十七話 異邦の美少年
「んじゃ、また一か月後ね。亜真人クン」
「はい。それでは」
それ以上何も言うことなく、本土出身の後輩は踵を返した。学園の敷地を出てからも彼女が来ていないということは何処かしらで待ち合わせでもしているのだろう。
一か月後にまた会える保障はないというのに、そそくさと人混みに紛れて見えなくなった亜真人に思わず苦笑がこぼれた。
「本土出身っつってもやっぱ魔法使いの血かね。ドライっつーか……」
「いいからさっさと行こうぜ。時間になる」
「……ああ」
伊吹が放したフクロウが森の方角へ飛び去るのを見届け、何の気なしに街を見やる。普通に考えれば野生のフクロウが街中を飛び回っているのも奇妙なものだが、この島で暮らす人々は良くも悪くもいつも通りでないものに慣れてしまっている。
フクロウがああも低い位置を飛ぶものだろうかと思いながらも、伊吹が何も言わないのならばそういう種なのだろうと納得することにした。
そうして誰もフクロウを気に留めなくなってから暫くして、それは高度を上げ、体毛を保護色に変化させる。注視しなければ気づかぬほどの魔力の尾を引いて、生物ではあり得ぬ速度で森へと飛翔した。
ビル街を歩き島のランドマークになっているタワーの元まで来ると、エントランスを通ってエレベーターに乗る。白衣の内ポケットからカードキーを取り出して、本来ならば階層表示がされるだけの黒いパネルにかざすと、一度水平に慣性が働いてから上昇を開始する。
エレベーターが関係者専用のルートに切り替わったため景色を眺めることもできず、壁とのにらめっこを六十三階分も続ける羽目になる日常にも最近は慣れてきた。いっその事自室のバルコニーまで飛行魔法で飛びたいものだが、タワーの景観のために生活感のある構造は少なくとも外からは見えないようになっているせいでそれはできない。
エレベーターがあるから何とかなるものの、営業時間外になると三つあるうちの二つは停止し、残り一つもメンテナンスなどがあると使えなくなるせいで、階段を使わざるを得ないこともある。家賃が安い上に魔法を使えるからとすかしていた鼻面を見事に殴られた気分で六十三階分登ったのは記憶に新しい。
そこまで考えたところで芋づる式に思い出すことになるのがこの先に待つ新たな問題。
何故わざわざ面倒事の種を自分で招き入れたのか考えれば考えるほどに分からなくなる。もしかしたらその答えを自分は既に持っていて、目を逸らしているだけではないのか……。などと思案するうちに下向きの慣性を身に受け、パネルに六十三の数字が表示された。
慣れた足取りで部屋の前まで来るとカードキーをかざして電子ロックを解除する。
玄関に自分以外の靴が二組揃っているが、それは知っている。自分の靴もそこに並べて歩を進めると、ベッドに背を預けてスマホをいじる見知った顔、南海の姿がそこにある。普段は人のベッドに勝手に乗って寝そべってすらいるが、そうはしていない。理由はもちろん、悩みの種がそこに今朝と変わらぬ姿で横たわっているから。
「おかえり」
「ああ。目、覚ましたか?」
「全然。脈拍も脳波も安定してるけど意識がどこかに行ってる、みたいな」
「無理にでも起こすか」
「本気?引き渡すなら意識ないほうが良くない?」
「…………こいつは引き渡さない」
南海はじっと亜真人の目を見つめる。
「不法入国者を匿えば罪に問われるよ……あんたも私も」
「分かってる。でも、目の前の可能性を逃したくない。見つけた時の状態からして多分こいつは世界樹を通っていない。何かヒントがあるはずなんだ。安全に世界を渡るヒントが」
「…………」
俯いて何かを考えた後、南海は立ち上がって後ろを向いた。
「構えて」
「よし。いつでも」
仮に相手が敵対的な反応を示してもいいように、亜真人は魔法陣を二つ描く。
南海がベッドに横たわる男の胸部に魔法陣を描き唱えた。
「《引醒再起》」
掌から発射した魔弾が男の胸を優しく打つと同時に魔法陣が起動し、その体が電気ショックを受けたように小さく跳ねた。
続けてカーテンを閉め切った窓がどんと揺れた。
二人とも一点を警戒していたため、意識外の出来事に肩をびくりと震わせた。
男から目を離すわけにもいかないため、亜真人が探知用に魔力を飛ばして確認するが鳥らしい反応が引っかかるだけだった。
緊張と魔力不足から、平衡感覚を失いそうになりながらも亜真人は南海を下がらせる。
男の上体がゆっくりと起き上がった。
男は何事か呟いてから二人を睨むような目つきで振り返り、舌打ちした。
「――っ!」
