誰のために
扉を開けると、そこは広々とした空間だった。真正面は全面ガラス張り。両側の壁には扉が二つずつあった。部屋の隅の方に骨董品らしきものがいくつか置かれているだけで、その他には窓ガラスの方に机がひとつ置いてあった。これも映画の中でしか見た事がない部屋模様だった。
そこに、シンシアさんはいた。豪華な椅子に腰掛け肘をつき、挑発的な視線を向けている。他には誰もいない。シンシアさん一人だった。
「お待ちしてましたわ。マコト」
シンシアさんは薄い笑みを浮かべて言う。私服なのか仕事着なのか、真っ白いスーツ姿で髪を一つに束ねていた。すごく良く似合う。それにカッコいいと思ってしまう。デキル女。一目で見惚れてしまった。一瞬呆けたあと、頭を振ってシンシアさんを見据える。そして、部屋の中央まで移動した。
「喫茶店に寄っててね。遅くなったかな」
「あらまあ。危機感のかけらもありませんのね」
シンシアさんは立ち上がり、机の前に移動して、そのまま机に腰掛け足を組んだ。上から見下ろす、絶対的な上からの視線。
「一人でいるなんて、少し意外だよ」
「あら、マコトこそ、本当に一人で来るとは思っていませんでしたわ」
あのヘンリーとかいうボディーガードの気配はない。外出しているわけじゃないからか。俺が何も手を出すはずがないと思っているのだろうか。シンシアさんだって一人の女で、人間だ。怪物を相手にしているわけじゃない。その気になれば、力づくでもシンシアさんをおとなしくさせることだって出来てしまうのではないか。
「先に言っておきますけど、妙な気は起こさないことですわ。こんなもので、無残に散りたくはないでしょう?」
そう言って胸の内から取り出したのは――
「本物を見るのは初めて?」
ピストルだ。拳銃だった。日本では警官だけが持つ事を許されている、あの拳銃。引き金を引くだけで、人の命を終わらせることができる道具。その銃口が今、俺に向けられている。
もちろん本物かどうかなんてわからない。もしかしたらただのモデルガンかもしれない。俺が日本人で一般人だからだろうか、目の前で黒光りしているそれを見ても、まるで現実味がなかった。
一瞬の気遅れだった。耳の奥を撃たれた気がした。目眩にも似た感覚が襲う。
シンシアさんが、銃を撃った。発砲した。少し遅れて、硝煙の匂いが立ちこめる。
後ろで、何かが割れる音が聞こえた気がした。振り返ると、部屋の隅に置いてあった壺が粉々に砕け散っていた。
「ああなりたくはないでしょう?」
紛れもなく、本物だった。嫌な汗が噴き出す。完全な恐怖から来る、心臓の高鳴り。激しく脈打ち、冷静さを保つだけで精一杯だった。虚勢を張った威勢も、同時に打ち砕かれた。
「…………斎藤さんは?」
俺の問いに、シンシアさんは軽く鼻で笑った。
「別室にいますわ。安心してよろしくてよ。余計な危害は加えていませんわ」
とりあえず、斎藤さんは無事のようだ。それを確認できただけでもよかった。これで梓を余計に悲しませることはない。
「すぐに、斎藤さんを解放して、帰してやって欲しい」
「それは、マコトの態度次第ですわね」
「俺が来た事で、斎藤さんを解放する約束だったはずじゃないか」
「ですから、マコトの態度次第だと言っているじゃありませんの。ここがどこで、あなたは誰を前に話しているのか、わかっているのかしら」
銃口がまた俺に向けられる。足がすくむ。立っていられないくらいに、震えていた。自分を正当化するならば、銃を向けられて平気な奴なんているわけがない。
「……どうすれば、どうしたらいい……?」
シンシアさんはにやりと口端を吊り上げた。その言葉を待っていたかのように。
「そうですわね。まずは、跪きなさい」
「跪くって……」
「神に懺悔するように跪くのですわ。そしてわたくしへの非礼を詫びなさい。学校ではとんだ恥をかかされてしまったものね」
梓が乱入してきた件か。たしかにプライドの高い女王様には耐え難い屈辱だったろう。
「……わかった」
そんなもんでよければ、いくらでもやってやる。俺の頭でよければいくらでも下げてやる。
俺はその場で膝をついた。その膝の上に両手を乗せ、頭を少し下げてシンシアさんを見る。
「申し訳、ありませんでした」
「ふっ……ふふ……」
シンシアさんは一度舌舐めずりをして、妖艶に笑みを浮かべた。
「足りませんわよ」
「えっ?」
「誠意が足りないと言っていますの。もっと、這いつくばりなさい。額を、頬を、目を耳を鼻を、床に擦りつけて許しを乞いなさい」
俺が睨みつけると、銃を突きつけられる。黙って言う事をきくしかなかった。
手を、頭を床につける。生まれて初めてやった、土下座。
「申し訳ありませんでした」
「もっと、もっとですわ!」
ぐぐぐっと、背中を踏みつけられる。シンシアさんの履いているヒールが背中に食い込んでいく。歯を食いしばり、その痛みに耐える。笑えないな。踏まれて喜ぶ奴の気持ちなんて、これっぽっちもわからない。頬は床に擦りつけられ、胸までべったりと床についた。
「す、すみません……でした」
「あっ、あーーーっはっはっはっ! 素敵よマコト! とってもいい格好! 無様! ほら、もっともっと這いつくばりなさい! 虫のように這いずり回って見せなさい! あーーーっはっはっはっ!」
卑猥に笑いながら、ぐりぐりと、背中を踏みにじられる。
こいつは、まいった。なんて人だ。俺からすれば、狂っているとしか思えない。どうにでもなれとは思ったけれど、これはきつい。屈辱なんて、そんな気持ちはとうに通り越している。だけど耐えるしかないんだよな。まだ、斎藤さんは捕まったままなんだ。
