ミノル29
それからは地獄のような日々だった。
メアリや、その婚約者、家主、家主妃を始め、婚約の儀を前に、冰大家に属する御家の使者達の祝賀をこれでもかと言わんばかりに受け、その応対だけでも数が知れないというのに、婚礼の儀では他国からの来賓まである。その全ての役職や顔を覚え、失礼のないようにしなければならない。
親はと言えば、大いに喜ぶというよりはむしろ恐縮しきりで、うちの娘なんぞがとそればかり言って平伏していた。気持ちは分からなくもない。
また、ミノルは当初から関わっていた、文字を全土に広げる事業の責任者となった。各地からの報告の全てはミノルへと回される。書簡に目を通すだけでも目が回りそうだったが、関わってきた事業であるだけに、一から始めるよりは遥かにマシだった、はずだ。それでも手一杯で、レイに会いたいという想いは募れど、現実問題としてそんな暇はなかった。
レイはこの全てをもっと以前から任され、ミノルより遥かに多い仕事をこなしているのかと思うと、ぞっとした。倒れもするだろう。今なら、いかに無理をしてミノルと話す時間を作ってくれていたのかが分かる。暇があれば寝たい。
外交用のマナーや、会話を弾ませるために、伝統や文化についても学ばなければならない。ミレイ姫には必要のない事だったのだろうが、ミノルにはそういうわけにもいかず、知らない事ばかりで、これにもかなりの時間をとられた。
肉体的には言うまでもなく、また、レイに会えないという精神的苦痛も大きく、部屋に戻ると、毎日ただ泥のように眠る日々だった。
「本来、一事業を任されたりはしないものだと思うけど」
「でしょうね。妃の仕事の範疇を超えてるわ」
「レイお兄様にお願いしておきましょうか?」
メアリは、レイとミノルの元を行き来して、逐一彼の様子を知らせてくれる。今となってはメアリ、ランド、テーラと話している時が唯一に近い息抜きだ。
「ううん、いいの。レイはあたしを試してるのよ。本当にあたしが妃として、彼を実際に助けるだけの政務がこなせるのか。あたしは、レイへの愛を試されてると思ってる。だから、いいの。与えられた事を全てやってのけて、婚約の儀に自信を持って臨みたいから」
「そっか。頑張ってね、ミノルさん」
メアリは、婚約が内定してから、ミノルちゃん、と呼ばなくなった。それがなんだか擽ったくもあり、恥ずかしくもある。
「はあ、そんなことより、レイの顔が見たい」
「別に会っちゃいけないって決まりはないでしょう?どうして会いに行かないの?」
「あたしでさえこんなに忙しいんだもの。レイはもっと大変に決まってるわ。あたしと話す暇があれば、寝て欲しいというか。やることやらずに、合わせる顔がないというか。でも会いたいの。この葛藤、分かってもらえるかしら」
ミノルは頭を抱えながら言う。メアリは苦く笑いながら、身を乗り出す。
「でも、結婚してもずっとこの状態のままでしょう?この先ずっと、会わないように我慢して過ごすの?」
「それは無理よ。一日一度は抱きつきたい」
「それじゃあ、今会っても同じなのではない?」
「それもそうね」
メアリはいつも、ミノルの背中を押してくれる。煮え切らない自分を、励ましてくれる。
ミノルは力強く立ち上がってから、やはり座り直す。不思議そうに見遣るメアリに、ミノルは消沈しながら言う。
「やっぱり、やめておくわ。レイから、会いにきて欲しいの」
「レイお兄様は、仕事に没頭してしまうと、平気で一月でも二月でも、時間の経過を忘れちゃうヒトよ」
それは無理だ、と言外に漏らすメアリに同意しながらも、ミノルは首を横に振る。
「レイに、会いたいって思って欲しいの」
「・・・恋する乙女ね、ミノルさん」
五つも年下の少女に言われてしまった。
ミノルは恥ずかしくなって、顔を書簡の山の中に伏せる。
「でも、分かる。私に夢中になって、信じられない時間だとしても、顔を見たかったからって言いながら、会いに来て欲しい」
「・・・メアリちゃんも乙女ね」
「ふふ、きっと恋する女はみんな同じだわ」
メアリと小さく笑い合う瞬間がとても幸せで、レイが会いに来てくれる事を想像するだけで、顔がにやけた。
ミノルに会えなくて、寂しいと思っていて欲しい。思っていてくれるだうか。寂しいから会いに来たと、言って欲しい。いつか、そう言いながらひょっこり顔を出してくれるだろうか。
そんな事を夢見ながら、ミノルは今日も目を覚ます。最近は机に突っ伏して寝てしまっている事が増えたが、気がつくといつも、肩に掛け布団がかかっている。もはや、部屋の隅っこに置きっ放しになっていて、ミノル付きの護衛武官が掛けてくれている事を、知っている。
ミノルは昨日もまたレイには会えなかった、と毎朝思う。そうして、毎日心が沈んでいく。
そうこうしている間に、婚約式は目前に迫って来ていた。
「少し、お部屋でお休みになっては?」
ミノルの護衛武官、カイアは心配そうに言う。彼女がミノルの護衛武官に任命されてから、もう三ヶ月は経つ。
「ええ、今日は部屋で休む事にするわ」
ミノルは掛け布団を畳みながら、小さく欠伸を漏らす。
「昨日は遅かったはずだけど、いつまで控えていてくれたの?前にも言ったけど、時間になったらちゃんと部屋に下がってカイアも休んでちょうだい」
「そう申しつけられてからは、休ませていただくようにしていますが」
「でも、これ」
ミノルは、畳み終えた掛け布団を指差す。自分で羽織った記憶はない。
「やはりご存知ではなかったのですね。天冰様が奥方様を心配して、毎夜様子を見に来られていらっしゃるのですよ。ですからそれは、天冰様がなされた事かと」
「・・・ええっ!?だ、だって、あなた、あたしが前に聞いた時は、自分が掛けたって」
「あの時はそうです。ですが最近は執務室で休まれる事が増えたとお知りになり、天冰様がお見えになられております。ですから、ここ一月程はわたくしは何も」
「教えてよぉ!」
「あ、あの。聞かれるまでは言うなと申しつかっていたもので。み、ミノル様。どうかお泣きにならないで下さい」
カイアが蒼白になって言う。
ミノルはふにゃり、と破顔する。最近はあまり寝ておらず、レイに会えないストレスと極度の疲労で、もう限界だったのだと、気づいた。ふっと心が緩むと、子供のようにわんわん泣いてしまった。声を上げて泣くと、妙に気持ちが楽になる。声を殺す事も出来たろうが、ミノルはあえて大声を上げて泣いた。
気にも止められてなかったという荒んだ心が、洗われていく。レイはちゃんとミノルを気にして、様子を見に来て、布団をかけてくれていたのだ。ミノルは掛け布団を抱きしめて、周りも憚らずに泣きたいだけ泣いた。
大丈夫。レイさえ見ていてくれるなら、ミノルはどこまでも、頑張れる。




