異世界を把握するためにすべきことの証明
不思議な人だ。部屋に入り一目見たとき、イムはそう思った。
そしてその直感は外れておらず、こともあろうに教会の象徴であるイムを脅しにかかったのだ。本人は怒っているという体で話していたが、あれは多分本心から起こっているわけではない。教会の権力闘争にもまれたイムは、そういうのに敏感だった。
そして今。厚かましくも最初のお願いを行使した無花とともに、イムは王城の書庫に来ていた。何でも現状把握をしたいとのことだ。
だが
「うーん、不味いな。字が読めん」
「えっ」
無花の呟きに驚くイム。会話が通じているのだから、てっきり召喚の作用で文字も読めるのだと思い込んでいたからだ。
魔法自体は昔から教会に保存されていたのだが、以前に使われたのははるか太古。イム達の文明が異世界人と遭遇するのはこれが初めてと言っても過言ではない。召喚された異世界人のことは、何もわからないというのが現状だった。
「イム、ここにあるのってなんだか教えてもらえる?」
「はい、この棚は主に植物や動物、魔獣に関しての本がありますね。これなんかは『植物全集』と言って――」
そう言いながらイムは本棚から一つの分厚い本を取り出そうとし、よろめく。咄嗟に無花が腕を回し、イムを支えた。
「っと、危ないな。……本をとるときには俺に言ってくれ。俺がとるから」
「あ、ありがとうございます。……お優しいのですね」
聖女という役柄のせいもあり、こういった普通の優しさを向けられることも少ない。そんなこともありイムは、無花の優しいともとれる言葉に少し照れながら感謝する。
しかし、無花はイムの礼の言葉に応じず「いや、」と否定の声を上げた。
「優しいとはちょっと違う。単にそう、そうやって本を取るたびによろけられたら効率が悪いしな。それに俺の頼んでいることだから、俺がとるのが当たり前だ」
「はあ……」
やっぱり不思議な人だ、とイムは思う。無花の表情や声を聞く限り照れ隠しというわけでもなさそうだし、かけられた言葉もどこか独り言の様だ。
まるで自分のルールを再確認しているような。
「で、植物大全だっけ。それにも興味があるが、今欲しいのはそういうものじゃなくて、そうだな、社会構造とか歴史とかの文献があれば……」
「……イチカさんは何を知りたいのですか?」
無花の質問には答えず、逆にイムは質問を返す。
「文献も読めないようですし、私に質問してくださればおおむねの事はお答えできると思いますが……」
「んー、まあもっと総合的に知りたかったんだけど……、読めないならそっちの方が効率がいいか。じゃあいくつか質問させてもらうけど」
「えっ、ここでですか?」
立ったまま会話というのも長引くと辛い。「じゃあ」と二人は、書庫に唯一置いてあった古びた机に向かい合って座る。
「それじゃあ質問させてもらう。答えたくないものはこたえなくて結構」
「えっ、私のプライベートの事とかはなしで……」
「……いや聞かないですよそんなこと、興味もないし」
両手でバッテンをつくるイムに、呆れながら無花が言う。
「まず、今は何年?」
「神歴……というのがありましてそれの7528年です」
「7528年か。長いな。……日付は?」
「この国では一年を365日12か月に分けた歴が使われておりまして、今日は12月18日ですね」
「貨幣はある?」
「国が発行しているものと教会が発行しているものがあります。どちらも銅貨、銀貨、金貨、白金貨などの種類があります」
「へえ、材質は同じなの?」
「大体は」
「なるほど、教会が強めか。……じゃあ」
「――あの、一ついいですか?」
無花から放たれる怒涛の質問に、これは長くなりそうだとイムが質問を遮る。長くなるのは別によかったが、イムも一つだけ聞いてみたいことがあったのだ。
「イチカさんは一体何を知りたいのですか?さっきの質問も特に一貫性もありませんでしたし……」
「なにを?決まってるだろう。――全部だ」
「は、全部?」
無花の回答に、イムはきょとんと呆けてしまう。全部、それは何とも要領を得ないあいまいな答え。
さすがに無花もその一言で理解してもらえるとは思わなかったのか、「うーん」と唸り考える様子を見せる。
「――イムさ、この世界の平均寿命ってわかる?」
「平均寿命ですか?すいません、少しわかりかねますが……」
