89話
「待って! …… あ 」
手を伸ばし、身を乗り出して掴まえようとしたところで何かに躓いて転ぶ。 ガシャンと音を立てて倒れたのは車椅子だった。
「どうしました!? 倉科さん! 」
背後からかかる声に思わず振り向くと、どうやら私を呼んでいるようだった。
「あれ? 倉科さんじゃない? あの、どちら様ですか? 」
声の主はエプロンを身に付けた白衣の看護師さん。 目に映る風景はコンクリートの床に、緑の落下防止のフェンス。 縁には花壇が作られて黄色や赤いチューリップが咲き、フェンスの向こうには高層ビルやマンションがうっすらと霧掛かって見えた。 どこかの屋上だろうか。
「誰? あなた 」
私を不振そうに見るエプロン服の女性と目が合う。 胸のネームプレートには、漢字で『城ノ内』と書かれていた。 翻訳されていないのであれば、倉科という名前も城ノ内という名前も、ここが日本だと気付かされる。
戻って来てしまった…… 一人で
「あ…… ぇ…… 」
突然の事で思うように言葉が出ない。 しどろもどろしていると、私の体に視線を移した彼女が『ヒッ』と息を飲んだ。 その視線を追うと、セーラー服にどす黒いシミが点々と付いていて、足にも赤い斑点のように血が付着している。 斬った弓兵の返り血を浴びていないつもりだったけど、飛沫が飛んでいたらしい。
「あ……… 」
弁解しようと彼女に視線を戻した時には、彼女は何歩も後ずさって首に提げていたガラケーを耳に当てて慌てていた。
「ち、違うんです! これは…… 」
「キャー!! 」
私が言葉を発するのと同時に、彼女が悲鳴を上げた。 すぐに警備員が駆けつけて、彼女を背に警棒を私に向けて『動くな』と叫んでいた。 私はフェンス際に追い詰められ、続々と駆け付けてくる警備員達を流し見る。 チラリとフェンス越しに下を見ると、パトカーが赤色灯を回しながら到着するのが見えた。
「ふ、藤井翔子です! これは! あのっ! 」
「抵抗しても無駄だ! 警察を呼んだ! 」
「倉科さんが! 患者さんがいないんです! 」
「大丈夫! 今警察が来るから! 」
彼女が取り乱すのを警備員の一人がなだめていた。
倉科? 消えた? それって多分ミナミのことだ。 倉科ミナミ…… どういう字を書くんだろう?
すぐに3人の警察官がやって来て、私は成す術なくコンクリートの床に引き倒される。 後ろ手に身動きを封じられ、カチャリと手首に冷たいものが当たった。
日常では考えられない事態だけど、これより怖い体験をイシュタルで経験したせいか、パニックにはならなかった。
警察署に連行されて半日。 名前や住所、親の連絡先から始まって、血の付いた服の事や、なぜ病院の屋上にいたのかを取調室で嫌というほど質問された。 部屋に入ってきた警察官の一人が、机を挟んで向かいに座っているしかめっ面の取調官に書類を渡す。 名取というその取調官は書類に目を通し、大きくため息を吐いた。
「君の言っている住所、確かに藤井という人が住んでるんだけどね 」
「はい。 明が父で、政恵が母ですって何回も言ってます 」
「確かにその名前の夫婦が住んでいるんだけどね…… その家庭には子供はいないそうだ 」
「…… え? 」
そんなはずあるわけない。
「本人達にも確認を取ったし、戸籍を調べても出生記録はないんだよ。 ウソつくのもいい加減にしてくれないかな? 」
「ウソなんて言ってません! 」
私は二人の一人娘だよ? 何を言ってるの?
「言っていた連絡先も間違いはなかったけど、君の言う通っていた小学校から高校にも在学履歴はない。 身分が確認出来ないとこちらも困るんだよね 」
名取さんは机に頬杖を付いて私を見る。 睨むというよりも、少し呆れている感じだった。
「私だって困ります。 お父さんもお母さんも知らないだなんて、何の悪い冗談なんですか!? 」
名取さんは私の前に書類を滑らせた。 その書類は藤井家の戸籍謄本や、私の通っていた小学校と中学校の卒業名簿、通っている高校の在校生名簿。 くまなく見てみたが、藤井翔子の文字はどこにもなかった。
「うそ…… なんで!? 」
「日本人、だよね? どこから見ても日本人だけど 」
「れっきとした日本人です!! 」
『ゴメンゴメン』と名取さんは苦笑いする。 あまりにも失礼なので何か言い返してやろうと思った時、お腹がグゥと鳴った。 こんな大事な話をしてるのに…… 恥ずかしくて前を向けない。
「カツ丼でも頼もうか? 」
「…… 犯罪者じゃないです、私 」
『面白いね』と彼は力なく笑う。 彼は脇に控えていた若い警察官に声をかけ、財布から千円札を出して何か買ってこいと渡した。
「カツ丼なんてドラマの中だけだよ。 まぁ、腹減ってちゃどうにもならんもんな 」
「…… いりません。 慣れてますから 」
名取さんは困ったように頬を掻く。
「身元が確認できない以上、帰っていいよというわけにもいかないんだよね。 君の着ていた制服は該当する高校がないし、 血痕も付いているし…… ねぇ? 」
「…… イシュタルで喧嘩に巻き込まれたんです。 セーラー服も現地の人が真似たレプリカだから…… 」
「…… 何かの設定、ってことでいいのかな? 」
言ったところでこの人は信用なんかしないだろう。 私だってイシュタルに実際に行っていなかったら、こんな話されても信じる訳がない。
「ん? イシュタル…… って、倉科望先生のあの小説? 」
彼の目が一瞬輝いたように見えたが、すぐに咳払いをして目を反らした。
「おじさ…… 名取さん、〈イシュタルの空〉を知ってるんですか!? 」
これにはビックリした。 ミナミには失礼だが、マイナー出版社のマイナー文庫をこんなおじさんが知っているとは。 思わず前のめりになった私も、コホンと咳払いして平静を装った。
「いや、まぁ…… 今は関係ないね 」
実はミナミのファンだったりして。 そんなことを考えていると、立ち会っていた警察官とは違う警察官が、取調室に入ってきて名取さんに耳打ちをした。
「せ、清秀文庫の編集者だと? 」
目を丸くして明らかに動揺してる。 清秀文庫って〈イシュタルの空〉を出版した会社だけど…… 私も〈イシュタルの空〉以外の小説を知らない。 『ちょっと待っててくれ』と、名取さんは慌ただしく取調室を出ていった。
残された警察官のお兄さんは無言で入口の横に立っていた。 時々私と視線が合うと、なんとなく気まずいのかぎこちなく笑って目を逸らす。 しばらくそんなことをしていると、名取さんが眼鏡を掛けた女性を連れて戻ってきた。
「彼女が君を引き取るそうだ 」
「…… へ? 」
30代くらいの眼鏡の女性は、やんわりと笑顔を見せて軽くお辞儀をする。
「清秀文庫の本條 まみと言います。 倉科先生の担当編集者よ、よろしくね 」




