抹消
『消』をテーマにしたグループ小説です。
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最近の世の中は物騒だ。ぶつかっただけでも殺される。
警察は全くあてにならない。と言うよりも、男の職種柄、頼る訳にもいかなかった。
男は絶えず命を狙われていた。
ドアの前、椅子の下、クローゼットの中…これまで幾度となく殺気を感じた。それでも男の感覚が鋭かったからか、単に運が良かったためか、今日までこうして生きている。
しかし男は限界を感じていた。
殺し屋として妻子を持つのは、負担が大きい。それにもう若くはないのだ。
そこで男は家族を連れて、都心へ移った。
最近の世の中は物騒だ。
都会はますます物騒だ。
都会には、不特定多数の人々が流れ、溢れてごった返っている。
隣の住人の名前どころか、顔さえ分からない。すれちがう人々が善人か悪人かも判断がつかない日常では、常に用心が必要だ。
それでも…いや、だからこそ男はこの地に定住する事にした。
「都会の物騒な所を逆手に取ったんだ。」
男は息子のおもちゃのように見える車を眺めて言った。
「あら、物騒と言っても設備はハイテクよ。」
ベランダのオートロックを、確かめながら妻が微笑む。
指紋、声紋、IDカードにパスワード…もはや施錠に『鍵』はいらない。
何しろここは、設備・警備がトップクラスのマンションだ。伊達に高さだけ積んでいる訳ではない。
『ケイコク。ロックが解除されたままです』
ピピピ、と電信音がなって、セキュリティシステムが作動する。男は思わず舌打ちした。
仕事をする時は、『俊敏且つ慎重に』を第一とする男だったが、機械はさらに『正確』だった。
きっかり2分で警告。そして、その10秒後には、ベランダの監視カメラが男を捉えた。
小さなレンズが、品定をするようにキラリと光る。男にはそれが、自分を見下ろす刺客の漆黒の瞳か、自分を狙う銃口に見えた。
『プログラムと一致。認証しました。』
その一言で、男は詰めた息をそっと吐き出し、ベランダを後にした。
「…つけられている。どこかで足がついた。…いや、いい。ここで切る。」
男は小声で早口にそう言うと、携帯の電源を切った。
帰宅ラッシュをとうに過ぎたと言うのに、電車からかなりの人が降りてきた。
刺客の目を惑わすにはちょうどいい。
とりあえず、人混みに紛れ、駅を出ると、スクランブル交差点から繁華街へ回りながら家路に着く事にする。
慣れているはずなのに、落ち着かない。
周りを見渡せば、人、人、ヒト…。
一人ひとりの動きに警戒しつつ、男もまた人混みの中の点になる。
背中に感じる視線が途切れた。巧く振りきれたようだ。
いや、しかし…
男は路地に入ると、足を止め、耳を傾けた。
一人、二人、三人…
思わず舌打ちする。
それは間違いなく同業社で、最近名を挙げているグループだった。
3、4人でチームを作って、一定の間隔から一気に襲ってくるので、成功率は9割以上だと言う。
男は、ビルの隙間からのぞく月を眺めながら、スーツに忍ばせたナイフの数を確かめた。電柱の陰で、闇が動く。誰かが待ち構えている。
月の輪郭がビルの灯りでぼやける。
散々な夜になりそうな、そんな気配がした。
男は足早に外灯を避けて、電柱の側に近付くと、振り向き様に右手を振りかざした。
ぶすり、と。強く深く。苦痛に歪む見覚えのある顔が、外灯の下に映し出される。
どこかで見た顔…知らない誰か。
背中がむず痒いような、妙な感覚がしたが、記憶を巡る事はしない。
記憶を巡ったところで、それがどうなる訳ではない。
男にとっては、目の前に転がる人間よりも、殺気が急に消えた事の方が重要だった。
つまり、刺客が狙っていたのは、男ではなく、また目の前の誰かも、男を狙う刺客ではなかったのだ。
ビルの間を抜ける風が冷たい。
男は繁華街をさまよっていた。
読み違えたのはこれが初めてだった。
もしかしたら、もう引き時かもしれない。帰ったら妻にそう言おう。
男はようやく決心がついて、電話ボックスの中で、血の着いたナイフを最後のひと仕事として丁寧に拭いた。
そんな男に気付くのはもちろん誰もいなかった。
残業帰りのサラリーマンのように、疲れた体を引きずって、マンションのパネルに手をかざす。
お決まりの指紋照合だ。
しかし、ドアは開こうとしない。
機械と言うのは融通が利かない。きっと、汚れた手では認識しないのだろう。
そこで今度は部屋の暗証番号とIDを同時に試した。
カチリ、と音がしてカメラが動いた。
いつかと同様に、レンズが品定をする。相変わらず銃口のようだ。
ウィーン、と言う機械音とともにいつの間にかレーダーも作動している。
男は落ち着かなくなって、妻へ電話をかけた。呼び出し音が3回だけ鳴って、留守電のメッセージに変わる。
もしかして、妻に何かあったのだろうか?
マンション関係者に事件があった時、全セキュリティは一時的に停止すると、入居した時に警備会社から聞いた。
男は胸騒ぎを覚えた。鼓動が速くなり、体中からどくどくと脈が走る。
いっそ、ドアをこじ開けようか…。
すると不意にドアが開いて、息子が顔を出した。
無駄な心配だったようだ。安堵のため息がもれる。男が息子の名前を口にしかけたその時、
「おじさん、だぁれ?」
『プログラムが存在しません。部外者を抹消します。』
二つの声が重なって、カメラが火を吹いた。
「おじさん、パパとそっくりだけど、僕は騙されないよ。僕のパパなら、ちゃんとプログラムにインプットされているもん。」
最近の世の中は物騒だ。
識別番号で人を認識するのだから…。
次の日の新聞に、
『ハイテクマンションのオーナー、刺殺。』
『オーナー死亡でシステム誤作動か?身元不明の男性変死』
と言った見出しが並んだが、それは小さな記事にすぎなかった。
そして、抹消された男も身元が分からぬまま、記憶から…
う〜ん。いつもより長くなっちゃいました。
人をIDや数字でしか認識出来ない世の中になったら、本当に恐ろしいですね。
人を直接殺めずとも、消す事ができる時代がくるのかしら…。
そうならない事を願って…