愛宕山太郎坊天狗と雷獣
人ならざるものの住む、妖しい界隈で、暗い夜の丘に一つだけぼんやりと浮かぶ淡い光。橙色の明かりが灯る、小さな家。
ひんやりとした夜の空気を纏った男の背中には立派な翼が生えていた。
冷えきった男はぬくもりを求めて扉に手を伸ばした。
「ただいま」
声が響いたと同時に、どこからとも無く風が吹いてきて、男の目の前でぴたりと止まった。
「遅かったじゃないか。一体何処をほっつき歩いていたんだ、天狗」
見た目こそ少年のようだけれど、宙に浮いたまま男に説教じみたことを言うのは歴とした少女である。
「いらぬ心配をかけたようですまないね、雷獣。少し山へ行っていただけだよ。気にしなくていい。そんなことより、夜ご飯は食べたかな?」
軽く雷獣の頭を撫でると、天狗はエプロンを付け、台所へ向かった。
子ども扱いをするな、と雷獣は不服そうな顔をして隣に並ぶ。
「まだ食べていない。今日はずっと布団で寝ていたからな」
雷獣は食器棚からコップを出して水道水を入れ、口に運んだ。
「オムライスでも作ろうか」
「腹に入れば何でもいい。頼んだぞ」
雷獣は退屈そうにダイニングテーブルで頬杖を付いた。
この家に住む二人、天狗と雷獣が出会ったのは偶然のことだった。
妖怪の中には三大妖怪と呼ばれる有名で、そして強い『力』のあるものがいた。鬼、河童、天狗。この三つの妖怪こそがその三大妖怪である。
そこらの妖怪は、この三大妖怪に近付くことを拒んだ。自分が消されてしまうことを恐れ、また、三大妖怪に近付くことにおこがましさを感じたのだ。
愛宕山には太郎という名の大天狗が住んでいた。
太郎がある噂を聞いたのは晴れ日のことだった。
「太郎坊様、山中で雷獣が倒れております」
「それはいけないな。苦しむ妖怪を放っておくわけにはいかない。報告どうもありがとう。どこで倒れていた? すぐに私が助けてやろう」
太郎は心優しい大天狗だったので、倒れているという雷獣を心配し、報告のあった場所まで山を下りた。
「雷獣、意識はあるかな?」
「……」
「……どうやら意識がはっきりしていないようだ。傷も深いし妖力もうっすらとしか感じ取れない。雷獣ならもう少し強い妖力を持つはずだ。君の報告がなければこの子は消えてしまっていただろう」
弱りきって、今にも消えてしまいそうなのはすぐに見て取れた。
このままではいけない、と太郎は雷獣を抱えて自分の家へ戻るとすぐさま布団に寝かせた。水を飲ませてやったり、飯を食わせてやったり、温度を失った体にあたたかい鬼火を近付けてやったりした。
思いの外雷獣の回復は速く、二日程度で目を覚まし、健康な体を取り戻した。
「漸く目を覚ましたようだ。体調はいかがかな?」
「お前は誰だ! 僕に近付くな!」
乱れた髪を耳にかけようと伸ばした太郎の手は弾かれ、宙をさまよった。
「貴様、太郎坊様に何をする!」
猪の妖怪、猪笹王は雷獣を威嚇した。
「落ち着きなさい。雷獣、初めまして。私は愛宕山に住む天狗、愛宕山太郎坊天狗だ。こっちは君がこの山の中で倒れているのを発見した猪笹王。君に危害を加えようという訳では無い」
太郎は気性が穏やかなので、決して怒りはしなかった。代わりに怒るのは、いつもそばに居る猪笹王だ。
「……僕はなぜ山の中でたおれていたんだ」
ぽつり、と零しながら思案する雷獣に太郎は首を傾げた。
「覚えていないのか?」
頷く雷獣。倒れている現場を見た太郎は、誰かに追われていたのではないかと考えていたので、このまま雷獣を返してしまえば、また同じ様なことが起こるのではないかと心配になった。
「よし、私の家に招きましょう。猪笹王、愛宕山はこれからあなたに任せます。時々こちらに出向くから、そう困った顔をするほどのことでもない」
「何を仰るのですかあなたは。この山を捨てるも同然の発言、今すぐ訂正してください」
太郎は猪笹王の頭を二回撫でた。
「君は私の優秀な右腕。何も心配ない。それに、全くここに訪れないというのではないと言っている。じゃあ行ってくる」
太郎は軽々と雷獣を抱え、山を飛び出た。
「雷獣、ぼーっとしていないで早く食べなさい」
