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黄昏の別れ

 翌日、シンシアさんは学校に来なかった。ということにしておけば俺も何も考えずに過ごせていたのかもしれない。

 朝、シンシアさんが教室に来るなり、教室の入り口付近でたむろしていたクラスメイトはさささと道を開けた。俺と梓が通る時に腫れものに触らないように道が開かれるのとは違う。王女様のために道を譲るように、すっと身を退く。偉人のような扱いだった。それが当然のようにシンシアさんも進む。ブロンドを揺らし、気品のある歩き方で、真っすぐに梓に向かってきた。

 授業中に机の前に置かれたスタンドミラーを見ると、梓は「あ、は、は」と苦い顔をする。

 梓が俺の顔が見えるようにとどこかから引っ張ってきたスタンドミラーは、今現在、梓の机の前に置かれていた。梓の机の前にあるスタンドミラーを俺が見ることができるのはどういうことか。それは、俺の後ろの席にはシンシアさんがいるからだ。俺の位置はそのまま。梓が俺の前に来て、自分の机の前にスタンドミラーを置いた。それが、一時限目の授業の前の出来事。シンシアさんが強要したわけではない。澄んだ美しい声で「アズサの場所、いいですわね」と言っただけ。それだけで全てを理解した梓は何も言わずに席を譲り渡した。それで迷惑被ったクラスメイトが一人いる、はずなんだけどこのクラスの人数は今までと変わらないままだった。シンシアさんはただの編入生ではなく、交換留学生ということらしい。山下くんが消えていた。彼のことだからそれ相応の金額を積まれて喜んで旅立ったことだろう。

 それ以外は別にどうするわけでもなく、休み時間には梓と金持ち世界の他愛もない話しをしたりするだけ。俺に特別構うというわけではなかった。

 あのキスの意味は何だったんだ。本当にただの挨拶だったんだろうか。梓とシンシアさんは、世界が違う近寄りがたい雰囲気を醸し出し、話題の編入生だというのに誰も話しかけたりしなかった。他のクラスからは興味本位に教室を覗きに来る生徒もいたけど、感嘆の声を上げて眺めては帰っていくだけだった。

 話題性は抜群だった。歩く度に光を撒き散らし、笑う度に誰かの心を射抜く。黄金の女神、クラスメイトたちはそう呼んでいた。

 そして、誰も落ち着きがないまま、昼休みを迎えた。

「ランチをご一緒にいかがでしょうか?」

 突然「マコト」と呼ばれて振り返ると、シンシアさんは机に頬杖をつき、まるで俺を試しているかのように、薄い笑みを浮かべてそんなことを言ってきた。

 直接間近でこの人を見てしまうと心が飲みこまれてしまいそうになる。自分でも気がつかないまま物語にのめり込むような、現実味のない美貌がそこにはあった。

「あ、お、俺は弁当があるから」しどろもどろになりながら、かろうじて口にする。

 シンシアさんは「ふふふ」と笑い、「わたくしもお弁当がありますの。ここは騒がしいので、静かなところで、二人で食べませんか?」と包みを一つ見せる。てっきり校外で食事するものと思った。普通にただ一緒に食べようって誘ってるだけなのに、俺はなんて答えてるんだ。慌てているのが丸わかりで恥ずかしい。

「でも、梓が……」昼はいつも一緒に食べてるから。

 梓を見ると、不安そうな眼差しで俺を見つめていた。だけどその眼球に映るのは諦めの色。

「あ、梓は、あの……」

 言いにくそうに、目を伏せる。影に隠れたその手には、弁当の包みが握られていた。シンシアさんがどういう人か俺はまだ知らない。今まで見ていたところ、梓が勝手に恐縮しているだけのように見える。だから、俺は言った。

「シンシアさん、梓も一緒にいいかな? いつも一緒に食べてるんだよね」見えないように、虚勢を張る。このあとの反応が少し怖かったのだ。梓よりも力を持っているシンシアさん。これは、口答えになるんだろうか。

