第8話「夜明けを待つ抱擁」
部屋に飛び込んできたレオンは、甘い香りが充満する室内の惨状と、隅で丸まって震えるルカの姿を瞬時に見極めた。
人間の姿をとったレオンの顔には、かつてないほどの切迫した表情が浮かんでいる。彼が大きな歩幅で近づいてくるのを見て、ルカは恐怖のあまり悲鳴のような声を上げた。
「来ないで!」
その拒絶の声に、レオンの足がピタリと止まる。
「僕に近づかないでください……! 汚いから、嫌な匂いがするから……っ。お願いだから、僕を捨てないで……!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を両手で覆い、ルカは子どものように泣きじゃくった。過去の記憶と現在の熱が混ざり合い、もはや自分がどこにいるのかさえ分からなくなっていた。
冷たい水が降ってくるのを覚悟して、ルカは身をすくめる。しかし、レオンは怒鳴ることも、軽蔑の視線を向けることもなかった。
レオンは静かに歩み寄ると、ルカの目の前の床にゆっくりとひざまずいた。見上げるほどの長身を小さく折りたたみ、ルカよりも視線を下にする。決して威圧感を与えないように、両手は膝の上に静かに置かれていた。
「ルカ、俺を見てくれ」
低く、どこまでも穏やかな声だった。ルカが恐る恐る指の隙間から顔を覗かせると、レオンの黄金色の瞳には、ただ深い慈愛だけが満ちていた。
「君は汚くなどない。君の香りは、俺の魂を慰める世界で一番美しい香りだ」
その言葉とともに、レオンの体から圧倒的なアルファの香りが放たれた。新緑の木漏れ日のような、深く清らかな香りが、ルカの甘ったるい香りを優しく包み込み、中和していく。
アルファの香りに当てられ、ルカの体の中で暴れ狂っていた熱が、嘘のように静まり始めた。苦しかった呼吸が少しずつ整い、強張っていた筋肉から力が抜けていく。
「誰も君を冷たい水に入れない。誰も君を暗闇に閉じ込めない。俺がここにいる」
レオンはそうつぶやきながら、ルカを覆っていた両手をそっとほどき、自分の大きな手で包み込んだ。そのまま、ひび割れた宝石を扱うような慎重さで、ルカの体をゆっくりと引き寄せる。
ルカの額が、レオンの広い胸板にこつんとぶつかった。衣服越しに伝わってくる体温は、村の冷たい納屋とは正反対の、命を温める絶対的な熱だった。
レオンの太い腕がルカの背中を包み込み、優しく、一定のリズムで撫で下ろす。トントン、という心臓の鼓動が耳元で響き、それがルカに強烈な安心感を与えた。
「レオン……っ、レオン……」
ルカはレオンの胸に顔を埋め、服の生地を強く握りしめた。もう恐怖の涙ではなかった。張り詰めていた心が限界を迎え、安堵の涙となってせきを切ったようにあふれ出したのだ。
オメガの熱は、本来ならば狂おしいほどの衝動を伴うものだ。しかし、運命の番であるレオンの香りと深い愛情に包まれたルカの熱は、暴力的な欲求へと変わることはなかった。ただ、互いの魂の形を確かめ合うように、静かに、そしてゆっくりと溶け合っていく。
レオンはルカが泣き止むまで、決して腕を緩めなかった。窓の外の空が白み始め、夜明けの光が部屋を薄青く照らす頃。ルカはレオンの温かい腕の中で、これまでにないほど深い、安らかな眠りへと落ちていった。




