五月十五日
冷蔵庫に張り付けてある小さな時計を見ると、午後五時を少し過ぎていました。七々さんがほんの少し歩けば着くはずのスーパーに明日の分の牛乳を買いに行ってから、もう三十分以上が経ちます。私が作っている晩御飯の段取りはあと一歩で完成というところまできてしまっているのに、このまま帰ってこなかった時はどうすればいいでしょうか。もう出来かけているフライパンの中身を見ます。熱い物は熱いうちに、冷たい物は冷たいうちに食べてほしいのが、作った人の本音なのです。
人一人がやっと作業できる狭い台所から、リビングで宿題をしているリコ君に声をかけます。
「リコ君、宿題終わりましたか?」
「もうちょっとで終わるよ。このページの半分くらい」
「ほんともうちょっとですね。多分リコ君の宿題が終わるくらいには完成するので、ちょうどいいです」
「ねえ、林子お姉ちゃん。今日のごはんってなあに?」
「ふふふ……今日は林子特製ミートソースのスパゲティと、新鮮季節の野菜サラダとすごく素朴パンです。たまにはお米以外も食べたい、そんな今日です」
「なんかかっこいい名前。あれ、でも七々お姉ちゃんってトマト嫌いなんじゃないの?」
「ええ、そうです。ただ、七々さんは生のトマトは駄目ですが、私お手製のミートソースなら食べられるのです」
「そうなんだ。林子お姉ちゃんの料理、おいしいもんね」
七々さんとリコ君の食事を作る役目を一応任される身として、それぞれの好き嫌いを把握しています。いますが、嫌いだからといって、栄養があるのに食べさせないのは違うというのが持論です。育ちざかりのリコ君もいますし、それぞれにおかずを作る余裕はありませんし、七々さんはタバコを吸うので意識してビタミンを取ってもらおうと判断してのトマトでした。料理じゃなくて材料が嫌いなら、いくらかは打つ手があってのミートソース。まあ、サラダには生のまま入れてあるんですが、そこは珍しく奮発した高いフルーツトマトと旭さんのおススメドレッシングでしのぐとしましょう。もしソースが余ってしまっても、残りはパンで美味しく食べれます。自分で言うのも何ですが、きっといい奥さんになれます。
ソースにケチャップを足したり塩コショウで味を調えたり、隠し味でとんかつソースを混入させている内に、タイマーがスパゲティの茹で上がりを教えてくれます。フライパンの弱火を消して、お皿に麺を盛り付けましょう。
「リコ君宿題終わりましたか?もうそろそろでご飯が出来ますよ」
「ちょうど今終わったよ。片付けるから待ってて」
手のかからないリコ君に感心しつつ、出来上がった料理を盛り付けます。献立を決めておいて何ですが、腹持ちが悪いと思っていつもより量は多めです。
「リコ君、片付けが終わったら、悪いんですが七々さんに電話をしてくれませんか?いつごろ帰ってくるのか聞いて欲しいです」
「分かった」
その間に料理をテーブルに運びます。ちょっと前までは大皿と取り皿を用意していましたが、最近では少しでも洗い物を減らしたいので、全部取り皿に盛り付けて出しています。それらをテーブルに並べながら、電話をしているリコ君に、
「リコ君、七々さん今どの辺ですか?」
「もうそこまできてるって」
言い終わるのと同時に、無遠慮に玄関のドアが開きました。
「ただいま。今帰ったわ」
買い物袋をぶら下げた七々さんのご帰還です。
冷蔵庫に牛乳と頼んでいないプリンを入れる七々さんに
「遅かったですね。ちょうど今できましたよ」
と聞くと
「なんだっけ、一階の売れないバンドマンに最近できた彼女の名前」
「全然分からないです」
「セイラお姉ちゃんだよ」
「そうそれそれ。行きに、公園でタバコ吸ってたら偶然会ってね、つい話し込んじゃったの。あの子、あたしとタメで、魔術師やってるんだって」
「魔術師ですか」
宇宙飛行士や冒険家と同じくらいには、ご縁の無い職業です。