「あら、どうしてアズサの名前が出るのかしら。わたくしはマコトをお誘いしましたのよ? ね、アズサ」

 決して笑顔は崩さない。でもそこに隠れきれていない威圧。そしてそれは、梓に向けられていた。

「あの、先輩……今日は――」

「梓は、俺がいつも一緒に食べようって誘ってるんだ。シンシアさんは俺を誘って、俺は梓を誘ってる。だから、三人で、いいよね?」

「……ええ、そういうことでしたら、構いませんわ。どこか静かなところへ案内して下さるかしら」

「うん。どこでもいいのかな?」

 それにシンシアさんは笑顔で答え、俺は梓の手を引いて教室を出る。周りの生徒から向けられる奇異の視線が久しぶりだった。両手に花。それもお嬢様が二人。俺は何者なんだよ、王子様でも何でもないってのに。

 向かう先は旧校舎の空き教室。屋上も解放されてはいるけど、人気の場所だから。風に当たれて気持ちが良いだろうけど、静かな場所じゃない。

 空き教室に入り、机を三つ繋げた。梓とシンシアさんが向き合って繋げ、俺がその横に位置する。そして、まず弁当を広げたのはシンシアさんだった。サンドイッチか何かと予想していれば、普通の弁当だった。おかずは洋風だけど、白米もあった。色合いや見た目はさすがに立派だけど、一般家庭の少し手の込んだ弁当のようだった。

「何か、普通なんだね」

 思わず口にする。シンシアさんは「まぁ」と少し驚いた声を上げた。それから少し呆れたように笑う。

「もう。マコトは、わたくしを何だと思っていますの?」

「いや、えっと……」生粋のお嬢様?

「以前、うちのシェフに料理を教えてもらいましたの。これでもうまく出来た方ですのよ?」

「え、手作り?」

「そうですわ。ふふ、お弁当を作るというのは、思っていた以上に心が躍るものでしたわ」

 品のある笑い方の中に、子供っぽさが見え隠れする。

 それから梓が弁当を開く。毎日シェフが作る弁当で、普通に買えばいくらするかわかったもんじゃない弁当だ。俺は母さんが作ってくれている弁当。食べ慣れた、家庭的な弁当だ。

「アズサは、相変わらずですのね。料理のひとつでも嗜んでおかないと、殿方は振り向いてくれませんわよ?」

「あ、これは梓が――」

「変な意地張るな。すぐにボロが出るくせに」

「うっ……」

「ふふふ……。聞いていたよりも仲がよろしいようですわね」

 シンシアさんは箸を器用に使ってオムレツを一口サイズに切って頬張る。生まれが日本だと聞いても疑いようのないくらいだ。その様子を見ると、随分距離が近い存在に思えた。緊張が、やんわりと薄らいでいくのが自分でもわかる。だからその一言にも、自然に踏み込めた。

「聞いていたって、誰に?」

「ふふっ。いろんな方面から、お噂はかねがね」

 もう一口のオムレツと共に、はぐらかされる。梓はマイペースで、仲が良いと言われたからか照れていた。俺はからあげを頬張りながら、考える。シンシアさんは明らかに接近してきている。だからって自分のことは明かそうとしない。何か思惑があってのことか。ただの興味からなのか。俺たちが思っていた通りに梓をからかおうとしているのか。

「シンシアちゃん。今回は、どうして日本に?」

 梓は箸を止めて、不安そうに尋ねた。それが核心に迫る質問。あのキスの意味だって、そこにあるかもしれないんだから。

「アズサに会いに来たのですわ。最近ちっとも連絡がなかったものですから。それでお話しを聞いたところ、熱を上げている男性がいらっしゃるとか。以前にアズサから聞いていた方。うふふ、想像通りに素敵な方でしたわ」

 色っぽい流し目で俺を見る。キスを思い出して、顔が熱くなった。シンシアさんは俺が考えていることに気がついたのか、薄ら笑みを浮かべて指で自分の唇をなぞった。あの、小さくて薄い唇が俺の唇に、キス、したんだよな。ダメだ、考えたら。飲み込まれてしまう。

