最後の競作を捨てたら、宿敵が勝利品として指輪を出してきました
焼成枠は残り3回。明後日の午後九時、三回目の焼成終了と同時に共有工房は閉鎖され、トールビョルンの王都行き馬車が出る。
窯は平熱、親方は沸騰、宿敵は腹が立つほど適温だった。
「それ、主窯の正面から退けろ」
「嫌です。先に置いたのは私です」
ヴィーヴェカは吹き上げた青い花器を抱え、主窯前から動かなかった。向かいではトールビョルンが透明な大皿を両手で支えている。王都で王家御用職人になった男が、最後の競作のためだけに戻ってきた——ように見えるのが、なお腹立たしい。
最後の競作は、残る三回の焼成を分け合い、最終作で勝敗を決める約束だった。
ヴィーヴェカの足元には色見本が六枚。調色を確かめる試焼きに一回、最終作に一回。トールビョルンも大皿の検分と最終作に二回欲しい。
合計四回。残り三回。
計算が合わないのは窯のせいではない。宿敵がいるせいだ。
「王家御用なら譲る余裕くらいあるでしょう」
「地元代表なら土地の広さで我慢しろ」
「窯へ入らない広さに何の価値が?」
「お前の減らず口を保管できる」
「ではあなたから詰めます。細長いので隙間に入りそう」
炉前にいた職人たちが顔を伏せた。笑うなら堂々と笑えばいい。採点表に入れてやる。一人につき減点二。
客を案内していたヤロミールだけが、歯を見せて笑った。
「我が工房の家族は、閉鎖の瞬間まで切磋琢磨しております」
家族。
その家族の人数を問われると、ヤロミールは吹き手と切り手と磨き手を数え、磨き子のボーディルを飛ばした。
ボーディルは彼の後ろで、刃の残った失敗作を素手で抱えていた。掌に巻いた布が赤黒く固まり、欠けた縁へ引っかかっている。
「磨き。早く運べ」
名前ではなく作業名で呼ばれ、小さな肩が跳ねた。
ヴィーヴェカが器へ手を伸ばすより早く、ヤロミールは客を連れて行った。ボーディルも失敗作ごとその後を追う。歩数だけが家族らしく、ぴたりと揃っていた。実に美しい光景だ。窯へ放り込みたい。
一回目は約定どおり、トールビョルンの試作皿とヴィーヴェカの試作花器を並べて焼いた。
終了の鐘が鳴ると、二人は同時に主窯へ寄った。
「押すな」
「そちらこそ。肩幅で勝とうとしないで」
「勝てる場所で勝って何が悪い」
「職人として最低の発言!」
「まだ勝負の途中です」
閉鎖を告げる札が扉へ打ちつけられる音の中、ヴィーヴェカは大真面目に言った。
トールビョルンの口元が少し上がったので、とりあえず一勝とした。
* * *
焼成枠は残り2回。
翌朝、トールビョルンの失敗作が走ってきた。
正確には、白濁した杯を胸へ抱えたボーディルが走ってきた。トールビョルンではない。あれが自分で走ってきたら怪談である。
ボーディルはヴィーヴェカの背へ滑り込み、その外套を二本の指でつまんだ。杯の欠けた口が手首へ触れ、布の下から新しい赤がにじむ。
「どうしたの」
返事はない。
杯の底を爪で、こつ、こつ、と二度叩く。
ヴィーヴェカは腰を落として杯を見た。底から口へ伸びた細い傷が、磨かれた箇所だけ不自然に広がっている。失敗した吹き方の傷ではない。刃の残った研磨具を押し当て、割れるまで削った傷だ。
トールビョルンも隣へしゃがんだ。
「俺の失敗作か」
ボーディルが一度だけ頷く。
「お前が割ったことにされた?」
今度は頷かなかった。外套をつまむ指が、さらに奥へ隠れただけだ。
それで十分だった。
「検分する」
トールビョルンが杯を受け取ろうとすると、ボーディルは腕ごと引いた。杯を抱え直し、ヴィーヴェカの背から半歩も出ない。