それに――負けたくない。
「――っはっはっ! …………ハァ……つまらないですわ、マコト。もっと泣き声を上げてくれませんと。小さなプライドが邪魔しているのかしら。それとも、まだ足りないのかしら」
「がふっ!?」
見上げた瞬間、顎を蹴り飛ばされた。尻もちをついて、一瞬意識が途絶える。口の中が切れて、鉄の味がする。感じた事のない痛みに、腕が震えていた。
「あら、まだ泣かない」
泣きたい。泣いて許してくれと泣きつきたい。もうやめてくれと泣きつきたい。
「ねぇっ! どうやったら、泣いてくださるのかしら!」
前髪を掴まれて、滅茶苦茶に頭を振り回される。痛みで涙が出てきた。だけど泣かない。まだ負けない。まだ頑張れる。俺の心はまだ折れちゃいない。梓に嘘までついて出て来たんだ。
「……斎藤さんを、解放してくれ」
「…………ふふっ、ふふふ……」
今度は腹を蹴り飛ばされた。ごろごろと転がり、息が詰まる。自分でも思う、無様だ。こんなになって、プライドなんてあったもんじゃない。けど目的だけは、どうやったって達成して見せる。
「電話でお話ししていた続きですけれど、どうしてあなたはそんなに必死になっていますの?」
「……斎藤さんは、梓の大切な人だから。それに、俺を助けてくれたから」
「恩返しのつもりですの?」
シンシアさんは鼻で笑う。
「所詮、他人ですのよ? それに、アズサには迷惑をかけられっぱなしなのでしょう? 黙っていれば、こんな目に遭うこともなかったかもしれませんのに」
「黙ってられない。梓にも助けられた」
「そうですわね。質問を変えましょう。あなたは誰のためにこんなことをしていますの? サイトウのため? アズサのため? 自分のため?」
誰のためって、そんなの決まってる。そんなの、梓の……梓のためだろ。
「……梓のため」
もう一度、シンシアさんは鼻で笑った。
「それがわたくしにはわかりませんわ。梓はあなたにとって何なんですの?」
「えっ……梓は、俺にとって……?」
なんだ、梓は俺にとって何なんだ。俺のことを好きでいてくれる、後輩。俺のために一生懸命になってくれる、お嬢様。恋人じゃない、友達という表現も何か違う。
「あなたには自分の意思がありませんのよ」
「俺の意思……?」
「そう、マコトはサイトウを助けたいと思ってここにいるわけではありませんわ。アズサを助けたいと思ってここにいるわけではありませんわ。ただ、そうしなければいけないという、義務感。ただ、流されてここにいるだけ」
「それは……」
そう、かもしれない。助けられたから、助けないといけないと思っていた。世話になったから、恩返しをしなきゃって思っていた。助けたいなんて思わずに、自分の責任だとか、いろいろ理由をつけて、それこそ小さな正義感で、ここにいる。
「ヒーロー気取りだったのかしら? 格好良いとでも思っていますの?」
ヒーローだなんて、俺はそんなものにはなれない。そんなに強い意志は持っていない。
シンシアさんが歩み寄って来て、ぐいっと、また前髪を掴まれて強引に顔を上げさせられる。
「アズサも、どうしてこんな男に惚れてしまったか不思議ですわ」
そんなこと、俺だって聞きたいね。あいつは話してくれなかったけど、たしかに、好きでいてくれてる。どうしようもない奴に目をつけて、とんでもない奴に目をつけられたもんだ、梓も。
「あ、あんたの目的は、何だ。もう、梓を手に入れることなんてできないことくらい、わかってるはず」
シンシアさんは小さく舌打ちをして、俺の顔を殴った。
「ええそうですわね。あなたのおかげで、あなたが存在していたおかげで、アズサはわたくしのものにはならなかった。でももうどうでもいいのですわ、そんなこと。わたくしの目的は、ただこうやって、マコトを虐めることだけですわ。虐めて虐め抜いて、自ら死にたくなるまで、追い詰めてさしあげますわ」
やはり狂ってる。俺の行く末はただの廃人ってか。まいった。まいったよ。殺して下さいと懇願するようになるまでずっといたぶられるわけか。はは、最低な人生の終わりを迎えそうだ。
「……はっはー! はははっ! よかった! ほんとに良かった!」
急に笑い出した俺を、シンシアさんは怪訝な目つきで見る。
「もう狂ってしまいましたの?」
「はっ! あんたにだけは言われたくないね」
「ふふ、随分な口を利く虫ですわね」
二度三度、いや、もっと、何度も殴られる。視界が狭まって、瞼が腫れていることがわかった。髪がぶちぶちと音を立ててちぎれる。叫びたいほどの痛みでも、それをぐっと堪えた。
「かはっ……! あ、あんたに梓を奪われなくてよかったって思ったんだよ。あんたは知らない。梓は意地悪そうに笑った顔が一番梓らしくて、可愛いんだ。そんな顔、あんたじゃ一生見れなかっただろうさ」
「……いい気にならないことですわ」
投げ捨てられるように、床に転がった。本当に自分がゴミに思えてくる。
「サイトウを預かっていること、お忘れじゃなくて?」
ああ、そうだったちくしょう。へへっ、目的は斎藤さんだったな。たしかにいい気になってたかもな。
のろのろと、よろよろと起き上がり、再び土下座する。プライドなんて、とうになくなった。
「お願いします。どうか、斎藤さんを帰してやってください」
「そうそれ、いい態度ですわ」
「それと、一つお願いがあります」
「面白いですわね。聞いてさしあげますわ」
「梓には、神宮寺財閥には手を出さないよう、お願いします。俺は、わたくしはどうなっても構いません」
