5.思いがけない再会
私はブヤシ地区にオープンした3号店の状況を確認しに行った。
店舗は人で混雑しているものの、オペレーションは特に問題がないように思えた。
「やっぱり、ベテラン店員がいると違うわね。初日でも完璧にこなせてるもの!」
私は1号店と2号店で修業を積んだ新店長と副店長を褒め、さらに頑張ってくれている新入り店員達にもありがとうと感謝の言葉を述べた。
さて、私がここに居ても、彼らも緊張するだろうし、かえって邪魔になってしまうだろう。
私は、何かあればセバスチャンへ連絡してちょうだい、とだけ伝えて店舗を後にした。
とはいっても、この後は特に用事がない。
そのため、私は店舗を出て右手側の坂を上り、交差点の向かい側にある広大なギヨヨパークの入口に向った。
ギヨヨパークの入口は、並木道となっており、木々をよく見れば電飾の飾り付けがされている。
実はここ、夜になるとライトアップされる光の道となり、カップルたちのクリスマスのデートスポットとなっているのだ。
今は昼なので明かりはついていないのだが、それでもカップルたちで賑わっていた。
ただの電飾の飾りなのに、何がよくて寒い思いをしながらここに来るんだろう。
そんなふうに思いながら、私は並木道を通り過ぎ、ギヨヨパークを通り抜けて隣接しているジュクハラ地区へ向かおうとした。
その道中、私は天使が壺から水を注ぐ装飾が施された噴水が中央に設置され、赤いレンガで舗装された大きな広場に足を踏み入れた。
その一角では、ムーンダックスコーヒーの小さなコーヒースタンドが営業をしている。
日があるとはいえ寒いし、ちょっと小腹もすいたから甘いコーヒーでも飲むか、と私は注文することにした。
店員さんから、ボール紙のホルダーで包まれた紙カップを受け取り、私はどこか腰かけることができる場所があるかと、あたりときょろきょろと見渡した。
しかし、皆学生なのか、暇なのか、あるいはクリスマスイブだからか分からないが、噴水近くのベンチは完全に人で埋まってしまっており、私はその場を少し離れた別のベンチがある場所へと移動した。
すると、そこにあった白いベンチだけが運よく空いていた。私は良かったと思いながら腰かけたのだが、妙な違和感を覚えた。
私が腰かけた途端、やたらと人がじろじろとこちらを見てくる気がするのだ。
カップルの場合は二人で私の方を見ながら互いに笑い合い、男一人の場合は遠目からにやにやとこちらを伺うようにして笑っている。
女一人の場合や、複数連れの場合は、私を一瞬見たあとにそっと目を伏せてそれ以上見ないようにした。
なんだか嫌な感じ。
私は座って間もなかったが、居心地の悪さを感じてこの席から立とうとした。
その瞬間、左側の方から見覚えのある綺麗な顔をした、金髪の若い男が歩いてきた。
彼は私の顔を見ると少し驚いたような顔をして、私の座っているベンチの前で立ち止った。
「隣に座っても良いですか?」
彼は私に向ってそう尋ねてきた。
「ええ、どうぞ」
私はすぐこの場を去るつもりだったので、彼にそう返答した。
彼は長い上着があまり広がらないように気にしながら、私の左隣に腰かけた。
この時、私も彼が一体誰かなんて気にしなければ良かったのかもしれない。
でも、見覚えがあるので、どうしても気になりすぐに立ち去ろうとしなかった。
もしかしたら、仕事関係で以前お会いしたことがあるのかもしれないと。
彼は私の事をじいっと見つめてきた。やはり、彼は私の事を知っているのだ。
私は彼に向って、以前どちらかでお会いしましたでしょうか? と素直に聞こうとした。
すると、彼はその言葉を私が言うより先に、コーヒーを持っていないほうの私の手に、自身の手を置いた。
ぜひ想像してみてほしい。
恋人、あるいは好きな相手でもない男から、突然そのようにされた瞬間を。
もちろん私も、何をするのですか! と、叫びたかった。
ところが人間と言うのは予想もしないことが起きると、上手く対処できないものだ。
その場でただ凍り付くしか私にはできなかった。
そしてさらに、彼は動けないでいる私の事を目を逸らさず見つめ、もう片方の手を私の頬に添えると……あろうことか私の唇に唇を重ねてきたのだ。
多分、それはほんの数秒のことだと思うのだが、私には酷く長い時間に感じた。
彼は私から唇をゆっくり離すと、耳元でこう囁いてきた。
「街全体を望める見晴らしのいい宿屋を取ってあるから、一緒に行こう」と。
その瞬間、私の頭の中にはある事がよみがえった。
それは、数年前、屈辱を味わったキョートー地区での夜会の出来事だった。
私は泣きながらクリスマスを止めてほしいと言ったのに、断ってきた男。
私の事を可哀そうだと言ってきた男。
そして、セバスチャンから実はライバル商会の長だと教えられた男。
つまり、今、私にキスをして、一夜を過ごさないかと誘ってきているのは、あの憎たらしいローランだったのだ。
一度しか会ったことがなかったし、最近忙しいのもあって顔なんてすっかり忘れていたが、今思い出した。
私は彼の正体と、先ほどされた恐ろしいことで、頭の中がパニック状態となった。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
それでも、この非常事態に微かに理性はまだ残っていたらしい。
脳みそがこの場から今すぐ逃げなさい、とけたたましい音共に、赤いアラートを私の身体中に必死に出した。
でも……どうやって逃げる?!
