「うわぁぁぁ、助けてくれ! カノン!!」

 遥か上空から響いた最愛の男の悲鳴に、地上で男たちを弾き飛ばしたカノンが跳ねるように顔を上げた。

「ヒコ!!」

 カノンは最後の群衆を飛び越え、人間離れした跳躍力で巨大コースターの垂直なレールを駆け上がり始めた。

「セレナ! よくもヒコを……!!」

 怒りに満ちたカノンの叫びを見下ろし、セレナは不敵に薄笑う。

「その顔が見たかったのよ! 私たちはエイリアンの遺伝子を持つ、人間よりも遥かに上の存在。神として崇められるべきなのよ!」

「違う! そんな考え方は絶対に間違ってる!」

 言葉と同時に、カノンはレールの頂上に到達し、残っていたセレナの直属のしもべたちを次々と触手で弾き飛ばした。タケの遠隔ジャミングの過負荷も手伝い、男たちの頭から洗脳の霧が晴れていく。

「よし……これで、あとはセレナだけ……!」

 安堵の声を漏らしたヒコに向けて、セレナが凍りつくような冷たい笑みを浮かべた。

「黙れ、虫ケラが」

 刹那、セレナの鋭い牙がヒコの首筋に深く食い込んだ。そこから容赦なく流れ込む、致死量の強烈な神経毒。

「ガハッ……、ゴホッ……あ、ガ……!」

 ヒコは激しく咳き込み、肺の空気を奪われて呼吸すらままならなくなった。そのままレールの床へ崩れ落ちる。

「ヒコアァァァーーーッ!!」

 カノンの絶叫が、臨海のパーク一帯に反響するように響き渡った。

 引き裂かれた悲しみと激しい怒りが交錯し、理性をギリギリで保ったまま、彼女の肉体が「エイリアン形態」へと完全なる変貌を遂げる。

 硬質化した漆黒の外骨格が全身を覆い、背中の触手は巨大な盾のように波打ち、腕からはあらゆるものを両断する鎌状の刃が生え変わる。完璧な戦闘体勢。それでも、その硬質な異形の仮面の下にある瞳からは、大粒の涙が溢れていた。

「セレナ……あなたを、絶対に許さない!!」

「ほう? 許してなんて、最初から頼んでないけど?」

 セレナはニヒルな笑みを浮かべ、身体を大きくのけぞらせた。

 次の瞬間、彼女の肉体もまた、凄まじい音を立てて変貌していく。皮膚が裂け、鋭い牙が伸長し、無数の触手が背中から狂ったようにうねり出す。腕からは悍ましい毒針が生え、口元から好戦的な唾液を滴らせる、完全な戦闘特化の異形へと姿を変えた。

 セレナは地を滑るような神速のスピードでカノンに肉薄し、触手を強烈な鞭のように振るった。カノンは腕の刃と触手で防御を固め、最小限の動きでその猛攻をいなしながら後方へと跳躍する。

「避けるだけで、この私を倒せるとでも思っているの!?」

 セレナの背中がパキパキと不気味な音を立てて開き、内部から毒を帯びた無数の棘が一斉に発射された。空を埋め尽くすような速度で、雨あられと針がカノンに襲いかかる。

 だが、カノンは冷静だった。飛来する棘の弾道を完全に見切り、そのうちの数本を自身の触手で巧みに受け止めると、凄まじい遠心力を乗せて逆方向へと投げ返した。

「お返し!!」

 バシュッ!

 投擲武器となった棘は空を切り裂き、セレナの肩を深くかすめて突き刺さった。自らの毒が回り、セレナの肌がわずかに紫へと変色する。

「やってくれるじゃないの……。だけど!」

 セレナから笑みが消えた。瞳の奥に、本物の殺意と怒りが宿る。

「勝った気でいるんじゃないわよ!!」

 次の瞬間、セレナが両腕を大きく広げると、周囲の気圧が激変した。

 局地的な竜巻が発生し、セレナが操る暴風が遊園地全体を巻き込んで暴れ始める。眼下のプールや人工池から大量の水が霧となって舞い上がり、ジェットコースターの頑強な鋼鉄のレールすら、紙切れのように引き裂いて宙へと吹き飛ばす。ねじ切れる鉄骨、崩落する残骸。カニバーサル・エピック・ジャパンの華やかな景色は、一瞬にして地獄の戦場と化した。

 だが、カノンは揺るがなかった。激しい暴風の中でそっと目を閉じ、音と気流の変化の「芯」を読み取る。風の渦がほんの一瞬見せた切れ目、その刹那の隙を見極め――背中の触手を槍のように一直線に突き出した。

 ズシャッ!!