「なんとか売れないバンドマンを売らせる魔術を考えてるらしわよ。そうなると魔術というよりプロデュース術になるわよね」
「もうわけわかんないですね。それより七々さん、手を洗い終わったら、はやくご飯にしましょう」
「はいはい。待たせたわね」
七々さんが腰を落ち着けるとともに、テーブル、もとい布団がかかっていないコタツを囲んでの夕食が始まります。
「今日は七々お姉ちゃんが嫌いなトマトを食べられるようにミートソースにしたんだって」
「林子が作ったミートソースなら食べられるのよ。トマトを使っている癖に美味しいもの」
生トマトが乗っかっているサラダには見向きもせずに、七々さんがスパゲティを口に運びます。
「林子お姉ちゃんは料理が上手だからね」
「そうね。大したものだわ」
多分、リコ君の感想は本心だと思いますが、七々さんの感想にはあわよくばサラダを残したいという下心が顔をのぞかせています。それでも、言われて悪い気がしないのは、なんというか単純な女だと自分で思います。
手前味噌ですが、美味しいのは事実です。
「お褒めに預かり光栄ですが、七々さん、残さず食べてもらいますからね」
「小さい頃はミートソースも駄目だったから、これでもマシになった方よ」
突然、七々さんが聞いてもいないことを話し出しました。
「小さな頃は食べれないほど嫌いというわけではなかったんだけど、十歳頃に見た、熟して落ちたトマトに言いようのない気持ち悪さを感じてから駄目ね。スーパーで見るたびに脳裏をよぎるわ」
「感受性豊かな子供だったんですね」
「あとは生の食感と味ね。あれってトマトだけのものじゃない。結構きついわよ」
「確かに食感と味は独特ですね」
おそらく嫌いな理由の上位に入るものでしょう。
そして私は、順調に減り続けるスパゲティを尻目に、手つかずのサラダを見ます。
「七々さん、嫌いを承知で作ったんですけど、ちゃんとサラダも残さず食べてくださいね」
「ええ……嫌よ。あんまり文句は言いたくないんだけど、なんで生で出したの?」
「いや、これ結構高いフルーツトマトだから美味しいですよ」
「けど食感はトマトなんでしょ?」
「そうですね。そこそこ熟したトマトの食感です」
「……嫌よ」
「せめて一口食べてください。私も今日初めて口にしたんですけど、なんと、トマトの癖に甘いんですよ。もう野菜じゃなくて果物の域です」
「…それでも嫌よ」
「七々お姉ちゃん、そこまでいくと呪いみたい」
呪いというか、なんかアレルギーがあるのかと疑うレベルです。けれど、七々さんのはあくまで精神的なもので、肉体的には全然大丈夫なのではないでしょうか。
「好き嫌いって駄目?」
悶着を眺めながらパンを食べていたリコ君が素朴な疑問を口にします。
「何でもおいしく食べれるのはいいことじゃない?トマトは別だけど」
「究極的には駄目じゃないですけど……体に良いものを食べないのはよくないです。嫌いなものをいかに工夫して食べさせるかというのは料理人の腕前ですけど、頑張って作った料理が食べてもらえないのは、普通に悲しいです」
「サラダに関していえば、ただ切ってドレッシングをかけただけじゃない……」
「素材の味を生かす手法というのも存在しているんですよ」
それから私は農家の人の苦労話やこのドレッシングが旭さんのおススメであること、スーパーで見たフルーツトマトの売り文句を垂れ、最終的には「せっかくがんばって作ったのに……」と私にしては珍しく泣き落としを駆使してやっと
「分かったわ。けど後味が嫌だから最後に食べるから」
との言質を取り、解決への糸口とすることができました。
「そういえば、なんで好き嫌いってあるの?」
またまたリコ君の素直な疑問です。
この問いに七々さんと私は、
「食べ物に関しては、味が第一だと思うけど、それ以外には家庭環境や親の好みが関わってくると思うわ。あとは見た目とかそれにまつわる思い出とか」
