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ラストキッス

 梓は、ずっとうつむいて黙ったままだった。

 約束は、明日の正午。

 市内の国際ホテル。その最上階、プライベートルーム。アネソングループが展開しているホテルで、いわば、シンシアさんのこの土地における本拠地とでも言うべき場所。

 そんな場所に、たった一人で行かなければならない。

 俺、一人で。

 シンシアさんの要求はこうだった。斎藤さんを引き渡す代わりに、俺を引き渡すこと。

 梓はどうするべきか答えが出ないまま、黙り込んでいた。

 シンシアさんの目的はすでに梓にはないのかもしれない。梓を出向かせるのではなく、俺を要求してきたことで、梓にとっておそらく、最も苦しい選択をさせることになる。梓を精神的にどん底まで陥れようとしているとしか思えない。

 だけどただ、この選択は梓一人に委ねられてあるものではなく、俺にだって選択する権利はあるってことだ。だってそうだろう。俺にとって、出向かなければ済む話しなのだ。途中で逃げ出せばいい。ただそれだけのこと。

 しかしな、どうしてそれに斎藤さんが巻き込まれなきゃならない。あの人は関係ないだろ。俺を、ただ守ってくれただけなんだ。守ってくれたのに、それを俺は見て見ぬふりをして、ただの見殺しにできるのか?

 そんな、格好悪いこと、したくないよなぁ。まだ何も、責任取っちゃいないんだし。

 だよな。そうだよな。

「梓?」

「……はい」

 弱々しい声だ。

 斎藤さんは、梓が小さい時か面倒を見ていた、梓の育ての親のような人だ。血の繋がりはないとは言え、家族同然と言えるだろう。

「心配するな。斎藤さんは、俺が無事に帰してやる」

「そっ、そんな、いけません! 先輩が行っちゃったら、梓……梓は……!」

「だから心配するな。斎藤さんが無事に解放されたら俺だってすぐに逃げるからさ」

「無茶苦茶です! あの斎藤さんですら逃げられなかったのに、先輩一人でどうするって言うんですか!」

「だったら、お前は斎藤さんを見捨てるのか?」

「…………それは……」

「よく考えてみろ。斎藤さんはお前にとって何なんだ。たしかに俺は、お前に好意を寄せられていると思う。だけど、斎藤さんは家族だろ? お前が小さい時からずっとそばで守ってきてくれたんだろ? もし、そんな斎藤さんを見捨てるって言うのなら、俺はお前を軽蔑する」

 少し意地悪なことを言ったのかもしれない。けれどこれでいい。これくらい言わないと、梓の奴は首を縦に振るわけがない。例えそれでも俺を引き止めるのなら、無理矢理にでも引っぺがして出て行くだけだ。自分の事が可愛くないわけじゃない。出来るなら行きたくはない。だけど日本を支えている一角の神宮寺家が、こんなつまらない事で崩れてしまうのはおかしい話しだ。梓は何も悪くないんだから。責任は、俺にあるんだから。苦渋の選択を強いていることだけは、梓に悪いと思うけれど。

 梓は肩を落としたまま、震え出した。もう三度目になるからわかってしまう。泣いている。何に対して涙を溢してしるのかはわからない。何もできない不甲斐なさか、俺を行かせてしまうことか。どちらにしろ、腹は決まった。

「そ……それでも……! 梓は、先輩を行かせたくない……!」

 声にならないような、絞り出した声で、胸にしがみつかれてそう言われた。

「泣いたって、俺は行く」

 もはや泣いている梓を落ち着かせようとも思わなかった。思いっきり泣けばいい。そのための俺の胸ならいくらでも貸してやる。こんな展開、何の面白みもない。あの人は、シンシアさんは、梓の意地悪く笑っている顔が一番可愛いことを知らないのだろう。教えてやることはできないだろうけれど、だからこそ、

