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綺麗なおでこ

 冷静になって考えれば、俺は何てことをされてしまったのだろう。

 初対面の、それも絶世の美女からのキス。

 相手にとってはただの挨拶だったのかもしれない。だけど俺にとってはファーストキス(俺の中では絶対そうだ)であって、それを見ず知らずの相手に奪われた。あの瞬間のことはよく覚えていない。でも、目の前で楽しげに細められた青い瞳を思い出すと、自然に顔が熱くなってくる。

 そして、梓に殴られて頬も、いまだ熱を持ったままだった。あれはグーだった。

「ぴきいいいぃい! ぴきぴきぃぃぃぴきいいいいいいっ! ぴゃあああああああっ!」

 もはや梓が何を叫んでいるのかわからない。俺にはこんなふうに聞こえただけで実際は何かしらの罵倒を浴びせられているようだった。

「梓ちゃん、ちょっと黙ってて。真から詳しい話しを聞くから」

 梓の突き出た唇を摘まみながらそう言ったのは、俺の幼馴染である笹野千佳。

 生まれつきの栗色の髪でミディアムショート。容姿端麗、成績優秀、運動神経抜群のすっごい奴。俺が梓に紹介して友達になった同級生。何かと気遣いをしてくれて優しい頼れる幼馴染だ。

 だけど今、その優しい幼馴染の、普段の愛らしい瞳は細められ、軽蔑の眼差しが俺に向けられていた。

 現在は放課後で、俺は木造旧校舎の使われていない教室にいる。いる、というか、半ば強制的に梓と千佳に連行されてきた。そして椅子に拘束されていた。以前、親友らと内密な話しをした場所だ。

「いやー、噂の編入生とそんなことになっていたとはねー。ジョンも隅に置けないねぇ」

 長い黒髪を持ついたずらっ子、倉敷さんも当然のように千佳のオプションとしてここにいた。凛とした美人の見た目から想像できないほどに人をからかうのが好きで、度々痛い目に遭わされてきた。だけど友達思いで、何を考えているかいまいちわからない不思議な友達だ。

 どうしてこうなっているか。

 シンシアさんが教室を去ったあと、梓にグーパンチを喰らい、その梓は暴走を始めた。よほどショックだったのか、奇声を叫びながら俺の頭をぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶん揺さぶり、気がつけば梓を止めていたのはクラスメイトだった。なんとか落ち着いた梓はそれからの授業中、ずっと俺の背中に『ウラギリモノ、ウラギリモノ』と指で呪いをかけ続ける始末。

 そして昼休みを迎えると、梓は「ぴぎゃああああああっ!」と叫びながら急いで教室を飛び出して行った。それから放課後まで教室に戻って来ることはなく、HRが終わると同時に教室に現れたのは、ドス黒いオーラを放つ、梓率いる黒い三連星だった。そして有無を言わさず連行され、今に至る。

「それでは、容疑者の審問を始めます」

 千佳が俺を睨んだままそんなことを言った。今からいかにも何かを始めようっていう空気がなんか恐ろしい。ってか容疑者って俺は何も悪い事してないぞ。

「なぁ千佳。何か誤解してるようだけど俺は――」

 言いかけて、驚いたことにパシンッと平手で頬を打たれた。こともあろうに千佳がそんなことをしやがったのだ。軽く叩かれただけだけど、まさか千佳がそんなことをするなんて思っていなかった俺は面食らった。本当に、泣きそうだった。

「質問の答え以外の発言は認めません」

 ひどく冷淡な声で窘められる。怖い。千佳が怖い。こんなことをいつも面白おかしそうに笑う倉敷さんでさえマジ顔で引いていた。助けて倉敷さん。俺が願うような眼差しを向けると倉敷さんは目を泳がせた。

