◆第四話:「霞景という男」
――ヒトを食べたい。
脳の裏側に響く、そんな自分とは違う声。
ありうべからざる声音に恐怖する。
それに従った瞬間、自分という存在は消えて果てる。
三嶋桜火は人目を避けるように、次第に街の路地裏に向かっていく。この街は、地方都市といえど人口は多い。
人のいない空間など殆ど存在しない。
自分の感覚器官が次第に鋭くなっていくのがわかる。
もう時間がないのだ。
自分の肉体の「書き換え」が始まってしまっているのだということを、桜火は理解した。
もう、いいかな。
堪えるのも馬鹿らしい。
人を喰らうのも馬鹿らしい。
チドリの話では、自分の食人欲求は、他の黄金の糸所有者にくらべて非常に強いものらしかった。それはカタログ化したときの脅威度にそのまま直結するとも。
……もう、カラダはヒトのものではない気がする。
限界に達したことを感じて、桜火は路地の裏で、ビルの壁面に背を預けた。
空を見上げる。
路地の奥で四角く切り取られた空は、青く、雲ひとつないくらいに晴れやかだ。
これは予定調和だ、と桜火は思った。
いつだってそう。
自分の歩んできた人生の道のりはいつだって予定調和だった。
三嶋桜火には、幼い頃からこうなる未来が見えていた。
――予知、というほどではないけれど、ぼんやりとではあったが、自分の未来のようなものは見えていた。
千鳥に言わせれば、それもこの金色の糸のなせる業だというけれど。
カタログ化する人間は、未来予知、危機察知、読心など、人間であるうちから様々なオカルトじみた力を発揮するものが多いという。
けれど、そんなことももはやどうでもいい。
――おぼろげに見ていた未来では、どうあがいても、私は怪物になってしまうのだと理解していたのだ。
それが私の見た未来。
幼い頃からなんとなしに感じていた、私の終わってしまう未来。
それが、この路地裏から見た青空の光景だった。
「でも、もういいかな」
どのみちこのままでは理性を手放してしまうことはわかっているのだから、人を襲う前に自決したほうがいい。
……千鳥には迷惑を掛けた。長い間、ずっと、ずっと、自分のことを治療しようと頑張ってくれていたというのに。他の研究も何もかもを放り出して、ここ数年は自分の治療法の模索に付きっ切りになってくれていたことも知っている。
でもダメだ。もう、耐えられない。
「あーあ。なんてなさけない自殺理由」
小さなナイフを手に取る。
いまの自分なら、こんなちっぽけなナイフでも死ぬ事ができる。それがまだ自分が人間なのだという証だと思って。
桜火は、首にナイフを押し当てた。
「――いけないな。そうじゃないだろう、きみ」
誰もいないはずのこの路地の奥に、桜火ではない別の声が響いた。
――他人に見られた?
いや、ソレは問題じゃない。
今の私はもう限界なのだ。
今まさに血肉を欲している喉が、渇きを訴える。
餌が来たと。
芳醇な魔力の香りをたっぷりと漂わせた新鮮な餌が――。
溝鼠が這い回るような路地の奥。ビルに走る配管がすえたにおいを発し、薄汚れた水を地面に滴らせる――そんな場所で。
その男は全てを超越したような存在感を身に纏わせてそこに立っていた。
「いかんぞ。きみの感じている欲望は、そんなふうに耐えるものじゃあない。もっと淫らに、崇高で、はしたなく、そして貪欲に満たされるべきものだ」
「あ――」
その男の瞳に射抜かれた瞬間、私は自分の思い違いをまず悟った。
餌? この男が? まさか。
この男はそんな生易しい存在じゃない。
この男は捕食者だ。
餌なのは、自分のほうだ。間違えるな。思い上がるな。すぐに逃げろ。
死ぬ。
死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。
全身の血管が、危機を察して沸騰する。
生き延びる為に細胞が音を立てて炎を燃やす。周囲の空気が熱を持ち、目の前の男に向けて敵意をあらわにする。
「――ほう?」
男が少し驚いたように、こちらを観察して呟いた。
「これは驚いた。まだ覚醒もしていない内から力を使う片鱗を見せるとは」
何が可笑しいのか、くつくつと喉を鳴らす。
「ああ、きみ。そんなに怖がらなくてもいい。何を怖がっているのか知らないが、とって食おうというんじゃあ、ない」
闇の奥から男が一歩近寄る。長身だ。二メートル近くあるかもしれない。筋肉で張った胸板と腕が、ゆったりと着こなしたスーツの上からも見て取れる。
筋骨隆々という言葉が相応しい、日本人離れした体格の持ち主だった。
「あなた……誰」
自分の声がかすれているのがわかる。恐怖か。乾きのためか。それは桜火にもわからない。
「私はね。君を迎えに来たんだよ。三嶋桜火くん」
整髪料で後ろに撫で付けた黒髪。こんな暗闇の中だからこそ白く映える肌。巨漢ではあったが、女である自分よりも色気があるように、桜火には感じられた。
彫りの深い顔立ちに、鷹のような鋭い目つき。その瞳に灯る、妖しく艶めいた光。
ぞっとするような、抗いがたい魅力が男にはあった。
「我々にとって、初めての食事はひとつの儀式であるべきだ。空腹を我慢した末に、飢餓に耐えかねて自決するなど」
馬鹿馬鹿しいことだと男は言う。
男が虚空に指を鳴らした。
と同時に、男の背後からもう1人の人間が現れた。
若い女だ。
桜火と同年代に見えるが、その目には生気が無い。うつろで何処を見ているのかわからない。
誰だ。この男の随伴者か?
