感謝と申し訳なさと驚きとざわめきと、絶望と
まさかまたここに来ることになるとは思わなかった。
場所は神宮寺家のお屋敷。
その、梓の部屋。
この前お邪魔した時とは若干、部屋模様が変わっていた。どう見たって俺を招こうと準備していたとしか思えない。だけど本人の前でこういうのはやめて欲しい。
まず部屋に入ってすぐ目についたのは俺の等身大パネル。私服姿と制服姿をご用意。
至る所に俺のポスターが貼られ、机には所狭しと撮った記憶もない梓とのツーショット写真。キングサイズのベッドには俺の抱き枕。しかも寝顔だ。
これだけならまだいいが、グランドピアノの椅子には鍵盤に手を添えた俺が座っていた。正確に言うと、精巧に作られた俺の人形。遠目から見ると本当に人が座っているとしか思えない。一体いくらかかったんだ。
「み、見られちゃった」
「本気で引くぞ俺」
「これこれ、どうですか? 先輩そっくりでしょ?」
「いやいや、気持ち悪い。引くって」
俺が引くって言っているのにも関わらず、梓はピアノの前の偽物の頭を撫でた。そして、何かのスイッチを入れる。
『いやいや、気持ち悪い。引くって』
おうっ。なんと録音再生機能付きだった。
「ふひひっ。先輩のボイスゲット」
やべえ。こいつやべえ。
「先輩、もっと喋ってください」
「喋ってくださいったってな……」
こいつ、俺が何をしたか忘れてるわけじゃないだろうに。ここまで普段通りだと、あの出来事が夢だったかのように思ってしまう。
でも、まず言う事は、そうだな――
「その、ありがとう。さっきは助かったよ、梓」
いつも通りなら、ここで梓が「せんぱーい!」とか言いながら抱きついて来るんだけど、ここでは違った。
人形の頭を撫でていた梓は、俺の方を見て固まった。そして優しく目を細め、唇をぎゅっと固く結び、本当に、本当に嬉しそうで、泣き出しそうな表情を見せた。
そして、手を後ろに組んで、恥ずかしそうにうつむいて、小さく呟いた。
「えへっ……やっぱり、本物がいいな……」
そして俺もうつむいた。
かっ……かわいいっ……!
今まで恥ずかしさなんて微塵も見せなかった梓の、こんな、しおらしい姿。
梓から目を逸らしてしまう。
これは、俺の本当の照れ隠しだった。
「先輩……」
「ん……?」
顔だけは梓の方に向けて、目は自然と泳ぐ。
「また会えて、嬉しいです」
……追い打ちか。予想外に効くな。
「ん、まぁ、俺も、心配は、してた」
あー……カッコわりい。相手はあの梓だってのに、俺は何を歯切れ悪く口にしてるんだか。
「先輩、お願いがあります」
「お願い、言うだけ言ってみ」
少しくらいのことなら聞いてやろう。今回だけは、命の恩人だし。
「先輩のこと、ぎゅってしていいですか?」
「ぎゅって……んー……まぁ……」
普通なら逆だろう。俺が絶対にそんなことしないと思っているのか。
命の恩人だし、泣かせたこともあるし。俺から抱き締めたのは、梓を泣かせてしまった時が最初で最後。自分に言い聞かせろ。梓は命の恩人だ。
ふぅ……腹を決めろ。
「じっとしてろ。いいか、動くなよ?」
それから俺は勢いで梓に近寄った。躊躇いを捨てて、海に飛び込むように。
そして小さな頭を胸に抱いた。ビクッと肩が震えて、強張った。
「先輩……」
「こっち見るな」
顔を上げようとする梓の頭を、さらに胸に押し込める。
それから、梓の腕がもぞもぞと動き始めた。
「動くなって」
言っても、無理矢理に、細い腕が俺の背中に回ってきた。
「これくらい、許してください」
「こ、今回だけだぞ」
「ふふっ、次回もあるような言い方ですね」
「おまっ、離れるぞ?」
ぎゅっと、梓の力が強まる。
「もう少し、このままで……」
それからは、お互いに無言だった。
梓の髪の匂いが何だか懐かしくて、思わずその頭を何度も撫でていた。腕に絡んだツインテールの片割れが、するりと手の中から落ちる。それからは、肩を抱いていた。
…………結果、三十分経った。
「なげえよ!」
「むーっ! もうちょっと! もうちょっとぉ!」
さっきまで抱いていた頭を、今度は思いっきり突っぱねる。
額を押してもダメだったので、頭を首を押してみた。
「ぐっ……ぐるじ~、ぐるじ~でずぜんばい」
「じゃー離れろ!」
けっこう力入れて押してるのに、なんつー執念だこいつ。シャツ破けそうだし。
おっ、おおっ? 梓の目がやばくなってきた。
「がぼっ……ぐべ……げへへ……」
白目、白目剥いてるぞこいつ!