宿敵、磨き子から信用なし。
貴重な敗北である。額へ書いて王都へ帰してやりたい。
だが、彼の失敗作が故意に壊された証拠を焼き直して確かめるなら、二回目の枠を使う。するとヴィーヴェカの色見本は入らない。
青の配合は最後まで絞れていない。この六枚を焼かなければ、最終作は勘で吹くしかない。勘とは、自信のない職人が運へ押しつける上品な呼び名である。
ヴィーヴェカは六枚の色見本へ指をかけた。
一枚抜く。
二枚目も抜く。
重ねた見本を両腕へ抱え、窯前からすべて外した。
「おい」
「色見本を抜きます」
「分かっている。なぜだ」
「場所を作るためです。あなたの杯を入れてください」
「競作は」
「私の皿も抜く。あなたの減らず口は場所を取らないから残す」
「色を外して勝てるのか」
勝てない。
ヴィーヴェカは見本を作業台へ置いた。指先が一枚の角を離さず、爪だけが白くなる。ああ、もう。離れなさい、私の指。見苦しい。未練は作品へ混ぜれば模様になるが、指へ残すとただの往生際だ。
一本ずつ開いた。
「あなたの失敗を見落としたまま勝っても、後で言い訳されますから」
「俺はしない」
「私がします。盛大に」
トールビョルンは杯を持ったまま、ヴィーヴェカの顔を見た。眉間へ寄っていた線がほどけ、代わりに奥歯が一度だけ噛み合う。
それからボーディルへ手のひらを見せ、杯を奪わず待った。
ボーディルが自分から置くまで、手の位置を動かさなかった。
二回目の焼成で傷は口まで走り、杯は二つに割れた。
自然な焼成割れなら、傷は熱の薄い側へ逃げる。これは磨いた線を正確になぞった。
鐘が鳴る。
トールビョルンは割れた片方を布へ包み、もう片方をボーディルの前へ置いた。
「お前のせいじゃない」
ボーディルの爪が、作業台を一度叩いた。
こつ。
今度は一回だった。
* * *
「最後の枠はお前が使え」
「嫌です。あなたが使ってください」
前夜、二人の最終作は主窯前で肩を並べ、作った本人たちは譲り合いという名の殴り合いをしていた。
「色見本なしで吹く気か」
「あなたこそ、検分で欠点を見つけたでしょう。作り直さないと負けますよ」
「なら勝て」
「譲られて勝つほど落ちぶれていません」
「俺もだ」
「では一緒に負けます?」
「それはもっと嫌だ」
譲歩まで勝負にするな、と誰かが呟いた。正論は炉の熱へ溶けた。ここでは役に立たない。
ヴィーヴェカは自分の最終作へ背を向け、翌日の作業札を書き換えた。
自分の最終作。
片付け。
その二行を消す。
ボーディルを医務室へ出す。
親方の注文品を確認する。
書き直していると、作業台の下でかすかな音がした。ボーディルが空の食器を重ねている。夕食の鍋はとっくに下げられていた。
「食べてないの?」
「平気」
声は短く、喉の奥で擦れた。
袖口を直そうとした手首へ、布からはみ出した傷が何本もあった。掌だけではない。眠れないのだろう。炉脇で座っていても、扉が鳴るたび目を開ける。
ヴィーヴェカは書き直した作業札を握った。
「明日は先に医務室」
「注文品」
「その後」
「割れたら」
背後からヤロミールが答えた。
「損失はその磨き子へ負わせる。閉鎖後も払い終わるまで働かせる予定だ。最後の注文品まで割ったなら、私が連れていく」
客はいない。
だから家族という言葉もなかった。
ヤロミールはボーディルへ一歩詰め、声を低くするどころか、炉の向こうまで届くほど張った。
「食事代、寝床代、失敗品の材料代。給金で足りると思うなよ」
「給金名簿にボーディルの名はありませんでしたが」
ヴィーヴェカが言うと、ヤロミールの顎が上がった。
