この惑星が自転していることの証明 1
「……はぁ。私本当に異世界に来たんだ……」
広く高い王宮の廊下の、その壁にかかっている絵画やランタンのような形状をした灯を見ながら、小坂は今日何度目かのため息をつく。元の世界ではまず見ないような豪華な廊下。それを見ると、少なくとも自分がいたところではないどこかに来てしまったことを実感させられた。
呼ばれたときは、混乱が先に来て実感がなかった。説明を受けているときも、隣に人がいたからかどこか浮ついた気分でいた。
しかし与えられた部屋に通されて一人でバッグの中の荷物を出していたら、急に不安感でもない恐怖でもない感情が胸の奥から湧き出してきて、たまらなくなって部屋を出たのだ。
目的の場所は特になかった。ただ自分でもわからない感情から逃げるように歩いていたら、異世界に来たという現実が自身の中で輪郭を帯びてきて、そして今抱いている感情がどうしようもない孤独感だということに気付いた。
しばらく廊下を歩いていると、ふいに横に半円状のバルコニーがあった。小坂は特に考えもなく、バルコニーに足を踏み入れて手すりにもたれかかった。
「わぁ、真っ暗」
外は暗かった。幼いころに行ったキャンプで、山の中で見た景色と似ていた。ただ、完全な真っ暗というわけでもなく眼下に広がる都のいくつかの建物には小さな明かりがともっており、またその後ろに広がる海に月の光が反射して鈍く光っていた。
なんとなしに上を見ると、満天の星空。現代で見た何よりもきれいな空だった。
「お父さんが見たら、腰抜かすだろうな……」
父は星空が好きだった。夏になると毎年のように山にキャンプに行き、そこでまだ小さかった自分に星の名前を教えてくれたものだ。おかげで今でも、星座の名前にとどまらず主要な星の等級まで覚えている。父がそんなことばかり教えるもんだから、そんな知識どこで使うんだと母が呆れながら言うのが毎年の恒例だった。
「お父さん……お母さん……」
しかしそんな父とも、母とももう会えない。
イムは召喚魔法には帰還が織り込まれていないと、申し訳なさそうに言っていた。変える手段がない。死別と同じである。
孤独感。
召喚されたことによって元の世界とのつながりを完全に断たれ、親も友達も知り合いも、好きなやつとも嫌いなやつとももう会えない。
それだけではなく、価値観を共有できる、元の世界を知っている人間は残りの三人だけ。今までアイデンティティを支えてきた文化が一切消え去り、全く違う巨大な世界に放りこまれ、小坂たちは今世界の誰よりも孤独だった。
「……ぅ」
これまで感じたことのないような孤独感にさいなまれ、小坂の心はいっぱいだった。せり上げてくる何かが視界をにじませているのに気づき、ついに耐え切れず瞳から零れ落ちようとしたその時――
「……ッ!」
後ろからカツンという音が聞こえ、振り返るとそこには抜き足で去ろうとしていた無花がいた。
■
嫌なところに立ち会ってしまった。
無花は目を赤らめている小坂の顔を見て、そう思う。
人は弱みを見られることを嫌う。小坂もその例に漏れないであろうし、人が嫌がることをするのは往々にして嫌なものだ。
「……いつからいました?」
「……お父さん、って呟いたころから」
小坂の問いに、無花はバツの悪そうな顔を浮かべ答える。
「見られたくないとこ、全部」
「……悪い。ちょうど通りかかって、まさか泣いてるなんて思わなかったから」
「別に。涙を見られたくなかったってわけじゃないけど。ただちょっと恥ずかしいかな……」
無花は小坂の隣に移動し、手すりにもたれかかる。小坂の顔をこれ以上見ないようにするための配慮でもあった。
さぁ、と静かな風が吹き、無花は「おお、寒」と体を震わせる。無花は今、元々来ていたトレンチコートを脱いだ格好。冬の寒空には少々心もとない服装だった。
「寝間着は着ないの?これ結構あったかいけど」
「ん、寝間着?そういえば小坂、来ているの違うな。もらったの?」
「部屋に会ったじゃん。……てか今までどこで何してたの?」
小坂はもともと来ていた制服ではなく、毛で織られた厚手の部屋着を着ていた。明らかにこの世界のものとわかる粗悪な(現代のものと比べてだが)服だったが、無花の今の格好よりも暖は取れそうだった。
「あー、部屋か。ここの書庫を漁ってたから気づかんかったな。まあ漁ってたって言っても文字が読めなかったけど……」
「……無花先輩ってもしかして、バカな天才?」
「バカな天才ってなんだよ。バカかどうかは置いといて、少なくとも天才じゃない……、というか言葉は通じるから文字も読めると思ったんだけどね」
「あっ、そっか。そういえばここの人と会話はできてるね。不思議」
言葉は通じるけれど、文字は読めない。召喚魔法の効力と弊害なのだろうか。