ごめんなさい、私にはこのあと用事がありますの。なんて余裕は当然私にはなかった。
だが、運よく私の片手にはある持ち物があった……これしかない!
私は震えながら、彼の事を押しのけて無我夢中で立ち上がると、自分でも意味不明な何かを叫んだ。
そして、片手に持っていたもの、つまりコーヒーを思い切りローランの体に向って投げつけた。
蓋が外れて盛大に茶色い液体がその場に飛び散り、独特の甘い香りと香ばしい香りがその場に広がる。
私は茫然としている彼を一瞬見たあと、行く当てなんてわからないが一目散でその場を走り去った。
◆◆◆
私は必死に走ってパークを出た後、ちょうどやってきた流しの馬車に乗り込み、自宅へと帰った。
迎えに出てきたセバスチャンの顔を見た途端、私は安心しきったのか、自分でも訳が分からないうちにぎゃんぎゃん泣き、ひたすら怖かった、怖かったと叫んだ。
この事態にセバスチャンもどういう事かと驚いたが、ひとまず私に落ち着くように優しく声を掛けた。
私はリビングのソファに座り、呼吸を整え、セバスチャンの入れてくれた甘いココアを飲み干したところで、ようやく気分が落ち着いた。
そして、外出中に何が起きたのか彼に報告した。
ところが。
セバスチャンは私に向って、大事なお嬢様になんていう事をするのでしょう。
今すぐ警察に報告して、痴漢容疑で逮捕してもらわねば! と言ってくれると私は思っていた。
しかし、彼の対応は私の期待とは全く相反するものだった。
「あぁ、お嬢様。なんてことでしょう……それはお嬢様が完全に悪い」
額に手を添えて困惑しているセバスチャンに、私は目を見開いて、はあ?! と大きく声を上げた。
「私が悪いってどういう事? いきなり私は彼に襲われたようなものなのよ? 無礼なのはあちらでしょう!」
しかし、セバスチャンは真剣な顔をしながら首を横に振った。
「いいですか、お嬢様。お嬢様はとんでもないことをしていたのです!」
セバスチャンによると実は、クリスマスイブとクリスマスの日にあそこの白いベンチに腰かけて、ムーンダックスコーヒーを飲んでいると、誰でもいいから自分は一晩の相手を探しているという意味になる、と私は教えられた。
あの白いベンチは、通称野良娼婦のベンチとも。
「これは、この国ではとても、とても、とーーーーっても有名な話なんです。ですが、お嬢様はクリスマスが大嫌いなため、この話を知らなかったのは無理もありません。とはいえ、相手側もお嬢様だと気づいているかもしれませんし……」
あぁ、なんてことだ、とため息を吐きながらセバスチャンはそう言った。
言葉で否定するならともかく、コーヒーを投げつけるなんて。むしろ、うちの方が訴えられる恐れがあると彼は言った。
「じゃ、じゃあ、私は一体どうすればいいの?! 憎たらしい相手に、あんなことをされた上、訴えられるなんて溜まったもんじゃないというのに!」
「こうなったら、先手を打って詫び状を入れるしかありませんね。意味を知らなかったとはいえ、お洋服を汚してしまったのですから。せめて弁償するか、クリーニング代を出して誠意を見せなければ」
はぁと今度は私が大きくため息を吐いた。
私の方が怖い思いをしたというのに。だが、訴えられてしまったら、確実に負けるのはうちの方だとセバスチャンは言っている。
そのため、私はセバスチャンに文章を添削してもらいながら、物凄く不本意ではあったが、ローラン宛てに詫び状を書いてポストに投函をした。