さすがにこれはまずいと思い、手を離した。
すると梓はくたっと力尽きて、俺の足にしがみつく形になる。
「くふぅ……」
どうやったら離れるんだこいつ。
油断していた。やっぱりこいつは神宮寺梓なのだ。
「頑張り過ぎだろ……」
「ぐへっ、ぐへへ……もう離しません」
「よし、じゃあそのまま話そう。これからどうするつもりなんだ?」
一悶着あり、教室を飛び出してその道中、特に説明もないままこの場所へ連れられた。斎藤さんは任せておいて大丈夫だそうだ。ヘンリーとかいうボディーガードも強そうだったけど、斎藤さんからは人間以外の匂いを感じるしな。
このまま何事もなく日常に戻ることはまずないだろうし、神宮寺家の先々のことも心配だ。
「シンシアちゃんとのことは、なんとかします」
「なんとかって、何か策があって飛び出して来たんじゃないのか?」
「いえ、何も」
「何もってお前、アネソングループは大事な取引先なんだろう?」
「ええ。このままだと神宮寺グループは危ないかもしれません。でも、梓は責任を取って家を出る覚悟もしています」
「お前、そこまで……」
「先輩のためですから。まぁもっとも、うちがどうこうより日本経済が終わると思いますけどね」
おう、俺の命は日本よりも重くなってしまったようだ。
「はぁ……。俺も本気で殺されかけたなぁ」
「安心して下さい。先輩のことは二十四時間体制で警護しますから」
「……は?」
「二十四時間体制で梓が警護しますから」
「なぜ二回言った。あと余計なひと言は付け加えるな」
「先輩にはこの部屋で、梓と一緒に過ごしてもらいます。それが先輩を守る最後の手段で唯一無二の手段です」
「いやそれどう考えても最初に出てきた手段だろ!」
「先輩……」
急に真剣な眼差しを向ける梓。梓の部屋だからか気のせいか、どうも梓にペースを握られているような気がする。足にしがみつかれながら話している姿はなんとも間抜けだけどな。
「大袈裟な話しではありません。シンシアちゃんを相手にして、この日本で一番安全なところはここなんですよ?」
「そりゃほんと大袈裟だな。もっとあるだろ、警察とか、いや、警察は何か違うか……」
「この日本でおそらく、唯一、シンシアちゃんの根回しが届かない場所がここなんですよ」
「あー……それなら、納得」
かと言って梓の部屋に居座るのもなぁ。ここはここで、いろいろと危ない。あの人だってここにいるんだろうし。
「梓。お父様はご在宅なのかな?」
「はい。ばっちりご在宅中です。この部屋から逃げ出そうものなら、うっかりばったりラスボスに出くわすかもしれませんね」
そうだな、絶対倒すことのできないラスボスだ。どれだけレベルアップしようとこっちには攻撃手段がない。それはどうしようもできないことだからどうでもいい。
「俺の弱み、めいっぱい力強く握ってるな」
嫌味っぽく言うと、梓は舌を出して笑った。
「めいっぱい泣かされたお返しです」
「それについては何とも……っていうか、その……お前、そのことは何とも思ってないのか?」
「思ってるからお返ししてるんじゃないですか。人生が終わったような感覚って、ああいうのを言うんですね。あんなに悲しい気持ちになったのは生まれて初めてでした。あの後数日間は生きてる心地がしませんでしたね」