会話が途切れ、しばらく静かな空気が二人の間を流れる。
そもそも無花の方には和やかに会話をしようという気が全くない。ゆえに小坂の方から会話を切り出すことがなくなれば、そうなるもの必然だった。
「……泣いていた理由、聞かないの?」
唐突に、小坂がぽつりと無花に問いかけた。
普通人が悲しんでいるとき、それが知り合いだったら理由を聞き励ましたりする。何故そうしないのかという純粋な疑問。
無花はその問いに、質問で返した。
「聞いてほしいの?」
「いや、そういうわけじゃないけど……、普通聞くじゃん」
「……理由は、そうだな、……聞いた後で、それに対して何かができるとは思えなかったからだ。聞くことによって責任が生じる。俺は人の事情に対して責任を持てるほど高尚でもないし、持ちたくもない。だから無責任なことはしないようにしたんだ」
無花の答えは小坂を突き放すような、冷たいともとれる答えだった。
責任を持ちたくないし、持てない。それは小坂に対し、全く興味がないと言っているのと同義。しかし無花は冷酷だったわけではなく、自らの能力の評価と問題の難しさに対して、冷静に判断を下したに過ぎなかった。
そして同じように可哀そうだとか虐めてやりたいとかそういう感情的な理由からではなく、冷静な判断の基に言葉を続ける。
「まあただ、特に解決を求めていなくても話すだけで気持ちが楽になることもある。本当に聞くだけだったら聞くけど」
「なにそれ」
言って小坂はふふっと笑う。
これが無花なりの、励まし方なのかと思って。理論で生きる人間の、優しさの形なのかと思って。
「……見て、星がきれい」
小坂はそう言い、それを指して上を向く。無花もつられて上を見ると、「おぉ」と感嘆の声をもらした。
「すごいな。さすが異世界。もしかしたら元の世界のどこよりもきれいかも」
「でしょ?……お父さんは星が好きでね、夏になるといつもキャンプに行ってたの。それを思い出して、悲しくなっちゃった。もう会えないんだなぁと思って」
小坂がつらつらとしゃべり出す中、無花は口を挟まなかった。ただ、聞いていた。
「私もそれでつられて、星の名前を憶えててね、キャンプに行った時に他の子たちに教えてたりもしてたんだ」
「小坂も、星が好きなんだな」
「うーん、特別好きってわけじゃないんだけどね。でもすごいって言われるのが好きで……あっ、私の初恋の人がすごいほめてくれたってのもあったのかな」
あそこまで覚えたのは、と小坂は呟く。
「初恋の人?」
「うん。まだちっちゃいころキャンプで一緒になって、遊んでるうちに仲良くなって一緒に星を見たんだ。それで私がお父さんから聞いたことをいろいろ話してると、すごいねってほめてくれて……、子供って単純だから、また星を見ようねって約束して、それから星の名前を覚え始めたんだ。結局次の年には会えなかったんだけど……」
「初恋は実らないってやつか」
「ふふっ、そうだね」
余計なことまで話して気分がはれたのか、小坂の目からは涙がすっかり引いていた。心なしか表情も柔らかく変化している。
初恋の思い出を話す小坂を眺めつつ、無花は自分にはそういう思い出がなかったなと昔を振り返る。
何せ中学生になるころにはもうあそこに入学していたし、そのころには天才を超えるための努力をもう始めていた。恋愛にうつつを抜かす暇など一分たりともなかったように思える。
――いや、一つだけあったか。
無花が才能を超えようと努力し、それに人生を捧げようと決意した元凶。幼馴染にして超えるべき目標だった、彼女。
切磋琢磨し合うライバルだったこともあり、また超えるべき壁だったこともあり、無花は彼女に対して憧憬やその才に対しての畏怖などを抱くことが多かったが。最初に抱いたのは、憧れや尊敬などではなく。
「好意、だったのかも。子供は単純だから、な」
「えっ?なになに?何のこと?」
「俺の初恋のことだよ。お前にゃ教えないけど」
「えー、ずるい!私は言ったのに!」
膨れる小坂を横目に、無花は彼女を思い出す。
もう二年近く会っていないが、その輪郭はいまだにくっきりと思い出せる。何せ半生に亘る人生の目標だ。忘れるわけもない。
初めて会ったときその才能の一端に触れ驚かされたことも、それからどうやってか彼女を超そうとするも一度も勝てなかったことも、そして――彼女に勝つために自らのできるすべてを捧げようと決意したことも。
『――お前に勝つまで、俺は挑戦をやめない。せいぜいほえ面をかかされることを覚悟しておくんだな』
『それは楽しみだね。じゃあボクは、その時が来るまで絶対に逃がさない。……いつまでもボクを、楽しませてくれよ』
あそこに入学する前に、そんな会話をした。結局のところ彼女に勝つ前に無花は諦めてしまったが。