怪訝そうな桜火に向かって男は言う。
「ああ、なに。気にする必要はないさ。『これ』に意識はない。きみのために用意した、食事に過ぎないからね」
好きなだけ腹を満たすといい。
そう言って、女の喉を掴み取り――恐るべき怪力で捻り潰した。
折れた頚骨が喉を突き破り、鮮血が路地裏に撒き散らされる。
「なッ――あっ!」
血のニオイ。血のニオイだ。
女性がたったいま目の前で殺されたというのに、桜火にはその首筋から吹き出る血潮しか目に入らない。
噴き出す血潮を気にも留めず、男はその女性の襟首を掴んで引きずりながら近寄ってくる。
「――さァ」
好きなだけ貪るといい――。
妖しく微笑む男の声が、桜火の脳にこだましていた。
そこからの記憶は、ない。
――もう大丈夫よ。
ただ、そんな優しい声が聞こえた気がした。
◇
千鳥ちゃんの乗るヴァーチャーズと対峙する桜火ちゃんは左腕を切られ、息も荒く、もはや決着はすぐそこかと思われた。
「おうおう、盛り上がってるねえ。安城さんが見つけたって新人はあいつかぁ?」
水平線からうっすらと滲み出るかすかなオレンジ色が、まさに海の向こう側へ没した瞬間だった。
その男は突如現れた。
すでに空は深い紺に染まり始めている。
この廃工場地帯に設置されたいくつもの街灯が小刻みに明滅し、夜闇を照らそうと灯り始める。
そんな街灯の真下。
明るく照らされたアスファルトのうえに、その男は立っていた。
「こんばんは。オマエタチをぶち殺し隊です」
おっとお、片方はぶち殺しちゃダメなんだっけ、いっけねー、とやたら軽いテンションで
おちゃらけるその男。
『誰だ?』
『なにあのへんなの~』
変な男がそこにいた。
キツネのような目つきが特徴的だ。
白のTシャツの上に、真夏日だというのに革のジャケットを着て、胸元やら腰元やら銀ネックじゃらつかせたりチェーンぶら下げたり。見た目20代半ばか後半ぐらいに見えるが、いい年こいて脱色した髪をツンツンに毛羽立たせて、クッチャクッチャガムを噛んでいる。眉毛がシャーペンで描いたみたいに細っそい。
チンピラだった。
大学デビューしたくせに今度は卒業するのを失敗して、中退後チンピラ風のままフリーターをやってますと自己紹介されたら『ああ……』と納得してしまいそうな感じのとっぽい兄ちゃんだった。
千鳥ちゃんも、桜火ちゃんも、誰何する目でその男を見ている。知り合いじゃなさそうだった。
キツネ目は建物の二階に居る俺には気づかず、千鳥ちゃんと桜火ちゃんに無造作に近寄る。
「ほォほォ……これが重圧のヴァーチャーズか。噂にたがわず醜いバケモンだな」
「……安城影久の手の者か」
千鳥ちゃんは刃を桜火ちゃんに向けたまま、キツネ目のほうに向き直る。
「当たりー。新規のカタログが生まれたってんでな。安城さんが連れて来いっていってるぜ、オマエ」
ヴァーチャーズの横に蹲る桜火ちゃんに声をかける。
「安城、影久。……あの巨漢の男ね」
「おうよ。出会いがしらに逃げたらしいじゃねえか。なんでだ? あの人に従ってりゃあ、餌はいくらでも食い放題。こんな糞みたいなカタログ狩りどもに追い回されることもなくなる。ついてきな、安城さんに会わせてやるよ」
この関取のバケモンはオレが始末してやるからよ、とキツネ目は言った。
「行かないわ。私にはやることがあるもの。あんな紳士ぶった外道の下につくつもりはないわ」
外道、と力をこめて言う桜火ちゃんに、キツネ目が反応した。
「……あんまり調子こくなよ、新人。コントロールできないようなら始末しても構わないと言われているんだぜ」
一気に剣呑になる空気。
よくわからんが、あの男もカタログなんだろう。どうやら千鳥ちゃんも桜火ちゃんも、キツネの立場に対して敵対的だ。
これはまずい。まずいぞなもし。
『けーくんどうしたのー?』
