幕間 1
「――どういうことか、教えてくれるかな?理事長」
アメリカ某所、巨大な研究機関のとある一室。
彼女は目の前の、初老の男が座る机をバンっと叩く。ともすれば世界中の誰よりも権力を持っているだろう男を目の前にしても、彼女は微塵も臆する様子を見せてはいなかった。
その傲慢さは彼女の怒り故か、それとも才故か。少なくともこれぐらいのことでは咎めることすらされない何かを、彼女は持っている。
「少し落ち着きたまえ、Dr.Tachibana。……君らしくもない」
「なぜ彼が、本当に退学になったんだ。あれぐらいの不正が、君らにわからなかったわけでもないだろう」
「もちろんわかっていた。すぐに対処もした。しかしね……」
理事長と呼ばれた男は、机に置いてあった一つの書類に目を移す。
それは彼の成績表に等しい書類。彼、天津無花。科学的に立証されてしまった「凡人」にして、しかし研究所きっての成績を残してきた男。そして先日、研究所の教育機関を退学した者でもある。
「……よくもまあこんなものを作った。彼の疑似成績表なんかを……」
「審査員は全員知っていた。彼の課題はアーカイブに残っていたから。そう間違っていないでしょ?」
「ああ、恐ろしいほどに一致している。……恐ろしいほどに」
教育機関で出される課題は単なるペーパーテストだけではない。体術や芸術、その他総合的な問題解決能力などを問われ、その評価もおおむね審査員に任せられる。もちろん項目などは存在するが、その評価をぴたりと当てるのは不可能に近い。
しかし――彼女はできた。
おそらく他の受験者の様子から評価項目を絞り、審査員の心理的な特性――どのようなことを好み、嫌うか――を分析して導き出した答えなのだろう。まさに天才の中の天才と呼ぶにふさわしい。
多くの才ある研究者を見てきた男にしても、まさに恐ろしいと感じさせるほどの才覚だ。
「話をそらさないで。ボクはなぜかと聞いてるんだ」
「ああ、そうだったな。……端的に言えば、彼は自ら出ていった。だからいくら不正があったという事実が暴かれたところで、彼を戻すことはできない」
「自主退学……?」
橘は男の言葉に怪訝な顔をし、その様子に男は少し安堵した。ああ、彼女にも考えの及ばない事があってくれるのだと。
正直な話、彼女はすべてを知っていてそのうえで責められているような気もしていたのだ。
「彼は結果が出た翌日に退学届けを出し、その後帰国した。退学届けは事情が事情だけに私の権限で差し止めたが、彼とはその後一切の連絡がつかない」
「あらゆる手段を使っても?」
「一般人に、あらゆる手段を用いることは認められない」
男の持つ権力を使えば不可能なことはほとんど存在しない。しかし、権力の行使には相応のリスクが伴う。
男の回答に、橘は不愉快そうに顔を顰める。
「わかったよ。それ以上聞いても、ボクにはなーんも教えてくれないんだろう?じゃあいいさ」
「……」
「邪魔したね」
放たれた不穏な言葉に反論する暇もなく、橘は踵を返し部屋を出ようとする。きっと彼女はこれから、不正騒動や男が隠していることを調べ、そして見つけてしまうのだろう。それは彼女にとって、赤子の手をひねるほど簡単なことに違いないのだから。
「……一ついいか?」
去り行く橘の背中に、男が一声かける。橘はその声に振り返りもしなかったが、足を止めた。
彼女と交わせる最後の言葉。これで興味を引けなかったら、研究所に訪れる未来は暗いものになってしまうだろう。さてどういえばいいかと男は一瞬迷い、そして口を開いた。
「――異世界というものに、興味はないかね?」