 シンシアさんが許せなかった。

 これがあの人の本気の愛情だとしたら、歪んでる、腐ってる。

「先輩……」

 泣き続ける梓が、弱々しく呼んだ。

「ん?」

「どうしても行くのなら、梓から条件があります。これを飲んでくれないと、梓だって意地でも先輩を行かせません」

 この期に及んで、まだそういうこと言う元気があるのか。

「いいさ、聞いてやる」

「今夜、腕枕して下さい。そして一緒に寝て下さい。それだけでいいですから。何もしませんから」

「それだけでいいのか?」

「……はい」

「……わかった。だからもう泣くな。結構困るんだ、お前が泣くと」

「はっ……はい……。…………えへへ、楽しみだな……」

「俺も楽しみだよ、夕飯が。毎日あんなメシが食べられるなんて羨ましいよ、ったく」

「えっ、あ、あははっ。何でしょうね、今日の夕飯は」

 なけなしの作り笑いだった。

「どうせ明日まで暇なんだ。何かして遊ぼうぜ」

 それなら、と別の部屋に案内された。梓の部屋と同じフロアにある、大きめの扉が特徴の部屋だった。 扉を開けると、なんてこった、家の中にゲームセンターがあった。

 そういえばこの前言っていたな。リズムゲームの新作が家に置いてあるって。リズムゲームだけじゃない。倉敷さんと遊んだクレーンゲームも、メダルゲームも、ビデオゲームも、エアーホッケーなどの体感ゲームすらあった。景品は自給自足だ。

 改めて聞いたところ、倉敷さんと三人で遊んだ後に揃えたものらしい。梓も面白いものを見つけるとすぐにハマる性格だからな。

「先輩、何からやります?」

 こういう遊び道具たちを目の前にすると、さっきの緊張感から解放された気分になる。

 とりあえず今すぐ飛びつきたいゲームはなかったものの、どれから手をつけようか目移りしてしまっていた。ここに置いてあるゲームを遊び尽くす時間くらいはあるから、一つ一つ遊んでいくことにしよう。

 というわけで、あらゆるゲームを梓と対戦することにした。

 結果だけを言えば、俺が全敗した。

 違うよ、これは本気でやって負けたとかじゃなくて、少しでも梓を元気づけてやろうと思ってやったことなんだ。悔しいとか、ムカつくとか、全然ちっともそんなこと思ってなんていない。

「くっ、くそっ! このっ!」

「あ、あの、先輩? そんなにムキにならなくても」

「うるせっ! 次だ次!」

 ちっともムキになってなんかいない。そう言われるから、そう見えるだけなのだ。

 冷静さを取り戻して、いや、冷静だったのだけれども、あらかた遊び尽くしたところで、梓の家に泊まることを家族に知らせておくことにした。

 妹のあゆみにメールだけ打っておく。あゆみは梓のことがお気に入りで、梓が家に来たときはすごく喜んで、一緒に遊んでくれるようにと小さい子供のように駄々をこねる。梓から余計な知識を吸収していることだけが懸念材料なんだけど、概ねあゆみと梓の関係は良好だ。梓の奴がうちの母さんに海外の土産などをしょっちゅう渡しているので、うちの両親への根回しも上々。文句を言われることもなかろう。

 あゆみへメールを送ったあとに、母さんから迷惑だけはかけないようにと釘を打たれた。あゆみはまだ学校で部活中のはずだから、わざわざ家に連絡したらしい。あゆみは女子ソフトボール部で万年補欠なので、今日も横で練習を見ているのだろう。携帯いじってないで練習していればいいのに。

