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プロローグ:私の夫は変わってる

「よし、できた!」

 私がそう言ってリビングの片隅で一仕事を終え、満足げな笑みを浮かべていると、また今年もか……という声が背後から聞こえた。


 振り返れば夫が隣の部屋から出てきたところだった。


「なによ。だってこんなお願いごとの一つや二つくらいなら、別にどうってことないでしょ。高いものをねだる訳でもないんだから」

 そう言い返すと、彼は”私の仕事”をチラリとみて鼻で笑った。



「だからといって、そんなことをやっている人間なんて……話では聞いてるとはいえ、実際に僕が見たのは君ぐらいだ」

 夫はわざとらしく、海外のドラマで俳優がやるようなやれやれという仕草をしてみせた。

「そんな毎年毎年、クリスマスツリーに短冊を付ける人間なんて」


 彼の視線の先には、飾り付けられた大人の背丈半分ほどのクリスマスツリーがある。

 そしてその頂点には、”来年も家族がみんな幸せに過ごせますように”と書かれた短冊が引っかけられた。


 夫を除き、以前は子供たちと私で、毎年こうやってお願い事を書いて飾っていた。

 だが子供たちも大きくなった今では、私だけがこうやってお願い事を書くのを続けているという状況だ。 



「まあ、それはともかく」

 夫はそう言いながら、私をソファの方へ招き腰を下ろした。

「これは僕から君へのプレゼント。開けてみて」

 彼は手に持っていた、赤いリボンの掛かった黒い箱を立っていた私に手渡した。


 黒い箱はまったくの無地で、何の柄も文字も書かれていない。明らかにどこかのブランド品やメーカーのものではない。


 隣に座った私は、一体これはなんだという顔をしながらそれを開けた。



 すると……


「こ、これは!!」

 私は思わず裏返った声を上げた。


 目に入ってきたのは、どこかを見つめる巻毛の男性の顔が表紙に描かれた、ハードカバーの本だった。


 ただし絵といっても漫画や、アニメーションのようなものではない。


 ルネッサンス時代を代表し、油彩絵具ではなく、テンペラを使い独特な質感を生み出した、とても有名な画家が描いたものだ。

 なかでもこれは、その画家が宗教に傾倒する前に描かれた作品で、複数描かれた人物のなかの一人を抜き出していた。


 きっと小説に出てくる主人公を、この絵の人物に重ねてということだろう。



「ねぇ、どうやってこれを手に入れたの? しかも、新品みたいに見えるんだけど……」

 私は信じられないという顔をしながら、彼に尋ねた。


 箱から本を取り出してまじまじと見つめれば、古本のはずなのに、傷や汚れ、破れがほとんど見当たらないうえ、ジャケットもちゃんと付いている。


 おそらく、本当に誰の手も渡ることなく、適切な状態でずっと保管されていたはずだ。



 夫は私の反応を見て、静かに、だが満足そうに微笑んだ。

「この前、ニューヨークに行ったときにスタッフの子から紹介してもらったんだ。君が例の小説家を好きだと話したら、その子の親戚が古本屋をやってるから、もしかしたらあるかもって。で、実際にその古本屋に行ってみたら見つかった」


 夫が見つけてきてくれたのは、私が大好きな海外小説家の本だった。

 その小説家が書いた本のシリーズの中でも、最も好きな話が書かれた巻の原書だった。


 原書なので、中は当然英語で書かれている。無論辞書がないと読むことはできないが、それでも私にとっては嬉しいことこのうえなかった。


 なぜなら、この絵が描かれた本は初版限定でしか出版されてない。本国のアメリカならともかく、日本であれば到底手に入れられないものだ。


 しかも出版されたのは数十年前。

 今では何でもあるで有名なAから始まる某巨大書店も、当時の日本ではインターネットの普及はそこそこでも、名前すら知られていないという状況だった。


 そんな時代に出版されたものなので、当時の私はいつか手に入れるために渡航するお金がほしいと、なけなしのお小遣いで宝くじを買っていたのも懐かしい記憶だ。


 だが念願だった本が遂に、しかも完璧な状態で手に入った。



 私が本を抱きしめ、キャアキャアはしゃぐ声を出して喜んでいると、夫は喜んでくれて良かったと言って、ソファから立ち上がった。


「じゃあ、君にプレゼントを渡せたことだし、僕は次の作業に取り掛かろうとしよう」

 彼は私をソファに残し、リビングに続くキッチンへと向かっていった。


 実は今から夫がやることは、わが家では恒例行事だ。私がクリスマスツリーに短冊を飾るのと同様、彼のやる事も私たちが出会ったとき以来、ずっと変わっていない。


 ただ一方の私は……話の内容はわかっているとはいえ、原書と日本語訳の読み比べがしたくなっていた。


 そのため、夫の手伝いはおろか気にも留めず、辞書とその本の日本語訳版を取りに書斎に行こうとした。



 ところが。


 突然、あー! という夫の少し大きな声が聞こえた。


「どうしたの?」

 驚いた私が夫に声を掛けると、彼は冷蔵庫の扉を閉めながら、なんていうことだという顔をしていた。

 