「それこそ大袈裟じゃ……」
ないな、こいつの場合。
「でも、落ち込んでいるなんて梓らしくなかったことに気がつきました。ええそうですとも、全然梓らしくなかったです。常套句になりますけど、例え世界中の人たちを敵に回したとしても、梓だけは先輩の味方です。大好きです、先輩」
心の底からの告白を受けているような感覚だった。いつものことなんだから、照れるじゃねえかこいつ、なんて冗談の一つでも言えればよかったのに、このときの梓の言葉はなぜか胸に響いていた。
なぜかなんて、その理由だってわかってる。同時に頭の中に浮かんできたことは、梓を泣かせてしまったことだった。あれだけ泣かせて、一方的に別れを告げたのに、それでも梓は俺を助けてくれて、まだ好きだと言ってくれている。
それこそ大袈裟じゃなく、自分の人生を賭けて。
目の前で証明させられた。
「どうしてお前は……そんなに俺のことを……」
神宮寺梓の、必要以上の執拗な愛情。どうしてこんななんの取り柄もない男にこれほどの愛情を向けられる。
お前と俺は、どうやったって結ばれないんだぞ?
「どうしてって、梓は先輩の――」
俺が珍しく梓の言葉を真剣に聞こうとしていた時、部屋のドアが控え目にノックされた。
梓は足にしがみついたままで、顔だけドアの方に向けて「はい」と軽く返事をする。
「私だが」
外から、若くて凛々しい男の声が聞こえて、梓は這いつくばった姿勢からカエルも驚きそうなほど勢い良く飛び上がり、俺は一瞬で息が詰まった。梓がぶつかったからとかそういう理由じゃない。原因は他にない、この声だ。
慌てつつも小声で、梓が言う。
「せ、先輩っ、はは早く隠れて下さい……っ!」
「か、隠れるっつったって……!」
「ああっ……ああもう……!」
早くも恐れていた事態になってしまった。あの薄壁一枚隔てた先にいるのは、梓の父親。
神宮寺一成。
俺がこの世でもっとも会いたくない人物。梓と結婚なんぞしてしまえば俺は一月も経たないうちにノイローゼになってしまうだろう。
「入るぞ」
!!!!!!!!!!
俺は咄嗟に、すぐそばにあった椅子に座った。
その椅子は部屋の中央に陣取っているグランドピアノの椅子。俺の人形が座っている椅子だ。擬態。人形になりすます。苦肉の策である。
俺が椅子に座って鍵盤に手をかけた直後、部屋のドアが開いた。幸いにもドアには背中を向ける格好になっているため、即座にばれることはないだろう。思いっきり眼球を右に向けて梓の様子を見ると、首を傾げながら微笑んでいた。
「相変わらず、見るに堪えない部屋だ」
ああ、聞きたくない声だったのに。一成さんはたしかもう四十半ばだったはず。それにしては若々しい声だ。俺の心臓は胸が締め付けられるほどに全力疾走していた。思わずぷはっと息を吐いてしまいそうなくらいに息苦しい。中に入って来ないでくれと切に願う。
見るに堪えない男が目の前にいますよ。へっへー。
「パパ、何か用ですか?」
笑顔が引きつってるぞ梓。今はお前だけが頼りなんだ。しっかりしてくれ。
ラスボスの足音が近寄って来る。どうやら部屋に侵入を果たしたらしい。背後に迫っている気配をひしひしと感じる。
「こんな人形が一千万とはな」