「で、でもお前部活は」

「部活が何だっ!」

 また叩かれた。

「こほん。では質問です」

 千佳の鋭い視線に俺は生唾を飲み込む。

「あなたは編入生であるシンシアさんとキスをした。間違いないですね?」

「い、いや、あればふっ!?」

 また平手でぶたれた。

「ハイかイイエで答えなさい」

 んなこと一言も言ってねーじゃねーか! とは絶対に言えない雰囲気だったので、

「は、はい……」

 力なく、俺は答えた。

「以上、有罪決定です。死刑」

「ちょ、待っ……!」

「ぴぎゃあああああああああああああっ!」

「ぎゃあああああああああああああああああああああああっ!」

 千佳の言葉を聞くなり梓が飛び掛かってきて耳をかじられた。思いっきり歯を立てて、本当に食いちぎる勢いで。

「痛い痛い痛い痛い痛いっ! やめろあずさぁぁっ!」

 椅子に縛り付けられたまま必死に抵抗を試みるが全く効果はない。

「そんな痛みより、梓ちゃんの心の方がよっぽど痛かったんだから。およよよ」冷静に泣き真似しながら言ってんじゃねえ千佳!

「あれはっ! いきなりだったんだっ! 突然! ほんとっ! 俺もびっくり! だから梓やめろ! 見てただろ!」

「見てたからこそ、梓ちゃんはこうやって苦しんでるんじゃないの」

「今苦しんでるのはどう見ても俺だー!」

 必死に椅子をガタガタ揺らしながら俺は叫ぶ。

 その時突然、梓の噛みつき攻撃が止んだ。痛みで耳の感覚がマヒしているけど、梓はまだ離れていなかった。やめてくれたか、と俺は安堵の溜息を吐く。耳の感覚が戻ってきてわかったのは、梓が思いっきり耳を舐めていることだった。いや、しゃぶっている。

「ひいいいいいぃぃぃっ! な、何してんだ梓っ!」

「れろれろれろれろじゅるるる……はむはむはむ…………ふふうぅぅぅ」

「あ、甘噛みやめっ……息はっ……うっ……はぁっ……」

 思わず変な声が出た。

 ううう、見ないで。辱められる俺をそんなに赤く染めた顔で見ないで、二人とも。

「ちょっ! やめなさいっ!」

「れろれろ……ぷはっ!」

 千佳が助けてくれた。梓を力づくで俺から引き剥がす。

 も……ダメだ俺、汚されちまった。

 何かの消失感が俺の意識を支配する。

「うへへ……。良い味出してますね、先輩。ごちそうさまでした」

「ひいぃっ! 寄るな変態!」

 満足そうに口元を拭う梓が恐ろしかった。本気で恐ろしかった。うへぇ、襟元まで涎でぐっしょりだ。

「まったくもうっ! 何やってんの梓ちゃん! そんな羨ま……じゃなくてそんないかがわしいことっ! 油断も隙もない!」

「ふ、ふーんだ。シンシアちゃんがしたことに比べればこれくらい大したことないですよ。シンシアちゃんは梓の目の前で先輩の唇を奪ったんですからっ!」

「そ、それはそうだけど……。とにかく! し、シンシアさんに聞かないと。どうして真にキスしたのかって」

「そうですねぇ。でも梓が知ってる番号には繋がらないんですよ。だから明日シンシアちゃんが学校に来てからじゃないと」

「そうなんだ。でも日本ではどこに寝泊まりするつもりなんだろう。そっちに連絡しちゃえば?」

「こっちにもシンシアちゃんが持ってる家はいくつかありますからね。しらみつぶしに当たるという手もありますが、連絡するにはそれ相応の理由が必要だと思います。個人的な用事で取り次いでくれるとも思えませんし」

