【番外編】アンナの場合
宰相の子息の婚約者、アンナの話です。
伯爵令嬢のアンナは小さい頃からどんくさかった。走れば必ずこけた。オツムの出来も、兄や姉とは違って、今ひとつ。でも、本人は何事も一生懸命だった。唯一、人並み以上にできたのが、ひいお婆様が教えてくださったリュート。でも、ひいお婆様のお若い頃でさえ、既に時代遅れどころか、完全に過去の楽器だった。
そんなアンナも年頃になり、学園に入学した。周りの令嬢の半分は既に婚約者がいて、残りの半分も次々と婚約していった。
勉強の方も、一生懸命授業を聴き、予習復習をするのに、下から数えた方が早い。
「私って、何をやってもダメね。お兄様もお姉様も優秀なのに。でも、少しでも近づけるよう、頑張らなくでは!」
そう言って、今日も頑張るのだった。
その日、なかなか婚約者が決まらなかった最後の友人の婚約が決まった。嬉しそうに報告してくれる友人にお祝いを言いながら、アンナの心は沈んだ。「一緒に蛸壺に喜捨したのに、どうして彼女だけ……。いいえ、お友達の婚約が決まって、めでたいはずなのに妬ましく思うなんて! 私はなんて情けない人間なのかしら!」そう思って、さらに沈んだ。
家での夕食時、沈んでいるアンナに父は
「アンナは何事もゆっくりだからね。ゆっくり、婚約者を決めたらいいよ。それに、早く婚約者が決まれば良いというものでもないよ。『ゆっくり待てば大きな果実』って言うだろう。もし、本当にもしだよ、お相手が決まらなければ、ずっと、この家に居たらいい。この屋敷に居づらければ、王都の端だけど、小さな家があるから、そこに住んだらいいよ」
と言ってくれた。
「お父様は、ああ言ってくださったけれど、やっぱり私も結婚してみたい」
アンナはそう思うのだった。
そして、翌日、もう一度、蛸壺に喜捨した。
そんなアンナに転機がおとずれた。母親の古い知り合いのお茶会でリュートを弾いて欲しいと言われたのだ。ちょっと趣向を凝らして昔風のお茶会にしたいと言う。それにピッタリな楽器がリュートらしい。
アンナは自分で縫った昔風の衣装を着て、お茶会に行った。お茶会が終わった後、その家の夫人に「ゆっくり、できなかったでしょう」と別室でお茶をご馳走になった。
「無理を言って、ごめんなさいね。お願いしていた楽士が体調を崩してしまって、長引くそうなの。リュートを弾ける人は少ないでしょう?それでお願いしたの。
まあ、その衣装、アンナちゃんが自分で縫ったの?お上手ね。それに刺繍が素敵だわ。アンナちゃんのひいお婆様は刺繍がお上手でしたものね。きっと、その血を引いたのね」
一週間後、アンナに縁談の話が舞い込んだ。お相手は先日のお茶会の家の子息。宰相の子息だ。初めての顔合わせの時、
「何事も前向きに一生懸命に取り組んでる姿がいいな、と思ってたんだ。なんとか、お近づきになれないかと機会を探してた。だから、家に来た時にはびっくりしたよ。母の知り合いの家だったなんて!早く両親に相談すれば良かったよ。誰かに先を越されないかと、ずっと気を揉んでたんだ。間に合って、嬉しいよ」
と言われた。
それからは、図書室で勉強を見てもらった。少しずつ、成績も上がっていった。
卒業まで半年もない日、宰相の子息のクラスに転入生が来た。例の男爵令嬢だ。いつのまにか、男爵令嬢は宰相の子息に近づいていた。
男爵令嬢は、フワフワのピンクの髪をアンナに見せつけるように頭を振る。
「あの方はフワフワのピンクの髪。それに引き換え私は、、、」
兄も姉も金の髪。アンナだけ、父親譲りの薄い茶色だった。髪質もかため。
「いいえ、他人を羨んではいけないわ。それに、この髪は大好きなお父様と一緒ですもの」
アンナはそう言って、男爵令嬢の髪を見ないようにした。
家に宰相の子息がやって来た。
「ねえ、アンナ、昨日、姉のお供で宝石店に行ったんだ。そこで、アンナに似合いそうな可愛い髪留めを見つけたよ。是非、つけてみて」
そう言って、花の髪留めをつけてくれた。
翌日、アンナはその髪留めをつけて登校した。
「まあ、アンナ様、素敵な髪留め。婚約者のプレゼントですの?よく、お似合いですわ」
「本当。宰相の御子息はセンスがいいですわ。そんな髪留めを貰って、アンナ様が羨ましゅうございますわ」
男爵令嬢は宰相の子息に「髪が邪魔なら、取り敢えずこれを」と紐をもらった。
ある日、アンナは男爵令嬢が宰相子息の名前を大声で呼ぶのを聞いた。
「アンナ様、あの男爵令嬢、なんてマナーがなっていないんでしょう!家族でもなく、婚約者でもないのに、お名前で呼ぶなんて!」