「生クリームはあるのに苺がない……」

 彼の答えに、そんなはずはないだろうと私は彼を横に追いやり野菜室を確認した。すると確かに苺がなくなっている。


「あれ? 本当だ。昨日、晩御飯を作るときはあったはずなのに。もしかして……」

 夫も同じことを思ったのか。私たちは互いに顔を合わせ、ため息を吐いた。


 すぐさま資源ごみのゴミ箱を確認すれば、苺が入っていたプラスチックの空の容器が捨てられていた。


「犯人は健斗しかない。ゲームで頭使ったからお腹空いたとか言って、夜中に勝手に食べたんでしょ」

 私の予測に、夫はだろうねと首を縦に動かした。

「おそらく。あの子なら食い意地が張ってるから」



 わが家では、イブの日は多忙な夫も仕事の休みを取り、家族そろって過ごすようにしている。


 夫が今から行おうとしていたのは、クリスマスケーキ作りだった。彼はお菓子作りが得意で、昔から買わずに自分で作っているのだ。


「さて、どうしようかな」

 そうは言いつつも、夫はエプロンを作業台に置き、準備を中断しようとした。だが、私はそれを止めた。


「待って。生地の材料はあるんだろうから、そっちは準備を続けてて。私が買ってくる。フォーレスの中にあるスーパーまで行ってくるから」


「え、でも外は寒いよ?」


「いいの! 苺を買うくらいなら、さっきの本を買うよりも全然大したことないから。私に行かせて」

 夫はさきほど、なんなくあの本を手に入れたというような顔で私に語っていたが、本当のところはそうでもないと私は思っている。


 なぜならあの小説家の作品は、数年前からドラマ化や映画化など何作品も映像化されており、それにつられて日本でも既存の作品が再販されたりしているのだ。


 日本ですらそうなのだから、アメリカであの状態の本を手に入れたということは、もしかしたら彼は売主に頭を下げることをしたのかもしれない。


 彼の苦労を考えたら、自転車を飛ばせばすぐに行けるスーパーなんてどうってことはない。



 夫は私を少し見つめると、私の名前を呼び微笑んだ。


「……そう。わかった。ありがとう」


「うん。じゃあ、行ってくるね」

 外に出るため私は、ダイニングテーブルに置いていたスマホに手を伸ばした。


 すると、メッセージアプリのMINEに赤い数字のバッジがついていることに気が付いた。

 誰だろう? そう思ってMINEを開くと、メッセージの送り主は娘の茉莉絵だった。


『ごめん、ママ。味見のつもりが苺全部食べちゃった!』

 さらにメッセージには、ごめんなさいのスタンプが貼られている。



「犯人はそっちかい!」

 私は関係なかった息子を疑ったことに、申し訳なさと罪悪感を抱いた。しかし、メッセージにはまだ続きがあった。


『あと悪いんだけど、今日の夜は同じクラスの五十嵐君と、渋谷で青いイルミネーションを見てくることになったから。ちゃんと20時までには帰ります! でも、パパには知られると面倒臭いから内緒にしてね。夕飯は要らないけど、ケーキは食べます』

 お願いしますというスタンプが続き、そのように書かれていた。



 娘はもうこの歳で彼氏か。私の子供なのに。


 ……くっ……リア充め、爆発しろ!


 私は高校生のころ、いや社会人になってからも、夫にプロポーズされるまでこんな甘酸っぱい思い出なんて一切なかった。


 大昔の私なら、こんな浮かれているメッセージを見た途端、きっとそんな言葉が頭に浮かんだに違いない。



 でも今は、そんな気持ちになること自体が懐かしい思い出だ。昔は人の恋路に妬んでいたことが、まるで嘘のよう。


 案外あの子もモテるんだ。五十嵐君は初耳だけど優しい子だといいなぁ。そしてそのまま、社会に出て結婚したりするのかな。


 こうやってこっそり教えてくれるあたり、娘も私だけには喜びを知ってもらいたいのだろう。


 どうか、あの子の恋が上手くいきますように。

 今の私にはそうしか祈れない。


 とスマホの画面を見つめながら、私がぼんやり一瞬思っていたところ……



 突然、後ろからカシャン、カラカラと何かが落ちた音が聞こえた。

 驚いて振り返れば、粉ふるいが床でひっくり返った状態になっている。そして、そばには夫がいた。


「五十嵐って……誰?」

 低い声でそう尋ねた彼は、真顔で立ち尽くしていた。


 私の反応が気になったから、こっそり見たのだろうか? ……というよりも「五十嵐」という単語が出た手前、茉莉絵からのメッセージを彼は全文見てしまったのだろうか。これはまずい。