「だ、だから、キスしたの?」

 突然、梓が声を張り上げた。顔は下を向いているが、頑張って、上目でシンシアさんを見る。

「先輩のこと、素敵だなんて、お、思ったから……?」

 そして梓は黙る。黙って、シンシアさんの答えを待つ。両手は膝の上でぎゅっと握られて、唇は固く結ばれている。まるで何かの覚悟をしているように。お前は、シンシアさんが「そうだ」と答えたらどうするつもりなんだ。お前はシンシアさんに逆らえるのか? 自分と、神宮寺家を巻き込んで。

 シンシアさんは軽く息を吐いて、軽い口調で言う。

「あれは、ただの挨拶ですわ」

 ほっと胸を撫で下ろす俺と、ほんの少しだけ落胆した俺がいた。ただの挨拶、か。そんなもんだよな。でも、よかった。これなら梓とシンシアさんが揉めることなんてないだろう。最初のだけ、梓が我慢すればいいことなんだ。ただ梓は納得していないのか、恐れを含みながら細々と言う。

「本当に、ただの挨拶?」

「ええ。そうですわ。挨拶、ですわ」

「……学校にまで編入してきて?」

「それは、アズサと同じ学校に行ってみたかったのですわ」

「……ん、なんとなく……わかった」

 梓はそれ以上の追及はせず、黙々と弁当を口に運ぶ。俺も、シンシアさんも、それで会話が全て終わってしまったように、淡々と食事を済ませる。

 静かなところと言われたけれど、これじゃあいたたまれない。何かと話題を探すのに、脳を働かせる。でも俺に出せるのは、何のボキャブラリーもない質問だけだった。

「えっと、シンシアさんって、梓と同い年?」には見えないけど。

「わたくしは今年で十八になりますわ」

「えっ、一つ上?」

「そうなりますわね」

 またまた変な感じだな。クラスメイトなのに、先輩と後輩がいる。それにしても十八でここまでの気品と色気が出るものなのか。おねーさんだからそう感じる? 違う違う、住む世界が違うんだよなやっぱり、この人も。じゃあ、敬語を使わないとならないのかな。

「日本にはもう何度も来てるんですか?」

「ええ。和食も好きですのよ? 箸の使い方も、上手でしたでしょう?」

「ああ、そうですね。日本語もうまいですし」

 シンシアさんは、面白そうにクスクスと笑った。

「その話し方、おかしいですわ、マコト。先程と同じようにお話しになって?」

 年相応、の笑顔かな。その中にも気品だけは残る。梓と違うのは、お嬢様という先入観があってもなくても、シンシアさんはどう見てもお嬢様っていうことだ。

 何となくだけど、うまく付き合っていけそうな気がしてきた。梓に馬乗りになって遊んでいたと聞いていたから、もっと傲慢で我が儘な人かと思っていたけれど、そういう雰囲気も今は見て取れない。ただ梓に会いたかったから来たと言われても、今なら納得できてしまう。席を梓が譲ったのも、梓が過剰に警戒していたせいだと思えるし。

「先輩……」

 梓が唇を尖らせながら制服の裾を摘まんできた。

「ん、どうした?」

 俺が言うと、梓は唇を尖らせたまま「う~、う~」と唸る。梓猫。構って欲しいサイン。俺がシンシアさんとしか話していないのが気に入らないのだろう。安心して、甘えたくなったのだろうか。シンシアさんと対照的で、子供っぽい。だから、甘やかしてしまうのかもしれない。