「味や食感はそうですね。アレルギーを考えるとどうしても体が受け付けないって人もいるので、精神的なものもあるし、肉体的なものもあります。たとえば、お酒に弱い人もいますからね」
「お酒は、まだリコ君は早いわね」
「好き嫌いってしない方がいいのかな?」
「何でも美味しく食べれるに越したことはないわよ。トマト以外は」
「勿論。私が好き嫌いがないので、なんでも食べれたほうがいいですね。料理する側になって献立を考えるとき、相手に好き嫌いがあると面倒です」
「勉強の教科とか、動物とか、色とかも、好き嫌いがない方が良い?」
「そこまでいくと難しいわね」
「どうなんですかね。色は好きでも嫌でもいい気はしますけど、いくら好きだからって全身ピンクの洋服を着ている人は、もうその人だけの問題じゃない気がします」
「昔は使っていい色や駄目な色もあったのよ。原料の希少性や色の意味も関係してくるのでしょうがないと言えばしょうがないけど」
「写真なんかは紫の再現が結構難しいですよね。別に紫は紫陽花と日没以外撮らないのでなんでもいいですけど」
「みんなちがってみんないい、ってお母さんが言ってました」
「流石は旭さんです。リコ君の情操教育は完璧ですね」
「それがある意味で種の多様性に一役かっているわ。考えてみると、世の中は、損得や得手不得手と同じくらいに好き嫌いが判断基準になっているわね」
最後、トマトだけを残したお皿を見ながら七々さんが話します。
「好き嫌いや趣味嗜好って、その人の人となりを大いに表しているのよ。何に笑って何に怒るかっていうのもその人を知るには分かりやすい判断材料だわ。年をとって好みが変わるなんて、年齢を重ねて性格が変わるのと似ているし、よく考えれば経験で嗜好や思想が変化するんだから当然の事よね。三つ子の魂百までっていうけど、まああれはあれで正解の一面だわ」
七々さん以外は食べ終わってしまった食卓。給食を残して、昼休みまで残される子供みたいな構図になってしまいました。
「そういえば、七々さん、好みが年を取ってかわるって言いましたけど、生トマトを最後に食べたのっていつなんですか?」
「たしか、小学校の高学年だったかしら」
「十年前ならさすがにもう食べれるんじゃんですか?今日がいい機会なのでチャレンジしてみましょうよ」
「いい機会ってなによ。あたしの思い出をこんな、ちょっと高級なトマトで塗り替えようっていうの?」
「そういう意味じゃないです。ほら、七々さん、タバコ吸うんだから絶対トマト食べた方が良いですよ。ただでさえ不摂生なんですから。さあどうぞビタミンとリコピンを」
「リコ君トマト好きでしょ。美味しく食べれる人に食べてもらった方がきっとトマトも幸せよ。私がトマトならそう思うわ」
「言い訳はけっこうです。農家の人が丹精込めて作ったトマトなんです。せっかく奮発したんですからどうぞ食べてください。トマトが赤くなると医者が青くなると言われているくらい栄養たっぷりなんですから」
ここまで言って、私はお母さんか奥さんか何かなのかと考えましたが、ただの手料理を残してほしくない後輩です。
「そもそも体外から栄養素を摂取しないと生きられない人間が不完全な生き物で、そういう意味で日光と酸素と水があれば繁栄できる植物は生き物として完成された種よ。そんな完成された生物を食べるなんて恐れ多いわ」
「七々さん、旭さんが大事にしてるリコ君の教育に悪いですよ。もう七々さんのお皿が最後ですから。早く後片付けさせてください。今日の食器洗い当番は七々さんですけど」
私はわざとらしく咳払いをしてから、
「究極的に、好き嫌いは別に構いません。人間苦手があるものです。ただ、それと残してもいいかどうかは別の問題です。お金も手間もかかってますし、っていうか三切れくらい食べても死にやしません」
と往生際の悪さを責めます。あんまりな物言いに、しかめっ面で意を決して一口食べる七々さん。その感想は
「あら、そんなに悪くないわね」
結局、ただの食わず嫌いでした。