第20章 記憶が正しいなら、おかしいのは世界だ
「で、つまり……君は“昨日、僕と会った”って言ってるわけ?」
「ええ。駅前のカフェで。テラス席でアイスティー飲んでたじゃないですか。私はホットココア」
「悪いけど、昨日は一日中、家で原稿書いてたよ。見せようか? ほら、執筆ログも、GPSの記録も」
「でも、私はあなたの隣で笑ってた記憶があるんです」
「ふむ。……それが事実なら、ちょっとした問題だな」
男は眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、書類をパラリとめくる。
女の記録はどこにもない。顔写真も、フルネームも、住所も。
彼女は“ここにいる”というのに、証明する手段が何もない。
「名前は?」
「忘れました」
「……え、今?」
「今というか……最初から。“自分の名前”って、なんだっけって」
「都合が良すぎるな、それ」
「それ、よく言われます。でも、覚えてないものは覚えてないので」
男は机の上のペンを一本手に取って、何かを書こうとしたが、
ふと手を止めた。そういえば彼女は、“何度も”ここに来ている気がする。
名前を名乗ったことも、雑談を交わしたこともあったはずだ。
でも、記録がない。
手帳にも、スケジュールにも、記録媒体にも。
まるで彼女の存在だけが、“この世界にとって都合が悪い”かのように。
「じゃあ、僕は昨日誰と話してたんだ?」
「私です」
「その“私”が存在していないって、どうして証明できる?」
「“していない”ことは証明できません。していたことなら……ほら、あなたの記憶が証拠です」
「でも、僕の記憶が間違ってたら?」
「……逆に聞きますけど。あなたの記憶が正しいとしたら、おかしいのは世界じゃないですか?」
男は言葉を失った。
彼女の表情は、どこまでも穏やかだった。
「ほら、また信じられなくなった。毎回そうなんです、あなた」
「毎回?」
「何度も言ってますよ。私は“忘れられる人”なんです」
「……何度も?」
「そう。だからまた明日、来ますね」
そう言って彼女は立ち上がった。
手帳に記録を取ろうとした男の手が止まる。
その瞬間、ドアが開いて、彼女は出ていった。
……名前は?
……なぜ今、それを思い出せない?
彼女が出ていった方向すら、急に曖昧になる。
男は、手帳を開いてみる。
真っ白だった。
ただ、一行だけ、日付の下にこう書いてある。
「記憶が正しいなら、おかしいのは世界だ」──誰かの言葉
書いたのは誰だ? 自分か? 彼女か?
そもそも、こんな言葉を交わした記憶が――あったか?
記憶が正しければ、おかしいのは世界。
でも、記憶すら間違っていたら……?
そして彼は気づいた。
この一言すら、次にページをめくれば、消えているかもしれないということに。




