八月十六日
暑さは昼間に比べていくらかマシになったものの、残念ながらこの時間でも最低気温が三十度を下回ることはありませんでした。
猛暑日の夕方。
冷房の電源は今夜もつきっぱなしでしょう。
暑さのおかげでさっき買ったばかりのビールはもうぬるくなりはじめ、気温に文句を言いながら缶をあおる七々さんのペースがいつもより早く、既に三缶目を開けています。お祭りの屋台価格のビール、そして夕食代わりの焼きそばと串焼きを、少しは味わって食べてほしいです。
「七々さん、言っちゃなんですけど、私の分の食べ物も残しておいて下さいね」
七々さんは口の中に残っていたものを一息に飲み込むと、
「分かってるわよ。けど今回は、お金出してるのアタシなんだからね。少しは遠慮を忘れさせてよ」
そうでした。
「……口が過ぎました」
「まあ、いつも世話になっているお礼もあるから気にしなくていいわ」
私と七々さんはお祭りの花火を撮影するために、林を抜けた小高い丘にいます。
目の前、夜に変わりつつある雲の少ない空を遮るものは何も無く、絶好の花火日和です。その下では、お祭りの灯りで賑わっています。林の向こうのお祭りの喧騒も、林の中の蝉の合唱も、ここまではわずかに届きません。もう少しして花火が始まる時間になれば、お祭りと花火の賑やかな絵が見れることでしょう。
ここは、地元民しか知らない、秘密の撮影スポット。
いくつかの問題を除いて、ですが。
ひとつは、七々さんと私のやる気が暑さのせいで、かなり削がれているところでしょう。私はまだかろうじて三脚を立ててはいますが、肝心のカメラを載せていません。七々さんに至っては三脚すら立てていない状態です。ご自慢の機材を入れた鞄を椅子代わりに、今は蚊取り線香の火の具合を気にしている様子。
次に、個人的には一番の問題ですが、この場所が墓地の隣だということです。
なるほど。眺めが良いのを、故人に独占させるのは勿体ないと言えば多少は聞こえはいいです。ですが、今は八月の中頃で、時期的にはお盆真っ只中。あの世が確認されたこのご時世に及んで、オカルトを信じない七々さんはともかく、それでも半信半疑の私は、好き好んでこんな場所に近づきたくありません。花火以外のものも写りこんでしまいそうで、正直びびっています。
ただ、眺めは最高に良いです。
おあつらえむきという、なれない言葉が思い浮かぶくらいには、本当に眺めは良いです。
「そういえば、林子。この辺の一番近いトイレはどこ?」
いつの間にか四缶目を空けていた七々さんが私に聞きますが、そもそもこの場所を教えてくれたのは他ならない七々さんです。残念ながらお手洗いの場所を知りません。
「水道があるからこの辺りにありそうですけどね…探してきましょうか?」
「知らないならいいわ。自分で探してくる。荷物見といて」
返事をする間もなく立ち上がり、いかにも怠そうな足取りで遠ざかる七々さん。きちんと帰って来れるのか心配です。もし探しに行くとなれば、この高価で重たいカメラをどうすればいいのでしょうか。
残された私は時間を確認します。十八時四十分。花火開始はたしか十九時ちょうどだから、それまでには帰ってくるだろうと思って、残ったビールと串焼きに手をつけます。日が落ちかけているとはいえ、身体から汗が引くことはないです。じんわりと肌から出ていく水分をとりあえず補給しなければ。本当はビールではなくてスポーツドリンクの類がいいのですが、そこは絵にならないという写真家的な理由で七々さんに却下されました。
「空きっ腹に染みる…」
お酒には強いほうで、飲んでも酔わない高くつく女を自負していますが、流石に空腹の時はマズイです。私はぬるいビールをちびりちびりと口につけます。焼きそばと串焼きは味を考えれば高いですが、文句は言わないことにします。
気の抜けたビールを舐めながらふと、花火かぁと思います。
平均寿命まで生きたとして、残り何回花火を何回見ることがあるのでしょうか。そして何枚満足のいくものが撮影できるのでしょうか。そのことを考えれば、びびってないで挑戦するべきなのではないのでしょうか。どうなんだ、林子。何故かフィルムよりデジタルの方が写りにくいということもあるようですし、まだまだ全然酔っぱらってなんてないので、十分引き返せる場所だと思いなおすんです。