「これでよし、と」

「うふふ、これで梓と一夜過ごす準備が整ったということですね」

 一緒に遊んだおかげか、梓の調子も元に戻っているようだった。

 もしかしたら、梓とこうやって遊んだり笑い合ったりするのも、今日が最後になるのかもしれない。

 ……いいや、よそう。そんなことを考えるのは。せっかく決心した気持ちが揺らいでしまう。たまにはいいじゃないか。梓のために俺が頑張ったって。

「そうだ! 先輩!」

 突然、梓は両手をパンッと叩いてにんまりと笑い、「あの~、あの~」と腰をくねらせ始めた。とりあえずはその様子を黙って眺める。

「そのぉ、もうすぐぅ、夕飯ですよねぇ」

 ですよねぇと言われても、この家が何時ごろに夕飯を食べているのか知らないぞ。まぁこいつのこの顔は、何かしらよからぬことを思いついた時の顔だ。

「あの、先輩……ご飯にします? それとも先にお風呂にします? そ~れ~と~も~……」

 そう言いながら、服をずらして華奢な肩を覗かせた。こいつ、これがやりたかったのか。

 俺は嘆息しつつ、聞く。

「それとも、何なんだ?」

「やだぁ。わかってるくせにぃ。それはもちろん、あ・ず・さ。きゃいんっ」

 なぜだろう。なぜかイラッときてしまった。まあいいだろう。ちょっとしたサービスも込めて、そうだな、ちょっとからかってやるか。

「じゃあ、お前にするよ」

「えっ? い、今なんて?」

 俺の予想通りに、梓は目をぱちくりさせて動揺しているようだった。

「お前だよ。俺はメシよりも風呂よりも先にお前をいただいてしまおうって言ったんだ」

 梓の肩に両手をかける。笑ってしまわないように、真剣な眼差しを向ける。

「ひゃっ。あ、あの、急にど、どうしちゃったんですか」

「どうもしてないさ。さっきお前の裸を見た時、実は抱きたいって思ってたんだ。もう、いろいろと吹っ切れたんだよ」

 今度は肩を抱いて、強引に寄せる。

「うっ、うわうわ。あ、あのあの、ちょ、ちょっと待ってください。梓、まさか先輩がそんなこと思ってたなんて、ちょ、ええっ!? いやあの、心の準備が、梓にも、あると、思うのです、よ」

「どうして。いつも誘ってきてたじゃないか」

 梓の奴は顔を真っ赤にして、俺の顔も見きれないで目を激しく泳がせている。ぐるぐるぐる。新鮮だ。実に新鮮だ。これはからかうというか、もう俺の意識は興味に移っていた。これほど恥ずかしそうに慌てふためく梓は見た事がない。強引に迫られると、こういう反応をするんだな。ちょっと、ほんのちょっと、可愛い。

「そ、そそそれは、そうです、けど……こ、こういう不測の事態は、想定していない、ので、あ、不測なんだから想定していないのは、当たり前、なんですけど、えっと……その、あの、は、恥ずかしいのです……」

 くわっ! やっべー、すっげーやっべー。トキメイタ。トキメイテシマッタ。超可愛い。こいつ超可愛いよ。いや、もしかして世界一可愛いんじゃね? えっ、いや、ちょっと、まずい。ドキドキしてきた。心臓が高鳴ってきた。みなぎってきた! 今ならわかる。梓の強引さが今ならわかる気がする。素だ。こいつは素で恥ずかしがっている。これ以上は、俺がもたない。

「あの、先輩……いいです……よ?」

 梓は、朱色に染めた顔を上げ、目を閉じて、薄いピンク色の唇を突き出してきた。キスを、迫っているんじゃなくて、待っている、梓。おとなしく、待っている梓。

 どうしよう。なんだか後に引けなくなってきた。ここでやめてしまったら、かなり悪い気がする。それに、男として試されているような気がする。据え膳食わぬは男の恥と言うではないか。いやいや、それなら俺は今までどれだけ恥を晒してきたことになるんだ。ごくり、何を生唾飲み込んでいる、来栖真。これはお前が仕掛けた罠なんだぞ、ドッキリなんだぞ、それを今さらドッキリでしたとか言えないような臆病者だったのか来栖真。いーや、臆病者で結構。これまでだってずっと回避してきた事態じゃないか。こんなとこでくじけるわけにはいかない。いや待て、そもそも、俺は明日になればどうなってしまうのかもわからないのだ。こいつの父親など関係なしにこの世からサヨナラバイバイしてしまうかもしれないのだ。ならば今ここで踏み止まる理由なんかあるのか。ないだろう。おいおい待て待て来栖真。それじゃあお前は明日帰って来ないつもりなのか。この丸二年、決して生きることを諦めないで梓の猛アタックを回避してきたじゃないか。今回だって大丈夫だ。ここを乗り切ればきっと明日が見える。いや、明後日が見える。そうだよ、大体これは寸止め劇場なんだから、いつだってこういう時には邪魔者が現れていた。きっと今回だってそうだ。電話か? 来客か? 誰でもいいからこの状況を打開してくれ。救世主、救世主求む。