「だから借りが増えるんだ」
すばらしい計算である。払わない給金から費用を引けば、借金は永遠に減らない。火を入れずに利益だけ膨らむ。硝子職人をやめて詐欺師になれば大成しただろう。もうなっていた。
トールビョルンが割れた杯を作業台へ置いた。
ヤロミールの声が一段痩せた。
「失敗品を持ち出すな」
「俺の作品だ」
「工房で作ったものは工房の——」
「明日、最後の注文品を確認する」
トールビョルンはそれ以上言わなかった。
ヴィーヴェカも言わない。ボーディルの前で連れていく、連れていかせないと繰り返せば、夜じゅうその言葉を抱かせることになる。
代わりに空の食器を取り上げ、パンを二つ置いた。
ボーディルは一つを袖へ入れ、もう一つを半分に割った。
半分をヴィーヴェカへ、半分をトールビョルンへ差し出す。
「私は大人ですから、自分で食べられます」
「俺もだ」
ボーディルは二人を見比べ、パンを胸元へ戻した。
その判断だけは正しい。明日に備えて、全部食べなさい。
* * *
焼成枠は残り1回。
ヴィーヴェカは自分の最終作を主窯前から持ち上げた。
青い花器は、色見本を焼けなかったせいで、光へ透かすと縁だけがわずかに濁っていた。それでも今までで一番薄く、指で弾けば高く澄んだ音がする。
勝てたかもしれない。
床へ置く。
両手を離す。
その横へ、トールビョルンの透明な大皿が下りた。
「なぜ外すの」
「お前だけ負けさせると、二十年うるさい」
「私の寿命を勝手に決めないで。五十年言います」
「なら外して正解だ」
「馬鹿では?」
「お前も外しただろう」
「私は正しい馬鹿です」
「最悪だな」
二人の最終作が床へ並んだ。
最後の競作から、競う作品が消えた。
ヴィーヴェカはヤロミールの注文品だった大鉢の破片を作業台へ広げた。宴席用の透明な鉢。口を大きく開き、底は薄く、縁には一筋だけ青を巻く。割れた箇所はボーディルの磨き傷から始まっている。
同じものを、最後の一枠で作り直す。
「俺が吹く」
「私が色を巻きます」
「色見本なしで?」
「黙って回して。温度が下がります」
「怖くなったか」
「あなたの腕が鈍るのが」
トールビョルンが吹き竿を持ち上げ、竿先を炉の中心へ差し込む。膝を曲げ、肩を落とし、溶けた硝子を巻き取った。
赤く柔らかな塊が竿先へ絡む。
右手で竿を回す。左手を添える。回転を止めず、鉄板へ運ぶ。
ヴィーヴェカは彼の進路から半歩退き、代わりに火吹き竿を取った。先端を見据える。硝子が片側へ垂れる前に、トールビョルンの手首が返る。
「速い」
「褒めたか?」
「昨日よりは」
「昨日は作っていない」
「では一昨日より」
「便利な舌だな」
軽口を叩く間も、竿は止まらない。
ヴィーヴェカが鉄板の端から青い硝子を拾う。濃すぎれば底まで色が落ちる。薄すぎれば縁で消える。試焼きはしていない。頼れるのは、炉へ入る前の色と、冷えた後の色を頭の中で重ねた記憶だけ。
勘ではない。
記憶である。
言い張れば勝ちだ。
トールビョルンが息を入れた。頬が膨らみ、喉が動く。硝子の中心へ小さな空洞が生まれる。
一度、竿を回す。
もう一度、息を入れる。
膨らんだ塊の下へヴィーヴェカが濡らした木型を当てた。水が白く弾ける。彼の右足が前へ出るのと同時に、ヴィーヴェカは左へ回った。
肩が触れない距離。
肘がぶつからない角度。
徒弟の頃から何百回も喧嘩して、何百回も主窯を奪い合って、そのたび覚えた間合いだった。
「青を」
「今です」
細い色硝子を巻く。
トールビョルンが竿を水平に保つ。ヴィーヴェカは彼の手の上へ自分の手を重ねず、竿の先だけを押した。色の筋が一周する。二周目へ入る前に離す。