私は手に持ったビールを倒れないように横に置いて、自分の鞄の中からカメラを取り出します。レンズをつけて、電池の容量を確認して、レリーズを三脚のハンドルに垂らして、とりあえず準備は完了です。後は花火が上がるのを待って、構図とフォーカスを調整するだけです。
一応の形を作って一安心。始まる前に私が残りのビールを飲み干そうと手に持った瞬間に、
「お嬢ちゃん、高そうなカメラだね」
「うわ」
突然の声にこぼしそうになりましたが、すんでのところで止まります。
声の方を向くと、頭もお髭もそして着ている着流しも真っ白なおじいさんが、いつの間にか傍にいました。洗練された佇まいと、それに似つかわしくない一升瓶を抱えた姿は、どことなくひょうきんな感じがします。
「驚かせて御免ね。花火を撮るのかい?」
「ええ、そうです。おじいさんも花火を見に?」
「そうだね。婆さんと待ち合わせているんだけど、お祭りのとこじゃ分かりにくいからねえ」
人混みでは、その白い着流しも目立たないのかもしれません。
「お嬢ちゃん、婆さんが迎えに来るまで横にいていいかな?すぐすぐだと思うんだけど」
「ええ、どうぞ。きっとすぐ来ますよ」
待たされている者同士、これも何かのご縁だと思います。
おじいさんはしわだらけの顔をさらにしわくちゃにして私の隣に座りました。
「お嬢ちゃん、写真が好きなのかい?」
「下手の横好きですけど、まあそうです」
「下手でも好きならばそのうち上手になるよ。焦ることはない、人生長いんだから」
「けどなかなか上達を実感できなくて……それでも楽しいのは楽しいんですが」
「そうなのかい?まあ、結果が目に見えないと不安になると思うけど、しっかり身にはなっているから安心しなよ」
「おじいさんも写真をしてたんですか?」
「いや、僕はやってなかったね。親父は絵が上手だったけど、僕は特に趣味らしい趣味はなかったねえ。たまに競馬に行くくらいかな?まあ博打を趣味っていうのはおこがましいけど」
「いいんじゃないですか?なんとなく紳士の遊びってイメージですよ」
「そう言ってもらえると助かるよ。婆さんは良い顔しなかったけどねえ」
わははと笑うおじいさん。褒められたからでしょうか、とてもいい人な気がします。
「あ、そうだ、おじいさん。一升瓶持ってるってことはイケる口ですよね?ビールとかお好きですか?」
七々さんがぬるくなったビールを不味く飲むくらいなら、まだ少しは冷たいうちにおじいさんに飲んでもらうのが麦にとっても本望だと思います。そもそも七々さんは今日に限っては飲み過ぎです。お祭りで浮かれているのかもしれません。
「まあまあお気遣いなく。勿論嫌いじゃないよ」
「いや、先輩が飲み過ぎて、今トイレに行っているんですけどね、今日は昼間っから飲んでいるんで、そろそろ止めさせないとって思って。キンキンとまではいきませんが、それなりにまだ冷えているので、どうぞ飲んでください」
「いやあ、何だか悪いね。ビールを貰いに声をかけたみたいでさ。けどまあ折角のご厚意に甘えて頂こうかな」
最後の一缶の、結露した水滴をタオルでふき取って、プルトップを開けておじいさんに渡します。染みついた後輩根性のおかげで一連の動作がやけにスムーズなのを、おじいさんは笑いながらありがとうと言って受け取りました。
「美人さんが開けてくれたビールは美味しいねえ……お嬢ちゃん、今いくつなんだい?」
「今年で二十歳になります」
「そうなんだ。大人っぽいし、しっかりしてるからもうちょっと上かと思ったよ。もう働いているの?」
「親には悪いんですが、まだ学生をやらせてもらっています」
「いいじゃない。沢山勉強して良い大人になってよ。何かしたいことはあるの?」
「それが恥ずかしながら……今のところ写真関係くらいしか思いつかなくて」
現在大学二年生、気の早いことかもしれませんが、将来をどうするかという漠然とした不安が付きまといます。写真関係と言ったのも、今の自分に興味があることがそれしかなくて、そして興味はあっても自信がないのが本当のところです。