「あの……先輩? 恥ずかしいから……早く……」

 だあああああっ! ずるい! 卑怯だぞ梓! こういう場面で怪面百面相の百一に該当するそんな切なげな表情で俺をたぶらかそうとしてくるとは! 冷静になれ真。落ち着くんだ真。呼吸を整えろ。ラマーズ法だ。ひっひっふー、なんて馬鹿な! 女子を目の前にしてラマーズ法などとんだ変態だ。変態さんだ。それはそれで梓には喜ばれるかもしれないが俺は裕也をも凌駕する変態に昇華するつもりなど毛頭ない。いいのか。いいのだろうか。このまま梓にキスをしても。それを俺自信が許せるのか。このままだと嘘から出た真になってしまう。嘘から生まれた真太郎、なんて不徳な童話の主人公みたいになってしまうではないか。そういえば桃太郎はどうして桃だったのだろう。別に桃じゃなくてもミカンでもリンゴでもよかったのではないか。なしだって。丸い果物ならいくらでもある。ま、そんな疑問の答えなんて、わかってるけどな。桃がお尻の形に似ているからに決まってるじゃないか。変・態・め。

 と自虐ネタを交えつつ時間稼ぎをしているのだが、一向に救世主は現れない。

「お嬢様」

 現れた。やはりこれは茶番劇なのだ。控え目でもはっきりと伝わるノック音が部屋に鳴らされた。

「はい」

 口を突き出したまま、目を閉じたまま、うっとりした顔で、梓は返事した。とりあえずはその顔を俺に向けたまま第三者と話すのを止めるんだ。

「夕食の準備が整いました」

 この声は、メイドの姫川さんだ。

「今取り込み中です。あとにして下さい」

 おい貴様、その顔で喋るんじゃない。それとやっと現れた救世主を追い返そうとするな。俺がどれだけ待ちに待ったと思ってる。この状況を作り出してしまったのは俺だが、大変困っていた。これだけ自問自答をしたことはいまだかつてなかっただろう。あとは、俺が切り出すだけなのだ。

「あ、梓。いいじゃないか。ほら、楽しみにしていた夕食なんだから、できたてのうちに食べようぜ」

 そう言うと、梓はくわっと両目を見開いて、おどろおどろしい形相で、おどろおどろしい口調で、言った。

「先輩が……夕食よりも……お風呂よりも……梓を食べたいと……言ったじゃないですか。ついさっき……言ったじゃないですか……。そんな先輩のご希望を……梓がむげにできるわけ……ないでしょう……」

 さっきとは、違う意味で生唾を飲み込んだ。俺の中を支配している感情、それは恐怖。どうしようもない恐怖。怖い怖い怖い。神宮寺梓が怖い。元に、世界一可愛い梓ちゃんに戻ってくれ。

「……先輩……? どうしたんですか……さぁ早く……梓を抱いてください……」

 絶対無理! 今までのトキメキがかけらも残さず崩れ去った! 

「早く……抱いてくださいよ!」

 なんだこいつ、ヒスった! とんでもなく暴力的にヒスった! 

 梓は、大事にしているはずの俺のそっくりさん人形を殴り倒した。一千万の精巧な人形の目玉は飛び出し、それを梓は踏み潰して、さらに何度も何度も、踏み潰した。たとえ人形とはいえ、俺の目玉が潰されているのだから気分が良いものではない。

「うふふ……うふふ……そうだ、どうせ明日シンシアちゃんに先輩を取られちゃうなら、いっそこうやって壊してしまえばいいんだ。そうすれば……きっと……ずっと先輩のぬくもりは梓のもの……うふ、うふふ……」