これだけ、これだけ了承してもらえれば、俺の任務は達成だ。胸を張って、潔く死んでやる。
シンシアさんの反応を覗う。にっこりと、女神の笑顔を披露していた。愚か者に、慈悲はくだるのだろうか。
「……ふふっ、あーっはっはっはっ!」
「……な、何を……?」
「笑わせないでくださるかしら。思い上がりも甚だしいですわマコト。少しわたくしたちの世界に足を踏み入れた程度で、同じ立場に立てると思わない事ですわ。あなた一人にそんな価値があると思って?」
「そ、そんな……!」
「あなたの価値なんて、たかが知れているのよ、マコト。もう一度聞きますわ。梓はあなたにとって、何ですの? あなたがそこまでする理由は、何ですの?」
どうしてそんなこと。
あいつは、梓は俺にとって……。
「大切な、奴だ。困るくらいにうざったいけど、いてくれないと困るような、そんな奴だ。俺の隣にいることが当たり前の奴だ。俺のために人生を賭けてしまうような、馬鹿な奴だ。だけど、どうしようもなく、可愛い奴だ。あいつが人生を賭けるくらいなら、俺の人生をくれてやる。たった一度くらい、俺があいつを守ってやりたい。あいつを助けてやりたい。だから、ここにいる」
「…………そう」
少しだけ、シンシアさんが笑ったような気がした。本当に気がした、だけだったのかもしれない。シンシアさんを見上げる俺の目の前に、銃口が突き出された。
「楽しかったですわ。マコト」
引き金に指をかける。俺は、ただただ、向けられた銃口を見つめていた。それを見ても、何も感じなかった。覚悟を決める時間なんてない。ただ、死ぬんだって、そう思っただけだった。思った通りの結果になったと、そう思っただけだった。
一瞬の、空白の時間だった。空白の時間を埋めたものは、
「先輩のバカーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!」
銃声の代わりに聞こえてきたのは、あいつの、声だった。
「……まったく、フロントはクビですわね」
シンシアさんは困ったように、だけど今度はたしかに、少しだけ笑って、銃を引いた。
失敗した。
失敗してしまった。
梓が来てしまう前に、この件は終わらせてしまいたかったのに、間に合わなかった……。
そして、まただ。
また梓に助けられた。結局、俺は何もできない、梓に何もしてやれなかった。
やんわりと、体を抱き起こされる。小さな体で、精一杯抱き締められた。
「もう、ひどい顔です。先輩は、やっぱりどうしても先輩なんですね」
てっきり、泣きつかれるものと思っていた。とんでもなく怒りをあらわにすると思っていた。でもそうじゃなくて、梓はこの上なく優しい顔で、笑っていた。
「何も言わないんだな」
「安心しました。もしかしたら、もう……」
そこで梓は口を噤んだ。先の言葉を詰まらせた。一生懸命笑ってはいるけれど、唇は震えて、浮かぶ涙だって隠せていない。
「先輩、これ見てください」
梓は思い出したようにそう言って、俺に携帯の画面を見せる。そこには、何かの映像が流れていた。暗くてよく見えないが、よくよく見ると、梓のベッドの真上から撮った映像だった。昨夜の、俺と梓が一緒にいる映像だ。俺が腕枕をしてやっているところだった。音声までは聞き取れない。しばらく黙って見ていると、画面の中の俺が、のそのそと動いて、何か喋って、梓に覆い被さるような形になって、これは――
「おまっ……! どこにカメラなんて仕込んでやがった……!」
死にたい。今すぐ死にたい。いっそ殺してくれ。こんなのシンシアさん以上の拷問だ。梓にキスしている自分を見る事になるなんて。こんな体の痛みよりも、恥ずかしくて恥ずかしくて死にそうだった。
「えへっ。先輩が帰ったあとに、こっそり一人で見て楽しもうと思って。こんなことしてたんですね、先輩」
「い、いや、これはな、その、何というか、ナントイウカ、なかったことに、なかったことにしてください」
「…………いいですよ」
「……えっ?」
いいですよって、言ったのか、こいつ。あの、俺からキスしたことをなかったことにして、いいってのか? なんだ? あまりにも勝手なことをして愛想つかされたのかな。いや、そういうふうには見えないけれど。何を企んでやがるんだ。梓だって冗談を言っている状況じゃないのはわかっているはずだ。
梓は、ふっと小さく息を吐いて言った。
「先輩、梓がこれを見た時、どう思ったかわかりますか?」
「どう思ったかって? えっと、嬉しかった、とか?」
いたって普通の回答だ。梓が何を考えているのかわからない。
「ゾッとしました」
えっ……ゾッとしたって、怖かったって言いたいのか?
「あんな、あんなキスは嫌です。それで最後みたいじゃないですか。まるで、それでお別れみたいじゃ、ないです……か……。怖かった。すごく、怖かったんですよ?」
そこまで言って、ついに堪えきれなくなったのか、ぽろぽろと涙を零し始めた。
「……そっか。悪かったな……勝手に出て行っちまって」
俺はやっぱり、自分のことしか考えていないんだな。俺がいなくなったあとの梓のことなんか、まるで考えていなかった。いや、わかっていたはずだ。考えないようにしていただけなんだ。自分は、梓の泣いた顔を見なくて済むからって、自分が傷つくことはないからって、逃げていた。
「これを見たあとすぐに、先輩の家に行きました。だけど、誰もいなかった。梓、梓は、それで、どうしていいかわからなくなっちゃって……だから――」
「私たちを頼ってしまったと、そういうわけだよジョン」
ジョン? ジョンってまさか!