亜真人は即座に魔法陣を起動し、臨戦態勢に入ろうとし――、
「ぁー……ヤメロ」
そう言葉を発した男の指の一振りで魔法陣が解かれた。
「な……」
「あー、チョットマテ」
片言な日本語で言う男は、手の上に魔法陣を描いてコロコロとその形を変形させていく。
魔法陣が破壊されたのではなく解体されたと認識するのに時間がかかり、亜真人は動くことができなかった。
その、戦闘ならば致命的、この距離においてはもはや既に敗けている一瞬の間に体を向きなおし、ルービックキューブの最後の一面を揃えるかのような滑らかさで、恐らくは本人も知らなかったであろう魔法陣を描き上げた男が再び口を開いた。
「あー、あー。テスト、テスト。……通じてるか?」
身構えたまま二人が首肯する。
「良し。ならひとまずはいい。ったく。いきなり窓に叩きつけやがって……。ん?あぁ、身構えるな。害意は無い」
男は両手を挙げて敵意が無いことをアピールする。
亜真人と南海は互いに顔を見合わせてから構えを解いた。
「何か言ってくれないか?翻訳が上手く機能してるか不安になる」
「…………名前は?俺は亜真人。こっちは南海」
「スメラギだ。ある男のせいで科学界に飛ばされた」
「……?」
男の言葉に亜真人は眉根を寄せた。《スメラギ》というのは音のアクセントからして《皇》ということだろうか。
「その名前、日本人か?」
「は?どこだその国」
名前はどう考えても日本人だが、その名前の地球人が日本を知らないというのは考えづらい。身体を調べた通り純正の白人らしい。
「どうやって科学界に入った?許可証を身に付けなければ今頃帝国軍に拘束されてるはずだ」
「そんなことより何か食い物は無いのか?調理器具ばかりで何もないな、ここは」
「なんで起きたばっかで冷蔵庫の中まで把握して…………いつから起きてた?」
「魔法使いがタダで手の内を明かすか?」
表情らしい表情を見せない男の顔を殴ってやりたい気持ちになりながらも、スメラギから情報を引き出すためには従うべきであると強引に納得する。
「南海」
「何も買ってない」
「…………仕方ない。食いに行くか」
「…………」
「…………」
「…………」
亜真人の自宅から徒歩五分ほどの場所にある飲食店の個室に、鍋の沸き立つ音が鳴り響いていた。
鍋は仕切りで区画が四つに分かれており、それぞれに異なる出汁が入っている。うち一つは他よりも明らかに水位が低い。取り敢えず注文したが一度使ったきりの豆乳よりも、である。
店員が運んできた薄切り肉を三枚まとめて出汁にくぐらせ、ごまダレにつけて一口に食らってスメラギと名乗る男は口を開いた。
「で、何から聞きたい?」
「なんで箸が使えてるんだ?」
「見たからだ」
「いつ?」
「今日」
「どうやって?」
「…………幽体離脱みたいなもんだな。意識と知覚を肉体から切り離して運用する魔法。魂魄学で言うところの幽体離脱とは少し違うが」
スメラギは更に肉を三枚頬張った。
南海が言う。
「日中は私が見てたけど魔法を使った痕跡は無かった」
「なら俺の勝ちだな。探知できないほうの落ち度だ」
浮いてきた灰汁を抜きながらスメラギが言った。
「次。何が目的でここ来た?」
「それは言っただろ。こっちに飛ばされたんだよ。目的なんてあるはずない」
「そこだ」
「は?」
「どうやって世界を渡った?世界樹を通らずに渡航するのは不可能のはずだ」
「不可能、ね……」
「なっ……!」
スメラギが空いた左手の指先で描いて見せた魔法陣を見て、亜真人は言葉を失った。
中空に描かれた魔法陣は紛れもなく開発中の世界渡航術式であった。
「不用心が過ぎるってもんだろ。研究室には鍵くらい掛けとけ。さて――」
スメラギが箸を置いた。満腹を表す所作にも見えるそれはしかし、単に皿が空になったというだけのことである。
「術式からして恐らくこいつは限定魔法にしてしまえば簡単に成立する。だがその代わりに誰にも使えないゴミになる」
「なぜ分かる?」
「もうできたからだ」
手のひらの上で魔法陣の細部を目まぐるしく変化させ、やがてぴたりと止まった。
その形は自分のよく知るものと酷く似ているが、明確に異なる点があった。文字だ。自分の知らない魔法文字。解読可能なものが十と四、内五つは体得し実用している。そのどれにも掠りすらしないそれは、一見すれば文字なのかも怪しいが、紛れもなく魔法文字の一種であるということを魔法陣としての整合性がどうしようもなく示していた。
「……………………」
「……………………」
隣で口を挟まずにいた南海も開いた口を閉じるのを忘れていた。