「そっか。じゃあやっぱり明日にならないと話しは聞けないってことなのかな」

「うーん、まぁ、そうなりますねぇ」

「…………おい」

 そこで俺はやっと二人の会話に首を突っ込んだ。

「なによ真」「なんですか先輩」

「お前らの今の口振りだと、俺が被害者だってわかってて話してるんだよな。つまり、俺がこんな仕打ちを受ける理由は全くないってことだ!」

「キスは事実でしょ」「キスは事実じゃないですか」

 お、おおう。なんだその冷たい目は。俺だってあんなことされなきゃ梓に殴られることだってなかったのに。被害者だ、俺は被害者なんだ。どうしてわかってくれないんだ二人とも。

「千佳先輩。新たな情報です。真先輩はシンシアちゃんにキスされた時デレっとしてました」

 ドキッと心臓が跳ね上がった。正直なところ、あの時の俺は舞い上がっていた。あんな美女からキスされれば誰だってそうなるはずだ。俺は悪くない。この世に生きる男なら必然なのだ。

「…………ふーん。そう……」

 お、おい千佳。その握り締めている拳はなんだ。あっ、指鳴らしたら骨が太くなるって誰かが……ちょ、振りかぶって何するの? あっ、そうか、俺を殴るんだね。

 渾身の右ストレートだった。



「やぁ、お目覚めかい?」

 気がついた時、目の前に倉敷さんの顔があった。頭がぼーっとして、状況が良く飲み込めない。倉敷さんの顔の向こうには蛍光灯が並んでいる天井が見える。倉敷さんの長い髪がはらりと落ちて、俺の顔にかかる。倉敷さんがそれを優しく払った時、初めて膝まくらをされていることに気がついた。

「なかなか可愛い寝顔だったよ」

 くすくす笑いながら言われて、急に恥ずかしくなって起き上がろうとする。と頭に鈍い痛みが走った。

「いつっ……!」

「効いたかい? ちーちゃんの右ストレート」

「ははは……まぁまぁね」

 起き上がって周りを見ると、梓と千佳が憮然とした態度で椅子に座っていた。人を殴って気絶させときながら、倉敷さんに俺の世話を投げ出すとは。腹が立つ。かなり腹が立つ。俺は今猛烈に怒っている。

「おっ、お前らなぁっ!」

「おっと、ジョンの膝枕役を買って出たのは私さ。あの二人はいろんな意味で何をするかわからなかったからね」

 と倉敷さんがくってかかろうとした俺の肩を掴む。訝しげに倉敷さんを一瞥して、俺はじーっと梓と千佳の二人を睨みつけた。

「ほら、ちーちゃん。あずあずも」

 倉敷さんが急かすようにそう言うと、二人は急にもじもじとしてばつが悪そうに目を泳がせる。

「なんだよ」

 俺が言うと、何とも言いにくそうに千佳が口を開いた。

「さ、さっきはごめんね。ちょっと……やりすぎた」

 続けて、梓が言う。

「先輩、すみませんでした。あんなに先輩の耳がおいしいとは思わなくて」

「お前は悪いなんて思ってないだろ」

 梓は一瞬顔をしかめたあと、しょんぼりとうつむいた。

「でも、先輩……梓は……本当にショックだったんですよ……。考えてもみて下さい。梓が先輩の目の前で他の男の人からキスされたらショックでしょう?」

「いや、別に」

「ぴぎゃああああああっ!」

 両手を上げて俺に襲いかかる。お前、それ癖になってないか。でも今度は両手が自由なんだ。そうそう思い通りにさせてなるものか。飛び掛かってきた梓の両手を自分の両手と合わせて押さえこむ。「ぬぬぬ……」「ぬぎぎ……」お互いに歯を食いしばって力比べ。こいつは華奢な体つきしてるのにどうして俺と対等に張り合えるんだ。男だぞ俺。でもやっぱり梓は女の子で、徐々に俺が圧していく。梓は半泣きになってまで必死に抵抗していた。