二つの影が、俺の視界を覆った。一人は溜息をついて、一人は困ったような笑顔で、だけど優しく、俺と梓を見下ろしていた。
「大変だったんだから。梓ちゃんってば、授業中の教室に泣きながら入って来たんだよ?」
「助けてくださいって、大声で泣き叫びながらさ。ジョンもひどいペットだね。犬でも猫でも、最後は飼い主のところへ戻って来るものさ」
千佳に、倉敷さん。どうして二人が。ダメだ。ダメだよ二人とも。関わっちゃいけない。こんなことに二人まで巻き込んじゃいけない。
「は、早く帰るんだ二人とも。ここにいちゃダメだ。梓、二人を帰せ! いますぐ!」
起き上がり怒鳴ると、梓はビクッと肩を震わせた。千佳と倉敷さんは顔を見合わせ、同時に頷いた。
不意に千佳の手が伸びてきて、視界が真っ暗になる。どうやら、ハンカチを目に当てられているようだった。
「幼馴染がここまでされて、黙って帰るほど薄情に育てられた覚えはないの」
「私もあのプリクラを遺影にするつもりはないよ、ジョン」
ダメだ。ダメなのに、何も言えない。どれだけ殴られても泣かなかったのに、今は泣いてしまいそうでたまらない。
拳を力強く握り締めて、涙を堪えた。
俺のせいだ。俺が梓を置いて行ったから、二人まで巻き込んでしまった。申し訳ない。どれだけ謝っても、きっと足りない。
だけど、嬉しかった。心細かったんだ、本当は。俺は弱い。とんでもなく弱い。だからこんなに泣きたくなる。どんな相手なのかわからないはずはないのに、それでも駆けつけてくれた。一人じゃないっていうのは、こんなに頼もしいことだったんだな。
「千佳先輩、みっちー先輩。真先輩をよろしくお願いします」
梓? ちょ、ちょっと待て!
立ち上がろうとすると、千佳と倉敷さんに押さえつけられる。うまく力が入らなくて、女子二人の力にびくともしなかった。ハンカチが落ちて開けた視界には、シンシアさんと対峙する梓の姿があった。
「あら、子供じみた学芸会は終わりましたの? アズサ」
梓が現れたところで、シンシアさんの余裕と自信は揺るがない。むしろ梓を挑発しているように見えた。梓はこちらに背を向けているのでどんな顔をしているのかわからない。
「シンシアちゃん……。どうして、先輩にこんなこと……」
「あら、わざわざ理由を言う必要がありますの? 決まっているでしょう? ただの遊びですわ」
ざわざわと、梓の髪が逆立ったような気がした。そんなわけがあるわけないのに、そう見えてしまった。
梓は、ぎゅっと拳を握り締めていた。
「…………るさない」
「何ですの? はっきり言ってごらんなさいな」
「絶対にっ! 許さないっ!!」
待て、と叫ぼうとしたときには遅かった。梓はシンシアさんに向かって駆け出していた。拳を振りかざして、真っすぐに向かって行った。
金持ちお嬢様が、何の力も頼らずに、自分自身をぶつけていった。
「ふふっ、いらっしゃい」
「うああああああああああああああっ!!!」
梓のがむしゃらな特攻はシンシアさんにあっさりとかわされ、おまけに足をかけられて前のめりに突っ伏した。
「あうっ!」
梓は悲痛なうめき声を上げたあと、よろよろと立ち上がった。
「わたくしはあなたのようにぬるい生活は送っていなくてよ?」
「くっそ……っ! うあああああああっ!!!」
梓はまたがむしゃらに仕掛けていった。だけど、またしても同じように足をかけられて派手に転ぶ。それを、何度も何度も何度も何度も繰り返す。転んでも転んでも、すぐに起き上がってシンシアさんに向かっていった。制服が破けても、膝を擦り剥いても、頭から転んでも、鼻を床に打ちつけても、梓は向かっていく。
息が絶え絶えになっても、鼻血が流れ出ても、それを拭おうともせず、体ごとぶつかっていく。シンシアさんには、たった一度として当たっていない。全てを軽くあしらわれ続けていた。倒れるたびに一つ傷が増えていく。梓の震える膝小僧には、いくつもの痛々しいアザが出来ていた。
「もう、もういいだろ。離してくれ。もう限界だ!」
千佳と倉敷さんを引き離そうと暴れるほど、二人の力が強まる。
「ダメだよ。ちゃんと見ててあげなよ」
「何言ってる千佳! あいつはもうぼろぼろで、傷だらけで、見てるだけなんてできるか!」
ぎゅっと、千佳の手に力が入った。
「すごいなぁ梓ちゃん。私には、真似できないかもしれないなぁ。私はあんなに、自分に正直に、がむしゃらになれない」
「は? お前何言ってんだよ。いいから離せ!」
今度は、倉敷さんの手に力が入る。
「ジョン? あずあずは誰のためにあんなに必死になっているんだい? ジョンのためじゃないか。自分自身の全部をかなぐり捨てて、ジョンがそうしたように。格好良いものじゃないけど、格好良すぎるよね。どうにも泣けてくるじゃないか。いくらジョンでも、今のあずあずを止めるのは無粋ってものさ」
なんだよ、なんだよそれ。どうでもいい、そんなことどうでもいいだろ。止めないといけないだろ。もうふらふらじゃないか。傷だらけじゃないか。あんな梓、黙って見ていられるわけないだろ。
「そんなこと……どうだっていい! 梓があんなにぼろぼろになるなんておかしいだろ! あいつが俺のために傷ついていい理由なんてないんだ!」
「先輩っ!」
梓が叫んだ。足をふらつかせて立ち上がりながら、膝に手をついて立ち上がりながら叫んだ。
「り、理由なら、一番簡単なのが、あるじゃ、ないですか」
「あ、梓……」
顔中鼻血だらけで、ツインテールもほどけて髪がぼさぼさで、それでも――笑って、
「先輩のことが、大好きだってことだけ。へへっ、十分、でしょう?」
その瞬間――俺の中で何かが切れた。
「…………なせ」
「ま、真?」
「離せーーーーーっ!!」
精一杯の力で、千佳と倉敷さんを振り解いた。火事場のくそ力ってやつだ。
そのままの勢いで、梓のもとに駆け寄る。歩いて数歩の距離を、全力で走った。
そばに立つと、梓が一歩引いた。近くで見ると、顔にも無数の傷があった。
「先輩、ダメ……来ないで……」
首をふるふると振りながら、恐れにも似た表情で俺を拒む。