「帰り、どっか寄ってくか?」頭を撫でながら、ご機嫌を覗う。

「はいっ!」

 いつもの梓だ。もうこいつも大丈夫そうだな。ここは、シンシアさんにこの時間のおかえしをしないと。

「シンシアさんも、どう? 特別に何をするっていうわけでもないけど」

 梓の手に一瞬力が入る。でもそれは本当に一瞬で、「一緒に遊ぼうよ」とシンシアさんにぎこちない笑みを向けた。シンシアさんは軽く微笑み、首を横に振る。

「わたくしは遠慮しておきますわ。やることもありますし、何よりお二人の邪魔になるでしょうから」

「そんなこと……」

 ない、と言おうとして口を噤んだ。やることがあるなら仕方がない。グループの役員らしいし、忙しい身分なんだろう。 

「一つだけ……」

 シンシアさんは人差し指を立て、ウインクをする。

「マコトに大事な話しがありますの。アズサ、席を外して下さる?」

「えっ、どうして真先輩に……」

 梓の表情が強張った。嫌なことを思い出したような、そんな顔をした。

「アズサを大事にして欲しいと、少し注意をしておきたいのですわ。あなたに聞かせるような話しでもありませんのよ。心配しなくても、すぐに済みますわ」

 梓は不安そうな眼差しを俺に向ける。話すだけなら、なんてことはない。距離を置いて話せば昨日のようなことにもならないだろう。

「大丈夫だ。先に教室に戻っててくれるか?」

「で、でも……」

「安心しろ」

 頭を撫で、笑いかける。それでも躊躇う梓の耳元で「またおでこキッスしてやるから」と囁いた。その瞬間梓の表情が輝き、すぐに戸惑いの表情になる。そしてまた目を輝かせ、戸惑い、その表情を交互に繰り返しながら、教室を出て行った。面白いほどに表情を変化させることを改めて認識した。

 梓が出て行って、ひとときの間。シンシアさんは入口から外を覗き、梓が行ってしまったことを確認して、俺に向き直った。俺とシンシアさんの間には、机三つ分の距離がある。

「えーと、話って?」

 シンシアさんは壁に寄りかかり、豊満なバストの下で腕を組んだ。それが何となく高圧的に見える。

「さっき言っていた通りアズサのことですわ。大事になさっているようですわね」

「大事っていうか、まぁ、それなりに」傷つけると怖いから。

「本当、仲が良さそうに……。見ているわたくしが、妬けてしまうくらいに」

 シンシアさんは目を細め、腕組みを解いて近寄ってくる。それに合わせて、距離を取る。警戒しておくにこしたことはない。梓の目がないとはいえ、昨日のようなことになったら困る。まだまだ信用しているわけではないのだ。

「ふふ、昨日のこと、気にしてらっしゃいますの?」

「そ、そりゃあ、ね。あのあと結構大変だったんだよ。殴られたり、噛みつかれたり」

「それは申し訳ないことをしてしまいましたわね。ですけど、あなたはどうでしたの? わたくしからの、キスは」

 シンシアさんは艶っぽい微笑みで、自分の唇をなぞる。金色の髪が、光を撒き散らす。見とれてしまわないように、自分から目を逸らした。

「どうもこうもないよ。あれは、挨拶なんだし」

「ふふふ。それはいいとして、今日は少し面白い趣向をご用意していますの。その窓から外を見て下さる?」

 外……? この旧校舎は職員用と外来用駐車場に面していて、この教室はその二階にある。窓から見える眺めはその駐車場だけ。誰か呼んでいるのだろうか。もしかして、斎藤さんみたいな人が警告でも発しているんじゃないだろうな。俺は少しだけ緊張しながら窓から駐車場を見下ろした。

「? 何もないけど……?」

 そこにはいつも見える車が数台停まっているだけで、特に目新しいものはなかった。普通の車が停まっていて、高級車が重鎮しているわけでもない。

「もっと下の方ですわ。覗きこまないと、見えないかもしれませんわね」

「下?」

 訝しくシンシアさんを見ると、変わらず目を細めて「うふふ」と笑っているだけだった。何があるのかわからないけど、とにかく面白い趣向というものを見てしまわないことには帰してくれなさそうな雰囲気だ。仕方なく、俺は窓を開けようと鍵に手を伸ばす、とふわりと香水の匂いが鼻にかかり、同時に背中に柔らかいものが触れた。そして、俺の胸には、綺麗で細長い白い腕が回される。ハグされた。後ろから、シンシアさんに抱き締められている。