 梓と目が合う。急に梓の力が抜けたかと思えば、梓の目にはどんどん涙が浮かんできた。俺の両手を掴んだまま、今にも泣き出してしまいそうな子供のような目を俺に向ける。

「うっ……うえええええええええんっ!」

 泣いた。驚いた。梓が泣いた。本当に子供が泣くように大きく口を開けて、恨めしそうに俺を見たまま、大粒の涙をどんどん溢れさせる。

「お、おい、梓、泣くなよ。なっ? ほ、ほら、もう力入れてないから」

「だ、だっで……! だっで、だっでえええええぇぇっ……!」

 突然泣き出した梓に、何をしてやればいいのかもわからず、ぽりぽりと頭をかいた。千佳と倉敷さんも口をあんぐりと開けてぽかーんと梓を見つめていた。

 梓が泣いたのは初めてだった。今日は初めてなことばかりだ。キスされて、梓に殴られて、梓を泣かせて。

 梓を泣かせ……て?

 一気に背筋が凍る。暑いのに悪寒が走る。泣かせた。梓を泣かせてしまった。おそらく、いや間違いなく、梓は本気で泣いている。嗚咽を漏らしながら、必死に目元を拭って、それでも涙がぽたぽたと床に落ちる。こんな時に男として情けないことだが、自己保身の本能が働いた。もしこれが、梓の父親に知られてしまった場合、最悪、俺はこの世から消されてしまう。どうしよう、どうしようどうしようどうしようっ! ヤバイ、本気でヤバイ。

 俺があたふたしていると、ガラリ、突然教室のドアが開いた。

「ひっ!」「ひあっ!」

 千佳と倉敷さんが小さな悲鳴を上げて飛び上がる。

 夏なのに、決して黒いスーツは着崩さない、サングラスがトレードマークの梓の専属警護人、斎藤さんが現れた。身長は二メートルくらいはあるかという巨体。圧倒される威圧感。気のせいだと思いたいがチャーミングなおでこには血管が浮き出ているように見える。

「さっ、さっささ斎藤さん! あの、こここれはですねっ!」

「聞かずともわかります」

 恐ろしく低くて重い声だった。

 斎藤さんは俺の胸倉を掴み、締め上げる。ぜ、全然わかってないんじゃないですかね。息が詰まり、声にもならなかった。

「あっ、斎藤さん、先輩はっ!」

 梓が声をかけると、斎藤さんは俺を離してくれた。乱暴に突き離され、思わず咳き込む。

「せ、先輩っ!」

 梓が駆け寄り、俺の背中を支えた。

 斎藤さんは軽く息を吐き、首を横に振った。

「あなたには借りがありますので、このことは私の胸に秘めておきます。それに、シンシア様のおふざけということもわかっていますから。ですが、あなたもお嬢様の気持ちをもう少し汲み取ってはいただけませんか」

 そこまでわかってるなら、俺は何も悪くないってわかってるんじゃないのか。あれは突然だったからどうしようもなかったんだ。それを寄ってたかって俺のせいみたいな。

「あ、梓は……」

 横にいた梓が、目を伏せて小さく呟いた。

「先輩は、いつでもどこでもどんな時でも、どんなに突然でも、梓とキスとか、そういうことを、拒んできて……。でも、突然だったけど、シンシアちゃんからキスされて……。それが、梓はたまらなく悲しかったんです。先輩が、シンシアちゃんを受け入れたような気がして。あれが梓だったら、先輩はきっと顔を背けてた。そう思ったら、とても、とても……悲しくて……」

「……………………悪かった」

 どうしてだろう。梓の話しを聞いて、自然に口に出していた。たしかに、言われてみればそうだ。俺が言うのもなんだけど、こいつはこいつなりに頑張ってて、でも、シンシアさんはあっさりと。納得いかないよな。