「嫌だ。もうお前に無茶はさせない。お前が何と言おうとどんなに拒もうと、お前は俺が守ってやる。俺はお前を助けたいんだ」
「でも、でも梓は先輩のために――」
「だああっ! ごちゃごちゃうっせーんだよ! 誰のためとか知ったことか! 俺がそうしたいからそうするんだ!」
俺はキレていたのだ。吹っ切れていたのだ。どうにでもなれと思っていたのだ。これしか方法がなかったと思い込みたい。生涯、そう思い続けたい。ごちゃごちゃうるさい後輩を黙らせるには、これしかなかった。
決してロマンチックではない。梓の顔を遠慮なしに捕まえて、梓の口を、自分の口で塞いでやった。自分の血の味と変わらない、梓の血の味がした。
「いいな、おとなしくしてろ!」
「は、はひぃ……」
梓はどこが鼻血かわからないくらいに顔を真っ赤にして、へろへろとその場に座り込んだ。
その時、後ろでパチパチと乾いた拍手の音が聞こえた。
「意外と大胆ですのね、マコト」
シンシアさんは、机に腰掛けて、高見の見物を決め込んだように傍観していた。
「てめぇ……!」
「うふっ。その目、ゾクゾクしてしまいますわ。さきほどの小劇、とっても面白かったですわ、マコト。よく恥ずかしくもなくあんな台詞を吐けるものですわね。尊敬してしまいますわ」
「そうかい。光栄だね」
もう恥も外聞もあったもんじゃない。
「ふふっ、生意気」
せめて、一発ぶん殴ってやる。俺のことなんてどうだっていいが、梓の分、それだけは返す。
「せっかくいらしてるのに、お友達に手伝ってもらわなくてもよろしいのかしら?」
シンシアさんはそう言って、千佳と倉敷さんに笑いかける。二人とも身構えるように立ち上がった。
三対一か。それならだいぶん有利になるな。ここまで来てしまって、二人とも無関係とはもう言えないけれど、矛先を二人に向けさせるわけにはいかない。
二人に梓の面倒を頼むと、千佳は不安そうにしていたが了承してくれた。俺はシンシアさんに向き直り、真っすぐに見つめた。そして、少しずつ近付いて行く。
「シンシアさん、あんたは間違ってる。梓のことが好きだっていうのなら、どうしてもっと優しくしてやれない。どうして梓を傷つけることばかりするんだ。手に入れられないからもう壊してもいいとか、傷つけてもいいとか、そんなことがまかり通っていいわけないんだ。自分の思い通りにいかないからって、相手を傷つけていい道理はない。相手を従わせるよりも、一緒に笑っていた方が、俺は絶対楽しいと思う」
「安い言葉ですわ、マコト。わたくしは絶対的に上に立つ立場の人間ですのよ。笑い合えるような、わたくしに並び立つ存在なんていないのですわ」
「それはあんたが梓のようになれないからだ。梓みたいに、自分自身をぶつけられないからだ。もしかしてシンシアさん、だから梓だったのか? 自分に近い立場だから。同じ目線に立てる人間だから」
「ふふ、面白いことを言いますのね」
「梓は違う。あんたとは違う。あいつには友達がいる。ああやって心配してくれる友達がいる。立場なんて関係なく接することができる友達がいる」
「……もう結構ですわ。あなたの言葉などでわたくしは動かせない」
「そうかい。俺だって、一発くらい殴ってやらないと気が済まない」
「あら、まだお遊びに付き合ってくださるのかしら」
「俺の気が済むまでは、付き合ってもらうよ」
「そう。でももうお終い」
机の上に腰掛けたまま、足を組んだまま、シンシアさんは銃を構えた。梓の時は使わなかったけどな、俺のことは殺しても構わないってことかね。
銃を向けられても、さっきみたいな恐怖は襲って来なかった。頭に血が上って、冷静じゃなかったのかもしれない。当たって死ぬとも限らないさ。銃弾を受けながらだって、一発殴ってやる。もうこれは俺の意地なのだ。
「あなたがさきほど言ったことを、証明していただこうかしら。アズサのためになら、自分の人生を賭けられると言ったこと、その身を持って示していただきますわ」
俺が身構えると、シンシアさんはそのまま、銃口を梓に向けた。
「なにを……!」
梓についていた二人が、目を丸くする。
シンシアさんと梓には距離がある。俺はシンシアさんに近い。シンシアさんを止めに行けば、間に合うかもしれない。かもしれないだけで、大きな危険だけが残る。俺が射線上に立つのには、一歩を踏み出す出けだ。梓を守ることなら、すぐにできる。
怖くない。とてつもなく重い一歩だけど、遠くない。すぐに届く。何を迷うことがあるだろうか。梓のために俺ができることは、体を張ることしかできないのだから。
俺はゆっくりと、一歩を踏み出した。
「先輩! ダメッ……!」
梓の顔を見ないようにして、俺は答える。
「悪いな梓。こういうことだ。……そうだ、この近くに喫茶店があるんだけど、そこのマスターに俺は来れなくなったって、謝ってて欲しい」
「そ、そんなとこ梓知らない! 連れて行ってもらってない!」
「…………だな。二人も、もう何も言わないでくれ」
さぁ、もういい。あんまり梓の声を聞いていると決心が鈍ってしまいそうだ。
早いとこ終わらせようや。
きつく、シンシアさんを睨んだ。
「楽しかったですわ、マコト。また遊びましょう」
最後に目にしたのは、優しく微笑む女神の笑顔か。やめてくれ、俺は誰のために死ぬんだよ。
目を閉じて、梓の笑顔を思い浮かべる。浮かんでくるのは、梓が楽しそうに意地悪く笑う顔ばかりだった。たまに、優しく笑う顔も浮かんできた。その顔を見ると、照れている俺がいた。
「シンシアちゃん! やめてーーーーーーーッ!」
パンッ!
乾いた音が耳に響いた。
同時に、眉間に衝撃を受ける。
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………なんだ?
銃撃っていうのは、それほど衝撃がないものだろうか。俺はまだ平気で立っている。頭を撃ち抜かれたのなら、吹き飛ぶくらいの衝撃はあるだろう。
いや待てそもそも、どうして俺は生きている。いや、もう死んでいるのか? だから平気なのか? さっきも嗅いだこの焦げ臭い匂いっていうのは死んでも感じるものなのか?