『おい景、またいつもの病気が発症したんじゃないだろうな。やめておけよ』
やめない。なぜならそれが俺のジャスティスだから。
『あの男はまだこちらに気付いていない。おとなしく千鳥の忠言どおり、地下室に迎え、景――』
「クルァッ! そこのへんなキツネ目ーッ! ゴラーッ!」
俺は夜空に向かって叫んだ。
◆第四話:「霞景という男」
霞景は佳奈に引き取られてからというもの、口をすっぱくして教え込まれてきたひとつの言葉があった。
それは一般常識から考えて、あまりマトモとは言えないまでも、それを聞いた人間は微妙な薄ら笑いを浮かべて「まあ、そういう考えもありだよね」と笑い飛ばすような他愛のない、ひとつの訓示であった。
「男の義務を果たせ」
それが佳奈が景に対して常日頃から口にしている言葉であった。
別に悪くはない。間違ってはいないひとつの真理だと、貴久などはしたり顔で言う。男には果たすべき義務がある。それを果たさない男は軟弱なのだと、佳奈は言った。かなりマッチョな考えであると、教えを受けた張本人である景も思う。
「女子供を守れ。弱者を守れ」
それが、男の義務なのだと佳奈は言った。そしてあろうことか「だから景は強くなって私を守りなさい」とまで言った。
初めて佳奈に言われたときは、心の底から素直な気持ちで「佳奈ちゃんは守らなくても大丈夫でしょ?」と言ってしまい、酷い目にも遭っている。
重要なのは力関係ではなく、守ろうとする意志の強さなのだと、佳奈には言われた。
だからあなたは守りなさい、と。そう言われ、頭をなでられた景は、やっぱり守られているのは自分じゃないか、と思ったけれど、また頭蓋を割られそうになるのはいやだったので、それ以上の反論はやめておいた。
ともあれ、景の中にはそのマッチョな思想が息づいている。
景は時々考えるのだが、これは「弱者」という設定自体には何の意味も無いのではないだろうか、と。なぜって自分は佳奈から見れば確実に弱者であろうし、社会全体から見ても景は弱者の部類だろう。体格は小柄で童顔、幼少期は女の子と間違われることも多かった。腕力にも乏しく、頭脳も取り立てて優れているとはいえないと自分では思っている。
では自分は守られる側なのだろうか。
違う、と景は思う。
純粋に腕力的な意味で女子供を守れといわれているのではないと、景は思う。おそらく佳奈も、景に肉体を鍛えてムキムキになれ、などと言っているのではない、と思う。
これは心構えの問題なのだ。
誰かを守ろうとする意思は、たとえソレを思う本人が弱者であったとしても持てるものなのだと。
「自分は弱いから」を言い訳にしない、姿勢。
その姿勢を途切れさせず、保ち続ける心構えを持てと。
そう言われているのではないかな、と景は思った。
ならば理解できる。
弱いものいじめを見過ごさない、姿勢。
強者の驕りをもたないようにする、姿勢。
実際に佳奈が弱者になる姿は想像しようにもできないものであったけれど、仮に佳奈ちゃんが誰かに対して弱者であった場合、自分は佳奈ちゃんを助けに割って入るだけの心の強さを持とうと景は思った。
逃げられる状況であっても、言い訳があったとしても、弱さを理由にはしないと決めた。
そして、それを今後の生きる目標と方向性に定めた。
◆
「あん? 変なの? てかオメー誰だコラ。坊主、おう」
二階の突き破られた窓から顔を出していた俺を見つけたのか、男はこちらを見る。
「ここにいるのはオンナふたりって聞いてたけどなぁ。てめーもカタログか?」
「景くん!? バカッ、隠れていろと言っただろう!」
千鳥ちゃんがこちらを見て何か言っているが、知らぬ。
「正確にはバケモンに乗った女と、バケモンになった女が居る……てえー。冴えない童貞くせえガキがいるとか聞いてねえーんだけどなぁ」
「ど、どど童貞ちゃうわ!」
『童貞だろう』
『だよねー』
