第9話「結界の綻びと黒い影」
神殿の裏庭に咲く花々は、ルカがオメガの熱を乗り越えてから、以前にも増して瑞々しい色彩を放つようになっていた。
柔らかな薄紅色の花弁が、風に揺れるたびに甘い香りを放ち、庭園全体が生命の喜びに満ちあふれている。ルカの足元には、透き通るような光の粒をまとった精霊たちが集まり、楽しげに明滅を繰り返していた。彼らはルカの指先に触れ、かすかな鈴の音のような響きを残しては、また空へと舞い上がっていく。
ルカはしゃがみ込み、土の匂いと草花の青臭さを胸いっぱいに吸い込んだ。かつては冷たい泥の匂いしか知らなかった肺に、今は温かく澄んだ空気が満ちている。レオンの深い愛情に包まれ、ルカの心に巣食っていた恐怖の残滓は、少しずつ春の雪のように溶け去ろうとしていた。
『僕の居場所は、ここなんだ』
ルカは自然と唇をほころばせ、精霊の光を手のひらでそっと受け止めた。その光は温かく、ルカの指先を優しく照らしている。背後からは、大きな木陰で休む白銀の狼の穏やかな寝息が聞こえていた。
しかし、平穏な時間は唐突に終わりを告げた。風の向きが、不自然に変わったのだ。
今まで春のような暖かさを運んでいた風に、突然、じめじめとした冷たい湿気が混じり始めた。腐葉土のすえた臭いと、古い鉄の錆びたような嫌な匂いが、ルカの鼻腔を鋭く突く。
周囲で踊っていた精霊たちが、一斉に光を失い、怯えたように草葉の陰へと姿を消した。色鮮やかだった花々も、見えない重圧に押しつぶされるように、しゅんと首を垂れていく。
ルカは慌てて立ち上がり、風の吹いてきた方向へと視線を向けた。雲海の彼方、普段は真っ白な霧に包まれているはずの神殿の入り口付近に、黒い靄のようなものが立ち込めている。そこから、ざわざわという不規則で粗野な足音が聞こえてきた。
「なんだ、この場所は……本当に空の上なのか?」
下品な声が響く。
「村長の言った通りだ! あの役立たずのオメガが、こんな宝の山に隠れていやがった!」
風に乗って届いたその声に、ルカの心臓が早鐘のように激しく打ち始めた。全身の血が凍りつき、指先がひどく冷たくなっていく。
間違いない。ルカを雪の森の祭壇に縛り付け、生贄として見捨てた村の人間たちの声だった。
ルカは後ずさり、無意識のうちに両腕で自分の体をきつく抱きしめた。胃の奥が絞り上げられるように痛む。彼らの怒声、嘲笑、そして石を投げつけられた痛みが、生々しい感覚とともに脳裏に蘇ってきた。
『どうして……どうして、彼らがここに』
浮遊島は、下界の人間には決して足を踏み入れることのできない聖域のはずだった。だが、オメガの熱をレオンがその強大なアルファの力で鎮めた夜、二人の間を循環した膨大な魔力の波が、島の周囲を覆う結界に一時的な綻びを生じさせてしまったのだ。その綻びによって地上と島を繋ぐ幻の道が開いてしまい、異常を嗅ぎつけた村人たちが貪欲な好奇心と欲望に駆られて入り込んできたのだった。
木陰で眠っていた白銀の狼が、異変を察知してゆっくりと身を起こす。その目はすでに黄金色の鋭い光を放ち、侵入者たちの方向を冷徹に見据えていた。




