第21章 最後に残ったのは、一行の脚注だった
彼女の記録は、なかった。
どの報告書にも、どの写真にも、名前すら記されていない。
初めてそのことに気づいたとき、私は自分の目を疑った。
確かに、あの部屋に彼女はいた。
私も会った。会話もした。
コップの縁に、指紋が残っていたはずだ。
床には足跡も、髪の毛も。
けれど、記録がなかった。
記録がないということは、存在しなかったということだ。
この世界では、“記録されない出来事”は、起きなかったのと同じ意味を持つ。
――あなたが読んでいるこの文章も、そうだ。
あなたが読まなければ、この記録は存在しないも同然だ。
それを、忘れないでほしい。
私はひとつずつ裏取りを始めた。
あの日使われたはずのドア。開閉ログは“未作動”と表示された。
彼女が座っていた椅子。監視映像には、誰も座っていなかった。
最後に彼女が話していたという職員。該当する人物は、記録上“存在しない”。
もしかすると私が、見間違えたのかもしれない。
幻でも見ていたのかもしれない。
そう考えたが、無理があった。
彼女のことを知っている、と語る人間は他にもいた。
名前は覚えていない。けれど、顔は浮かぶという者が複数いた。
誰一人として、フルネームを答えられなかった。
記録が抹消されたのではない。
最初から“記録されていなかった”。
そんななか、たった一つだけ見つけた記述があった。
それは報告書の脚注――おそらく誰も読み飛ばしていたであろう、注釈欄の一行だった。
※当該観測下において、存在の指摘多数あり。対象については記録照合不能。
脚注番号もない。参照先もない。
誰が書いたかもわからない、ただの一行。
けれど、その一行が、すべての証明だった。
彼女は確かにそこにいた。
しかし、誰にも記録されなかった。
……ここに、この一文として残す以外に、彼女を証明する手段はもうない。
だとすれば――
この文章を、あなたが“読んでいること”そのものが、彼女の存在の最後の証拠になる。
記録は、読まれて初めて意味を持つ。
読者のいない物語は、ただの沈黙にすぎない。
思い返せば、彼女はこう言っていた。
「ねえ、あなたが私のこと、最後まで覚えていてくれたら……それでいいの」
今も、あなたの中に“彼女の記憶”はあるか。
それとも――
あなたがこの記録を閉じた瞬間、
彼女は再び“いなかったこと”になるのだろうか。
最後に残ったのは、一行の脚注だった。
そしてそれを読んだ、あなたという存在だけだった。