 梓はずっと「うふふふ」と笑いながら、ベッドの下から、光るものを……取り出し……た……。

 マジかこいつ、いや、マジだ。目が据わっている。

「護身用で、切れ味悪いから、ちょっと苦しいかもしれませんけど、いいです……よね? シンシアちゃんのところに行くくらいなら……梓と一緒の方が、いいですよね?」

「ま、待て待て! お前なんか違う! そういうこと言う奴は梓なんかじゃない!」

「あああぁ、この先輩はよく喋る。まずはそのお喋りな口から削ぎ落として、その唇とキスしよう」

 梓は、手に持つナイフを前に突き出して、突進してきた。正直、梓相手に、こんな女の子相手に、足がすくんでしまって、動けない。動かない。足が動かない。何もできない。

 なんてこった。俺は、梓に殺されるのか。ちょっとからかっただけの、小さな罰がこの末路かよ。ひどい、ひどいぜ神様。何もかも不公平だ。

 俺はそのまま、ただ迫ってくる梓を見つめたまま、その手に持つナイフを、胸に受け、押し倒された。

 ひどく頭を打って、目の前がぐるぐると回る。胸の痛みは不思議と感じない。ただ、ねっとりと、胸の辺りが濡れていることだけがわかった。鉄の匂いがした。息が詰まる。

 突然、目の前が暗くなり、ふわりと、梓の匂いがした。

 嗅ぎ慣れたこの匂いの中で死ぬのなら、なんか、それほど、悪いことじゃないのかもな。これが俺の責任というのなら、それはそれで、仕方ないのかもしれないな。

 そして、ぼーっとする頭で、気がついたことは、梓が俺にキスをしていた。

 長いキス。

 ぼんやりと感じる、柔らかい唇。俺を殺そうとした奴とは思えないくらいに、優しいキス。これが冥土の土産ってわけか。悪くない。

 キスが終わって、顔を上げた梓は、はにかみつつも、悪戯っぽく笑っていた。ただ、その顔は、梓の服は、真っ赤に染まっていた。

「どうですか? 梓のキスは」

「ああ……悪くない」

「なら、もう一度……」

 ……良い気分だ。今から死ぬっていうのに、なんて、幸せな気持ちなのだろう。

 今度ははっきりと感触がわかる。

 梓をゆっくりと抱き締めた。抱き締めながら、キスをした。

 この力がなくなるまで、梓を抱き締めていよう。

 そろそろ、腕にも力が入らなくなって…………きてない……?

 なんだ、死ぬ間際ってのは、力がみなぎってくるものなのか? いいや、そんなわけない。どうして、力が入る。そういえば、意識もはっきりしてる。こんなに胸から血が出てるっていうのに。献血ですらふらついた俺が、こんなに大量の血を出して、意識がはっきりしている。胸……胸も痛くない。刺されたらよく、熱いとか漫画では言ってるけど。どっちかと言えば、冷たい。冷たい? 血が冷たいわけないじゃないか。こんなに大量の血が出てるのに。待て、何かおかしい。

 俺は目を開け、幸せそうな顔をしていた梓を横に転がした。それと同時に、俺の胸から何かがぽてっと転がった。ナイフだ。梓が手に持っていたナイフ。血だらけのナイフ。

 持ってみる。軽い。振ってみる。軽い。投げてみる。軽い。刃を持ってみる。しゃこしゃこ動く。押してみる。血が出てきた。押してみる。血糊が出てきた。梓を見てみる。照れ笑いが返ってきた。梓を睨んでみる。満面の笑みが返ってきた。

「あっ、あずさああああああああああああああああああぁぁぁっ!」

 梓は、つっかかろうとした俺の唇に人差し指を当て、片目を閉じて、ドヤ顔で言った。

「梓は先輩のことなんてなんでもわかっているんです。梓をからかったお返しです。ヤンデレってみましたけど、どうでしたか? 名演技だったでしょう? 先輩の唇も無事に奪えましたし」