「ちょ、ちょちょちょっ!?」

「これがマコトの匂いですのね。うふふ、マコトったら、ずーっとわたくしを警戒しているんですもの。嘘でも吐かないと隙を見せていただけませんでしたから」

「えっ、じゃあ窓の外には……」

「何もありませんわ。そもそもマコトがこの場所に案内してくれたでしょう?」

 こんの、金持ちお嬢様ってのはどうしてこうも悪知恵が働くんだ! それとも俺が騙されやすいだけなのか。とにかく離してもらわないと。

「は、離して、シンシアさん。こういうのは、よくないから。いろんな意味で俺ヤバイから」

 そう言うと、背中に柔らかい双丘が押しつけられる。ふに、ふわ、何が何だかわからない。少し動けば形が変わるその柔らかさは未体験の域だった。

「どうか、シンシアとお呼びになって?」

「い、いや、それは……」

「興奮していますの? 胸の動悸が激しいですわよ?」

 シンシアさんの手が俺の胸に当てられる。背中にもシンシアさんの鼓動が伝わる。どっちが自分の心臓の音かわからない。

「わたくしのこと、どう思います?」

 言いながら、その手はだんだんと上へ向かい、俺の頬に添えられた。荒く息が漏れて、頭が真っ白になる。

「ど、どどどどうって、み、魅力的、です。き、綺麗、だし」

「うふっ。嬉しいわぁ」

 さらにきつく抱き締められて、足まで絡めてきた。白い手と足が、色っぽくて、抵抗すら忘れてしまう。

「あなたとアズサのこと、聞きましたわ。困っているそうですわね。日本の男性は頭が固いですもの。アズサが認めているのなら、それで構わないのに」

 この話し方だと、本当に俺と梓の父親の関係を知っているようだ。

「は、話したかったことって、それ?」

「ええ、そうですわね。単刀直入に申しあげます。マコト、わたくしとお付き合いいたしましょう。もちろん、ガールフレンドではなく、恋人として」

「はへっ!?」

 わ、悪い冗談だ。いや、悪いわけじゃないけど、こんな美人、いや天使、いや女神が俺と……ってダメだ何考えてるんだ俺。んなことしたら梓の奴は泣くどころじゃ済まない。梓自身に殺されるかもしれん。そもそもこんな人が俺と付き合おうなんて絶対おかしい。何か裏がある。

「か、からかおうってしたって無駄だよ」

「からかう? 何もわかっていませんのね、マコト。わたくしはあなたのことを好きになってしまったのですわ」

「す、好きだなんて、そんなことあるわけないよ。昨日会ったばかりだし、まともに話したのも、今日だったし。お、俺のこと好きになる理由なんてない」

「一目惚れ、信じます?」

「し、信じない信じない! それこそありえない!」

「強情ですわね、マコト。わたくしが、こんなことまでしているのに」

 抱き締められたまま、足を絡ませたまま、俺の肩にシンシアさんの小さい顔が乗っかる。そのまま首筋に軽くキスされた。

「うっ……」

「ふふ、可愛い。わたくしたちの世界では、何がものを言うと思います? 頭のキレ、行動力、交渉術、どれも違いますわ」

 そのまま耳元で囁かれる。そんな質問に答えられるほど余裕がない。男としての理性が崩れかけている。熱い。体の芯から熱がこみ上げてきているようだった。

「直感、ですわ」

「ちょ、直感?」

「ええ。嗅覚と言ってもよろしくてよ。わたくしの母も、わたくしも、特別に何が優れているというわけではありませんの。己の勘を頼りに今を築き上げてきましたわ。あなたにも何かを感じましたの。男として。あなたはわたくしといれば素晴らしい男性になれますわ。わたくしの勘がそう告げていますの。そして、きっとあなたは、情熱的にわたくしを愛してくれる」

「か、勘なんて、ますますもって怪しいね」

 精一杯の強がりだった。できることなら今すぐ振り向いて思いっきり抱き締めたい。欲望を必死に堪えて、理性を保つ。

「わたくしと、こんなこと、それ以上も、マコトが好きなことを、わたくしにしていいんですのよ? いつでもどこでも、あなたの望むカタチで、わたくしを好きになさって構いませんわ。素敵なことだと思いませんの?」

