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最後の競作を捨てたら、宿敵が勝利品として指輪を出してきました

作者: 七尾 いと
掲載日:2026/08/28

焼成枠は残り3回。明後日の午後九時、三回目の焼成終了と同時に共有工房は閉鎖され、トールビョルンの王都行き馬車が出る。


窯は平熱、親方は沸騰、宿敵は腹が立つほど適温だった。


「それ、主窯の正面から退けろ」


「嫌です。先に置いたのは私です」


ヴィーヴェカは吹き上げた青い花器を抱え、主窯前から動かなかった。向かいではトールビョルンが透明な大皿を両手で支えている。王都で王家御用職人になった男が、最後の競作のためだけに戻ってきた——ように見えるのが、なお腹立たしい。


最後の競作は、残る三回の焼成を分け合い、最終作で勝敗を決める約束だった。


ヴィーヴェカの足元には色見本が六枚。調色を確かめる試焼きに一回、最終作に一回。トールビョルンも大皿の検分と最終作に二回欲しい。


合計四回。残り三回。


計算が合わないのは窯のせいではない。宿敵がいるせいだ。


「王家御用なら譲る余裕くらいあるでしょう」


「地元代表なら土地の広さで我慢しろ」


「窯へ入らない広さに何の価値が?」


「お前の減らず口を保管できる」


「ではあなたから詰めます。細長いので隙間に入りそう」


炉前にいた職人たちが顔を伏せた。笑うなら堂々と笑えばいい。採点表に入れてやる。一人につき減点二。


客を案内していたヤロミールだけが、歯を見せて笑った。


「我が工房の家族は、閉鎖の瞬間まで切磋琢磨しております」


家族。


その家族の人数を問われると、ヤロミールは吹き手と切り手と磨き手を数え、磨き子のボーディルを飛ばした。


ボーディルは彼の後ろで、刃の残った失敗作を素手で抱えていた。掌に巻いた布が赤黒く固まり、欠けた縁へ引っかかっている。


「磨き。早く運べ」


名前ではなく作業名で呼ばれ、小さな肩が跳ねた。


ヴィーヴェカが器へ手を伸ばすより早く、ヤロミールは客を連れて行った。ボーディルも失敗作ごとその後を追う。歩数だけが家族らしく、ぴたりと揃っていた。実に美しい光景だ。窯へ放り込みたい。


一回目は約定どおり、トールビョルンの試作皿とヴィーヴェカの試作花器を並べて焼いた。


終了の鐘が鳴ると、二人は同時に主窯へ寄った。


「押すな」


「そちらこそ。肩幅で勝とうとしないで」


「勝てる場所で勝って何が悪い」


「職人として最低の発言!」


「まだ勝負の途中です」


閉鎖を告げる札が扉へ打ちつけられる音の中、ヴィーヴェカは大真面目に言った。


トールビョルンの口元が少し上がったので、とりあえず一勝とした。


    *    *    *


焼成枠は残り2回。


翌朝、トールビョルンの失敗作が走ってきた。


正確には、白濁した杯を胸へ抱えたボーディルが走ってきた。トールビョルンではない。あれが自分で走ってきたら怪談である。


ボーディルはヴィーヴェカの背へ滑り込み、その外套を二本の指でつまんだ。杯の欠けた口が手首へ触れ、布の下から新しい赤がにじむ。


「どうしたの」


返事はない。


杯の底を爪で、こつ、こつ、と二度叩く。


ヴィーヴェカは腰を落として杯を見た。底から口へ伸びた細い傷が、磨かれた箇所だけ不自然に広がっている。失敗した吹き方の傷ではない。刃の残った研磨具を押し当て、割れるまで削った傷だ。