ぶふっと、思わず噴き出しそうになった。金額もそうだが、梓の父親、一成さんが人形の頭をポカンとはたいたのだ。金額よりもそっちの方がビビった。俺の頭じゃなくて助かった。本気で寿命が縮む思いだ。とにかく、とにかく離れて欲しい。
「ぱ、パパ、梓の大事なものだからっ!」
梓が割って入る。俺は冷や汗ダラダラ。本当に精巧な作りの人形でよかった。職人さんに多大な感謝。
一成さんは一度鼻を鳴らして、こちらから興味を外した。ように思う。俺は直接様子を見ていないのでそう感じただけだ。一成さんを見て、間違って目が合いでもしたら、せっかく逃げてきたのにこの場で人生終了のホイッスルが鳴らされる。
俺の記憶の中の一成さんは、一見するとエリート商社マン。目つきは鋭く、常に周りに気を張っているような人だ。そばにいると常人ではないオーラ、というか気配が感じられる。目で殺されるような、そんな感じだ。
「彼女は来ていないのか?」
「……シンシアちゃんですか?」
「そうだ。急きょアメリカに飛ぶことになったのでな、挨拶にとでも思って来てみたのだが……」
「学校にはいましたけど……」
「ん、今日は学校に行っていたのか。遊びだとはわかっているが、行く気がないのなら辞めてしまえ。あまり世俗に影響されるような真似はさせたくない」
「……そんなこと言うパパ、嫌いです」
父親には強いな、梓の奴。
「な、なんだって梓ちゅわん!?」
あ、あんたこそなんだって!?
「パパなんて嫌いですっ」
「そ、そんなこと言わないでよぅ梓ちゃ~ん。パパだって寂しいんだよぅ?」
おおう、おおうおおうおおうっ。なんだその悪寒が走るような猫なで声は! あんたに一番似合わねえよ!
そうだった。そうだったそうだったそうだった! こんの父親は娘を溺愛しているんだった。こんな父親だからこんな我が儘お嬢様が育っちまったんだ! 全ての元凶はあんたなんだ!
「早く行ってください。お土産は本場のチーズケーキで結構です。それで先輩の頭を叩いたことは許してあげます」
「ううぅ、わかったよぅ。たまにはパパにも優しくしておくれよぅ」
「わかりましたから、早く行ってください」
「とびきりおいしいのを買ってくるからねぇ」
うげーっ。気持ち悪い。いい大人のこんな声も聞きたくなかったな。
一成さんの気配が足音とともに遠のいていく。梓の奴、うまくあしらってくれたようだ。
「梓」
安心したところで、また緊張が走った。
部屋の入り口の方から、また凛々しい声が聞こえてきたのだ。
「一年だからな」
「……わかっています」
「では、行ってくる」
今度こそ、行ってしまうようだ。
やっとこの緊張から解放される。横目で梓を見ると、父親を見送っているのか俺の方を見て小さく首を横に振った。まだ置き人形としての機能を果たさないといけないのか。話すこと話したんならさっさと出て行ってくれよ。身動きできなくてなんか疲れてあちこち痛くなってきている。指一つでも動かそうものなら鍵盤が音を出してしまうのだ。
「先輩……」
梓が後から小声で話しかけてきた。まだ安心はできないということか。
「もう少し、そのままで我慢してください」
いつまで……? 一成さんが完全に外出するまで待てってこと?