多すぎない。
足りなくもない。
たぶん。
「顔がひどい」
「集中しています」
「賭けに負けそうな顔だ」
「あなたの顔を見ているからです」
「見惚れたか」
「炉へ落としますよ」
ボーディルが壁際から、こつ、と椅子を叩いた。
ヴィーヴェカは口を閉じた。叱られた。八歳にもならない磨き子に。
鉢の底へ受け棒をつける。
トールビョルンが吹き竿の根元へ軽く傷を入れた。
ヴィーヴェカが受け棒を両手で支える。
水を一滴。
吹き竿を小さく叩く。
鉢が離れ、重みが丸ごとヴィーヴェカの腕へ移った。
熱が顔を打つ。
下がらない。右足を軸に半周し、鉢の口を炉へ向ける。トールビョルンが長い鋏を差し込み、狭い口を広げた。
一度開く。
回す。
もう一度開く。
硝子の縁が花のように波打ちかけ、ヴィーヴェカは受け棒を速く回した。遠心力で縁が外へ張る。トールビョルンの鋏が追う。開きすぎれば皿になる。遅ければ片側が落ちる。
「右」
「分かっています」
「下がっている」
「あなたの左が上がりすぎ!」
「俺のせいか」
「競作なら十点減点」
「もう捨てただろ」
「勝負を捨てた覚えはありません」
ヴィーヴェカは受け棒を腰へ引きつけた。
鉢の縁が一気に開く。
青い筋が、透明な円周の上を真っ直ぐ走った。
ボーディルが椅子から立った。指先が胸の前で止まり、目だけが鉢の回転を追っている。
トールビョルンはその顔を一度見た。
それからヴィーヴェカへ視線を戻した。
彼は求婚するために帰ってきた。
王都行きの馬車には三人分の席を取ってある。中央の席も、荷物ではなく人間一人分として料金を払った。指輪は上着の内側、左胸の小箱へ入っている。
徒弟だった頃、食事も寝床も失った彼へ、ヴィーヴェカは半分のパンと炉脇の長椅子を渡した。
今度は彼が席を用意する。
そのつもりで戻った。
ただし、ヴィーヴェカが何を窯へ入れるか決める前に、指輪も席も見せないと決めていた。彼女の最終作を地位や情で外させれば、その瞬間に彼の負けだ。競作で手を抜く男を、ヴィーヴェカは一生許さない。
一生という長さを、彼はかなり都合よく見積もっていた。
彼女は自分の作品を外した。
ボーディルの注文品を選んだ。
だからトールビョルンも自作を外した。
譲ったのではない。同じ炉を選んだだけだ。
鉢を徐冷へ送る直前、ヤロミールが炉前へ入ってきた。
「勝手に注文品へ触れるな!」
客へ向けていた笑顔はない。職人たちを家族と呼ぶ声もない。
彼は完成した鉢ではなく、壁際のボーディルへ真っ直ぐ手を伸ばした。
「磨き。来い」
ボーディルが下がる。
トールビョルンの失敗作を抱え、ヴィーヴェカの背へ逃げ込む。
ヴィーヴェカは受け棒を置いた。
右足を引く。
腰を返す。
ボーディルとヤロミールの間へ身体を滑り込ませ、両腕を左右へ広げた。
「退け」
「嫌です」
「お前には関係ない」
「この子が磨いた作品で勝負してきました。関係なら、あなたよりあります」
ヤロミールの腕が伸びる。
止める力はない。ヴィーヴェカが手首を掴んでも、引き剥がされる。だから掴まなかった。
ただ前へ出た。
腕が肩へ当たる。
靴底が床を滑る。
半歩押されても、もう一度前へ出た。
その横へトールビョルンが並んだ。
彼はヤロミールへ触れなかった。上着の内側から出したのは指輪ではなく、王家御用職人の印章だった。
金属の印面が炉の赤を跳ね返す。
ヤロミールの手だけが引っ込んだ。
「ボーディルは作品一覧にいない。給金名簿にも、集合肖像にもいない」
トールビョルンが印章を作業台へ置く。