「あとはお任せします」

 斎藤さんはそれだけ言って突然出て行った。見間違いじゃなければ、笑っていた気がする。

 さて、あとは梓を慰めるだけだ。

「なぁ梓。あれは不可抗力だ。初対面でいきなりあんなことされるなんて誰も思わないだろ?」

「でも、梓のはいつだって……」

「それは俺がお前のことわかってるからだろ?」

「うっ……。そ、そんなこと言われても納得できません」

 ……ふぅ。しゃーない。梓を泣かせた責任だけでも果たそうじゃないか。

 俺は梓とのやり取りを黙って見ていた千佳と倉敷さんに背を向けた。ほんとは、とても人前でできることじゃない。これはただの責任だ。梓が喜ぶことをしてやるだけ。それはわかってるから。

 俺は梓の前髪を払い、額にキスをした。梓は「ひゃっ」と可愛い悲鳴を上げた。

 やって恥ずかしくなった。梓が俺を見上げているのがわかる。だけど俺はその目を見つめ返すことができなくて、ただただ目を泳がせた。

「お、俺からこんなことするのは……お、お前だけだからな」

「こけっ!?」

 梓がまた変な叫び声を上げた。どんどん人間離れしていくなこいつ。

「ま、また勘違いする前に言っとくけどな、好きだからとかじゃなくて、こんなことできる相手ってのは、お、お前しかいないってことだからな」

「う、うひっ。うひひひひっ。せんぱ~い、それ、どう意味が違うんですかぁ?」

「だ、だから、俺がこういうのを千佳とか、倉敷さんとか、もちろんシンシアさんにもすることはないってことだ」

「ま、いいですけど。梓が特別だってことはわかりましたから」

 ぐいっと、無理矢理俺の目の前に顔を突き出してにんまり笑う。泣いてる顔も新鮮だったけど、やっぱりこいつはこういう顔が一番似合ってる。

「何か良い具合に締めようとしてるけどね、やってくれるじゃない、真」

 振り返ると、鬼がいた。

「よくも私の、じゃなくて私たちの前でそんなにいちゃつけるものね。言っとくけど梓ちゃん! 真のファーストキスは小さい頃に私が奪ってるから!」

「はぁ?」

 びしっと梓を指差して言う千佳。また何を言い出すんだ。俺はまったく覚えてないけどな。

「へー、そうですか」

「ぐっ…………くぅっ!」

 それを梓は軽くあしらうように言う。千佳は悔しそうに地団太を踏んだ。だからお前らは何でそう競い合いたがるんだ。

「ま、まぁまぁちーちゃん。とりあえずよかったじゃないか。何やらジョンがあの黒服の人に連れて行かれそうだったしさ。丸く収まったということで」

「う……うん。そうだね。思ってたより、真って大変なんだって思った」

「わかってくれて助かるよ千佳」

「でも、真先輩は自分の意思で梓におでこキッスをしました」

「むむっ……!」

「話しを蒸し返すな!」

 まったく、こいつは、こいつらはっ!

「で、梓、あのシンシアさんって何者なんだ。お前がいるって聞いて来たって言ってたろ」

 同じ繰り返しになりそうだったので無理矢理に話しを変える。多分、さっき話していた様子だと千佳も気になってるようだったし。

「まぁ、そう言ってましたけど、目的は不明です。何の連絡も受けてませんでしたから。いつも来日する時は迎えに行くんですけどね」

 梓は顎に手を当てながら考えるように言う。

「たしか前にアメリカの友達って言ってたよな」

「ええ、まぁ。友達、ですね」

 釈然としない言い方だった。

「なんだ、仲が良いわけじゃなかったのか?」

「仲、良いですよ。小さい時は、よく、遊んでもらってましたし」

 口元だけ笑って、目が笑ってない。歯切れも悪い。何か触れてはいけないものに触れているような気さえしてきた。

「とても仲が良いふうには聞こえないんだが」

「あはははー。そ、そんなことないですよ。あれでもシンシアちゃんは子供の頃やんちゃでですね、一緒にお庭で遊んだりしてたんですよー?」

「へー。全然そんなふうには見えなかったけどな」

 そこで千佳が身を乗り出してきた。

「ね、真。シンシアさんってどんな人だったの?」

「そうだな……。一言で言うなら、女神だ」

 殴られた。

「お前全然反省してないだろ!」

「ハッ、ごめん。つい反射的に」

「夫婦漫才はいいから、あずあずの話しを聞こうじゃないか」

 倉敷さんが大人だ……。いつもは率先して人をからかうくせに。しかも夫婦漫才とか言ったら梓がまた突っ込んできそうじゃないか。でもその梓は、うつろな表情で何かを一人でぶつぶつ呟いていた。耳を澄ますと、

「…………ひひーん…………ひひーん……」

 ……馬の、鳴き真似?