「もう少し……そのままで……」
梓が耳元で小さく囁く。あまりにも耳に近い場所で、ゾクッと悪寒が走った。
「まだですよ……まだ……安心できませんからね?」
吐息が耳にかかる。安心できないって、肩に手をかけてるじゃないか。まあ今の俺は人形だから、梓が人形に手をかけていようと何もおかしい場面ではないけれど。
「まだ……動かないで……梓に全て任せてくださいね」
首筋を舐め始めた。俺はたまらず身を捩る。
「ちょ、ちょっと待て。離れろっ。まだ安心できないんだろうが」
もちろん小声で、体を強張らせて抵抗する。
「ハァハァ……大丈夫ですよ先輩。れろれろ……こんな梓の姿……れろれろ……パパに見られたところで何もおかしいと思われませんから。いつものことですから……ハァハァ……」
「い、いつものことって……! この、変態、め……。うっ……」
おふっ。こ、この感じは……俺の中の何かが……おふう。
「ハァ……ハァハァハァ……た、たまりません! もうっ、もう梓は……っ! あ~~~~ん! せんっっっぱいっ!」
「だあああああああっ!」
たまらず梓を突っぱねた。限界だ。やばいだろこの先は。俺も変な気分になってくる……梓相手に。
「あんっ」
振り返り後ろを見ると、梓はぽてっと転がっていた。部屋のドアは閉まっていて、一成さんの気配はない。
「バレたらどうすんだこら」
「あふう……。大丈夫ですよお。外に見える車にパパは乗ってますから」
急ぎ出窓から外を覗く。黒塗りのリムジンがちょうど敷地の外に出るところだった。
「あれに乗ってるって?」
そう言うと、梓は俺の隣にちょこんと寄って同じように外を眺める。
「あの車はパパしか運転しない車ですから」
「うわ、なにその無駄な贅沢」
せっかくのリムジンを自分で運転するって……。
そんなどうでもいいことよりもこいつ、また悪ふざけしやがった。今回は危うかったじゃねえか。
でも、一成さんがいなくなったとあらば、梓の部屋にいる必要性も薄れたということだ。
「梓、お願いがあるんだ」
そう言うと、梓は目を丸くさせて表情を輝かせた。
「えっ! 先輩が梓にお願い事ですか!? な、なに? なんですか? 梓、先輩のためならどんなお願いも実現させます!」
「そうか。ならぜひ、別室を用意してもらいたい」
「えーっ。まぁ、別に構いませんけど」
なんだ、不満そうだけどやけに素直だな。
「でも、いつも使ってる枕だけ持って行きますね。あっ、先輩が腕枕してくれるのなら置いていきます」
「ちょっと待て。いや、悪かった。俺の言い方が悪かった。お前と別の部屋を用意してくれ」
「そのお願いは却下されました。それじゃあ二十四時間一緒にいられないじゃないですか」
「その考え自体が不毛だ。トイレや風呂までついて来る気か?」
「え? 当然じゃないですか」
「当然でも必然でもない」
「ほら、よく思い出して下さい。梓と先輩って、まだ一緒にお風呂入ってないじゃないですか」
「そうなることが当たり前のように言うな」
「いいじゃないですか。結婚した時の予行練習だと思って」
「しねえって。なによりお前の親父が絶対許してくれないね。さっきだって俺の人形の頭叩いたし」
「あっはっは、やだなぁ先輩」
本当におもしろそうに笑った梓は、まっすぐに俺を見て、にっこりと微笑んだ。
「さっきも言ったじゃないですか。梓はこの家を出る覚悟してるって。そうしたらほら、パパなんて関係ないじゃないですか」
「お前、まだそんなこと言って……」
俺は大きく嘆息して、呆れかえる。
こんな我が儘お嬢様が今さら普通の暮らしができるわけないじゃないか。もとより、そういうことさせる気なんてさらさらないけれど。もはや執着と言ってもいい、梓の愛情。さっき聞きそびれてしまったけれど、
「どうして、そんなに俺のことを?」
すると梓はバツが悪そうに笑った。