……全てばれているこいつらが恨めしい。
「鳥海千鳥の関係者かァ? ま。教えられなかったってコトは、その他大勢ってコトでさ。テメーは死亡確定だ坊主」
ニタリと、狐のような目で笑う。
「この……ッ! 不届き者がーーッ!」
「……!?」
俺は怒鳴った。もうメチャくそに怒鳴った。
「俺をーッ! 殺そうってかーッ! コラーッ! えーッ!」
「な、なンだぁ?」
ガチの殺し合いをしている桜火ちゃんと千鳥ちゃんを尻目に、俺は窓枠から身を乗り出しキツネ男に向かって叫ぶ。
「てめーが誰だか知らないがなーッ! 冴えないだのドーテーだの、ええッ! 好き放題言ってくれるじゃねえかコラーッ! ああーンッ!?」
急に目を血走らせて夕闇に吠え出した俺を、呆気に取られた顔で見上げるキツネ目。なんだコイツは、なぜ突然気が触れたように怒っているのだと、はてなマークがいくつも浮かんでいるのが見てとれる。
「うがあーッ! ぶっ殺したいなら好きなだけぶっ殺すが良かろうキツネ! ただしセルフだからッ! うちは自動ぶっ殺しサービスはないッ! コラッ!」
「せ、セルフ!? な、なんなんだよオマエ……」
「それはこっちのセリフじゃボケッ! 突然出てきててめーは何モンなんだよッ! 自己紹介ぐらいしやがれッ!」
「お、オレかぁ? オレは安城機関の、久我山ってもんだが……」
「知らんッ! ナニしに来たァッ!」
怒鳴り散らす俺に対し、キツネ目の男は次第にイライラとした表情を見せはじめる。
「……いい加減にしろよクソ餓鬼。オレはそこにいる関取のバケモンみたいなのに乗ってるオンナぶち殺して、左腕千切れてるカタログオンナぁ回収して、安城さんトコに届けるためにきたんだよッ! それがオレの仕事だッ! わかったかコラッ、餓鬼! てめーがなんでキレてんのか知らねーがなッ! おまえはそのついでにオレにぶっ殺されんだよ! セルフでな!」
まいったか! と、こちらに対抗したのか、よくわからんテンションでほざくキツネ目。キレ芸でかき回しておいてなんだが、セルフでぶっ殺されるってなんだ。
というかあれ絶対に自分でもなんで怒ってるのかわかってないな。
『けーくんもなんで急におこったの?』
『……いつもの病気だ、アンナ』
病気とは酷い。正義感、と言ってくれないか。
『病気以外のなんだというんだ。キレたのもフリだろう。あのキツネ男の意識を、千鳥と桜火からこちらに向けるための演技だ』
あら。ばれてらっしゃる。さすがタカちん。
『さすが、じゃないぞバカ景。アホな真似で挑発して。奴が言葉通り俺たちを始末するつもりならピンチだぞ』
うん。敵愾心煽っただけだもんね。わかってる。わかってるよタカちん。
わかっていてもどうしようもないことはある。
『佳奈の教えに愚直に従ってくたばるのがお前の正義感か? やつらを甘く見るなよ、景。あそこにいる三人は、俺たちの常識では測れない化物だ。殺すと言ったら、本当に殺すだろう。千鳥に斬られたときのような奇跡的な回復など望めまい』
それでも、だ。
佳奈ちゃんに教えられたから、っていうのもあるかもしれないけど、それはもう俺の生きる指針でもあるんだから。
千鳥ちゃんに従って隠れていて、それでもし千鳥ちゃんがキツネ男にやられちゃってさ。んで桜火ちゃんも連れ去られて。それでのこのこと地下から出てきて「ああ、自分には責任がないから逃げ隠れて生き延びても仕方ないよね」とは、たぶん思えないんだよね。そんな姿、佳奈ちゃんには見せられない。
『……景』
それに、あのキツネ目がひとりで出てきたって事は、桜火ちゃんと千鳥ちゃんを相手取って、千鳥ちゃんのヴァーチャーズ倒して、抵抗するようなら桜火ちゃんも無力化できるってことでしょう? あのキツネ目。
『そうなるな。物腰からいって、奴も桜火と同じカタログとやらだと考えて間違いなかろう』
だしょ?