「そう。まあこれは俺の何の根拠もない考えなんだけど、大体50歳ぐらいまで生きれば御の字だろう?中世ヨーロッパの、乳児死亡を含まない平均寿命は大体それぐらいだ。80行けばびっくりの長寿。違うか?」
「え、ええ。はい。まあ大体あっていると思います」
イムは無花の推測がほとんど当たっていることに驚く。
人間種であれば、小さいころの体の弱い時期を生き抜ければあとは大体40から50まで生きる。恵まれた地位にいる例えば貴族などはもう少し長く、80まで生きれば奇跡と称えられることもあった。
しかしイムの驚きも冷め止まぬまま、無花の更なるひところに言葉を失うことになる。
「――俺のいた国の平均寿命は80を超える」
「!?」
「事故や大きな病気にかからない限りほとんどの人間は70~80まで生き、100を超えるのも珍しくない」
「それは……」
どういう世界なのだろう。ほとんどの人間がこの世界の奇跡まで生きる世界。100を超えるというのも、異種族でしか聞いたことがない。
「つまりそれほど医療衛生などの面に関して優れていたといっていい。……それを奪われたんだ。俺らはこのままじゃあ、元の半分しか生きられやしない」
「……」
無花の言葉に、イムは何も言い返すことが出来なかった。100まで生きる。彼らに当たり前にあった権利を奪ったのは、他でもない自分だったから。
「ああ、別にイムが悪いってわけじゃない。それに国も。……自らの利益のために他人の利益を奪うのは、別に悪いことだとは思っていないからな。ただ、俺らは不幸だったってだけだ」
「……すみませんでした」
「だから悪いと言っているわけじゃない」
いくら無花自身がそう言おうとも、イムの中に生まれた罪悪感を消すことはできなかった。そして無花も、それを分かっているようだった。
悪いとは思っていないと言ったものの不幸に対する嫌味のつもりなのか、それともイムが罪悪感を持つことに対して何も思っていないのか。
イムは後者だろうな、とそう思う。少し無花と会話をし、思った以上に彼が不思議だということが分かってきた。そして基本的に、他人に対して自分の考えを必要以上に押し付けない所も。
イムがしゅんと落ち込んでいるのをちらりと見て、無花は「はぁ」と息を漏らす。
「で、俺ら……俺と小坂は何か月か後に追い出されるんだろう?だからこの世界でまず生きていけるだけのものを手にしなければならない。それが知識だ。イムは世界が違うということをまず甘く見ているようだが……」
無花はぐるりと書庫を見回す。無花にとって見慣れない文字で綴られた本の山を。
「俺にとってはここは全くの未知だ。まず召喚魔法ってなんだ?そもそも魔法の概念が理解できない。この世界で俺の知る物理法則は成り立っているのか?国の仕組みは?通貨の仕組みは?物の価値は?学問の進みは?この星の気候は?この星は丸いのか?そもそもこの世界の人間ってのは俺らと同じなのか?……俺らの世界で常識だったことが、ここでは全く通用しない」
イムは無花の言葉について考える。おおよその人間が80歳まで生きる世界。それがイムに想像ができなかったように、無花もこの世界の何を想像することが出来ない。今まで自らを支えてきた地盤が崩れ落ち、一人全くの暗闇の中に投げ出されようとしている。
「この世界を生き延びるためには、それなりに優秀でなければいけない。が、俺はあいにくそうではない。だから知る」
イムには無花が優秀でないとにわかに信じられなかったが、無花のその言葉には謎の説得力があった。言外に、だ。
「イム、俺はね、知識というのは何よりも強い武器だと思っている。知っているのといないのとでは、大きく違う。知識は才能のアドバンテージを容易に覆してくれる。アリストテレスが素粒子論を知らないように、アインシュタインが量子力学を理解しようとしなかったように。だから俺は、知るべきなんだ」
「――!」
イムは無花の一連の言葉に、大きな衝撃を受けていた。
無花は自らが理不尽で異世界に連れてこられたということをしっかりと理解したうえで、それでも理不尽に怒り苛立つのではなく、すべきことを冷静に見据えている。
果たして自分は、無花と同じ状況に置かれたときにこうも完璧に行動できるものだろうかと思う。
「……分かりました。私も呼んだ手前、手伝わせていただきます」
「ありがとう、よろしく頼む」
自らが自らのエゴのために無花たちを呼んだのだ。無花が「知る」ための協力を惜しまないでやろう、とイムは思う。
そしてその日、イムと無花の質問の応酬は深夜まで続いた。