「ちょ、ちょっと! 人のスマホを勝手に覗かないでよ!」

 私はスマホを手で覆い、それ以上見られないように娘からのメッセージを隠そうとした。


 だが、彼はそんな私のことを無視した。

「……そんなことはどうでもいい。五十嵐っていうのは、茉莉絵の彼氏なの?」


 夫の目は真剣だ。そして信じられないという顔をしている。



「さあ? 私は何にも聞いてないからわからないよ」

 これは本当だ。私は一切何も聞いていない。


 私だって、母親とは仲が悪かったせいもあるが恋バナは一切したことがない。というよりも、そもそも結婚をして子供を産んだことすら教えてない。それほど疎遠にしているのだ。


 それはともかく、茉莉絵とはそんな仲ではないにしても、あの子だってあの歳なら親に知られて欲しくないことだって当然あるだろう。


 仮に恋バナではなかったとしても、小さい子供ではないのだから、友達全員について親に教える事というのもないだろう。成長するにつれて、子供は自分の世界を持つようになるのだから。


「だから、本当にただのお友達ってだけかも」

 私は夫を安心させられるかわからないが、そう返した。



 しかし、夫は安心どころか余計に疑惑が深まっただけのようだった。

「……そんな訳ないじゃないか」


 この答えのとおり、夫は五十嵐君がただの友達という説には一切同意しなかった。

「イブの日に複数人の友達ではなく特定の男友達!? しかも、パパには内緒? ……そんなの彼氏に決まっているだろう!」


 あちゃー、娘との約束は守れなかった。

 彼から視線を外しながら、私は押し黙った。


 どうやら娘のメッセージは全部読まれていたようだ。そうだ、この人は異様に文章を読むのが早いのだ。すっかり忘れていたが。


「しかも場所は渋谷のあの辺り……そんなの道玄坂まで行こうと思えば、余裕で歩いて行ける距離じゃないか……!」


 夫は生まれも育ちも渋谷なので、当然地理には詳しい。というよりも、道玄坂は彼の実家の目と鼻の先だ。

 彼の脳裏には、道玄坂を登っていった先にあるライブハウスではなく、その周りに多数建ち並ぶ、夜は煌々とした灯りを放つ建物群が過ぎっているのだろう。


 言われてみれば、確かにそれは親としては心配だ。それはわかる。


 けれども、そちらが目的だとしたら、親にわざわざ彼氏といることなんて教えるだろうか……少なくとも私なら、女友達と一緒にいると誤魔化すに違いない。


 あの子は純粋に、今日は五十嵐君とイルミネーションデートを楽しむだけだろう。



 私は女の感を信じて、彼の想像していることに首を横に振った。


「ちょっと、なに変な想像してるの。仮にあの子に彼氏が出来たとしても、そういう年頃なんだから別に問題なくない? そんなに騒ぐなんて、私が浮気してる訳でもあるまいのに」


「そういう問題じゃないんだ!」

 夫は額に両手を置き、声を大きくして反論した。


「そうじゃない……もし君が浮気したのなら、それは僕の問題でもあるんだ。きっと僕の愛が足りなかったから、君をそういう方向に走らせてしまったということだ。それは僕が反省すればどうにかなるかもしれない。いや、どうにかする!」


 夫は怖いくらいに真面目な顔をしながら、早口で捲り立てるようにして私にそう言った。


 しかし、夫は愛が足りないだなんだ言ってるが、実際に私がもし浮気するとしたら、彼の言動からわかるように"夫の愛が重い"そう感じたときぐらいだろう。逃げ出したいって。


 まあ、そんなことを思ったのは未だにないが。



「でも、茉莉絵についてはそうじゃない」

 彼は言葉を続けた。


「僕は彼女の事をとても大切に思って育ててきた。そんなあの子がなんで突発的に出てきた同級生と……僕は何も聞いてない!」

 この世の終わりみたいな顔を夫はしているが、要は娘離れできない父というだけだろう。


「同級生とはいえ、僕が顔も知らない男! クラスに不良はいないと聞いているが、思春期の男なんて優等生面をしながらも、頭の中はえげつないことしか考えていないのに!」

 夫は天井を見つめ、ふと何かに気づいたようだ。


「……あの子はイブの夜デートで自分こそが本命だと思っているかもしれないが、ゲスな男はそうじゃない」

 それから今度は目線を下げると、どこか彼方を見つめるようにした。


「うまいこと言って、前日、当日の朝、昼、晩、そして翌日とローテーションして、女の子をどうにかやりくりするんだ! そんな男に純粋なうちの子が誑かされるなんて。ああ、なんてことだ……!」


