第5章 わたし、という幻視
わたしとは、何か。
言葉としての“わたし”は、文章の中にしか存在しない。
「わたしはここにいる」と言ったとき、
その“わたし”は、誰のことだろうか。
いま、あなたが読んでいるこの“わたし”は、
わたしの“わたし”ではなく、あなたの“わたし”でもない。
それはただ、この頁に印字された黒い文字だ。
では、“ほんとうの”わたしとは何か?
――答えは、存在しない。
記憶は曖昧で、過去は編集され、未来には名前がない。
心とは脳の電気信号であり、
身体とは代謝しつづける肉体の総体であり、
そのどれもが、たった今、変化している。
思考する“わたし”と、
思考された“わたし”のあいだには、
必ずひとつの誤差がある。
たとえば、
「わたしは寂しい」と思う。
でもその“思い”は、
「寂しいと感じている自分を意識した自分」によって観察されている。
ならば、ほんとうに寂しいのは、誰なのか?
感情は、所有できない。
名前は、指し示すだけで、その実体ではない。
“わたし”という語は常に、指差された何かであり、
それ自体が“わたし”であったことなど、一度もない。
自分自身の内奥に、階段を下りていく。
どこまでも、どこまでも。
思考の螺旋の奥へ。
だが、辿りつくのはいつも、空の部屋。
誰もいない。
椅子もない。
ただ白い、無音の部屋。
そこにいるはずの“わたし”は、いつも、不在だ。
だから、こう言うしかない。
**「わたしは、わたしではない」**と。
鏡に映った顔を、見ていたことがある。
あれは、わたしだろうか?
目を閉じたとき、その像は失われる。
光がなければ、そこに“わたし”などいない。
皮膚も、声も、名前も、ぜんぶ剥がした先に、
残るものがあるとすれば――
それは、何かに成ろうとする“意志”だけだ。
わたしになろうとする。
けれど、なりきれない。
わたしを演じる。
けれど、どこかで噛み合わない。
もしかすると、“わたし”というのは、
一生をかけて書き続ける虚構の主人公なのかもしれない。
だとすれば、
この物語の中で“わたし”が語るすべての一人称は――
あなたの幻覚であり、
そして、あなた自身なのだろう。
どうか忘れないでほしい。
“わたし”とは、あなたが“読む”という行為の中にだけ、存在する。
つまり、
わたしは、あなたが読むあいだだけ、生きている。
頁を閉じたとき、
“わたし”は、また不在になる。
だが、それでいい。
不在であることこそが、
この“わたし”という存在の唯一の証明なのだから。