 鋭い一撃が、セレナの脇腹を深く引き裂いた。緑色の体液が飛び散る中、カノンはあえて冷徹な表情を崩さずに言い放った。

「イキがっておいて、その程度? 案外、大したことないわね」

 セレナを精神的に揺さぶるための、痛烈な煽り。狙い通り、セレナは初めて激しい苦悶の声を漏らし、顔を歪めた。

「ッ……クソ、ほんとムカつくわ……! あんたのそういう、人間に感化されたところが一番気に入らないのよ!!」

 激戦の末、脇腹を破られたセレナの動きが目に見えて鈍っていく。カノンの勝利が、誰もが目前と思ったその時――セレナの紅い瞳に、最悪の執念が灯った。

「そんなに人間が愛おしい!? なら、一生後悔しなさい!!」

 セレナは最後の力を振り絞り、まだタケのジャミングが届いていない遥か下の地上にいた、怯える観光客に向けて背中の毒針の照準を合わせた。今放たれれば、あの距離の人間は確実に即死する。

「やめて!!」

 カノンは最後の希望を込め、涙ながらに叫んだ。だが、セレナは狂気に満ちた歪んだ笑みを浮かべる。

「お断りよ!!」

 もう、言葉は届かない。人間への憎悪に完全に染まりきった姉妹を止める術は、残されていなかった。

 カノンは溢れる涙を振り払い、閃光のごとき速度でセレナの懐へと踏み込んだ。核心を突くように、カノンは無意識にその力をセーブしながら、暴走を止めるためだけに渾身の力を込めて、セレナの細い首を両腕で抱え込んだ。

 ――鈍い音が、上空に響いた。

 セレナの身体から一瞬にして力が抜け、糸の切れた人形のように、ゆっくりとレールの床へ崩れ落ちていく。異形化が解け、元の少女の姿に戻っていくセレナは、最後に小さく息を漏らし、そのまま静かに瞳を閉じた。

「はぁ……はぁ……う、うわぁぁぁぁぁぁ!!」

 あまりにも大きすぎる代償に、カノンはその場に膝をつき、まるで引き裂かれた赤子のように大声を上げて泣き崩れた。その時――。

「カノン……?」

 吹き抜ける冷たい潮風の向こうから、弱々しくも懐かしい声が耳に届いた。

 恐る恐る顔を上げると、そこには、首筋の傷を押さえながらも、ふらつきながら立ち上がろうとしているヒコの姿があった。

「ヒコ……? 嘘……生きて、るの……?」

「……前に、君が僕を助けてくれた時があっただろ……? あの時、君が使ってくれた『治癒能力』の細胞が、僕の体の中にずっと残っていたみたいなんだ……。そのおかげで、免疫が作られてたんだよ……」

 ヒコは青白い顔で苦笑いしながら、ふらつく足取りでカノンへと近づいていく。

「うわぁぁぁぁぁぁぁん!!」

 今度は安堵と喜びの涙だった。人間の姿へと戻ったカノンは、抑えきれない感情のままにヒコの胸へと飛び込み、再び子供のように泣きじゃくった。

 その時、夕暮れの静寂を切り裂くように、無機質な軍靴の音がレールの下から一斉に響き渡った。

「カノン発見! これより捕獲作戦に移行する!」

 突如として現れたのは、白い防護服に身を包んだ「エキシトリアス研究所」の研究員たちと、重装備の私設警備員の一団だった。彼らは手慣れた動きで、完全に無防備になっていたカノンを取り囲む。

 警備員の一人が、容赦なく特殊な高圧電流ロッドをカノンの背中に突き立てた。

 バチバチバチッ!!!

「あ、ガ……ッ……!」

 凄まじい電気ショックが身体を駆け抜け、カノンはその場に崩れ落ちて意識を失った。

「おい、やめろ! 彼女に手を出すな!!」

 ヒコがボロボロの身体を奮い立たせ、カノンを庇うように前に立ちはだかる。タケもまた、手にした重厚なバールを構え、研究員たちを鋭く睨みつけた。

「民間人の敷地で何勝手な真似してやがる! その子を今すぐ解放しろ!」

 防護服の奥から、リーダー格のチーフ研究員が冷酷な声を響かせた。

「民間人風情が口を出すな。――こいつは、我が研究所の所有物だ」

「待て! そっちの個体も回収しろ。貴重な遺伝子サンプルだ」

 別の研究員が、力なく横たわるセレナの遺体(と彼らが思っている身体)に近づき、無機質な回収袋を広げようとする。ヒコがその前に立ちはだかり、鋭い銃口を向けられながらも、まっすぐにチーフを睨みつけた。

