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川の底から手招くもの

夏休み、祖父母の住む田舎へ来た都会育ちの少年、聡。その村には「川の淵で溺れた子供は、寂しさから仲間を川に引きずり込む」という古い言い伝えがあった。言い伝えを馬鹿にし、興味本位で淵に近づいた聡は、水中で自分を手招きする白い影を見てしまう。その日から、彼は悪夢と現実の怪異に苛まれることになる。

じいちゃんの家がある村は、地図で見れば一目瞭然、山と、その間を縫うように流れる一本の川しかないような、典型的な日本の田舎だ。僕が住む東京のように、24時間明かりが消えることも、サイレンの音が鳴り響くこともない。夏休みになると、毎年僕は一人で高速バスに揺られ、この静かな村へ来るのが恒例だった。両親は、それが良い社会勉強になると考えているらしい。僕自身も、ゲームや塾から解放され、カブトムシを追いかけたり、川で魚を捕まえたりするこの一ヶ月が、何よりの楽しみだった。

その年も、バスを降りると、むわりとした緑の匂いが僕を迎えた。バス停で待っていたじいちゃんは、「おう、聡。今年も来たか」と、深く刻まれた皺を目尻に寄せ、くしゃりと笑った。

家の縁側で、ばあちゃんが入れてくれた冷たい麦茶を飲みながら、僕は早速、明日の計画を立てていた。


「じいちゃん、明日、川で泳いでもいい?」


「おう、いいとも。だがな、聡」


じいちゃんの声のトーンが、ふと真剣なものに変わった。


「一つだけ、約束してくれ。川の、あの大きな岩が二つ並んどる深みには、絶対に、絶対に近づくんじゃないぞ」


その場所は、村では「子供さらいの淵」と呼ばれている、とじいちゃんは言った。昔から、そこで何人もの子供が水遊び中に足を滑らせ、溺れて亡くなっているのだという。そして、村の大人たちは信じている。冷たい川の底で、たった一人でいることに寂しくなった子供の霊が、生きている仲間を求めて、水の中から手招きをするのだと。

「ふうん」と、僕は少し馬鹿にしたような、気のない返事をした。いかにも田舎のじいちゃんが考えそうなことだ。そんなの、子供を危険な場所から遠ざけるための、ただの作り話に決まっている。都会育ちの僕には、そんな非科学的な迷信は通用しない、とさえ思っていた。

翌日、僕はさっそく、村でできた同学年の友人、健太と川へ向かった。太陽の光を浴びてきらきらと輝く川面は、どこまでも平和で、じいちゃんの話したような不気味さは微塵も感じられない。透き通った冷たい水が、夏の火照った体に最高に気持ちよかった。僕らは夢中になって、小さな魚を追いかけたり、石を投げて水切りをしたりして遊んだ。

しばらく遊んでいると、ふと、上流の方に、じいちゃんが言っていた大きな岩が見えた。そこだけ、川の流れが緩やかになり、水の色が吸い込まれそうなほど深い緑色に澱んでいる。


「なあ、あそこ行ってみないか?」


僕が指さすと、健太は顔を青くして、ぶんぶんと首を横に振った。


「だめだよ、聡!あそこは『子供さらいの淵』だぞ!じいちゃんに、絶対近づくなって言われてるんだ。あそこで手招きされたら、もう帰ってこれないんだって!」


健太の怯えようは本物だった。しかし、彼のその真剣な表情が、僕の心の奥底にある天邪鬼な好奇心を、ますます刺激した。

健太と別れた帰り道、僕は、まるで何かに導かれるように、一人で、その淵へと向かった。ごつごつした岩を登り、淵の真上から水面を覗き込む。吸い込まれそうなほど深く、暗い緑色。太陽の光さえ、その底には届いていないようだった。本当に、何かいるのだろうか。いるはずがない。僕は自分に言い聞かせながらも、心臓が少しだけ速く打つのを感じていた。

水面をじっと見つめていると、不意に、水中で何かがきらりと白く光ったような気がした。魚だろうか。僕は目を凝らした。すると、ゆらり、と、白い影が水中で揺らめいた。それは魚ではない。明らかに、人の形をしていた。細い手足、小さな頭。それは、ゆっくりと、こちらに顔を向けた。顔立ちは、水の揺らぎのせいで、はっきりとしない。だが、僕と同じくらいの歳の子供のように見えた。

そして、その白い影は、僕に向かって、ゆっくりと、手招きをした。「こっちへ、おいで」とでも言うように。

ぞくり、と背筋に氷を突き立てられたような悪寒が走った。僕は、声にならない悲鳴を上げ、岩から転げ落ちるようにしてその場を離れ、じいちゃんの家まで、後ろを一度も振り返らずに、一目散に走った。