 なんで顔も知らないと言いつつ、女遊びが激しいって言い切れるの? しかもまだ男子高生なのに。

 ていうか、そこまでチャラかったら女子内でとっくに有名で、むしろ嫌われてると思うんだけど。


 そう彼に私は尋ねたかったが、夫の中ではもうそのように決定しているようだった。彼は目に涙を浮かべながら、力なく壁に両手をついた。


「まさか、こんな日がやって来るなんて。ちょっと前まで、茉莉絵だって小さくてふわふわした可愛らしい赤ちゃんだと思っていたのに……」


 

 一体、どこで覚えてきたのだろう。


 さらに夫はMon Dieu(ああ、神よ)……とフランス語を小さく漏らした。


 フランス系アメリカ人の義母の影響なのか? でも私は、彼女が流暢な日本語か英語でしか話しているのを聞いたことがないのだが。


「問いただすべきか、証拠を押さえるべきか、それが問題だ」


 そしてさらに、シェイクスピアの有名な劇の一節を持ち出し、その場でジェスチャーを交えてその役になり始めた。



 一方の私は、そんな夫に気の済むまで付き合ってあげるべきかと思いつつも、時計を見ればそうも言ってられなさそうだった。時間は無駄にできないと扉を開けて廊下に出た。


「ああ、今ならダフネを月桂樹に変えた父の気持ちがわかる……!」

 扉の向こう側からは、悲しみに満ちた夫の切ない声が聞こえてくる。


「あの様子じゃ、帰って来てもボウルに薄力粉すら入れてなさそう。念のためにカルデアでスポンジケーキも買っておこうかな」


 私は自分の世界にどっぷり浸かってる夫を放っておき、コートを羽織り、バッグにスマホを入れながら、自然とそう独り言をつぶやいた。


 階段を降りて玄関を開ければどんよりとした曇り空。雪の予報は聞いていないが、もしかしたら今夜は降るのだろうか。


 そうなれば、ホワイトクリスマス。

 都内は積もらないだろうが、郊外のこちらなら積もることになるかもしれない。


 私は念の為、雪かき用のスコップを出そうと庭の片隅にある物置に近づくと、またしても夫の悲哀じみた叫び声が、家の上階からするのを微かに聞き取った。


 まだ続いてる……あれでは、下に住んでいるミツコさんとバーバラにも迷惑だ。あとで謝りに行かなければ。


 相変わらずの親バカねと笑い飛ばすバーバラはともかく、真剣に彼を心配してくれる優しいミツコさんを想像して、私はため息を吐いた。

 


 それにしても夫は、世間からはとても落ち着いた人物に見られている。でもそんな幻想を抱いてる人たちが彼の取り乱している姿を見たら、絶対ぎょっとするだろう。


 けれども、実際は家族の前ではあんななのだ。


 また、夫は職業も変わっている。

 それに対して私は派遣社員をやっていたようなどこにでもいる一般人。普通なら、私たちは決して出会うことがないはずなのだ。


 そのため、そんな私がどうやって彼と結婚できたのかと、知り合った人に不思議がられて馴れ初めを聞かれることもしょっちゅうだ。


 そして、そのたびに私は聞いてくる人に、ある嘘を吐いている。


 でもそれは夫も同じ。


 別にやましいことではないのだが、私たち二人はきっと死ぬまで本当のことは言わないだろう。


 



 だって……


 私たちが知り合ったきっかけは───



 ある日突然死んでしまい、気がつけば異世界に飛ばされたのだから。


 ただ、夫はどうしても元の世界に還りたいという願いがあり、それを叶えるために私たちは夫婦になった。


 夫には彼を待つ婚約者がおり、彼女の元に帰りたいという愛のために。


 それからなんやかんやがあり、私たちは現実世界に戻って今に至るというわけだ。



 ……もちろん異世界は置いておいても、夫の婚約者とか、どうやって戻ったのかとか色々問題があるのはわかる。


 ただ、私たちの名誉のために言わせていただくと、私が夫の婚約者から彼を略奪したとかそういう話ではない。


 とはいえ、まあ、異世界で出会い生還してきたなんて話をしても、まともに信じる人間なんているのだろうか?


 いるとしたら、そちらがどうかしてるだろう。


 私はそう思いつつも、過去を思い出していた。

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