【妹と言う関係】
「竹原君?」
いきなり声をかけられ、貴之は声の方を向いた。春里も貴之の視線の先を見た。とてもかわいらしい女性が一人微笑んで立っていた。そして、貴之だと認めたのだろう、とても嬉しそうに笑い、かけてきた。春里は気になって貴之の顔を見上げた。何とも複雑な表情だ。驚いているような、苦い顔をしているような。
「休日に会うなんて偶然」
まるで春里の姿など見えないと言う風な態度に春里は戸惑った。あからさまな感情がそこにあるような気がしたから。
「そうだな。大学からも遠い」
「うん。何か得した気分。で、今日はどうしたの?」
ここでやっと女性は春里の方を見た。チラッと。
「映画を観に行ったんだ」
「彼女と?」
「いや、妹なんだよ」
――妹?
春里は耳を疑った。妹と言う関係は微妙だと言う様な事を以前貴之は言っていた。なのに、当然のように妹と春里を紹介する。しかも女性に。まるで、恋人だと思われたくないような否定に春里は泣きたくなった。込み上げてくるなんとも言えない感情。遠くなる意識。眼の前がぼやけてくる。
「妹さんなんだ。仲がいいんだね。手なんてつないで」
指摘されて貴之は春里の手を離した。春里は俯いて今まで貴之に触れていた自分の手を見つめる。離された手。ぎゅっと握られていたその手が解放され、力を失う。貴之の温もりが失われていく。それがとても悲しくて仕方なかった。
――離れていく。放れていく。ハナレテイク。
知らないうちに女性は去って行っていた。そして、貴之の手に手を掴まれていた。だけれど春里は歩く気にも貴之を見る気にもなれなかった。頭の中がぐちゃぐちゃでぐるぐるしていて、今までにない悲しみや悔しさや淋しさが込み上げていた。
「春里?」
春里の顔を覗きこんできた貴之が眼を見開いて驚いているのを春里は呆然と見ていた。
「何で泣いている?」
「え?」
「何があった?何でこんなに泣いているんだ?」
貴之の親指が春里の頬に触れ、涙を拭う。貴之の指なのに、貴之の指なのだと実感できない。これほどまでに関係を否定されることが辛い事などと思っていなかった。妹と恋人の差は大きくて――。
「わたしは妹、ですか?」
「え?」
「わたしは妹なんですか?」
「もしかして、さっきの事か?」
「さっきってなんですか?」
貴之は少し考えながら首の後ろを何度か手でさすった。
「食事の前にどこか静かな場所を探そう。そこできちんと話すよ。春里は妹じゃない。俺の恋人だ」
「嘘だ」
貴之の言葉は無条件に信じてきた。心が受け入れていた。だけれど、だけれど、今は信じられない。どの言葉も優しさも零れ落ちていく。
「手は離さない。だからいくら払おうとしても無駄だ。この状態で手を離す程俺は間抜けじゃない。それくらい分かるだろう?春里」
「だって」
「きちんと聞いてもらえれば理解してもらえると思う。きちんと理由がある。だから、落ち着いてほしい」
往来でこんなやり取りは目に付く。だが、春里はそんな事は関係なかった。そして、多分貴之も。真正面から見る貴之の表情がとても真剣で、きちんと春里の事を考えてくれている事が感じられて、やっと春里は落ち着いた。
「ごめんなさい。取り乱して」
「いや、どちらかと言うと嬉しいもんだから」
「え?」
「それだけ俺に惚れているって事じゃないのか?」
急にからかうような笑みを貴之は浮かべた。
「え?あ、いや」
春里の頭はまだ動きだしていない。どう返していいのか分からないまま貴之に手を引かれ歩きだした。
辿り着いたのは、とても広い公園。有名なところだ。そこの空いているベンチに二人並んで座った。
「同じ高校出身者が大学に当然いる。その中の一人が俺の噂をしていたらしいんだ。大きな声でさ。それを聞いて思ったんだよな。どこでどう情報が流れるか分からないなってさ」
「……」
「もう、春里にいやな思いはさせたくない。春里が高校を卒業したら、もう問題ないから公言する。だけれど、後約半年、妹として紹介する。それがいいと思ったんだ。気にし過ぎなのかもしれないけどさ」
春里の眼から再び涙が流れた。
――なんて自分勝手な。
これは自分自身に対しての感情だった。貴之は常に春里の事を考えて行動していたではないか。なぜそれを忘れてしまったのか。今は自分を責める言葉しか春里には浮かばなかった。
「さっきの人は名前も知らないんだけど、この前廊下でぶつかったんだ。向こうが勢いよくさ。そして、その噂を教えてくれた」
「なんか、貴之さんの事好きそうでした。貴之さんもまんざらではないような」
「馬鹿を言うなよ。そう思うのは俺が春里を妹扱いしたからだろう?」
「ええ、まあ、そう言われるとそうかもしれませんが」
「名前さえ知らないんだぞ。聞こうとも思わなかった相手だぞ」
「……そうですよね」
春里の言葉に貴之はきれいに笑った。
「信じろよ。三ヶ月ちょっと待ち続けた男だぞ」
これを言われると痛い。春里は何ともいえずに黙りこんだ。
「冗談だよ」
爽やかに笑った後の爽やかな口調。どこまで爽やかなのかと春里はじっと貴之を見つめながら考えていた。
「さて、遠回りしたけど、蕎麦屋に行くぞ」