「えへへ、やっぱり秘密です」
「…………ま、いいけど。それで、結局俺の部屋は用意してくれないわけだな」
「はいっ!」
満面の笑みでお断り。これほど明るく断られたら逆に諦めがついた。
「いいさ、わかったよ。だけど変なことはするなよ?」
「はいっ! 梓の部屋に先輩がお泊りすることだけでも今は満足です!」
やっぱり、いろいろとこいつには敵わないな。
「今は焦っても、仕方ありませんから」
そして、少しだけさみしそうに、そう付け加えた。それにどんな意味があったかはわからなかった。
昼飯時には、梓がひいきにしているというメイドの姫川さんが昼飯を部屋まで運んで来てくれた。もちろん俺の分もあった。外食することにどんな意味があるのだろうかと思う程、豪華で、そして美味だった。やはり梓はお嬢様なのだ。こんなうまいメシが毎食出て来るなんて、憎たらしいやら羨ましいやら。
昼飯を食べ終わる頃には、俺もこの部屋の雰囲気に慣れてしまったのかくつろぐようになっていた。食事用に用意されたダイニングセットにそのまま腰を落ち着かせる。
時間を見計らって、メイドの姫川さんが紅茶を運んできた。便利なシステムだ。
熱すぎない紅茶をすすりながら、目の前でカップにレモンを浮かべていた梓に尋ねる。
「具体的には、どうしようと思ってるんだ?」
シンシアさんの問題だ。
俺だっていつまでもここにいるわけにはいかないだろう。できれば早急に、迅速かつ安全に解決したい問題だ。
「どうしましょうかねぇ」
まるで他人事のように、スプーンをくるくる回しながら答える。
「お前がはっきりシンシアさんの気持ちを拒絶すればいいんじゃないのか?」
「ああ、そういえば、シンシアちゃんがまさか百合ッ子だったなんて思ってもいませんでした」
「随分と熱心にアプローチされたそうじゃないか」
そう言うと、梓は大きく嘆息して、首を横に振った。
「あれはただの洗脳です。毎日毎日同じことを言われて、催眠術でもかけられているようでした」
「本人はもう少しでお前を落とせるって言ってたけどな」
からかうように言うと、梓はふふん、と鼻を鳴らした。
「梓は先輩以外のことにさほど興味はありませんから。わかったように頷いていただけです。常識的におかしいでしょう? 先輩を奪ったシンシアちゃんとどうして仲良くできますか」
「お前の口から常識って言葉が出ることが非常に非現実的だ」
「先輩の唇を奪ったシンシアちゃんとどうして仲良くできますか」
……こいつ、なんだかんだでまだ根に持ってるんだな。
「でも、103回です」
「103回?」
「梓が寝ている先輩とキスした回数です」
「二度と常識なんて口にするんじゃねえぞ!」
「それはそうと、シンシアちゃんとは、梓が一対一で話しをしてみます。話してわかってもらえるとは思いませんが」
こいつはまた急に話しを変えやがる。
話すと言っても、何をどう話せばあの人に通じるのだろう。あの人の目的は梓だってわかってる。そのために邪魔者の俺を消そうとしてきた。理想的な展開としてはシンシアさんが梓を諦めること。そうすれば俺が狙われることもなくなるだろう。ただ、シンシアさんがやってきた事は、強引で、確実性を求め、大胆で、慎重だったとも言える。
一番恐ろしいことは、復讐と言うか、逆恨みだ。シンシアさんの目的が達成されることは、ほぼないと思っていいだろう。当の梓がこの調子なら、いまさら俺をどうこうしたところで、梓がシンシアさんに気を許すことはあるまい。常識的な考えが一切通用しないこの世界では、『わたくしのものにならないのならいっそ……』などという漫画のような事態だって容易に起こりうる。俺と梓が心配している、神宮寺家が潰されるかもしれないことも、これの一環だ。
「お前一人でどうにかなると思ってるのか?」
「梓一人でどうにかするしかないのです。これは梓とシンシアちゃんの問題ですからね」