きっと彼女は覚えてはいないだろう。彼女は忘れっぽいし、研究所には無花を超える天才なんてごろごろいた。彼女が無花に固執していたのは他にましな人間がいなかったからだろうし、入学した後は無花に対しての興味も薄れていたのだろう。話しかけてくれていたのは幼馴染だったからだろうか。リタイアしてから連絡がない事を考えても、きっと彼女は無花がいなくても気にしていない。才能もない自分の事など、天才の彼女は気にしてはいけない。
負け逃げになってしまったな、と無花は思う。日本に帰った時はまだ戻るという選択肢をとることもできたが、異世界に来てしまった今となってはもうそれもできない。
初恋は実らない。そして約束も叶えることが出来なかった。
「――その時は珍しく冬だったんだけど、ちょうどこれぐらいかなぁ」
小坂の言葉に、昔の思い出から意識を引っ張り上げられる。そういえば会話の途中だった、と無花は思い出した。
「カシオペア座、オリオン座、ふたご座、おおぐま座。そのころ知ってたのはそれぐらいだったかな。今じゃもっと知ってるけどね。私はふたご座が好きだった。神の弟と人間の兄の物語。素敵じゃない?」
「神のポルックスは人間のカストルと一緒の死を得られない、か」
「そう。よく知ってるね」
神の子であったポルックスと人間の子であったカストルは、腹違いの双子であった。不死性を持っていたポルックスが、最愛の兄であるカストルと同じ時を生きられないのは自明だった。
戦いでカストルが死ぬと、ポルックスは神ゼウスに懇願した。「共に兄とありたい」と。そうして寄り添う双子の星座が生まれた。
「……ここが地球ならあのへんか」
そう言って無花は真上の空を指さす。
冬の天の川にかかるようにして存在するふたご座。何の因果か元の世界でふたご座があるべきそこには、いくつかの明るい星が存在していた。
「……似てるな」
「え?」
「あれ」
つられて上を見ていた小坂が、疑問の声を上げる。無花が指さした先には、一際輝く一つの星があった。
「ポルックスに似ているだろ?近くにあるのの中でトップで明るい。すぐ隣にカストルがある」
無花は指を少し動かし、その先にポルックスには劣るものの明るく光る星があることを確認する。ふたご座の中で二番目に明るい星、カストル。それに酷似している。
「確かに……周りの星を繋げると、ふたご座っぽいかも」
「だろ?……あれは何に見える?」
無花はそう言い、ほぼ地面と平行に指をさし小坂に問いかける。
指の方向にはひときわ明るい星が五つほど輝いている。もっとも下にある星から順に上に線をつないでいくと、
「柄杓みたいな……もしかして北斗七星?」
「正解。上からドゥベ、メラク、フェクダ、メグレズ、アリオトに酷似している。メグレズだけ比較的暗いのも一致してる」
「三等星だから……」
「そう。よく知ってるな」
下の部分は木に隠れて見えないが、あの星の並びは北斗七星に酷似している。北斗七星の星の内、他が二等星でメグレズだけが三等星なのも明るさを見ると同じだ。
「んで、メラクとドゥベの間を大体五倍して横にずらすと、」
「……ポラリス」
「そう、北極星。……あれだな」
無花は北斗七星を指していた指をツーっとずらし、ちょうど五倍のところでピタッと止める。刺した先にはドゥベと同程度に光る星が一つ。
二等星、ポラリス。
「んであの上の方にあるMの形に並んでるのが、カシオペア座だな」
「左からカフ、シェダル、ツィー、ルクバー、セギンだったっけ」
「そうだな。これもセギンが一番暗くて、一致する」
「……無花先輩、星覚えすぎじゃない?」
子供のころから教え込まれてきた自分はともかく、なぜ無花がそこまで星座を知ってるのかと問いかける小坂。
「小坂も知ってるじゃない」
「私は昔から教えられてただけで……」
「まあ俺も似たようなもんだよ。星座を見つけられたのは偶然だしね」
煙に巻いたような答えに、じーっと無花を見つめ視線で問い詰める小坂。しかしそれ以上の答えは得られないと判断したのか、再び視線を星空に戻した。
「……異世界の、しかも別の惑星で星座が一致することなんて。偶然?それとも微妙に違ってるのか?でもその割には星座の相対位置も一緒といっていいほど似通っているし。……あれは見えずらいけど、デネブかな」
「壁で一部が見えないけど、あれ秋の大四角形っぽい。冬の大三角形は……うーん、見えないかなぁ」
「見ようによってはおおぐま座も見えないことはないし、あれは多分カペラかな。アンドロメダもどっかに……」
無花はそれから小坂と一緒に星座を探したり星の名前を当てたりして、「そろそろ戻るね」と言って小坂が部屋に戻ってからも星空を観察し続けた。