 甘美な誘惑が、耳から頭に入り込んでくる。執拗に押しつけられるシンシアさんの胸。それでもどうにか理性を保つ。こんなことが起こっていいわけないんだ。それに俺には梓がいる。どんな誘惑であれ、俺には梓を置いて他の人と付き合うなんてできないんだ。今だって梓に見られてしまえば俺の命は相当危険になる。それが理性を保てている最大の理由だ。

 だけど、決定的とも言える一言が、シンシアさんの口から囁かれた。

「アズサのおじさまも、わたくしがどうにかして差し上げますわ。あなたに手を出さないように言えば済むことですもの。わたくしのお母さまは相手が誰であろうと、わたくしが選んだ人ならば受け入れてくれますわ」

 ……そうだ。シンシアさんの力は梓より、神宮寺家よりも上。シンシアさんと恋人になれば、あの父親を黙らせることができる。俺は今のしがらみから解き放たれる。梓のご機嫌取りに精を出すこともなくなって、何も悩むことすらなくなるんだ。それにシンシアさんの美貌。誰も彼も目を奪われる美しさ。それを俺のものにできる。これ以上、何を我慢することがあるのだろうか。

「し、シンシア!」

 俺は振り返り、シンシアさんを抱きしめようとする。しかし、女神はするりと俺の腕をすり抜けた。

 シンシアさんはブロンドを翻し、嬉しそうに微笑んだ。

「うふふ、それでいいのですわ、マコト。でも、続きは恋人になってから。アズサのおじさまにはわたくしが話しておきますから、あなたはアズサに直接お話しになって?」

「えっ……」

 う、うん、そうだよな。こういうことは、本人を前に直接話さないといけないことだろう。

 …………い、いやいや待て待て待て俺。

 何かシンシアさんと付き合うみたいな話しになってるけど、それで本当にいいのか?

「それではマコト。わたくしは先に教室に戻りますわね」

「ちょ、ちょっとまっ……」

 教室を去るシンシアさんの背中を見つめたまま、俺はぼーっと立ち尽くしていた。

 何か、流されてしまった感が否めない。

 本当にこれでいいのかなんて、いいに、決まってるよな。これで全て丸く収まる。俺は晴れて恋人ができて、この先きっと楽しい生活になることだろう。梓だって、俺以外の、父親が認める相手を見つけた方が幸せになれるに決まってる。

 自分に言い聞かせようとしていた。これでいいんだって。

 


 教室に戻ったのは、午後の授業が始まるギリギリの時間。

 教室に入ると、梓がシンシアさんと何か話していた。見た感じではシンシアさんの口からさっきのことを話した様子はない。梓は俺の姿を見ると、安心したように自分の席に着いた。