「はい」
***
貴之が春里を連れてきた蕎麦屋は老舗だった。いい感じに味の出た店構えは春里も気に入ったようだ。
お昼からずれてしまったせいもあるのかそれほど店内は混んではいなかった。二人は奥の壁際の席に座り、メニューを見る。結局は先程の会話通り春里は鴨せいろ、貴之は天ざるを注文した。
「俺さ、両親に感謝しているんだよな」
貴之の突然の言葉に春里はきょとんとした。
「そりゃそうでしょう。ここまで立派に育て上げてくれたわけですし、何不自由なく」
「いや、そうじゃなくてさ。まあ確かにそれも感謝はしているけど、そんな事ここで改めて言うかよ」
「じゃあ、なんですか?」
春里はかわいらしく首を傾げた。
「だからさ、春里を引き取ってくれたこと」
「春里と出逢えたのは両親のお陰だ、ってやつですね」
「まあ、そうなんだけどさ、そうじゃなくてさ、なんて言うか、春里の心情を考えての行動だったことは理解しているんだけど、えっと」
「珍しいですね、はっきりしない貴之さん」
春里は両肘をついた形の頬杖をついて、興味深そうに貴之をじっと見つめた。その表情と仕草を見るととてもかわいらしくて貴之は笑いそうになった。
「いや、なんて言っていいのか分からないだけだ。春里を籍に入れなかった事に感謝しているんだよ。別にあの時はどうでもよかったんだけどさ、今だったら良かったって思うことだろう?」
「――そうですね」
「俺と春里が義理の兄妹になっていたらこんな簡単じゃなかったような気がする」
そう、籍に入れるかどうかなんて初めはどうだってよかった。関係ないとも思っていた。だが、今は違う。貴之は春里に惹かれ、春里もまた貴之に惹かれた。その時初めて、兄妹でなくて良かったと思ったのだ。籍が入っていたら悩むだろうことを悩まなくて済み、両親は歓迎してくれた。それは貴之にとって感謝するべきことだった。
「わたしは最初から感謝しっぱなしですけどね。わたしのことだけを考えてくれたってすぐに分かりましたから」
「今思えばこういうことも考慮されていたのかも」
「そうなんですかね」
「嘘だよ。絶対にこういう風になるなんて考えていなかったと思う。なんせ、年頃の男がいる家に平気で年頃の女の子を招くんだぜ。普通あり得ないだろう?しかも、部屋は隣同士。俺が男だってこと忘れていたとしか考えられない」
「確かにそうですね」
春里はクスクスと笑った。くりくりの眼が細められ、本当に上品に笑う。貴之は春里のこの笑みが本当に好きだ。こうやって笑ってくれるなら、どんなことでもできそうなくらいだ。
「わたしも母に感謝しています。最初は母の選択を詰ったりしましたが、すぐに感謝しましたよ。とても素敵な家族に出逢えたって」
春里の言葉に貴之はぐっと詰まった。とても幸せそうな笑みを浮かべて、とても温かな言葉が流れる。自分の家族をとても素敵と表現してくれた事を貴之は嬉しく思ったのだ。そして、そうやって感じてくれる素直な春里をやはり好きだと感じた。貴之は目頭が熱くなるのを感じた。
「素敵、にもちろん俺も入っているんだよね」
おどけるように言ったのはなんとなく眼がうるんできてしまったから。
「もちろん『とても素敵』に入っていますよ。貴之さん」
「うん、それはよかった」
ちょうど蕎麦が届き、二人は黙って食べ出した。無言の食事の時間。ちらりと春里を覗き見ると、とてもきれいに蕎麦を食べていた。音をたてて食べているのになぜかその仕草はきれいだ。いわゆる貴之の惚れた欲目だろうか。そうだとしても構わない。ずっと眺めていたいと思うくらいにその姿に見惚れたのは確かだから。
貴之の視線を感じたのか春里の手がピタリと止まり、顔をあげた。
「やっぱり見ていましたね」
「うん。きれいに食べるよな」
「それってどういう意味合いで言っているんです?」
「きれいな姿形と言う意味」
「それはありがとう。母の教育の賜物です」
「へえ、結構厳しかったの?」
貴之は春香の姿を思い浮かべる。思い浮かぶのは病床の時の姿ではなく、飾られている写真の姿。満面の笑みを浮かべ、今にも話しだしそうな写真だ。
「厳しいと言う程ではないんですけどね。別にスパルタではないですし」
「春香さんのスパルタ教育って想像できないぞ」
「わたしだって想像できない」
――そりゃそうだ。
貴之はおかしくなってクスクス笑った。
「春香さんもきれいに食べたんだね」
「それは祖母の教育の賜物」
「受け継がれているもの?」
「そんな大げさなものではないけど、そういうことになるのかな」
春里はまた食べ始めた。とても幸せそうな顔で黙々と。だから貴之も手と口を動かし、黙々と食べた。
「ししとうが残っていますね」
「食べる?」
「残飯処理ですか?こういう時は食べて下さいって言うんですよ」
にっこりと意地の悪い事を言われ、貴之は口を尖らせた。
「嫌なら自分で食べたらどう?」
「食べてください、春里ちゃん」
「……」
春里は無言のままししとうの天ぷらを食べた。なぜか少し不貞腐れていた。
小さなアクシデントですが、これからずっと続くもの。ですね。
次回はお墓のこと。
次回もお付き合いください。