「梓?」

「……ひひーん……」

 梓はぼーっとしていて、どこを見ているのかわからなかった。目の前で手をひらつかせても反応しない。ぺちぺちと頬を叩いてもひたすら「ひひーん」と繰り返し呟いていた。

 梓が壊れてしまった。

「これはあれだね、一種のトラウマなんじゃないかな」

 倉敷さんが梓の頬をちょんちょんつつきながら言った。

「トラウマ?」

「うん。この名探偵が察するに、おそらくは小さい頃にシンシアさんがあずあずに馬乗りになって遊んでいたと。それで、あずあずは言われるままに馬の真似をしながらシンシアさんを乗せてまわった」

 それはいくらなんでも無理がある推理だと思うけどな。あの梓が人を背に乗せて這いつくばってたってことだろ。想像できない。どっちかと言えば梓が乗っかる方だと思う。

「とにかくジョン。あずあずを呼び戻すんだ」

「俺が? どうやって……。何しても反応ないし」

「あずあずの耳元で囁くんだよ。俺がお前に馬乗りになって犯してやるぜって」

「言えるかっ!」

「冗談だよー。そう怒らないでおくれよ」

「せ、先輩が、梓に馬乗り……? うへへ……」

「ほら、戻ってきた」

 嘘だろ……。梓、お前どれだけ変態なんだよ。

「あ……先輩がいる……。どうぞ、梓の全てをむさぼり尽くして下さい」

「そのままどっか行ってんじゃねえ」

 梓の頬をつねって夢から解放してやる。梓は「いひゃひゃ」と言いながらとろんとしていた目をぱちくりさせた。それから辺りを見回して「あー……」と肩をがっくりと落とした。

「梓ちゃん、ひひーんとか言ってたけど」

 千佳の言葉に梓がびくりと反応する。そして「あうあうあ……」と顔を真っ赤にさせてうつむいた。

「つ、ついに知られてしまったのですね。梓の秘密を」

 秘密だったんだ。まあ「ひひーん」なんて言うところを人に見られたくはないよな。

「シンシアちゃんには、ほんとによく遊んでもらってました。時には梓が馬になり、時には梓が犬になり、時には……あうぅ」

「お前、それ……」

「いいのです。わかっているのです。でも、梓には遊んでもらってると思うしかなかったのです」

 梓は遠い目をして儚げに呟いた。何かを諦めているようにも見える自嘲気味な笑い顔を浮かべて。

「らしくないじゃないかあずあず」

「ほんと、梓ちゃんじゃないみたい」

 二人の言う通りだった。いつもは何でも思い通りになるような傲慢さのある梓が、どうしようもなかったような言い方をして。

 どうやら、梓はあのシンシアさんにいじめられていたようだ。倉敷さんの名推理が当たっていた。ありえないと思っていたのに。絶対人の言いなりにならないような梓が。我が儘お嬢様が。聞いた今も現実味が沸いてこない。

「どうしてそんなことされてたんだよ。お前の親父さんに告げ口すればよかったのに。どうにかしてくれそうじゃん」

 梓は「ふぅ」と小さく疲れ切った溜息を吐いた。

「我が神宮寺グループは、国内企業の、実に七割と何らかの関わりを持っています。シンシアちゃんの母親であるカトレアさんが持つアネソングループはアメリカで四割のシェアを占めています。そういうことですよ」