「てっ、てめっ! 俺はマジでしんむぎゅっ!?」

 ぎゅっと、唇を押さえつけられる。

「死人に口なし、ですよ?」

 あっ……あっははは……。

 元気そうで、なによりだ。



 夕食は中華で、頭にたんこぶをいくつか作った梓を眺めながら、おいしくいただいた。

「お願いだから、もう少しだけ離れてくれ」

「こんな狭い中で、無理な相談です」

 天井を見上げれば、水滴が一粒落ちた。腕を払えば、お湯がじゃばじゃばと挨拶を返す。

「十分に広すぎる風呂だろ……」

 三、四人は足を伸ばして入れるバスタブ。ジャグジー、サウナ完備。

 あ~~~~……すっげー贅沢……。

 ただ梓が邪魔だ。無理矢理に風呂までついてきたので、水着着用の条件付きで、一緒にご入浴。梓はいつかの無人島で披露できなかったという、水色のビキニだった。怖ろしく良く似合う。髪も下ろしていて、少しだけ大人びて見えた。身体は……ふふん、まだまだ子供だな。シンシアさんはおろか千佳にすら及ばない。あの千佳はあれでけっこう……。

「先輩、今何か失礼なこと考えてませんでした?」

 読心術スキルを発揮した梓を、お湯をばしゃっとかけて追い払う。

「ま、まださっきの怒ってるんですかぁ?」

 またまた無言で、お湯を払う。

「でもでも、梓の唇、悪くなかったんですよね?」

 ばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃっ!

「あんっ。もう……水着ずれちゃった」

「お前今さりげなく自分でずらしただろうが!」

「だってぇ、お風呂で水着なんて、梓の大事なところが洗えないじゃないですか」

「……それこそずらして洗え」

「うわっ、な、なんか今のってえっちじゃ――」

 ばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃばしゃっ!

「うわっぷっ! や、やめてくらひゃいっ!」

「……ふんっ」

 随分と楽しそうな梓を一瞥して、バスタブを出た。

「も、もう出ちゃうんですか?」

「体洗うんだよ」

「かしこまりましたっ!」

「頼んでねぇ」

「梓が先輩の背中を流してあげたいんですぅ! やってみたかったんですぅっ!」

 子供かよ。

「わかったよ。じゃあお願いする」

「や、やたっ!」

 純金のやたら重い椅子に座り、背中を梓に向ける。梓は、タオルで泡を立てていた。

 なんだかんだ言って、こいつのお遊びに付き合ってるのは、俺なんだよなぁ。

「じゃ、じゃあ先輩っ! いっ、いきますねっ!」

「興奮してるとこ悪いが、背中に胸を押しつけるとかはなしだぞ」

「ええっ!? て、定番じゃないですか! お風呂で女の子に背中を向けるということはそういうことでしょう!?」

「残念ながらあれはそれなりに豊かな人がやらなければならないという限定イベントだ。よってお前じゃ無理。そもそもさせない」

「む~~~~……」

「いいから、早くしてくれよ。湯冷めするだろ」

 不承不承、梓は腕を動かし始めた。

 こ、これは、気持ち良い……。人に背中を洗ってもらうのは小さい頃以来だけど、これってけっこう気分がいいや……。

「先輩の背中、おっきいですね」

「ふっ、常套句だな。お前はいろいろなものに影響され過ぎだ」

「そうかもしれませんね。でも、梓は、この背中をずっと追いかけてるんだなって、なんか思っちゃって。少しくらい、追いつけてるのかなぁって。すぐ逃げちゃうから。追いかけても、追いかけても、すぐに置いていかれちゃう。いつか、届くのかなぁって」

 俺に、何て言って欲しいんだ、梓。お前の気持ちなら、十分に届いてる。だけどお前が神宮寺梓である限り、俺はずっと逃げ続けなきゃいけないんだ。わかってる。そのはずなんだろうけどなぁ。俺も、お前も。

「ねぇ先輩。梓がもし、本当に、この家を出たなら――」

「神宮寺梓じゃ、なくなるのかもな」

「……意地悪です」

 なんとでも言え。俺は絶対にお前をここに居続けさせてやる。

 どんなに終わりの見えない、追いかけっこだったとしてもだ。

 梓は俺の背中を洗い終え、「交代です」と言ってタオルを差し出してきた。しょうがないかと嘆息しつつ、必死で俺の方に体ごと振り向こうとする梓を押さえながら、初めての一緒のお風呂は幕を下ろした。



