人魚の水槽2
綺麗なもの見ているのが好きだ。
たまに、どうしようもなく手に入れたくなる時がある。
労働者が根を上げやすい人魚の水槽担当は、そんな僕に丁度いい場所だった。
一人で彼女を独占して管理をしていられるから。
これだけ穏やかに欲を満たせる仕事は、他に無いんじゃないかと思っている。
先輩は、人間を安楽死させる役割を担うメリーに対して、罪悪感を感じていた。真っ直ぐで優しい人だった。
綺麗な心の人だった。
人魚の水槽の前に置かれたテーブルと椅子とヘッドフォン。
いつでも人間を廃人にできる設備。僕は今日もそれを丁寧に拭き上げる。
のんびりできる分、考え事をする暇のある仕事だ。
緩やかな地獄だと先輩は愚痴っていた。
僕はあくびをして、メリーの様子を眺める。
メリーは僕が見ているのに気がついて、そばに寄ってきた。
水槽に手を当てると、同じように水槽越しに手を重ねてくる。
鋭い爪、それに見合わない細い指先。
あんなに細いのに、少しの力で僕を水槽に引きずりこんでしまう力を持っている。
「そろそろ爪、切らないとなぁ」
本来、彼女のメンテナンスは彼女を眠らせて陸に上げてから行うらしい。
僕がひとりで担当するようになってからは、水槽でそのままメンテナンスをしている。
「掃除が終わったら、爪を切ろう」
僕が水槽から手を離すと、メリーは水槽の上に泳いでいった。
そろそろ彼女の水槽の掃除の時間だ。
僕はデッキブラシとバケツを持って、彼女の元へ向かう。
野生化の環境を模倣した造りの水槽には、陸地の設置がしてある。
陸地の清掃は毎日の仕事の一つだ。
陸地に足を踏み入れると、メリーが陸まで上がってきて手招きをする。
そばによると、鱗を一枚差し出された。
近頃は毎日こうだ。
貰った鱗に喜んだフリをして、胸ポケットにしまうと、メリーは満足そうに水槽に戻っていった。
今日で252枚目。人魚の治癒力ならば鱗を1日1枚剥がす程度は問題が無いと専門医が言っていた。大丈夫だとは思うけど、様子見中だ。
そういえば、人魚を食べると不老不死になるとかどうとか、そんな話を聞いたことがあったな。鱗だけでも、効果があるんだろうか。
まぁ、僕が不老不死になったところで・・・。
掃除を終えて、片付けを終えた僕は、メリーに声をかける。
「メリー」
すぐに水から顔を出したメリーは、僕のそばに泳いでくると陸に上がった。
「爪が伸びてるから、今日は少し爪を切らせてね」
僕はそう言いながら、彼女に爪切りを見せる。
『เหจวเขขจาลมช』
メリーの声は聞こえない、不安な顔でパクパクと口を動かしている様子だけが見える。
僕は耳栓を深く埋めみ見直して、メリーの左の手を取った。
爪切り鋏を爪に当てると、メリーの表情が強張った。
こんな爪で引っかかれたら、ひとたまりもないだろうな。
「いい子だね、大丈夫、すぐだからね」
僕なんて、簡単に振り払えるだろうに、彼女はぎゅっと目を瞑ってじっとしたままだ。
幼い子供みたいだなと思いながら様子を見ていると、不意に彼女が自らの右手を噛んだ。
「・・・待って、何してるの!?」
僕は慌てて彼女の自傷行為を止めに入る。
ストレスだろうか、どうして急にそんなこと・・・。
これまで何度か爪を切ったことはあるけど、こんな反応は初めてだったし、これまでの記録にもそんな記録はなかった。
「เหจวเขข‼︎ จาลมช‼︎」
「・・・っ」
止めようとするが、彼女はびくともしない。
彼女の白い腕から、とぷとぷと赤い血液が滴って地面に滲む。
「どうすれば・・・っっ!!」
焦る僕の手を、メリーが強く引っ張る。
錯乱状態になっているのだろうか。
急に水の中に引き摺り込まれて、視界を奪われる。
苦しい。何が起こってるのかわからない。
酸素を求めて口を開けると、大量の塩水が口に入ってくる。
目が痛い。鼻にも水が入っているだろう。
泳いで陸に上ろうともがいても、彼女につかまれた腕がびくともしない。
パニックになりながら、必死にもがいていると、柔らかいものに口を塞がれた。
「・・・・‼︎‼︎・・・っ!・・・‼︎」
苦しい。苦しい、苦しい、苦しい。
酸素を求めて喘ぐ口に、生暖かい液体が入ってくる。
心臓がドクドクとひどく脈打って頭がガンガンする。
「ごふっ・・がっ、ゴホッ、ごぼっ、ごっ、ごぼ」
水が気管に入っているのか、生暖かい液体が気管に入っているのか、咳き込むと余計に苦しくて、視界が暗くなっていく。
「・・・・・」
遠くなっていく意識の中、メリーが無邪気な笑顔で僕の耳栓を外すのが見えた。