恐る恐る、ゆっくりと、目を開けた。
目の前には、いつ近付いたのか、銃口を俺の眉間に構えるシンシアさんが立っていた。そして奇妙な違和感を覚える。
なんだそれは?
俺に向けられた銃から、眉間に突きつけられた銃口から、旗がにょきっと出ていた。もっと言えば、小さい国旗がいくつもついた棒が、にょきっと出ていた。
「……えっ?」
思わず間抜けな声を上げてしまうと、シンシアさんがひょいっと顔を覗かせた。その顔は、悪戯っぽく笑っていた。
「本当に、楽しかったですわよ? マコト」
えっ、何?
何が起こった?
ホワイ? ホワッツ?
くるりと、振り返ってみる。
三人が三人とも、唖然として、呆然として口をぽかーんと開けていた。なんだ、状況が飲み込めないのは俺だけじゃないみたいだ。えっ、いや、わけがわからない。
「えっと、これは、なんですか?」
首を傾げながら、傾げざるを得ない困惑から、シンシアさんに尋ねる。シンシアさんはとぼけた顔をして、言った。
「ん? おもちゃですわ」
「いやいや、そんなことを聞いているわけではなく、えっ? おもちゃ? だって壺を割ったのはそれじゃ……」
「ああ。あれは壺に細工をしていましたの。もともとあの一発は空砲でしたのよ。そして、二発目はこれですわ。さすがのわたくしでも、人を撃ったりはしませんわよ~」
似つかわしくない、やーねぇあなたみたいなノリで言われた。そんなことを言われても納得できるわけはなく、ただただ混乱していた。
「そうですわね。もったいぶらずに、タネ明かしといきましょうか。もうよろしいですわね? ミスターカズナリ」
カズナリ……かずなり……っておい、まさか一成!?
違ってくれと思った。同名であって欲しかった。
部屋の脇の扉から出てきたのは、俺の記憶から少し歳をとった、梓の父親、神宮寺一成だった。いくら少し歳をとったとしても、若々しさとその厳格さだけは損なわれない。まだまだこれから威厳を増していくようにも感じさせる男。黒いスーツを着こなし、その挙動には揺るぎない自信が満ち溢れている。目つきは相変わらず鋭い。俺は一瞬目を合わせただけですぐに目を逸らしてしまった。
「ぱっ……パパ!?」
梓も驚きの声を上げた。昨日アメリカに発つと言って出て行ったのだから、ここにいるはずがない人物なのだ。アメリカに行くと言っていなくとも、ここにいることがおかしい。
「隣で見ていて気が気ではなかったよ」
一成さんは溜息をついて、シンシアさんに向かって言った。
「あら、やり方はわたくしに任せるとおっしゃったはずでは?」
「たしかにそう言ったがね……」
一体、どういうことだ。ますますわけがわからない。二人の会話だと、この企て自体が一成さんのものであったような言い方だった。
「マコト。紹介する必要はありませんわよね。わたくしは、この方に今回のことを依頼されたのですわ。言ってみれば、彼は黒幕ですわね」
一成さんは、困ったようにまた一つ溜息をついた。
黒幕……シンシアさんをよこしたのが一成さんだったってわけか。シンシアさんがいろいろと知っていた理由もこの人にあるってわけだ。くっははは、ほんとのほんとにラスボスだったってことかよ。まいったね。全然笑えない。さすがラスボス。俺にとって、シンシアさん以上の脅威だ。
「目的は……何だったのでしょうか」
直接一成さんと話すのは中学の時以来だった。
「久しぶりだね。来栖真くん。いや、正確に言えば君とは昨日会った形になるのかな」
昨日と言えば、俺が人形のふりをしていた時か。
「私が気付かないとでも思ったかね?」
「い、いえ……」
「今回の件だが、君のことを試して欲しいと彼女に頼んだのだよ。私は、正直に言って君のことはよく知らない。ただ娘が熱を上げている学生としか認識していない。一時の気の迷いと思っていたのだが、娘の執着の仕方が異常だったのでね。最近ではあの娘の部屋だ。君も見ただろう。あれを見て異常だと思わない父親はいない」
その気持ちはわからなくもない。特にあの人形が異常だった。正真正銘のストーカー行為だ。
「先日アメリカにいらした時にマコトのことを聞いたのですわ。わたくしも梓が熱を上げる男性に興味がありましたの。それでこの話しをお受けしたのですわ。マコトがいろいろと勘違いして下さったおかげでとてもドラマチックな仕上がりでしたわ」
ドラマチックねぇ。そうかいそうかい。
「一つ訂正というか、わたくしどもアネソングループと神宮寺グループは、もはや共存状態にありますわ。神宮寺グループを追い詰めたとして、こちらにとっても不利益が働くだけですの」
そうか。それは大きな勘違いだ。それはより事を複雑にしたことだろうよ。
だけど、だからって――
「ふざけんな!」
黒幕が一成さんだったってことは正直驚いた。だからこそ余計にタチが悪い。
「あんた、あんた今の梓がどんな格好してるのかわかってるのか? あんたが余計なこと企んだおかげで梓は傷ついたんだ!」
気がついたら走っていた。
気がついたら、俺の拳は、一成さんを殴り倒していた。
「あらまぁ」
「せ、先輩!?」
そして、俺はいつの間にか飛び出てきた黒い影に、取り押さえられていた。
言わずもがな斎藤さんだった。腕が引きちぎられるくらいに、思いっきり関節を締めあげられる。
「あんたも、加担してたんだな」
「…………」
「よい、斎藤。離してやれ。彼には私を殴る権利がある」
一成さんが起き上がり、俺も斎藤さんから解放される。腕よりも、殴った拳の方が痛かった。
「君には、娘にはすまないことをした。どうか、これで勘弁してもらえないだろうか」
そして、一成さんは、深々と頭を下げた。俺と、梓に向かって。
謝ってもらっても、どうしろって言うんだ。梓は、あんなに傷だらけになって、ぼろぼろになってまで、俺のために頑張ってくれた。それをこんな形で終わらせろって言うのか。
