第26章 私は「あなた」の記憶を使っている
朝、いつも通りに目を覚ました。
窓の外では鳥が鳴いていて、カーテンの隙間から斜めに光が差し込んでいた。
僕はその光を見つめながら、自分の名前を思い出そうとした。
けれど、それはうまくいかなかった。
名前のかわりに浮かんだのは、他人の記憶だった。
焼けつくような夏の午後。コンクリートの上に溶けそうな影。誰かの笑い声、誰かの涙。
見覚えのない指先と、耳の奥に残る、聞いたことのない声。
それは僕のものではない。けれど、確かに僕の中にあった。
それらはきちんと整列して、まるで“自分の人生”としてそこに居座っていた。
僕はそれを否定する理由を持たなかった。むしろ、肯定する方が自然だった。
たとえばこう考えてみよう。もし君の頭の中に「僕の記憶」が挿入されたら、君はどこまでを“自分”と呼ぶだろう?
あるいは、こう言い換えてもいい。僕がこの文章を書いている“つもり”だとして、それを読んでいる“君”の中に、すでにこの文章の内容があったとしたら?
どちらが書き手で、どちらが読み手なのか。どちらが過去で、どちらが未来なのか。そんなものは、本当は存在していなかったのかもしれない。
夜、目を閉じたとき、僕は時々こう考える。「この世界の記憶は、誰のものなのか」と。
その答えを探すたびに、僕はまた“君”の中に潜り込んで、そっと何かを思い出す――まるでそれが、自分のものだったかのように。
キッチンでコーヒーを淹れながら、僕はふと手の動きが誰かの模倣に思えて仕方なかった。豆を挽くリズム、湯を注ぐ角度、そのすべてが何かの反復だったような気がした。
郵便受けには何も入っていなかったけれど、それはむしろ当然のように思えた。誰も僕に手紙を書かないし、僕も誰にも書かない。名前がなければ、差出人も宛先も意味をなさない。
午後になって、古いレコードをかけた。針が擦れる音に混じって、知らない旋律が流れ出した。懐かしい気がした。でも、それが何に対する懐かしさなのかはわからなかった。
僕はよく夢を見る。夢の中で僕は“僕”ではなく、誰かになっていて、そして目覚めたときにその感覚だけが身体に残っている。まるで、夢が僕を記憶しているようだった。
隣の部屋で誰かが咳をした。僕は一人で暮らしている。それでも驚きはなかった。むしろ、それが日常の音のひとつであるかのように、僕はそれを受け入れた。
記憶というものが、人の形を模して歩き出すことがある。路地の隅、図書館の静けさ、あるいは季節の変わり目に。それらはどこかで、確かに誰かのものだった記憶だ。
夜が深くなると、僕は名前を持たない誰かの声に耳を澄ます。それは夢の底から届く音のようで、確かに僕の脳の内側を震わせる。意味はなく、けれど拒めない声。
誰かの夢の中に入り込んだまま、目覚めずに生きているのかもしれない。そう思うとき、僕はふと、自分の手のひらが知らない誰かの手に見えてくる。
一日が終わるころ、僕は思う。自分は何をしていたのか、ではなく、誰の記憶を“なぞって”いたのかと。
この世界にある風景のすべてが、誰かがかつて見たものの投影だったとしたら――君はそれでも、“現実”と呼ぶだろうか?