トールビョルンも隣へしゃがんだ。


「俺の失敗作か」


ボーディルが一度だけ頷く。


「お前が割ったことにされた?」


今度は頷かなかった。外套をつまむ指が、さらに奥へ隠れただけだ。


それで十分だった。


「検分する」


トールビョルンが杯を受け取ろうとすると、ボーディルは腕ごと引いた。杯を抱え直し、ヴィーヴェカの背から半歩も出ない。


宿敵、磨き子から信用なし。


貴重な敗北である。額へ書いて王都へ帰してやりたい。


だが、彼の失敗作が故意に壊された証拠を焼き直して確かめるなら、二回目の枠を使う。するとヴィーヴェカの色見本は入らない。


青の配合は最後まで絞れていない。この六枚を焼かなければ、最終作は勘で吹くしかない。勘とは、自信のない職人が運へ押しつける上品な呼び名である。


ヴィーヴェカは六枚の色見本へ指をかけた。


一枚抜く。


二枚目も抜く。


重ねた見本を両腕へ抱え、窯前からすべて外した。


「おい」


「色見本を抜きます」


「分かっている。なぜだ」


「場所を作るためです。あなたの杯を入れてください」


「競作は」


「私の皿も抜く。あなたの減らず口は場所を取らないから残す」


「色を外して勝てるのか」


勝てない。


ヴィーヴェカは見本を作業台へ置いた。指先が一枚の角を離さず、爪だけが白くなる。ああ、もう。離れなさい、私の指。見苦しい。未練は作品へ混ぜれば模様になるが、指へ残すとただの往生際だ。


一本ずつ開いた。


「あなたの失敗を見落としたまま勝っても、後で言い訳されますから」


「俺はしない」


「私がします。盛大に」


トールビョルンは杯を持ったまま、ヴィーヴェカの顔を見た。眉間へ寄っていた線がほどけ、代わりに奥歯が一度だけ噛み合う。


それからボーディルへ手のひらを見せ、杯を奪わず待った。


ボーディルが自分から置くまで、手の位置を動かさなかった。


二回目の焼成で傷は口まで走り、杯は二つに割れた。


自然な焼成割れなら、傷は熱の薄い側へ逃げる。これは磨いた線を正確になぞった。


鐘が鳴る。


トールビョルンは割れた片方を布へ包み、もう片方をボーディルの前へ置いた。


「お前のせいじゃない」


ボーディルの爪が、作業台を一度叩いた。


こつ。


今度は一回だった。


    *    *    *


「最後の枠はお前が使え」


「嫌です。あなたが使ってください」


前夜、二人の最終作は主窯前で肩を並べ、作った本人たちは譲り合いという名の殴り合いをしていた。


「色見本なしで吹く気か」


「あなたこそ、検分で欠点を見つけたでしょう。作り直さないと負けますよ」


「なら勝て」


「譲られて勝つほど落ちぶれていません」


「俺もだ」


「では一緒に負けます?」


「それはもっと嫌だ」


譲歩まで勝負にするな、と誰かが呟いた。正論は炉の熱へ溶けた。ここでは役に立たない。


ヴィーヴェカは自分の最終作へ背を向け、翌日の作業札を書き換えた。


自分の最終作。


片付け。


その二行を消す。


ボーディルを医務室へ出す。


親方の注文品を確認する。


書き直していると、作業台の下でかすかな音がした。ボーディルが空の食器を重ねている。夕食の鍋はとっくに下げられていた。


「食べてないの?」


「平気」


声は短く、喉の奥で擦れた。


袖口を直そうとした手首へ、布からはみ出した傷が何本もあった。掌だけではない。眠れないのだろう。炉脇で座っていても、扉が鳴るたび目を開ける。


ヴィーヴェカは書き直した作業札を握った。


「明日は先に医務室」


「注文品」


「その後」


「割れたら」


背後からヤロミールが答えた。


「損失はその磨き子へ負わせる。閉鎖後も払い終わるまで働かせる予定だ。最後の注文品まで割ったなら、私が連れていく」


客はいない。


だから家族という言葉もなかった。


ヤロミールはボーディルへ一歩詰め、声を低くするどころか、炉の向こうまで届くほど張った。


「食事代、寝床代、失敗品の材料代。給金で足りると思うなよ」


「給金名簿にボーディルの名はありませんでしたが」


ヴィーヴェカが言うと、ヤロミールの顎が上がった。


「だから借りが増えるんだ」


すばらしい計算である。払わない給金から費用を引けば、借金は永遠に減らない。火を入れずに利益だけ膨らむ。硝子職人をやめて詐欺師になれば大成しただろう。もうなっていた。