確かに、アンナとしては婚約者の名前を他の女性が呼ぶのは面白くない。けれど、今迄、平民だったから、マナーがよくわかっていないのかも。
「今迄、平民でいらしたもの。平民は名前で呼び合うと聞いたことがありますわ。きっと、今から、いろいろ、勉強なさるのよ」
「まあ、アンナ様、お優しいのね。私なら、許しませんことよ」
「本当ですわ。お名前を呼んではいけないなんて、当たり前すぎることですのに!」
アンナの評判が高まった。
ある日、友人と歩いていると、宰相の子息が男爵令嬢と親しげに話していた。
アンナとしては、婚約者が他の女性と親しげに話すのはなんか嫌だ。いいえ、突然、貴族社会に放り込まれて不安に思っているはず。クラスに馴染めるよう、学級委員が相手をするのは当然ですわ。
「アンナ様、あの男爵令嬢、何をあんなに親しげに話しているのかしら?宰相の御子息が困惑気味ですわ」
「でも、彼は学級委員ですし、何かの相談かも」
「まあ、だったら、尚のこと、同性の私たちが相談に乗るべきですわ。あんにに親しげな相談が、あってたまるものですか。婚約者であるアンナ様を差し置いて、何を考えているんでしょう!皆様、行ってみましょう」
そう言って、友人は男爵令嬢に近づいた。
友人が二人の前に立つ。
「ご機嫌よう、何を話してらっしゃるの?」
「ああ、助かったよ。女性の流行りの髪型とか、私にはよくわからないからね。私の代わりに、教えてあげてくれないか?」
「ええ、よろしくてよ」
「さ、アンナ、図書室で今日の授業の復習をしよう」
そう言って、宰相の子息はアンナと図書室に行った。男爵令嬢は取り残された。
ある日、図書室でアンナが宰相の子息を待っていると、子息は男爵令嬢を連れてきた。
「彼女も勉強をしたいらしいんだ」
アンナは悲しくなった。互いの家を訪問しても、母親や姉妹などの家族の女性が付き添う。もちろん、図書室だって、他に利用者がいる。二人きりになんてならない。でも、家のように会話は聞かれない。別に、聞かれて悪い話をしたいわけじゃない。彼だって照れくさいのか、図書室でしか「アンナ、大好きだよ。愛してる」って言ってくれない。そんな大切な、婚約者と二人きりの時間なのに!
そんな風に思ってはダメよ。男爵令嬢もお勉強は苦手の様子。きっと、彼に教えてもらえば、大丈夫だわ。ここは、一緒に勉強する仲間ができたと喜ぶべきでは?図書室には勉強を教えてもらいに来てるんですもの。「愛してる」って、言ってもらいたいなんて、心得違いも甚だしいわ!
「一緒に勉強いたしましょう。よろしくね」
アンナは男爵令嬢と一緒に勉強を頑張った。
「アンナ様、お可哀想。せっかくのお二人の時間でしたのに」
「宰相の御子息も、伯爵令嬢との勉強を楽しみにしておられた。それをあの、男爵令嬢は厚かましくも」
「ええ、本当ですわ。でも、アンナ様、嫌な顔ひとつなさらず。熱心になさってるわ。それに引き換え、あの男爵令嬢、勉強もせず、宰相の御子息に話しかけてばかり」
アンナは不安になってきた。男爵令嬢は勉強を教えてもらいに図書室へ来ているのでは?なのに、何故、一緒に出かけようとか、話しているのかしら?それも二人きりで。だいたい、図書室はおしゃべりをする場所ではないはず。もしかして、男爵令嬢の目的は勉強ではなくて、、、
その時、誰かが前に立った。司書の先生だ。
「男爵令嬢、図書室はおしゃべりをする場ではありません。話したいなら、談話室のご利用をお願いします。退室を命じます。あ、宰相の御子息はそのまま、伯爵令嬢と勉強をどうぞ」
司書の先生は王族の血を引く公爵の妹。本好きが高じて、学園の司書をしている。普段は優しくて、本だけでなく、いろいろな相談に乗ってくれる。アンナも本の相談だけでなく、家族には言えない悩みなんかを、聞いてもらっていた。いつも、ニコニコ優しい顔の先生だ。その司書の先生が怖い顔をして立っていた。
男爵令嬢がおしゃべりを始める。司書に退室を命じられる。その繰り返しだった。
毎日のように、そんなことが繰り返された。いつしか、男爵令嬢は来なくなっていた。
「あの男爵令嬢、勉強はいいのかしら?」
「いいんだよ。また、二人で勉強しようね」
そんなこんなで、男爵令嬢は宰相の子息に付き纏わなくなった。アンナはそんな風に思ってはいけないと思いながらも、ホッとした。そして、蛸壺に喜捨した。
卒業パーティーの日、アンナは男爵令嬢の騒ぎ?を婚約者の宰相の子息と見ていた。騒ぎに驚いているアンナを宥めるように宰相の子息が腰を抱いてそっとアンナを引き寄せた。
私、今、とても幸せですわ。あの、侯爵の御子息が仰っていたことは本当でしたのね!