「どうした、聡。お化けでも見たような顔をして」


ぜえぜえと息を切らす僕を見て、縁側で将棋を指していたじいちゃんが言った。


「な、なんでもない…!ちょっと、走ってきただけ!」


僕は、淵での出来事を言えなかった。言ったら、約束を破ったことをひどく叱られるだろう。それに、まだ心のどこかで、あれは光の屈折か、あるいはただの目の錯覚だったのではないかと、信じたい気持ちがあった。

だが、その夜から、僕の夏休みは一変した。

悪夢にうなされるようになったのだ。夢の中で、僕はいつも、あの淵の岩の上に立っている。すると、水の中から、あの白い子供が音もなく現れ、僕の足首を掴むのだ。その手は、まるで死人のように氷のように冷たく、どれだけもがいても、振り払うことができない。そして、僕はゆっくりと、光の届かない、暗い川の底へと引きずり込まれていく。そこでいつも、「うわあっ!」という自分の叫び声で、汗びっしょりになって目を覚ますのだ。

悪夢は、毎晩続いた。寝不足で目の下には濃い隈ができ、大好きだったばあちゃんのご飯も喉を通らなくなった。昼間でも、水の音を聞くだけで、夢の中のあの冷たい手の感触がフラッシュバックし、体が勝手に震えた。大好きだった川にも、もう近づくことさえできなくなってしまった。

夏休みも終わりに近づいたある日。僕は、もう東京に帰りたいとさえ思い始めていた。ただ、ぼんやりと縁側から外を眺めていると、じいちゃんが「よっこいしょ」と隣に腰を下ろした。


「…聡。淵で、見たんだな」


僕は驚いてじいちゃんの顔を見た。責めるような色はない。全てお見通しだというように、静かに、ただ遠くの山を見つめていた。


「わしにも、お前さんくらいの頃に、経験がある。手招き、されたんじゃろ」


僕は、こくりと小さく頷いた。


「あれはな、寂しいんじゃよ。ずっと一人で、あの冷たい川の底におるからな。誰かに、そばにいてほしいんじゃ。だから、生きている子を手招きする」


じいちゃんは、僕の冷たくなった手を、ごつごつした大きな手で強く握った。


「いいか、聡。一番いけないのは、情けをかけることじゃ。『可哀想だ』なんて思ってしまったら、最後。心の隙間に入り込まれて、お前さんも連れて行かれてしまう。どんなに寂しそうに見えても、決して心を動かされてはならん。強い心を持つんじゃ。お前は、こっち側の人間なんじゃからな」


その夜。また、僕はあの夢を見た。いつものように、淵に引きずり込まれる夢だ。だが、その日は違った。じいちゃんの言葉が、頭のどこかに残っていた。引きずり込まれながら、僕は必死で、白い子供の顔を見た。その顔は、やはりはっきりとしない。しかし、その表情が、ひどく悲しみに歪んでいるように見えた。瞳からは、涙のように気泡がいくつも、いくつもこぼれ落ちている。


『さみしいんだ…ひとりは、いやだ…』


声が、頭の中に直接響いてきた。それは、心の底からの叫びだった。

その声を聞いた瞬間、僕は、じいちゃんの忠告を忘れてしまった。

可哀想だ、と、強く思ってしまったのだ。

その瞬間、僕を掴む手の力が、ぐん、と何倍にも強くなった。


『…一緒に、いこう?』


まずい、と思った時にはもう遅かった。僕の体は、完全に水の中に引きずり込まれていた。冷たく重い水が体を包み込み、意識が急速に薄れていく。すると、僕の周りに、どこからともなく、何人もの子供の霊が集まってきた。皆、水死体のように青白く、そして、新しい仲間が増えたことを喜ぶかのように、にたり、と笑っている。


「新しい、お友達だ」


「これで、寂しくないね」


ああ、これで僕も、この冷たい川の底で、ずっと…。

そこで、僕は目を覚ました。自分の部屋の、いつもの布団の上だ。窓の外は、もう白々と明るくなっていた。心臓が、警鐘のように激しく鳴り響いている。

悪夢は、その日を境に、ぱったりと見なくなった。しかし、僕の左足首には、まるで小さな子供の手に強く掴まれたような形の、青白い痣が、くっきりと残っていた。その痣は、夏が終わり、東京に帰ってからも、まるで呪いの刻印のように、ずっと消えることはなかった。

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