 そういうことって言われてもな。

「逆らえない、ってことか? 七割なら、お前んちの方が力は上に思えるけど」

「この際、単純な国土面積で考えてもらって結構です。日本の七割と、アメリカの四割。どちらが大きいと思いますか?」

「…………実にわかりやすい例えだな」

 はぁ。俺は溜息を吐く。世の中上には上がいるもんだ。千佳と倉敷さんも今のを聞いて呆気に取られている様子だった。

「子供は子供なりに、お家事情はわかっているんですよ。うちの海外取引先はほとんどカトレアさんのとこですし。梓も昔は活発な方じゃなかったですからね、大人しく言う事を聞いていただけです」

 泣き寝入りってことか。金持ちの世界には金持ちの世界のしがらみがあるんだな、そんな子供にまで。

梓もいろいろ苦労してきたってわけか。

 その、世界屈指のお嬢様シンシアさんがうちの高校にやってきた。おそらく、その権力を使い、梓がいるクラスへ。ここまで聞いてまさかと思ったんだけど、

「シンシアさんって、お前をからかうために来たとか?」

「その可能性は否めません。だけどわざわざそのためだけに来たというのにも疑問が残ります。もうそんな子供というわけでもないですから。シンシアちゃんもグループの役員ですからそんなに暇じゃないでしょうし」

 梓は首を横に振りながら言う。お前は暇そうなのにシンシアさんは立派だな。

「でもさ、そう考えると、真にキスしたのだって納得できるんじゃない? 梓ちゃんに対する嫌がらせとか」

 ずいずいっと千佳が人差し指を立てながら割って入る。

「手始めにジョンを奪ってやろうってことかな」

 おもしろそうに倉敷さんがくらいついてきた。

「そ、そんなことは絶対にさせません!」

「でも、それはジョン次第なんじゃないかな」

 倉敷さんが揶揄すると梓はキッと俺を睨んだ。

「わかってるわかってる。つーかなんであの人は俺のこと知ってたんだよ。お前が教えたんだろ? そもそもそのせいで今回のことがあったわけで」

「それが不思議なんですよ。梓は好きな人がいるって一度話しただけで真先輩の名前も教えてませんし、写真なんかも見せていませんから。随分と連絡も取っていませんでしたし」

「えっ……」

 それ怖っ! なんだよそれ、俺と梓がどこかで見られてたってこと? 監視されてるとか。いや、学校では俺と梓は目立ってたし、誰かに聞いたのかもしれない。でもそれだと、嫌がらせをしようとわざわざ日本に来た理由にはならないし。わざわざ神宮寺家に問い合わせでもしたというのだろうか。

「理由はどうあれ、シンシアちゃんは実際に学校に来ましたからね。梓は、これからがちょっとだけ心配です」

 梓はほんとにシンシアさんが苦手なのか、大きく嘆息した。梓が臆するほどの大物なんて、世界は広いねぇ。

「まぁ困ったことがあれば相談しておくれよ。私でできることなら力になろうじゃないか」

 意気消沈としている梓の肩をぽんぽん叩いて倉敷さんが言う。

「そうだね。私もシンシアさんの事は気になるし。ま、また今回のようなことされたら困るもんね」

 しゅっしゅっとシャドーボクシングをしながら千佳が言った。お前、それ俺を殴る練習じゃないのか。

「だいたい何で俺は千佳に殴られたんだ。千佳は別に困らないだろ」

 俺が言うと、千佳は「ふぇっ」と驚く。

「こ、ここ困るでしょ! なんとなく! そ、そうよ、真が困ったら私だって困るの! 幼馴染なんだから!」

「ふーん……」

 そんなものかね、幼馴染って。

「ジョンはねぇ、だからジョンなんだよ」

 ペット?