「別に恥ずかしいことじゃないよ。したいことがあるのはいいことじゃない」
「ありがとうございます……」
「僕は定年になってから久しいけど、人生の半分以上を仕事して生きるんだから、仕事は楽しい方が良いと思うよ」
月並みだけど、と言っておじいさんはビールの缶を傾けます。
「おじいさんは、何の仕事をしていたんですか?」
「何の変哲もない会社員だよ。仕事自体は楽しかったけどね」
どこか遠くを見つめるおじいさんの横顔を、私はじっと見つめていました。
「本当、普通の人生だったよ。結婚して家庭を持って、子供が生まれたと思ったら、あっという間に成人しちゃってさ。驚いたよ、あんなに小さかったわが子が、もう孫を連れておじいちゃん家に遊びにくるようになって。仕事も、自分で言うのも何だけど、真面目に働いていたから、それなりの役職まで行って定年さ。定年後はのんびり暮らしながら、たまに遊びに来る孫たちの為にせっせと小遣いを貯める日々だよ。後は、先に逝ったばあさんのお迎えを待ちながら、ゆっくり余生を過ごす、なんの変哲もない毎日だよ」
おじいさんの横顔からは、満足げな笑みが見えます。
「まあ、後悔があるとすれば、もう少し旅行に行けば良かったかな。お嬢ちゃんみたいに写真が趣味だったら、どこそこ出歩いただろうに」
こちらを見るおじいさんと目が合います。にかっと相貌を崩して、それにつられて私も自然と笑みがこぼれます。
「さあて、長居しちゃったかな。そろそろ花火が始まる頃合いだ。ばあさんも迎えに来たしねえ」
林の方に目をやると、おじいさんとお揃いの色の、真っ白な浴衣を着たおばあさんが、こちらを見ていました。
そこでふと違和感を覚えます。
話の内容によれば、おばあさんはもう亡くなっているのでは?
「ところでお嬢ちゃん、焼酎は好きかな?これ、倅から貰ったんだけど、付き合ってくれたお礼に貰ってよ」
立ち上がり、差し出すおじいさんから一升瓶を受け取り、そして私は気付きます。おじいさんの足がないことに。
「―――」
「いやねえ、別に怖がらせるつもりは無かったんだよ。ただ、花火が上がる前に、お嬢ちゃんとちょっとお話してみたかったんだ」
おじいさんはそう言い残して、音もなくおばあさんの方に行こうとして振り返って、
「そうだ。言い忘れてたけど、ビールありがとうね。あと、お嬢ちゃんなら、大丈夫だから、何事にも挑戦してみなよ」
私の返事を待たず、おじいさんはおばあさんと合流して、そして溶けるように消えていきました。
残されたのは、空のビール缶と、高そうな焼酎のみ。
なんとまさかの、幽霊との遭遇でした。
「お待たせ林子、なにぼーっとしちゃってるの。あら、その焼酎一体どうしたのよ?」
「……いやあ、とあるあじいさんがくれたんですよ。代わりにビールを差し上げました」
「ふうん、そうなの。にしても、海老で鯛を釣ったわね。それ、高いやつよ。後で朝日さんも来るから、ありがたくみんなで飲みましょうよ」
「そうですね……皆で頂ましょう」
先ほどとは打って変わって、元気いっぱいな七々さん。散々吐いてお酒を抜いたのでしょうか。それはそれで勿体ないことだと思います。てきぱきと撮影の準備をしている七々さんが不意に、
「ところで、そのおじいさんは一体どこに行ったのよ?お礼の一言くらい言わせてほしいんだけど」
と聞いてきたので、私はついさっき自分の身に起きたことを七々さんに話しました。話し終わって七々さんが一言、
「なるほど。まあ花火の日だから、そういうこともあるわよね」
「花火の日ってどういう意味なんですか?」
七々さんはファインダーを覗きながら
「あんた知らないの?花火は本来、この世からあの世に霊が乗って帰る為のものなのよ」
「知りませんでした……本当ですか?」
「本当よ。それより、もうすぐ花火が始まるわよ」
それと同時に、打ちあがり、夜空に色をつける花火。シャッターを切る七々さんと、少し出遅れて、私も撮影を始めます。
「花火、きれいですね」
「そうねえ。暑い思いをした甲斐はあったわ」
これだけきれいなら、あのお二人も、無事に上れたと思います。