 午後の授業中、ずっと考えていた。

 これまでの梓とのことや、これからの梓のこと。俺が梓に紹介した友達と、その友達とのこれからの関係。

 我が儘なお嬢様に付き合わされて、大変だった。それがもう終わろうとしている。

 梓に伝えるだけだ。

 シンシアさんと付き合うからって。

 震える。体が震えていた。単純に、怖い。梓にそう伝えるのが怖かった。

 昨日のキスだけで梓はあんなに泣いたのに、俺がこれから伝えることを口にすれば、どれだけ梓を悲しませることになるんだろう。

 昨日のように泣くのだろうか。それとも、泣けないくらいに傷つけてしまうのだろうか。

 梓と付き合っているわけじゃない、恋人同士っていうわけじゃないんだ。それなのに、どうしてこんなにも苦しい思いをしなければならないんだろう。

 梓のことは嫌いじゃない。なんだかんだで可愛い奴だし、甘えてきてくれるのは、やっぱり男としては嬉しい。あれほど自分の気持ちを素直に表現できる奴もそういないだろう。

 だからこそ、怖かった。震えるほどに怖かったんだ。梓の傷ついた顔を見る事が。

 授業の内容なんて何も耳に入って来なかった。何の授業だったのかさえ覚えていない。

 休み時間になると、シンシアさんが気を効かせてくれていたのか、梓を俺に近付けなかった。

 そしてそのまま、放課後を迎えた。

「先輩、帰りましょう?」

 シンシアさんは早々に教室を出て行き、梓が少しぎこちない笑みを浮かべて言ってきた。

「あ、ああ。なぁ梓、今日は、俺の家に寄っていくか?」

 それに、梓は少し目を丸くする。

「えっ、いいんですか? で、でも、今日は朝からお風呂に入って来てないんですけど、そ、それでもいいですか?」

「お前は何をするつもりだ何を。そんなことを期待すんな」

「梓は朝からお風呂入ってないって言っただけなのにぃ、先輩こそ、梓と何することを想像したんですかぁ?」

「うっ……うるさい! ほら、さっさと行くぞ」

 梓の手を引き、教室を飛び出す。

「あんっ。今日の先輩積極的っ」

 こんないつものやり取りが、寂しく感じられた。それを隠すように、前だけを見て、梓の手を引いて歩く。

 歩いている時にはずっとうわの空で、梓と何を話していたかよくわからない。いつもよりも、家までの距離が短く感じた。

 家には誰もおらず、自分の部屋へ梓を招き入れる。まだ明るい部屋の中を、梓はまじまじと見回した。

「うわぁ。こんな時間に先輩の家に来るのは久しぶりです。いつもは深夜で暗いから」

「もう内鍵つけてあるから安心だな」

「ふふふ、梓のピッキング能力を甘く見ないことです」

 自慢げに言う事じゃないだろ。犯罪行為だ。

 それから梓は「ふうっ」と短く溜息を吐きながらベッドに腰を下ろす。そして上目使いを披露する。

「あの、先輩……いい、ですよ?」

 頬を赤く染めて、不安そうに言う。

「だからな、俺はお前とそんなことをするつもりは――」

「話し、あるんですよね?」

「あっ…………」

 梓を前にして、何かを誤魔化したり隠したりすることは無駄なんだな。こいつは、俺のことをよく見てるんだ。

「シンシアちゃんにどんな話しをしたか聞いても教えてくれなくて。あとで、先輩に聞けって。先輩が、教えてくれるって。何か、あったんですか? 何かされたんですか?」

「な、何もされてないよ」

 咄嗟に、抱き締められたことを隠すように言ってしまう。今からもっと重要なことを言わなくちゃならないのに。

「先輩、気付いてないでしょ? 先輩の体から、シンシアちゃんの香水の匂いしてますよ。それだけ、近くにいたってことです」

「いや、こ、これはだな……」

「先輩を責めるつもりはありませんよ。どうせまたシンシアちゃんがいきなり何かしたんですよね。わかってます。先輩は悪くないんです」

 こう素直に許されてしまうと逆に気味が悪いものを感じる。でも、やっぱり拗ねた様子の梓だ。

「ああ、まぁ、そうだけど……」

 何をどう切り出していいものかわからない。いつものようにおどけた感じで梓を拒否するわけじゃないんだ。完全な、決別を意味することを言わなくちゃならない。どうしても、それが重い。重く、のしかかる。