トールビョルンが割れた杯を作業台へ置いた。


ヤロミールの声が一段痩せた。


「失敗品を持ち出すな」


「俺の作品だ」


「工房で作ったものは工房の——」


「明日、最後の注文品を確認する」


トールビョルンはそれ以上言わなかった。


ヴィーヴェカも言わない。ボーディルの前で連れていく、連れていかせないと繰り返せば、夜じゅうその言葉を抱かせることになる。


代わりに空の食器を取り上げ、パンを二つ置いた。


ボーディルは一つを袖へ入れ、もう一つを半分に割った。


半分をヴィーヴェカへ、半分をトールビョルンへ差し出す。


「私は大人ですから、自分で食べられます」


「俺もだ」


ボーディルは二人を見比べ、パンを胸元へ戻した。


その判断だけは正しい。明日に備えて、全部食べなさい。


    *    *    *


焼成枠は残り1回。


ヴィーヴェカは自分の最終作を主窯前から持ち上げた。


青い花器は、色見本を焼けなかったせいで、光へ透かすと縁だけがわずかに濁っていた。それでも今までで一番薄く、指で弾けば高く澄んだ音がする。


勝てたかもしれない。


床へ置く。


両手を離す。


その横へ、トールビョルンの透明な大皿が下りた。


「なぜ外すの」


「お前だけ負けさせると、二十年うるさい」


「私の寿命を勝手に決めないで。五十年言います」


「なら外して正解だ」


「馬鹿では?」


「お前も外しただろう」


「私は正しい馬鹿です」


「最悪だな」


二人の最終作が床へ並んだ。


最後の競作から、競う作品が消えた。


ヴィーヴェカはヤロミールの注文品だった大鉢の破片を作業台へ広げた。宴席用の透明な鉢。口を大きく開き、底は薄く、縁には一筋だけ青を巻く。割れた箇所はボーディルの磨き傷から始まっている。


同じものを、最後の一枠で作り直す。


「俺が吹く」


「私が色を巻きます」


「色見本なしで?」


「黙って回して。温度が下がります」


「怖くなったか」


「あなたの腕が鈍るのが」


トールビョルンが吹き竿を持ち上げ、竿先を炉の中心へ差し込む。膝を曲げ、肩を落とし、溶けた硝子を巻き取った。


赤く柔らかな塊が竿先へ絡む。


右手で竿を回す。左手を添える。回転を止めず、鉄板へ運ぶ。


ヴィーヴェカは彼の進路から半歩退き、代わりに火吹き竿を取った。先端を見据える。硝子が片側へ垂れる前に、トールビョルンの手首が返る。


「速い」


「褒めたか?」


「昨日よりは」


「昨日は作っていない」


「では一昨日より」


「便利な舌だな」


軽口を叩く間も、竿は止まらない。


ヴィーヴェカが鉄板の端から青い硝子を拾う。濃すぎれば底まで色が落ちる。薄すぎれば縁で消える。試焼きはしていない。頼れるのは、炉へ入る前の色と、冷えた後の色を頭の中で重ねた記憶だけ。


