―隅の子供―
あの頃の日々は
今でもまだ息をしていて
恨めしそうに足元に横たわっては
くらく くろく
海のようにどこまでも拡がっていて
私は上手く息をすることができない
〈2011年 9月〉
辞めることになりました。
そう告げると、みんな一様に驚いた。
驚き、事態が飲み込めないというようにええ~とかうわあ~と声を漏らす。
その後、やや遠慮がちに、どうしてですか?と聞いてくる。やっぱり、きついからですか?
「確かにきついけど、理由はすごく個人的なことなの。ずっと追いかけてた夢があって」
甘ったれたことだけど、と前置きして、私は事のあらましを説明する。
ずっとやりたいことがあったけど、仕事がどんどん忙しくなって、なかなか時間がそれに割けなくなってきたこと。店長になって、その時間はほぼなくなってしまったこと。本気で挑戦もせずに、ああ、私なりたかったなあ、と気付いたら諦めていて、無駄に歳を取っていた、なんてことに、このままではなってしまうと恐れたこと、それは絶対いつか後悔する、と強く思い始めたこと。
そんなようなことを、それぞれに説明する。全く甘ったれている、と自分でも思いながら。
「わかります、すごく、それ」
いつ言おうかいつ言おうかとタイミングを見極めて、ようやく切り出して以上のようなことを告げると、神妙な顔をして、濱野さんは呟いた。
「そうですか…寂しいけど、うん、でも、すごく素晴らしいと思います」
素晴らしい、なんて表現をされるとは思わなくて、私は思わず笑ってしまう。
「スバラシクなんかないよ。今ある安定を捨ててまで、見込みのある夢でもないし。しかも私、全くノープランなの。どこで次働くかも決めてないし。プータローになるかも」
「でもでもすごいですよ、なんか、それってかっこいい」
気のせいか、少し目が潤んでいる。
バイトの進藤さんも、同じように目を潤ませて、寂しいけど、でもすごく応援します、と言ってくれた。
優しい、いい子達だとありがたく思う。
「ありがとう。結果はともかく、とにかくこの期間、がむしゃらに頑張ったよね、ていう時間を無理矢理自分で作って、逃げられないようにしてみたいんだよね。私自分に甘いからさ、退路を絶たないと怠けちゃうから」
「そんなことないですよ。でも、そうですね。やって失敗した後悔よりも、やらないで失敗する後悔のほうが、何倍も大きい、とか言いますもんね」
「そうなのよまさにそれ。やるだけやってみて、それで駄目で諦めたとしても、自分に納得がいくと思うんだよね。このままどっちつかずのままそれぞれに片足つっこんでられるような、そんな甘い世界じゃないし、両方とも」
そっかあ、すごいなあ…。濱野さんが感慨深げに一人ごちる。と同時に、ちょうどまた新たに電車がホームに滑りこんできて、沢山の人が吐き出され、改札口に流れこんでくる。
「じゃあ長々とごめんね。あと少しだけど、出来るだけ発つ鳥後を濁さないようにしっかりやるから、よろしくお願いします」
そう言って頭を下げた。
こちらこそ、よろしくお願いします。
濱野さんも慌てて頭を下げる。
「じゃあ、お疲れ。明日お休み頂きます」
流れこんでくる疲れたサラリーマンやOLたちを避けながら、手を振る。なんだか照れ臭くていたたまれなくて、早く話を切り上げたくなったのだ。
「お疲れ様です!」
濱野さんの笑顔が人混みに消える。
無事伝え終えた安堵からか、なんだか気持ちが軽い。
売店で飲むヨーグルトを買って、ごくごく飲みながらエスカレーターに乗り込む。
台風が近づいているらしく、風が湿り気を帯びて冷たい。