てことはさ、たぶん高い確率で、やられちゃうじゃん、あのふたり。
『む……』
キツネの言う安城ってのが誰だかはしらないよ。でも二人を相手取って勝てると踏んだからあのキツネが送り込まれたわけでしょ。千鳥ちゃん殺されちゃうよ。桜火ちゃん連れ攫われちゃうよ?
『……戦力的にはおそらく間違った見立てではないと思うが、しかしだな、景。そこで俺たちが割り込んで、いったいどうなるというんだ。死体が一つ増えるだけだろう』
女の子ふたりが暴漢に襲われてるんだもん。じゃあ仕方がないよ。結果的に俺たちが死んでもさ。
『……本気であの怪物どもの間に割って入るつもりか?』
『ひゅー! けーくん最高っ! それでこそ男の子だよねっ』
『アンナも止めろ。本当に死ぬぞ? しかも千鳥はともかく、桜火は敵だ。俺たちが助ける理由がない』
でも女の子だ。
『ヒトではない。我々が守る義務もない』
ある。
『む……?』
もし俺の考えている通りだとしたら、桜火ちゃんを敵視する意味はないし、俺も、千鳥ちゃんも生き延びる方法はある。
「――それにさ。いざとなったらタカちんが俺達のこと、守ってくれるでしょう?」
『なんだと……。おいっ。景それは――』
「とおっ!」
タカちんの言葉を振り切り、俺は二階の窓からそのまま路上に飛び降りた。
膝のバネを使い、衝撃に耐える。
散らばるガラス片を踏み割り、降り立った俺の前には、怪訝そうな顔つきでこちらを見るキツネ男。
「おめー、何モンだァ? カタログ……じゃあなさそうだな」
「俺は愛の使徒」
「はァ!?」
「うら若きおとめたちを嬲り者にしようとする悪漢め、許ッッせんッ! 俺が相手だァー! キツネ目ー!」
ノリに任せて吼えまくるが、相手のキツネはもはや半ば呆れ顔である。
「なァ……おい、鳥海千鳥。こいつァ、ナンだ?」
「景くん、ふざけるのもいい加減にしたまえっ!」
千鳥ちゃんがこちらに叫ぶが、ま。当然だよね。逃げろと言ったのにしゃしゃり出てくる非戦闘員とか……邪魔者以外の何者でもない。
キツネはというと、もう相手をするのも面倒になったのか、冷めた目で俺を見た。
「てめーがナニもんだかしらねーが、とりあえず死んどけ。な」
手のひらをすっと掲げ、俺に向けて広げる。
アレか。
千鳥ちゃんや桜火ちゃんがやってのけた、特殊な力を飛ばすときのポーズだ。あの手のひらから放たれる何がしかで俺をぶっ殺そうっていうのだろう。
「舐めんなッ!」
横っ飛びにかわす。球体の炎か、重力のようなモノの固まりか、何かが俺に向かって放たれるはず! それをかわしざま懐に飛び込む! イッパツ殴ってやらあ!
――と。
考えていた俺の思惑が相手に読まれていたのかどうかはわからない。けれど、とりあえずキツネの手のひらから何かが放たれることは無かった。
「……あれ?」
「てめー、本当にナニがしたいんだァ?」
キツネは手のひらを広げたまま。
あれれ?
「わかった。おめーが何者かはしらねーが、とりあえずバカなのはわかったよ。死ね」
グッ……と。
キツネ男は無造作に手を握る。
街灯に照らされて、地面に広がる影。それがキツネ目の手に操られるように立ち上がった。
「え……」
俺の形をした、俺の影。
のっぺりと薄く、どことなく自分自身の間抜けさ加減までも模倣したように見える影。
それがゴム膜の様に一気に広がり、俺に向かって覆いかぶさる。
「景くん!」
千鳥ちゃんの声が聞こえる。
けれどあまりにも一瞬のことで、全身を黒いシーツでも被せられたかのように覆われてしまって、俺は声を出すことも、動くことも出来ない。
「はいおしまい。急に出てきやがったから、何モンかと思ったが。ただのバカだったな」
俺は影の中に――落ちた。