勘ではない。


記憶である。


言い張れば勝ちだ。


トールビョルンが息を入れた。頬が膨らみ、喉が動く。硝子の中心へ小さな空洞が生まれる。


一度、竿を回す。


もう一度、息を入れる。


膨らんだ塊の下へヴィーヴェカが濡らした木型を当てた。水が白く弾ける。彼の右足が前へ出るのと同時に、ヴィーヴェカは左へ回った。


肩が触れない距離。


肘がぶつからない角度。


徒弟の頃から何百回も喧嘩して、何百回も主窯を奪い合って、そのたび覚えた間合いだった。


「青を」


「今です」


細い色硝子を巻く。


トールビョルンが竿を水平に保つ。ヴィーヴェカは彼の手の上へ自分の手を重ねず、竿の先だけを押した。色の筋が一周する。二周目へ入る前に離す。


多すぎない。


足りなくもない。


たぶん。


「顔がひどい」


「集中しています」


「賭けに負けそうな顔だ」


「あなたの顔を見ているからです」


「見惚れたか」


「炉へ落としますよ」


ボーディルが壁際から、こつ、と椅子を叩いた。


ヴィーヴェカは口を閉じた。叱られた。八歳にもならない磨き子に。


鉢の底へ受け棒をつける。


トールビョルンが吹き竿の根元へ軽く傷を入れた。


ヴィーヴェカが受け棒を両手で支える。


水を一滴。


吹き竿を小さく叩く。


鉢が離れ、重みが丸ごとヴィーヴェカの腕へ移った。


熱が顔を打つ。


下がらない。右足を軸に半周し、鉢の口を炉へ向ける。トールビョルンが長い鋏を差し込み、狭い口を広げた。


一度開く。


回す。


もう一度開く。


硝子の縁が花のように波打ちかけ、ヴィーヴェカは受け棒を速く回した。遠心力で縁が外へ張る。トールビョルンの鋏が追う。開きすぎれば皿になる。遅ければ片側が落ちる。


「右」


「分かっています」


「下がっている」


「あなたの左が上がりすぎ!」


「俺のせいか」


「競作なら十点減点」


「もう捨てただろ」


「勝負を捨てた覚えはありません」


ヴィーヴェカは受け棒を腰へ引きつけた。


鉢の縁が一気に開く。


青い筋が、透明な円周の上を真っ直ぐ走った。


ボーディルが椅子から立った。指先が胸の前で止まり、目だけが鉢の回転を追っている。


トールビョルンはその顔を一度見た。


それからヴィーヴェカへ視線を戻した。


彼は求婚するために帰ってきた。


王都行きの馬車には三人分の席を取ってある。中央の席も、荷物ではなく人間一人分として料金を払った。指輪は上着の内側、左胸の小箱へ入っている。


徒弟だった頃、食事も寝床も失った彼へ、ヴィーヴェカは半分のパンと炉脇の長椅子を渡した。


今度は彼が席を用意する。


そのつもりで戻った。


ただし、ヴィーヴェカが何を窯へ入れるか決める前に、指輪も席も見せないと決めていた。彼女の最終作を地位や情で外させれば、その瞬間に彼の負けだ。競作で手を抜く男を、ヴィーヴェカは一生許さない。