「どうしますの? マコト。この方が頭を下げることは、そうそうありえることではないですわ」
そんなこと、わかってる。経済界のトップに立つほどの男の頭だ。価値がないわけがない。だけど俺には、その価値がわからないのだ。
「これは、一人の父親として、頭を下げているのだ。本当に、申し訳なかった」
父親として、か。
「先輩」
梓が、擦り切れてしまった手で、制服の裾を掴んできた。
「梓……」
「どうか、許してやってもらえませんか? パパも、本当に悪かったと思っているから黙って殴られたと思うのです。それに、パパには梓が直々におしおきしておきますからっ」
「そ、そんな梓ちゃっ……! ……こ、こほん……」
ああ、人前でそれを出しちゃやっぱマズイっすよね一成さん。
梓の気が収まるのなら、それで構わないのかもしれない。もともと、俺は梓のために体を張っていたんだし。ここは梓の意思を尊重するべきだよな。目的が達成されたとは言えない結果だろうけれど、これでもちっとばかし頑張ったんだ。
たいしたもの、たいしたものだよな。この人に頭を下げさせる男もそういまい。
「わたくしはどうしたらいいのかしら?」
シンシアさんは、お手上げのポーズで我関せずといった顔をしている。
この人の行動は、思えば何かおかしかった。何かを確かめようとしていた言動は、俺がどれほど梓のために一生懸命になれるかを見たかったのだろう。梓にも、直接手を出すことはしなかった。梓が突っかかって、それを転ばせていただけなのだ。だけなんだけど、梓がぼろぼろになっても、傷ついても、それでも、シンシアさんはやめなかった。梓が血を流しても、やめなかった。
また、怒りが沸いてきた。依頼されたとはいえ、実行犯はこの人なのだ。直接梓にひどいことをしたのはこの人なのだ。
「あんたも、殴る」
「あら、女を殴るなんてひどい男ですわねマコト。でも、仕方ありませんわね」
シンシアさんの前に立つ。
拳を握り締めた。その拳を、振りかざす。振りかざしたままで、そこから腕が動かなかった。
いざ女の人を殴ろうとすれば、当然のように躊躇してしまう。
殴る。殴る。殴るのだ。
梓が傷ついた分の、ほんの少しでも、俺が返してやるんだ。
そう思って拳に力を入れた時、バシッと、強烈に頬を打つ音が響いた。
「梓……?」
梓が横から突然現れ、シンシアさんをぶっていた。思いっきり、頬をはたいていた。
「先輩に、気を病むようなことはさせたくありません。シンシアちゃん、梓は、先輩を傷つけたシンシアちゃんを、許さない」
「……ふふっ。とっても……痛いですわ」
頬をさすりながら、シンシアさんは少しだけ寂しそうに笑っていた。俺だってシンシアさんのことを許せない。自業自得なんだけれど、梓に嫌われてしまったシンシアさんのことを、少し可哀想だと思ってしまった。
シンシアさんと梓は、互いに無言で視線をぶつけていた。梓が睨みつけて、シンシアさんは困った笑みを浮かべている。
こんな時、何て言えばいいのだろう。いつまでも梓に辛い役目をさせておくわけにはいかない。こういう時こそ、男として試されているのかもしれないな。
「はいっ! これにて一件落着ってやつかな!」
手をぽんっと叩きながらそんなことを言ったのは、倉敷さんだった。
驚いた。びっくりした。もしかしたらこれが今日一番驚いた事だったのかもしれない。すごい、すっげーすごい人だ倉敷さん。この空気の中でそんなことを言ってのける勇気。将来大物になりそうだ。
「ははは。お二人とも、梓の友人かな?」
一成さんは苦笑して、千佳と倉敷さんに向き直った。
「はいー、私は倉敷みちるっていいます。こっちは笹野千佳ちゃん。ふたりとも、あずあずの友達ですよ」
倉敷さんは「ちょ、ちょっと」と戸惑う千佳をよそに、軽快に自己紹介を果たした。空気を読んでいるのか読んでいないのか、どっちだろう。どっちにしろ、やっぱすげー。
「うちの娘が迷惑をかけてしまったようで、申し訳ない」
「いえいえ、いつもジョンとあずあずには楽しませてもらってるので」
「う、うん。それならよかったよ」
一成さんも倉敷さんの独特な雰囲気には戸惑っているようだ。微妙に会話が噛み合っていない。やっぱすげー。
「あ、あの!」
倉敷さんとはうって変わって、千佳がもじもじとしながら声を張り上げた。
「も、もうこんなこと、しないでくださいね? 梓ちゃ……梓さんも、すごく大変そうで、困っていましたから」
「……わかったよ」
こいつらすげー。
それから一成さんは、梓のもとに寄って来て、頭を撫でた。
「いい友達ができたのだな、梓」
「……はいっ!」
――それだよ。
梓は満面の笑みを作り上げた。輝かしい、太陽の笑顔だ。
その笑顔を取り戻せたことでも、体張った甲斐があったってもんかな。
不意に、背後に気配を感じて、急旋回を試みた。そこには斎藤さんがのっそりと立っていた。そして、一成さんと同じように、深々と頭を下げる。
「こ、今回は申し訳ありませんでした。教室でお二人を逃がしたあと、この話しを伺いまして。私のために犠牲になろうとしてくれた心意気、感謝いたします」
……い、言えない。
「また借りができてしまいましたね」
途中から斎藤さんのことをすっかり忘れていたなんて、言えない。
「借りだなんて、とんでもございません」
本当に斎藤さんが捕まっていたのなら、殺されててもおかしくないようなことしてたしな。いや、よかった。無事で本当によかった。
「ところで、ミスター」
ここでシンシアさんが、今回の件の本題であることを口にした。
「マコトはどうでしたの?」
そうだ、俺を試す目的だったらしいけど……。
「そうだな、ぎりぎり及第点といったところか」
「えっ!!」
一成さんの言葉に真っ先に声を上げたのは梓だった。及第点って、つまり、合格ってこと? 何が? どうなふうに? 何の話し?