「梓は、シンシアちゃんが先輩にしたこと以上のことをするだけです」

 そこで梓は舌舐めずりをして、俺に襲いかかる。半分心ここにあらずだった俺は、あっさりとベッドに押し倒された。抱き締められる形で、ツインテールの片方が顔にかかる。

「梓の匂いで、その香水の匂いを消し去ってあげます」

 そう言って体をぐいぐい擦りつけてくる。

 俺は、何故か抵抗する気になれずに、なすがままになっていた。こういうことも最後なんだと思えば、少し寂しいと思っていたからかもしれない。

「先輩、どうして抵抗しないんですか? このままだと、梓は止まらなくなっちゃいますよ?」

「肝心なとこじゃ、止めるさ」

 俺は梓の頭を抱き寄せた。俺の方から抱き寄せるなんて、これが初めてかもしれない。ただ、今だけは、梓を愛しむように、優しく頭を撫でる。

「先輩、どうしてそんなことするんですか? シンシアちゃんと何があったんですか? どうして、そんなに優しいんですか?」

「……………………」

「何か言って下さいよ。いつも、いつもみたいに突き飛ばして下さい。先輩、変ですよ。どうして、こんな……」

「梓……このまま、聞いてくれるか?」

 梓の体がぴくっと震え、急に強張った。

「えっ……、や、やだ、何か聞きたくない。先輩、離して、離して下さい!」

 抜け出そうとする梓を、腕で押さえつけた。卑怯かもしれないけれど、顔を見てたら話せない気がしたから。

 言わないといけない。俺から話さないといけない。

「俺、さ……シンシアさんと、付き合うことにした。だからもう、梓とこうやって会うことはできない」

 ……言った。梓にとって、この上なく重い言葉を、俺は言った。

 何故か、俺が泣きそうだった。これじゃ、顔を見たままだったら本当に言えなかったな……。

「そ、そんな……こと……。や、やだなぁ、せ、先輩までシンシアちゃんとグルになって、あ、梓をからかわないでくださいよぉ」

 声が震えている。精一杯、堪えている。気にしてないように振る舞っている。いや、現実を受け入れないようにしているのか。

 俺が言えるのは、ただ一言だけだった。

「ごめんな……」

「あ、あっはは。やっぱりからかってたんだぁ。あ、謝ったんなら、許してあげなくもないですよー?」

「ごめん……」

 力を入れて、梓をきつく抱き締めた。そうしていないと、俺がこの場から逃げ出してしまいそうだったから。

「……う、うそだ。そんなの、うそだ。どうして、どうしてそんなうそつくんですか!? ぜ、全然笑えないですよ……いくら梓だって……そんなの、笑って、られないですよぉ」

「……嘘じゃないよ。梓には、本当に悪いと思っ――」

「いやっ! いやいやいや聞きたくないっ! シンシアちゃんに何か言われたんですよね? シンシアちゃんに何か弱みでも握られてるんですよね? そう言って下さい! じゃないと、じゃないと……梓は……。は、離して先輩っ! 離してーーーーっ!」

 首を激しく横に振って、梓が俺の胸から離れた。

「あっ……」

「あんま、見るな、よ……」

 梓から目を背ける。俺はもう何もする気が起こらなかった。ただ、自分の目から涙が流れ出ていることだけは、わかっていた。必死に隠していた。だけど、これが梓にとっては決定的な証拠になった。

「どっ、どうして泣いてるんですか……。そ、そんなの、先輩じゃないですよ。いつもみたいに、あっちいけって、あっちいけって、言って……ください、よぉ……」

 梓は、嗚咽を漏らしながら崩れ落ちる。昨日のようにわんわん泣いているんじゃない。声も出ないくらいに、激しく泣いていた。

「悪い……」

 俺はやっぱり、そんな梓を見ていられなかった。

 腕で目元を覆って、声を殺していた。

 なんて辛い、なんて苦しい。

 常日頃から、梓と離れたいって思っていたんじゃないのか。楽になりたいって思ってたんじゃないのか。それがどうしてこんなに辛い。どれだけ我慢しても涙が出て来るほどに、苦しくてたまらない。

 俺と梓はそれから泣きつくした。

 今まで生きてきた中で、こんなに泣いたことなんてなかった。

 こんなに辛くて苦しい思いも、したことがなかった。

 梓との思い出が浮かんでくる。再会したときのことや、梓が髪を染めて初めて会った日のこと、入学してきたときのこと、笑っていた顔、怒っていた顔、照れていた顔、驚いていた顔、少しだけ見た梓の寝顔、みんなと楽しそうに遊んでいた、はしゃいでいた顔。俺を戒めるかのように、鮮明に頭に浮かんでくる。もう、二度と見る事のできない、太陽の笑顔。

 ごめん、ごめん、ごめん。

 いつも愛らしい笑顔を向けて来てくれていた後輩に、声にならない声で何度も謝っていた。

 

 

 そして――梓は黙って、部屋を出て行った。

 部屋に差し込む夕暮れの光がやけに切なくて、またひとり、泣いた。

 

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