僕を拾ったのはこの男で間違いない。僕を助けたのも、この男で間違いない。
でも、この男は僕を守るために自分の住処を捨てた。それは理解し難いことだ。
「お前、何で山を捨てた?」
「今さら何を言うんだ。私は山を捨てたのではなく、猪笹王に与えた。それだけの話だ」
にこやかに言い放ち、出来立てのオムライスを口に運ぶ。
「でも、君がもしあの山が好きなら山に戻ってもいい。君が私を気に食わないなら私だけ山に戻ってもいい」
唐突なその言葉に、僕は驚きを隠せずにいた。
山に戻りたいのか? この男は。
だとしたら本当は、あの時山を捨てたくなかったのかもしれない。この男が優しいばかりに、僕を助けるためやむを得ず山を捨てる結果になってしまったのかもしれない。
僕は憎まれ口を叩きながらも本心では父のように思っていた。でも、この男にとって僕は邪魔者なのかもしれない。
「……お前は僕のことが嫌いになったか」
無意識のうちに口をついて出てしまった。こんなこと、言うつもりではなかった。僕がこの男を信頼し、慕っていることが伝わってしまったらどうする。
きっと優しすぎるこの男は山に戻りたいという自分の気持ちを押し殺し、僕と暮らすことを選ぶだろう。そんなことになってはいけない。
恩人を、僕という鎖で縛り付けてはいけない。
「急にどうしたんだい? いつもはそんなこと聞かないだろう。嫌いになんてなっていない」
いや、もしかしたら本当はこいつ、悪い男なのかもしれない。
「なら元々僕のことが嫌いなのか。僕はお前が『優しい大天狗様である』という印象を守るために利用されたということだな」
一度感情的になってしまったら、もう冷静にはなれない。
「利用? ……一体誰にそんなこと吹き込まれた? 私が君を利用したことなんて一度としてないよ。それに私は他のものから優しいと思われようが残酷だと思われようが構わない」
少しだけ冷たい声になった。僕は嫌われているんだ。きっと、もう僕とはここにいてくれない。
いや、良いんだ。僕とここにいることより、山に帰ることの方がこの男にとっては幸せなんだ……。
「なら何故僕を放って山に行ってもいいなどと言うのだ! お前が僕とここにいる理由は何者かに僕が狙われていると考えたからだろう。知っているぞ!」
「間違いない。その通りだよ。君の疑問に対する答えは簡単なことだ。もう君を狙う不躾なものはいないということ」
どういうことか理解出来ずにいると、男は玄関に向かい、扉を開けて耳の生えた男を家に入れた。
耳の生えた男は体中傷だらけで、手は縄で縛られていた。
「あまり君には見せたくなかったのだけれどね、私の優秀な右腕、猪笹王が捕らえてくれた。この送り犬が君を争っていた相手と間違えて襲ってしまったらしい」
「すまなかった。申し訳ないことに、暴走してたんで俺もその時のことを覚えてないんだが、理性で怒りを抑えきれなかった俺に非はある。後遺症はないんだな?」
「……ない。お前のその怪我は誰に?」
「雷獣、余計な詮索はするな」
時々、この男は怖い。何を考えているのか、分からない。恐らく送り犬の大怪我もこの男の仕業だろう。あんなに恐ろしい顔をしたのだから何も言わないでおくが。
「こいつも悪いやつではない。これからは愛宕山で、猪笹王を支えてもらうことにした」
「そうか。僕は別に怒っていないから気にしなくていい。送り犬も、天狗も。その縄、僕が解いてやる」
翌朝、目覚めた雷獣は隣の部屋の天狗を訪ねた。
「おはよう、雷獣。どうしたのかな?」
「僕はお前を慕っている」
目を伏せて、手を握りしめてそう言った。太郎は一度目を丸くしてから雷獣を抱き寄せた。
「私は君のことを娘のように思っているよ。これからもここで平和に暮らしていきたい」
「僕もだ。だからもう乱暴はするな」
「送り犬の件は悪かったよ。君が瀕死状態に追い込まれたんだ。それを思い出したら腹が立ってしまってね。もうあんなことはしない」
雷獣は頷き、太郎と出会ってから初めて笑顔を見せた。
その笑顔は美しく、天狗の心を優しく包んだ。
このお話には妖怪が出てきますが、全てが伝承通りという訳ではありません。ご了承ください。
ご愛読ありがとうございました。