湯たんぽの地位
玄関を開けたら、大型の座敷犬が出迎えた。透明な尻尾が身体の後ろでわさわさ振られているのがわかる。
「おかえりっ!今日は早上がりだったからさ、晩ご飯作って待ってようと思ってっ」
ドアを開ける前に感じた良い匂いは、私の部屋だったのか。それにしても食事の支度を終わったって、そんなに嬉々とできるものなのかしらん。
「……ただいま」
これがハタチやそこらの小柄な男の子なら、可愛いんじゃないかとは思う。三十を過ぎて辛うじてオニイサンの男だと、所帯じみるばかりだ。二の腕の太さだけで私の太腿ほどもある男は、嬉しそうにレードルで鍋を掬ってみせる。
「ビーフストロガノフ、クリーム仕立て!」
女子力の高そうな料理だなあと思いながら、着替えるためにいったん退去。寝室に入ると、毛布をごそごそして面倒そうに、ハギが私を迎えた。こちらが私の正式な同居人、三歳になる猫。猫との生活はお互い勝手で、とても気楽。
「サラダもスタッフドトマトにした。いいでしょ、赤いサラダと白いクリーム」
着替えて居間に戻ると、コタツの上にはもう食事の準備ができてる。これは素直に喜べば良いのだろうなと思うんだけども。
なんていうのかな、ヤツが期待しているものを差し出すのに躊躇しちゃう。私がひねくれてるのはわかってるんだけど、そんなに期待した顔をされましても困ります。尻尾、身体の後ろで千切れんばかりだよ。
でもまあ、言葉にしてしまわないと人間としてどうかと思うし、別に減るもんじゃないからね。
「ありがとありがと、おいしそう! ショウちゃんってお料理上手だよね。すっごく嬉しい!」
食卓に着く前に、まずビジュアルを褒める。座敷犬の瞳がキラキラするのを見ていた。
同僚のショウちゃんに合鍵を渡したのは、まだ先月のこと。同僚同士で飲みに行ったのからの流れで、なんとなくそんな雰囲気になって、お互いに年齢も年齢だし素性も明らかだから、進展するのには時間がかからなかった。
まだ一緒に住もうとかそんな話にはならないけど、時間が空いた日にどちらかの部屋で過ごせるような関係になって、一緒に会社を出るよりも気楽に行き来できるように合鍵の交換になった。
社内ではそれなりに責任が回ってくるようなお年頃で、ショウちゃんは信用度の高いヤツだ。でもそれはビジネスの上でのこと。結構食わせ物だって評判の営業の中身が犬だなんて、知っている人はいないだろう。
コタツに足を入れると、いつの間にやら寝室から出てきていた先入者が足にあたった。もっこもこの毛皮を着ているくせに、そこまで寒いのか。ショウちゃんが無遠慮に大きな足を突っ込む前に、警告しておかなくては。
「ね、ハギがコタツの中にいるから気をつけ……」
言い終わる前にショウちゃんはコタツの中に足を入れて、ハギに反撃を食らった。
「うわ、おまえ、フーちゃんが帰ってくるまで寄りつかなかったくせに! なんでそんなとこに寝てんだ!」
「だから気をつけてっていったのに」
助けを求めるように私の足に手をかけるハギの頭を、コタツに手を入れて撫でてやる。ほかほか、ふわふわ。
「ハギはこの部屋の住人だもん。ショウちゃんなんてハギから見たら闖入者なんだから、仕方ないでしょ」
私とハギはこの部屋のレギュラーだけどショウちゃんはあくまでもイレギュラーなんだから、そこは認めてもらわないと、人間と猫の生活は対等じゃなくなっちゃう。私がハギを養って、ハギは私に癒しをくれる。
いい歳をした男がぷっと膨れるのを宥めるべく、料理の腕を褒めちぎって機嫌をなおさせる。犬だから、最大のご褒美が褒め言葉だ。食後のコーヒーが出るころには、ショウちゃんは元の上機嫌に戻っていた。
「そろそろ、寝ようか」
私の移動についてくるハギは、一緒に毛布に潜り込んでおなかの辺で丸まる。その隣で布団に入ろうとするショウちゃん。
「あ、そっち側はハギが入ってるの。逆側にして」
「そうすっと、フーちゃんは俺に背中向けちゃうじゃん」
「だって、ハギは私が向いてる方に丸くなるんだもん」
これは本当だ。ハギが寝た後に寝返りを打っても、必ず私の身体の向きに合わせてハギは移動する。ふうっと溜息を吐き、背中から私の肩をぐるっと囲ったショウちゃんの体温を感じる。
「今のとこ、ハギに湯たんぽの地位は譲ってやっとく。来年くらいには新しい部屋で、ハギは猫用ヒーターで寝てもらう予定だから、それまでな」
「来年?」
「うん、来年。ハギも一緒に引っ越しだからな」
来年か。えっと、もう今年も残り少ないんですけど。来年って目の前じゃないんですか。
「正月は俺の実家からね。ハギの湯たんぽの地位、脅かしてやる」
争奪している部分がなんか少し、違う気もするんですが。
fin.