「待てよ……! 死んでまでアイツをモルモットにするつもりか! カノンはモノじゃない! 心を持った、僕たちの家族だ!」

 タケもまた、ハッキングデバイスの画面をチーフに見せつけながら、冷徹なトーンで言葉を重ねる。

「おい、エキシトリアスの偉い先生方。あんたらのバックにいる出資者や国の上層部が、この『カニバーサル・エピック・ジャパン』での大惨事をどう揉み消すか、今必死に頭を抱えてるのが見えないのか? もしここで、あんたらが『ヒーロー』である彼女を無理やり連れ去り、さらに遺体まで解剖したなんてデータが表に流出してみろ」

 タケは不敵な笑みを浮かべ、デバイスのキーを叩く。

「その瞬間に、あんたらの非人道的な研究のすべてが、俺の手で全世界のネットワークに同時暴露される。エキシトリアス研究所の名前は、明日には世界一の戦犯として歴史に刻まれるぞ。そうなれば、所有物もサンプルも、一瞬ですべて水の泡だ!」

「カノンは僕たちが責任を持って管理する!」とヒコが言葉を継ぐ。「彼女は人間として生きることを選んだんだ。セレナの遺体は、僕たちが人間のやり方で弔う。あんたたちが今優先すべきなのは、組織の破滅を回避することのはずだ!」

 二人の命をかけた説得、そしてタケの完璧なハッキング工作を前に、チーフ研究員は忌々しそうに銃口を下げさせた。

「……いいだろう。ただし、その個体が少しでも人間に危害を加える兆候を見せれば、その時は手段を選ばず、完全に『消去』する」

 研究員と警備員たちはカノンから手を離し、セレナの身体にも触れることなく、夕闇に紛れるようにして足早に引き上げていった。

 奴らの足音が完全に遠ざかったあと、ヒコが恐る恐るセレナの胸元に手を当てた。そこからは、消え入りそうなほどに弱々しく、しかし確実に、トク、トク……と一定の脈動が刻まれていた。

「タ、タケ! セレナが……セレナの心臓が、まだ動いてる!」

「何だって!? カノンの奴、最後の瞬間、無意識に力をセーブしてたんだな……!」

 瀕死の状態ではあるものの、セレナの生命の灯火はまだ消えてはいなかった。タケは自分の上着を脱いでセレナの身体にそっと掛けた。

「僕たちの場所へ連れて帰ろう。今度は僕たちが、この二人を守る番だ」

 数日後。エキシトリアス研究所の極秘会議室。

 モニターには、タケが工作したカノンとセレナの「バイタル停止」を示す偽造カルテが映し出されていた。

「――以上が現地での最終報告です。検体の損傷は激しく、再生の兆候は認められません」

 チーフ研究員の報告に出資者たちは重い溜息をつき、これ以上の情報漏洩リスクを恐れて、冷徹な決定を下した。

『カノンとセレナは死亡。これにより、当プロジェクトの研究はすべて打ち切りとする』

 少女たちを縛り付け、狂わせた悪魔の計画は、完全に歴史の闇へと葬り去られた。

 数週間後。千葉の静かな隠れ家。

 セレナの怪我もようやく癒え、リビングには少しぎこちないけれど確かな平穏が流れていた。窓の外に広がる千葉の青い空を眺めていたセレナが、ふと、隣に座るカノンに声を落とした。

「なぜ私を?」

 カノンは照れくさそうに、でも心の底から愛おしそうに微笑んだ。

「だって、セレナは私の大切な姉妹だから」

「……ふん。礼なんて言わないわよ」

 セレナはプイッとそっぽを向いたけれど、その耳の端はほんのりと赤くなっていた。

 お茶を運びながら、ヒコが優しく問いかける。

「で、これからどうするの?」

「どこか、隠れて暮らすわ……。研究所の目は誤魔化せても、私たちは世界に居場所がないもの」

 寂しげにつぶやくセレナ。その時、ソファで雑誌を読んでいたタケが呆れたようにため息をつきながら口を挟んだ。

「あのさ、また今回みたいに暴れたらたまったもんじゃねぇし、俺の家にこいよ?」

「何よ、アンタ偉そうに?」

 セレナが睨みつけると、タケはニカッと不敵な笑みを浮かべ、人差し指を突きつける。

「アンタじゃない! タケと呼べ」

「っ……!」

 言い返せずに口を尖らせるセレナを見て、カノンとヒコは同時に吹き出した。

「ははは、そんじゃあ俺たちも帰ろうか」

 タケが頭の後ろで両手を組みながら笑う。

「そうだね」

 ヒコも優しく微笑み、カノンとセレナの顔を見つめた。

 完


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