「そんなことないだろ」
むしろ、この状況に至ったのは俺に責任がある。
「そうですよ。先輩は被害者なんですよ。先輩は、梓が先輩のことを好きだから巻き込まれてしまった。……ああ、そうだ。また先輩に迷惑をかけちゃった。パパとのことでもたくさん迷惑をかけてるのに、また、また梓は先輩を大変な目に合わせてしまった。梓が、先輩のことを好きなばっかりに」
「そ、そんなに思いつめたように言わなくてもいいじゃないか」
俺が悪い事をしているように思ってしまう。
「前も言っただろ。いまさら迷惑だなんて思われても仕方ないんだから」
「迷惑にしても、迷惑の度合いが違います」
そりゃあそうだな。実際、一成さんからの脅しでも消される寸前までいったことはない。
「それでも、梓はまだ先輩に迷惑をかけてもいいと言うのですか?」
「迷惑になるかどうかなんて、本人が決めることだろ?」
「先輩……、それじゃあ……」
「迷惑だ」
「あうっ」
「だけど、慣れっこだ」
「先輩……」
「それにな、俺は被害者なんて思ってねえよ。むしろここまで事態を膨らませてしまった責任はどこかと言えば俺にあると思う。だから、お前一人でどうにかしようなんてするな。差し当たって俺にできることなんてないだろうけれど、少しくらい、手伝うことができたらいいと思う。話すのなら二人で話そう。何か手段を考えるのなら一緒に考えよう。それくらいなら、俺でもできるよ。俺でできることなら、頼ってくれていいんだぞ?」
梓は一瞬呆けた顔をしたあと、すぐに目を伏せた。
「梓?」
「……や、やだ。すっごい超かっこいい……」
梓らしからぬ様子と梓らしからぬ発言だ。
ふふん、格好いいと言われてイヤな気分になる男子はいまい。
ま、まあ俺も今のは自分でちょっと格好良かったかなって思うけどさっ。
「じゃ、じゃあ、シンシアちゃん対策として一つ思いついたんですけど、先輩、協力してもらってもいいですか?」
なんだ、やっぱり梓の奴、ずっと一人で解決しようと思ってたんだな。俺が協力するってわかったとたんにこれだから。仕方ない。一肌脱いでやるか。
「どんとこい!」
「えっと、えっと、じゃあ、ちょっと待ってて下さい」
梓はそれからすぐに部屋を出て行き、すぐに戻って来た。手には大きな三脚。それとビデオカメラ。バッテリーを確認して、それらをベッドの横にセットした。
「先輩先輩っ。こっちに来てください」
シンシアさん宛てのビデオレターでも撮るつもりか。手招きに答え、ベッドのそばまで行くと、突然手を引かれてベッドに倒れ込んだ。
「さぁ、始めましょう」
そして梓は服を脱いだ。下着をつけていなかった。見てしまった。今までこれだけ変態の梓と一緒にいて、初めてだった。
「お前が一肌脱ぐな! そういうことはやめろって言っただろ! 何がどうしてシンシアさん対策だ!」
目を覆いながら、いやいや首を振りながら叫んだ。
「梓は真面目なんです。あのシンシアちゃんだって、梓と先輩が深く愛し合っているところを見ると、さすがに諦めがつくと思うんですよ。だから、ね? 先輩。梓と先輩を、見せつけましょう?」
「できることはするって言っただろ! こういうことはできん!」
「うふふ……。先輩の弱点見つけました。こうやってると、先輩は梓のこと見ることができないんですね。我慢しなくても、触っていいんですよ。女の子って、とっても柔らかいんですよ?」
「嫌いになるぞ。お前のこと嫌いになるぞ!?」
「うっ。ひ、卑怯ですっ! 梓の弱点を的確についてくるなんて! そういうことなら梓の身体の弱点をついて欲しい!」
「んなもん知るか! いい加減に、しやがれーーーー!」
梓を突き離した。目を瞑って、見ないようにして、両手で突っぱねた。
「はうんっ」
両手には柔らかい感触だけが残っていた。
女の子って、とっても柔らかいんですよ?