一生という長さを、彼はかなり都合よく見積もっていた。


彼女は自分の作品を外した。


ボーディルの注文品を選んだ。


だからトールビョルンも自作を外した。


譲ったのではない。同じ炉を選んだだけだ。


鉢を徐冷へ送る直前、ヤロミールが炉前へ入ってきた。


「勝手に注文品へ触れるな!」


客へ向けていた笑顔はない。職人たちを家族と呼ぶ声もない。


彼は完成した鉢ではなく、壁際のボーディルへ真っ直ぐ手を伸ばした。


「磨き。来い」


ボーディルが下がる。


トールビョルンの失敗作を抱え、ヴィーヴェカの背へ逃げ込む。


ヴィーヴェカは受け棒を置いた。


右足を引く。


腰を返す。


ボーディルとヤロミールの間へ身体を滑り込ませ、両腕を左右へ広げた。


「退け」


「嫌です」


「お前には関係ない」


「この子が磨いた作品で勝負してきました。関係なら、あなたよりあります」


ヤロミールの腕が伸びる。


止める力はない。ヴィーヴェカが手首を掴んでも、引き剥がされる。だから掴まなかった。


ただ前へ出た。


腕が肩へ当たる。


靴底が床を滑る。


半歩押されても、もう一度前へ出た。


その横へトールビョルンが並んだ。


彼はヤロミールへ触れなかった。上着の内側から出したのは指輪ではなく、王家御用職人の印章だった。


金属の印面が炉の赤を跳ね返す。


ヤロミールの手だけが引っ込んだ。


「ボーディルは作品一覧にいない。給金名簿にも、集合肖像にもいない」


トールビョルンが印章を作業台へ置く。


「だが俺の杯を磨いた傷は、この子の手に残っている。工房名で売った鉢の研磨も同じだ。職人を消して作品だけ売る工房とは、王家御用の名で取引を打ち切る」


「待て。これは工房内の——」


「閉鎖後に回収される注文も、今ここで決まった」


扉際にいた閉鎖の立会人が手を出した。


ヤロミールは立会人を見た。印章を見た。炉前の職人たちを見た。


誰も目を伏せなかった。


彼の腰から主窯の鍵が外され、立会人の掌へ落ちた。


からん、と軽い音だった。


ヤロミールはまだ何か言っていたが、扉の外へ押し戻されると声まで細くなった。ボーディルへ届かない位置で、閉鎖後の精算と未払い給金を告げられている。


処分はそちらでやればいい。


こちらは腹と傷で忙しい。


ヴィーヴェカはボーディルを医務室へ連れていき、固まった布を湯で湿らせた。布が傷へ貼りついている。急いで剥がさず、端から水を含ませる。


ボーディルの指が震えるたび、トールビョルンが器へ湯を足した。


掌を洗う。


手首を洗う。


薬を塗り、清潔な布を巻く。


巻き終わった手は、もう失敗作を抱えなくていい。


食堂に残っていた粥を温めると、ボーディルは匙を握ろうとして包帯を見た。


「持てない?」


首を振る。


匙を右手から左手へ移し、ゆっくり口へ運ぶ。


一口。


もう一口。


三口目から速くなった。


ヴィーヴェカが鍋を覗くと、トールビョルンが先に残りをよそった。


「私も食べます」


「これはボーディルのだ」


「一口くらい」


「大人は自分で食べられるんだろ」


昨日の台詞を返された。覚えていたらしい。執念深い男だ。結婚相手には絶対お勧めしない。誰に向けた注意かは考えないことにする。


夕刻、完成した大鉢は割れずに窯から出た。


青い縁も消えていない。


ボーディルは包帯の指で鉢を二度叩いた。


こつ、こつ。


初めて、口元が少し持ち上がった。


注文品の完成も、親方の失墜も、そこで片づいた。


だが勝負は片づいていない。


ヴィーヴェカの最終作は床にある。トールビョルンの大皿も隣にある。どちらも焼かれず、どちらも負けていない。


そして午後九時が来た。


鐘が鳴る。


主窯の火が落ちる。


共有工房の扉が閉じる。


焼成枠は残り0回。


御者が手綱を鳴らした。


「九時。客三人、荷物四つ。出ます」


「待って!」


ヴィーヴェカが叫んだ時には、馬車の車輪が回り始めていた。


中央席にはボーディルが横になっている。温かい粥を腹へ入れ、包帯を巻いた手を胸に置き、揺れにも起きない。


その隣にトールビョルンがいる。


ヴィーヴェカはまだ道の上だ。


「ちょっと、止めて!」


「九時です」


御者は正確だった。恋心へ配慮して時計を遅らせるほど、世の中は腐っていない。


馬車の後部からトールビョルンが踏み板へ下りた。片手で手すりを掴み、もう片方の手を上着へ入れる。


走る馬車。


走るヴィーヴェカ。


揺れる宿敵。


何をしているの、この男は。危ない。非常に危ない。顔がいいまま転んだら腹が立つ。顔以外も困る。かなり困る。認めたくないくらい困る!


「ヴィーヴェカ」


彼が小箱を開けた。


指輪があった。


「俺と王都へ来い。結婚してくれ」


「待って。指輪を出すなら馬車を止めて」


「午後九時だ。止めたら俺が出発できない」


「では走りながら負けなさい!」


「求婚でどう負けるんだ!」


「返事を待っている時点で私が優勢です!」


ヴィーヴェカは並走した。


馬車の速度が上がる。石を一つ踏み、身体が外へ流れる。左腕を振って戻す。裾を片手で掴み、踏み板へ狙いを定める。


トールビョルンが手を伸ばした。


指輪を乗せた手だ。


ヴィーヴェカはその指輪をつまみ取った。


彼の手を掴む。


右足で地面を蹴る。


左足を踏み板へかける。


腕を引かれた勢いのまま腰を捻り、荷台へ飛び込んだ。背中が扉へ当たる寸前、トールビョルンの腕が回る。


二人まとめて座席へ倒れ込む。


ヴィーヴェカは彼の胸を押して起き上がり、指輪を自分の指へ通した。


それからボーディルを挟んだ反対側ではなく、トールビョルンの隣へ座った。


よし。


返事はした。


口ではしていない。そこが重要である。重要ったら重要だ。今さら「はい」などと言えば負けた感じがするではないか!


トールビョルンが指輪のはまった手を持ち上げた。


「俺の勝ちだな」


「なぜです?」


「求婚が成功した」


「これは勝利品として受け取っただけです」


「誰の勝利品だ」


「私の」


「俺が用意した」


「最後の競作を捨てたのは同点。先に求婚したあなたは、返事を待った分だけ減点です」


「意味が分からない」


「分からない方が負けです」


「では指輪を返せ」


ヴィーヴェカは指輪の手を胸へ抱え込んだ。


「一度渡した勝利品を取り返すのは規則違反です」


「いつ規則ができた」


「今」


「最低だな」


「結婚しても勝負は続けます」


言ってから、ヴィーヴェカは口を閉じた。


トールビョルンも止まった。


車輪だけが、がらがらと夜道を進む。


彼の目が細くなる。笑う寸前の顔だ。まずい。今のは、かなり、決定的な——。


中央席から、包帯の手が持ち上がった。


ボーディルが片目だけ開けている。


「まだ勝負してるの」


「しています」


「俺は勝った」


「私です!」


御者が前を向いたまま言った。


「指輪は手荷物一個へ数えません」


「では勝利品です」


「結婚指輪だ」


「まだ決まっていません!」


「指にはめたまま言うな!」


馬車は速度を上げた。


ヴィーヴェカは指輪を返さなかった。

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