「真くん」
「は、はい?」
「君は自身を盾にしてでも娘を守ろうとしてくれた。そのことに感謝する。男としても立派だ。しかし、男としては、だ。君は勇敢だ。しかし同時に無謀でもある。力を持たない勇敢さは、ただの無謀なのだ。その意味を履き違えてはならない。もし君が銃弾で倒れていたら、誰が梓を守っていたのだね」
「そ、それは……」
「勘違いしてはならない。愛情は力じゃない。力は力だ。私はそれを持っている。今の君は、何の力も持っていない。君自身が痛感したことだろう」
たしかに、そうだ。ぐうの音も出ない。無謀だった。ただ守ってやりたいって一心だったから。俺が一成さんのような立場なら、違った結果にもなっただろう。だけどそれはたらればの話しだけで、俺がそんな力を持つことなんて一生ありえない。だから、俺には体を張ることが精一杯だった。
まるで説教を受けている気分だった。さっきと立場が完全に逆転してしまっているような気がする。
それにさっきから、梓がやたら目を輝かせて父親の話しに聞き入っている。
「パパ、パパッ、あのあの、及第点ってことはぁ、つまりぃ……」
「私はただ真くんにそういうことだと話しているだけだ」
「……ぶぅ。ま、まぁいいでしょう。うふふふふ……」
なんだ、何の話しをしているんだ。
「あの、一体どういう……?」
「君は何も気にする必要はない。それよりも、今回の騒ぎで迷惑をかけた君と、友人のお二人には何らかの形でお詫びをさせてもらおうと思っている。改めて言おう。誠にすまなかった」
気になる気持ちもあったが、一成さんの雰囲気だと、これ以上聞き出すことは難しいようだった。
何やら梓の機嫌がえらく良くなっているので、それはとてもいいことなのだろうと、勝手に思っていた。
これで、今回の事件は幕を閉じることになった。
結局は、娘のことを溺愛している父親が、どこの馬の骨とも思えない男に熱を上げていることがたまらなく気になっていて、どんな男か確かめたかっただけなのだ。その金持ちの道楽に付き合わされるこっちの身にもなって欲しい。ただ面と向かって話せば済んだだけのことだろうに。素直な方法を取れないことも、金持ちの世界ゆえなのだろうか。どこか力を入れるベクトルがおかしい。まぁ、他の女に簡単になびくかどうかとか、どれだけ娘を大切に思っているのか見たかったのだろう。
よくよく、及第点とは言ったものだ。シンシアさんとは一度恋人関係になり、梓も泣かせてしまって、その梓はごらんの通りの傷だらけだ。一成さん自身の責任であるから、その辺りは咎めないのだろうか。
小さく、斎藤さんが耳打ちしてきた。梓が鼻血を垂らしていたりしたとき、一成さんは斎藤さんに八つ当たりしていたそうだ。何を意地になっていたのか、その場で止めりゃあよかったのに。斎藤さんも巻き込まれた側で、いろいろ苦労の絶えない人だな。
梓と、数時間ぶりに笑って話しをした。終わってみれば、お互いに無駄な時間などなかった。千佳と倉敷さんにも、感謝の気持ちは絶えない。いがみ合うときもあるけれど、お互いに大切だと思っていることを実感した。一人では心細い。こいつらが駆けつけてくれた時は、それだけでどんなに救われたことか。 あともう一人、裕也にも少し手伝ってもらったからな。何か詫びがあるというのなら、あいつのことも口添えしておこう。
「はぁ~~~~~~……」
どっと長い溜息が出る。
こんなに疲れたのは久しぶりだ。こんなときは梓のふかふかベッドで寝たいもんだよな。
そういえば、あの携帯の映像を削除しておかねば。あれは俺の人生においての汚点。もう二度と見なくていいように、元のデータを丸ごと削除しておかないとな。
そんなことを梓に言おうとしていたら、ガシッと肩を掴まれた。
こともあろうに、一成さんに。結構力強く掴まれている。
痛い。体の傷に響きます。
「真くん、君には父親として二人で話しがあるのだ」
目が笑っていない。これは、俺を散々恐怖に陥れてきた男の目だ。
「梓の部屋にいたね」
うっ……!
「一緒に風呂に浸かったそうじゃないか」
ううっ……!!
「一晩同じベッドで過ごしたそうじゃないか」
うううっ!!!
「さぁ、行こうか」
「えっ、ちょっ、うそ、こういうオチ!? 五回です! いや誤解です!」
「騒ぎの最中も、見間違いだといいが、唇を重ね合っていなかったかね?」
「……………………」
誤魔化そうとしたけれど、梓が照れてしまったのでNG。
「マコト!」
連れて行かれそうになった俺を、シンシアさんが呼び止めた。ああ女神よ、詫びとして助けてくれるのだろうか。
「わたくし、梓のような小娘には興味ありませんけど、レズというのは本当ですの」
「んなこと誰も聞いちゃいねえっ!」
「ですけど、男に興味を持ったのは初めてですわ。また会いましょう」
……女神だ。
梓が太陽なら、シンシアさんは月のような、神秘的な女神の笑顔だった。
そして、シンシアさんからの、投げキッスでの別れの挨拶だった。
それを、梓が一刀両断した。
「そうりゃっ! いーーーーっだ! シンシアちゃんなんか先輩にはもったいないですよーっだ!」
「あら、それじゃあもっと女を磨かないといけませんわね」
「…………い、いやダメだよ、シンシアちゃん。そのままが素敵だと思う。うん、あんまり綺麗になっちゃったら女の人も近付き難くなるよ?」
負けを認めたな、梓。
「はっはっはっ、真くん。さっそくか。どうやらじっくり話し合う必要があるようだね?」
「えっ、いやあれはシンシアさんが勝手、いたっ! あれ、痛いですよ? いて、いててて! あの、ちょっ、いたたたたたたたっ!」
こうして、俺は一成さんの手によって別室に連れて行かれたのだった。
ちくしょう、お金持ちなんて大嫌いだ!