目の前で起こったことは本来あってはならないことだ。魔法を学んだ者、殊に魔導幾何学に触れた者ならば一つの例外も無く知ることになる机上の空論。即ち、「整合性が取れるまで術式を組み替えれば魔法陣が成立するのではないか。されば限定魔法すらも一定の期待値で生み出せるのではないか」。魔導幾何学の初等理論成立中期より謳われ続ける幻想である。
そういった類の想定外が二人の思考リソースを占有していたのだ。
「いったいどうやって……」
「別にこんなことに価値なんて無い。自分じゃ使えないんだからな。それよりも、こいつがちゃんとした形で完成すれば世界渡航は可能になる。だが、今のままじゃお前はいつまで経っても完成できない。お前はもう完成形の一つをその目で見てしまったからだ」
スメラギの言う通り。行き詰まった研究はたとえそれが望まない形であっても、完成形が見えるとどうしてもそちらに引っ張られるものだ。
今後亜真人が研究を続けたとして、辿り着くのは誰にも使えない無用の長物。それはもはや失敗と同義である。
研究が頓挫するだけならばまだいい。だが、魔法が完成しないことは亜真人がこの島に来た意味を失うことになる。逃げてきた意味を。
「さて、そこでだ。俺はどうもここじゃ密航者として扱われるらしい。捕まれば冒険者である俺はどうなることやら」
疲れた脳に鞭を打つように思考を巡らせ、亜真人はスメラギの言わんとするところを理解した。
「研究を手伝う代わりに匿えって?」
「完成すればそいつで向こうに帰るしお前は一人で研究を完成させた。これで文句はないだろ」
亜真人は隣で黙って聞いている南海と目を合わせた。
意図を察したらしい南海が言う。
「私は多分、大丈夫。時間も無いし今は亜真人が優先」
「…………」
しばしの逡巡を経て、スメラギに向き直った。
「――単独行動は禁止。目立つような魔法は使うな。どうしても使う時は俺が端末になる。それと……」
「それと?」
「…………俺の研究は断じて一人でできたものじゃない。絶対にな」
「そうか。じゃあ成立だ」
そう言ってスメラギが多重魔法陣を描いた。亜真人も南海も見たことの無いものだ。
「手を出せ。利き手じゃないほうだ。俺とお前の魔法器官を接続する」
亜真人が黙って左手を差し出すと、スメラギがその手を包むように魔法陣を重ねた。
「お前、いつもどうやって魔力を感知してる?」
「目と鼻。鼻が七割くらいか」
「鼻……珍しいな。なら右目がセンサーで…………」
スメラギは描いた魔法陣の細部を弄っている。幾何魔法の運用方法としてはかなり非効率的なやり方だ。
「なんなんだこれ?不便過ぎる」
「だが結果的には正解だ。お前みたいな少数派を含めてあらゆる型に対応できる。それに消費魔力が少なく済んで制御も楽」
「うわ……気持ち悪」
突然左手の内側、骨の内部とも言えそうな深い部分に何かが侵入するような感覚を覚えた。
「お前の左手と俺の左手を接続した。左手で出力、右目で制御できるようにな。これならいつでも魔法が使える」
気づけば、亜真人の右目は以前にも増してはっきりと魔力を感知できるようになっており、左の掌に自分のものではない異質の魔力が混じっているのがわかる。
「俺はてっきりスメラギの魔法を俺が使うのかと」
「違うな。俺がお前で魔法を使うんだ。俺の魔法が使いたきゃその右目で見て盗むんだな」
妙に癇に障る物言いであったが、実際にはこのほうがいいのだろう。見た限りではスメラギには魔法の型といったものが見られず、どれも複雑な術式であるため、伝聞だけでの再現は難しい。ならば……と、そう亜真人は飲み込むことにした。
南海がいる手前、不本意とはいえ立場としては犯罪者であるスメラギに主導権を握られたまま話をするのは気に入らないが、今は優先事項が違うのだ。研究を完成させなければならない。
肉の脂を烏龍茶で流し込み、話を続けようとしたところで個室の戸が三度鳴り、店員が姿をみせた。
「お客様。店内での魔法行使は極力お控え頂けますようお願い申し上げます」
「あ、すいません。気を付けます」
店員はそれだけで、お辞儀をして去っていった。
「名札に店長って書いてあった。多重魔法陣なんて描いたらそりゃ怒られるでしょって」
表情を変えずに南海が言う。
「仕方ない。会計するか」
備え付けのタブレットで会計を選択し、機器に右手をかざすと支払いが完了する。
念のために自分のスマホで電子領収書を確認してからポケットにしまい、見なかったことにした。
スメラギは二人の五倍くらい食べてました。