 それから倉敷さんは「遅くなったけど部活に顔出すよ」と言っておもむろに鞄を手に取り、千佳は「私も!」と言いながら倉敷さんより先に教室を飛び出して行った。そんなに慌てるくらいなら最初っから部活に行ってりゃいいのに。倉敷さんは「これも私のお務めだー」とか言いながら出て行った。

「あいつら、結局何しに来たんだ」

「ふふふ、そういう先輩、素敵です」

 二人の出て行った入口を見たまま、梓がほくそ笑んでいた。

「俺たちも帰るか」

「はい。ところで先輩。先輩の部屋の鍵は付け替えたりしてませんよね?」

「ああ、してないけど…………お前、何するつもりだ」

「いえ別に」すました顔で答える。

「内鍵は別に取りつけてある」

「そ、そうですか……」

 あからさまに落ち込む。どうせキスの上書きとか言って寝込みを襲うつもりなんだろ。

「さっきので勘弁してくれよ」

「じゃ、じゃあひとつだけ我が儘言ってもいいですか?」

「……なんだよ。言うだけ言ってみろ」

「も、もう一回、おでこに、ちゅっと、お願いします。ほっぺでもいいですよ。でも本当は唇がいいんですけど。あっ、なんなら首とか胸とかお腹とか! もうちょっと許されるなら――」

「わかった! わかったから!」

 エスカレートする前に止めないと。あれくらいで本当に梓の気が済むんならいいだろ。今度は人の目もないし、気は楽だ。

 そして俺は梓の前髪を払う。形のいい、綺麗なおでこ。どういう意味かはわからないが、つまりデコピンに適しているということだ。梓は嬉しそうに俺を見上げる。そんなに見るなって照れるから。こういうことを平気しようとしてくるお前ってやっぱすごいわ。梓は「早くー」と言いたげに鼻をふんすか鳴らす。そんなに期待されたらやりにくい。躊躇して梓の額から目を逸らす。「隙ありー!」と俺の唇めがけて飛び上がろうとした梓を「隙はない」と額の手で抑え込む。それに紛れてちゅっと、軽く額にキスをした。

「はい終了。帰るぞ」

「えっ。えええええっ!? 今ので!? 今ので終わり!? 梓全然わかんなかったです! 卑怯ですっ! もーいっかい! もーいっかい! もーいっかい!」

「なっ? やっぱり俺はお前のやることなんてわかってるだろ? それだけ一緒にいるってことだ」

「もっ……! ……………………ず、ずるいです。そんな言い方」

 そう言いながらも、梓は照れ笑いを浮かべて、定位置についた。左腕が、窮屈になる。

「さー帰ろうぜー」

 なんだかんだで殴られ損だった気がする。だけど梓の意外な過去を知ることになった。前に梓が小さい頃おとなしかったって聞いたときも想像できなかったけど、今回のことはいまだに嘘なんじゃないかって思ってる。

 何でも思い通りになるくらいのあらゆる力を持っている神宮寺梓。その梓に馬乗りになるお嬢様。世の中のことがわからなくなってくるよな。俺が垣間見たお金持ちの世界ってのも、ほんのごく一部にすぎないんだ。これから、シンシアさんは何をするつもりなんだろう。何を起こすつもりなんだろうか。ほんの数分で嵐を巻き起こして行ったお嬢様のことが、少しだけ怖かった。

 梓も心配だと言った。一番不安なのは梓なんだろう。梓が困ることがあるのなら、少しくらい気を楽にさせてやりたいとは思う。だからって、金も力もない俺にできることは限られてる。おでこにキスとか、そんなもんでもいいさ。俺じゃなきゃできないことだし。こうやって腕を組んで、梓の居場所を提供してやることだってな。

「先輩は、梓のことでわかってないことがたくさんありますよ」

「んー、そうか?」

「梓はどこが感じるとか、梓の汗の味とか、梓のあんなとこの匂いとか」

「知りたくもないわっ!」

 梓は悪戯っぽく「にしし」と笑う。

「梓がどれだけ先輩のこと好きか、とかもですよ?」

 知りたくも、ないことないかもな。

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