43話
翔子の捻挫が完治してからローレシア公国へ出発することになり、翔子はリハビリと称して護衛の兵士とトゥーランの町を馬で回ったり、エトの村まで出向いたりと情報収集にあたっていた。 光は別行動で兵士と身を守る訓練を大広間で行い、剣の扱いやちょっとした語学を学ぶ。 アルベルトは崩れ落ちた吊り橋の復旧をする為にリエッタへ行き、アーティアとレベッカは屋敷の留守を預かる日々が続いていた。
「何をしているの? あなた達 」
アーティアは庭先で薪を燃やしている兵士に声を掛けた。 別に何かを焼くためではなく、単純に薪を灰にしているだけの作業にアーティアは首を捻る。
「ショウコ様から頼まれたんですけど、アクってのが必要らしいですよ 」
「アク? 何かしらアクって…… 」
不思議に思いながらもそれを止めることもなく、アーティアは次にキッチンへと顔を出す。
「今日の献立を聞きに…… なんなの? 」
大きなかまどの前に群がるメイドとコック達に、アーティアが眉をひそめる。
「あぁアーティア様、ご苦労様です。 ショーコ様から卵の殻をいっぱい焼いてくれと頼まれましてね 」
「殻? 殻なんて焼いてどうするの? 」
「さあ? 上手くいくか分からないけどとは言ってましたけど。 何か光の民の道具なんでしょうかね? 」
アーティアは再び首を傾げる。 キッチンの横では、イシュタルではあまり人気のないオリーバの実をメイド達が一生懸命潰していた。
「あなた達は? 」
「はい、ショーコ様に頼まれてオリーバを潰してるんですけど…… こんな渋みのある果汁で何をするんでしょうね 」
「…… ヒカルに聞いてみようかしら。 といっても、ショウコが帰ってこないと話も出来ないのよね 」
あれこれ考えながら大広間を覗くと、光は剣士二人を相手に見事な立ち回りをしていた。 剣士も現役の中堅クラスの腕前なのだが、光の反応スピードが速くてすぐに後ろを取られている状況だった。
「うそ…… あれで本当に戦闘経験ないの? 」
呆気に取られるアーティアに、傍で見ていたレベッカが声を掛ける。
「ご苦労様ですアーティア様。 ビックリしますよね、剣の扱いはまだまだですけど、パワーとスピード、身のこなしは私達の上を遥かに超えてます。 あれで戦闘訓練の経験ゼロと言うのだから…… 凄い 」
「今までの実戦で身に付けた…… ってことなのかしら 」
「そうなんでしょうね。 アルベルト様が一目置かれるのも分かります 」
アーティアはチラッとレベッカの顔を見る。 食い入るように光を目で追うレベッカは、アーティアの視線には気付いていなかった。
「あら、滅多にお目にかかれない表情をしてるわね? 」
「え? 」
「ライバルは強敵よ? よほど大胆に攻めていかないと無理かも 」
「…… ? 」
全く意味が理解できない様子のレベッカにアーティアはクスクスと笑う。
「今日は卵をふんだんに使った夕食らしいわ。 楽しみにしてて 」
「卵? 」
頭の上にクエスチョンマークをいっぱい出しているレベッカを他所に、アーティアは手にしていたファイルを胸に抱え直して、大広間を後にしたのだった。
夕食を済ませた翔子は、リエッタから戻ってきたばかりのアルベルトの前にメモ書きを数枚広げ、町で聞いてきた情報を確認していた。
翔子の手書きの地図と、正式なイシュタルの地図を見比べ、二人に教えて貰いながら手書きの地図に書き込んでいく。 翔子が握っていたのは、以前エルンストでローランに阻まれて完成できなかった手作りの鉛筆。 一回り太く、書き心地も硬くて成功とは言えない代物だったが、試作品としては上々の物だ。
「そうだ、シエスタとマウンベイラの間には検問所が一つある。 以前アベルコと仲違いして侵攻されそうになった時に私が建設させたものだが、領地争いが治まった今でも稼働している 」
「それじゃ、必ずこの検問所を抜けないとマウンベイラには…… 」
「谷を利用して作ってあるのでな、外円道経由で行くならばこの検問所を抜ける他はない。 後は王都経由だが…… 」
「ここって一直線に行けないのか? 」
光が地図上の、トゥーランからレーンバードまでの直線を指でなぞった。
「確かに最短距離だがな、外円道がその岩壁を分断するように走っている。 マウンベイラへ続くその場所は岩盤を切り崩して外円道を作っていて、壁はほぼ垂直で落差は約10メートルもあるのだ、並み大抵の体力では…… あ 」
アルベルトは光を見て目を丸くした。
「君なら越えられるか 」
「それじゃルートはここを通って、外円道を跨いでマウンベイラに入ります。 これなら検問所も通らないし、もしギルドに見つかっても追っては来れないでしょうから 」
「君達には常識が通用しないな 」
アルベルトが笑うと、翔子もつられて笑う。 翔子は手書きの地図を綺麗に二つ折りにすると、使っていた鉛筆と作り方を書いたメモをアルベルトに差し出した。
「足ももう大丈夫そうなんで、明後日には出発しようと思います。 これ、よかったら使ってみて下さい 」
「エンペツというペンだな? 君の世界には便利な物が沢山あるのだな 」
「エンピツですよ。 便利な物は多いですけど…… いえ、なんでもないです 」
翔子はアルベルトに向かってニコッと笑った。
「メイド達に色々用意させていたみたいだが、それはどうする? 」
「帰ってきたら作ってみます。 私達の世界の、体を洗う秘密兵器です 」
出発は明後日の朝の予定だったが、暗闇に乗じて移動した方がいいと判断した翔子は、日が落ちてからの出発に変更した。 今日はゆっくりと休み、明日の出発に備える。
「光ちゃん、これで良かったのかな…… 」
翔子と光は、アルベルトの屋敷のシンボルである時計塔に登らせて貰っていた。 メンテナンス用の梯子を登り、手摺の付いた足場に出るとトゥーランの町を一望出来るのだ。 夜風が風呂上がりの二人の髪を優しく乾かし、明るい月明かりがトゥーランの静かな夜の町並みを照らす。
「良いかどうかなんて誰にも分からないさ。 ただ俺達に出来ることを精一杯やる…… それだけじゃね? 」
「うん、そうだけど…… 」
翔子は撫でるような夜風に目を細めて揺れる髪を耳にかける。
「私も日本に帰れたら小説書いてみようかな…… 」
「お、それいいんじゃね? ≪イシュタルの空、続編≫とか 」
「ミナミに怒られちゃうよ 」
二人の小さな笑い声が夜空に溶けていく。 そんな二人を、アルベルトは自室の時計塔が見える窓から見上げていた。