 寝心地は最高。

 だけど少し窮屈。

 約束した、腕枕。

「えへへへっ。えへへっ、えへへへへっ」

 嬉しそうだなぁ、ほんと。

「梓のベッドで、先輩と、一緒に寝れるときが来た。えへへっ。しかも腕枕。その前の行為がないのがちょっと残念」

「早く寝ろよー。良い夢見ろよー」

「今日は最高の夢が見られそうですっ」

 俺も、良い夢が見られるといいな。

 今日はいろんなことがあった。シンシアさんには連れ去られそうになり、斎藤さんに助けられ、梓の部屋に来て、父親の一成さんと遭遇してしまって、神宮寺家のご飯を食べて、風呂に入って、梓と一緒に寝て、梓と、キスをして。

 疲れた……。

 明日、俺はどうなってしまうのだろう。ただじゃあ、済まないよなぁ。あの人のやり方だと。少しは覚悟して行かないとならない。作戦らしいことも立てられなかった。ホテルの状況なんてまるでわかっていないから、事前に何か策を練っておくこともできない。ぶっつけ本番。斎藤さん救出作戦。作戦じゃねえって。面白くない。全然面白くない。行くしかない。俺がどうにかする。どうにかするしかない。斎藤さんを、梓を助ける。

 一世一代の大仕事だ。

「先輩……もう寝ちゃいました?」

「……いいや」

「梓、もし先輩がお泊まりに来たときのために、いっぱい話題を作っておいたんですけど、何も出て来ないんですよ。忘れちゃったのかなぁ」

「それなら、そのまま寝ちまえよ」

「もう、つれないなぁ、先輩」

 話したいことなんて、ほんとは山ほどあるんだろ? 俺が嫌がる姿を見て楽しみたかったんだろ?

「戻って来るまでに、思い出しておけよ」

「……そうですね」

 梓がきつく抱き締めてくる。腕枕をしていた右手で、軽く頭を撫でた。

 今夜は、眠れない。眠れるわけがない。持たなくてもいい使命感に駆られて、恐怖と、少しの高揚感で、目は冴えていた。明日で終わる。明日で終わらせる。

「先輩……、おやすみのキス、してくれませんか?」

「……するかバカ。あれは不可抗力だ」

「……ちぇーっ……」

 腕の中で、ぶすっと拗ねる。

 キス……キスね。梓とのキスは、悪いものじゃなかった。良かったなんて、言えない。言えない。言えるはずがない。こいつが、梓だから。神宮寺梓だから。

 神宮寺梓じゃなかったら? こいつ自身が言っていたように、一般的な人たちのような、生活を送るとしたら? もし、このまま二人で逃げられるとしたら? 何の障害もなく、二人でいられるとしたら……? そういうことが現実になったとして、俺と梓の関係は今と変わるのだろうか。今まで、漠然と考えたこともあった。だけど今だからこそ、真剣に考えてしまうのかもしれない。俺が逃げ出せば、きっと梓は責任を取ることになるだろう。そうして、一人ぼっちになった梓に、寄り添ってやれるのは俺だけだ。

 ただもし、俺たちの関係がそこから始まったとして、俺は恋人として梓と接することができるのだろうか。たぶん、それは責任を感じているだけなんだ。大きな負い目を抱えているだけなんだ。誰かを犠牲にして、俺も梓も笑っていられるはずがない。斎藤さんのことを抜きにしても、やはり梓に責任を負わせることなんてできない。

 そんなことを思いながら梓に目を向けると、梓はすぅすぅと小さな寝息を立てていた。

 すごいなこいつ。明日は、人生が変わってしまう日になるかもしれないのに、こんな気持ち良さそうに眠れるなんて。こういうとこだけは、梓の奴を見習いたい。積極的なところも、たまにはいいなって思ったりする。

「梓、寝たのか?」

 それにたまには、こういう寝顔や、憎ったらしく笑う笑顔も、可愛いって思ったりする。

「寝たふり、じゃないよな?」

 考えたくはないけれど、もし明日帰って来られなかったら、お前とこうやっていられるのも、これが最後になるんだ。

 だから、だ。深い意味なんて、ない。

 梓の小さな唇に、いつも先輩って呼ぶその唇に、そっと――

 キスをした。

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