どうにか梓に服を着せ、ビデオカメラも撤収させ、俺は梓と距離を置いてメールを打っていた。
「あ、あの、先輩? そんなに怒らないでくださいよ。ねっ? 梓もやりすぎちゃったと思ってますから」
メールの相手は千佳だ。学校での一騒動のことが千佳の耳にも入ったらしく、そのことについてメールが届いたのだ。
俺からの返信の内容は、シンシアさんの目的、連れ去られそうになったこと、梓の家にいること、この件に関して決着がつくまで梓に守ってもらうようになったこと、その旨を伝えた。
メール自体そうそう打つ機会がなく、なおかつかなりの長文になったので、無言で、必死に、真剣に打っていた。梓の声も聞こえちゃいるがそれどころじゃない。何はともあれ、千佳とも仲直りできたし、倉敷さんも心配していたようだし、ひとまずは落ち着いていることを知ってもらっておく必要を感じたのだ。ついでに、裕也にもメールを打つ。噂は本当だったと。
非常に達成感のあるメールだった。一仕事終えたような、開放感があった。
ようやく梓の方を見ると、おろおろしていた。あたふたしていた。何かをやらかしてしまってどうしようどうしようと子供が慌てている様そのものだった。
さっきのことを気にしているのだろう。散々だったけれど、呆れて怒る気もうせた。
「どうしたんだ? 梓」
声をかけると、急に泣き出しそうになり、俺の手をぎゅっと握ってきた。
「ああっ、先輩! よかった! 話しかけてくれた! 嫌われて無視されているのかと思いました!」
「ああ、悪い悪い。千佳にメールしてたんだ」
「千佳先輩に? ……へー、へぇー。そうですか。あの、ちなみに、何て?」
「別に。大したことじゃないよ」
「はうあ~! や、やっぱりさっきの怒ってるんだ。だから梓へのあてつけに千佳先輩とのデートに勤しむつもりなんだ。で、でも、だからって、梓にはそれを見ているだけしかできないのかー!」
「ヒステリー起こしてんじゃねえよ。さっきのは怒ってるわけじゃないから。今どうしてるかを連絡しただけだ。だけどもう一度同じことしたら意地でも出て行くからな」
「……そ、そうですか。寛大な真先輩に感謝します」
それに、あんな方法を取ったところでシンシアさんが怒り狂う可能性だってあるんだから。真面目だと言ってあんなことをやり始めるのだから、梓には本当に有力な手段がないのだろう。
この調子では何も進まない。狭い部屋の中でぐるぐる歩き回るだけでは出口のドアさえ見つけられない。一旦仕切りを置くためにトイレに行くことにした。
「梓。トイレはどこだ?」
「あ、出てすぐ左の小さい扉です。案内しますね」
「その情報だけで十分たどり着けそうだ。おとなしく待ってろ」
「はーい……」
うん、素直な梓ちゃんは嫌いじゃないぞ。
目的地はトイレというか、部屋だった。
廊下を歩いてきたって、ここがトイレだということは住人以外には絶対にわからない。中は大理石で埋められていて、トイレとは思えないさわやかな香りが立ちこめ、エアコン完備でテレビすらあった。どれだけ長い時間トイレにいることを想定して作ったのだろう。
この豪華設備を堪能することはなく用を済ませ、館内を探索してみようかと少年の心がざわめきかけたが、迷子になる危険性を感じたためにおとなしく部屋に戻ることにした。
部屋に戻ると、梓は電話していた。
窓辺に立ち、窓ガラスに手をついて、外を眺めながら、こちらを振り向くことなく会話していた。遠くの方なので会話の内容は聞こえない。盗み聞きするつもりもなかったので、グランドピアノの椅子に座って待つ。
今回の事件は、この電話をきっかけとして、急展開を見せることになる。
「待って!!」
怒鳴り声だった。
思わず目をむく。
すぐに通話は終わり、梓は震えながら振り向き、青ざめた顔で、言った。
「し、シンシアちゃんからでした」
「お、おう。なんだ、何か、あった、のか?」
梓のあまりの動揺ぶりに、うまく言葉にならなかった。
「さ、斉藤さんが……捕まりました」
言葉すら、出てこなかった。