「だが俺の杯を磨いた傷は、この子の手に残っている。工房名で売った鉢の研磨も同じだ。職人を消して作品だけ売る工房とは、王家御用の名で取引を打ち切る」
「待て。これは工房内の——」
「閉鎖後に回収される注文も、今ここで決まった」
扉際にいた閉鎖の立会人が手を出した。
ヤロミールは立会人を見た。印章を見た。炉前の職人たちを見た。
誰も目を伏せなかった。
彼の腰から主窯の鍵が外され、立会人の掌へ落ちた。
からん、と軽い音だった。
ヤロミールはまだ何か言っていたが、扉の外へ押し戻されると声まで細くなった。ボーディルへ届かない位置で、閉鎖後の精算と未払い給金を告げられている。
処分はそちらでやればいい。
こちらは腹と傷で忙しい。
ヴィーヴェカはボーディルを医務室へ連れていき、固まった布を湯で湿らせた。布が傷へ貼りついている。急いで剥がさず、端から水を含ませる。
ボーディルの指が震えるたび、トールビョルンが器へ湯を足した。
掌を洗う。
手首を洗う。
薬を塗り、清潔な布を巻く。
巻き終わった手は、もう失敗作を抱えなくていい。
食堂に残っていた粥を温めると、ボーディルは匙を握ろうとして包帯を見た。
「持てない?」
首を振る。
匙を右手から左手へ移し、ゆっくり口へ運ぶ。
一口。
もう一口。
三口目から速くなった。
ヴィーヴェカが鍋を覗くと、トールビョルンが先に残りをよそった。
「私も食べます」
「これはボーディルのだ」
「一口くらい」
「大人は自分で食べられるんだろ」
昨日の台詞を返された。覚えていたらしい。執念深い男だ。結婚相手には絶対お勧めしない。誰に向けた注意かは考えないことにする。
夕刻、完成した大鉢は割れずに窯から出た。
青い縁も消えていない。
ボーディルは包帯の指で鉢を二度叩いた。
こつ、こつ。
初めて、口元が少し持ち上がった。
注文品の完成も、親方の失墜も、そこで片づいた。
だが勝負は片づいていない。
ヴィーヴェカの最終作は床にある。トールビョルンの大皿も隣にある。どちらも焼かれず、どちらも負けていない。
そして午後九時が来た。
鐘が鳴る。
主窯の火が落ちる。
共有工房の扉が閉じる。
焼成枠は残り0回。
御者が手綱を鳴らした。
「九時。客三人、荷物四つ。出ます」
「待って!」
ヴィーヴェカが叫んだ時には、馬車の車輪が回り始めていた。
中央席にはボーディルが横になっている。温かい粥を腹へ入れ、包帯を巻いた手を胸に置き、揺れにも起きない。
その隣にトールビョルンがいる。
ヴィーヴェカはまだ道の上だ。
「ちょっと、止めて!」
「九時です」
御者は正確だった。恋心へ配慮して時計を遅らせるほど、世の中は腐っていない。
馬車の後部からトールビョルンが踏み板へ下りた。片手で手すりを掴み、もう片方の手を上着へ入れる。
走る馬車。
走るヴィーヴェカ。
揺れる宿敵。
何をしているの、この男は。危ない。非常に危ない。顔がいいまま転んだら腹が立つ。顔以外も困る。かなり困る。認めたくないくらい困る!
「ヴィーヴェカ」
彼が小箱を開けた。
指輪があった。
「俺と王都へ来い。結婚してくれ」
「待って。指輪を出すなら馬車を止めて」
「午後九時だ。止めたら俺が出発できない」
「では走りながら負けなさい!」
「求婚でどう負けるんだ!」
「返事を待っている時点で私が優勢です!」
ヴィーヴェカは並走した。
馬車の速度が上がる。石を一つ踏み、身体が外へ流れる。左腕を振って戻す。裾を片手で掴み、踏み板へ狙いを定める。
トールビョルンが手を伸ばした。
指輪を乗せた手だ。
ヴィーヴェカはその指輪をつまみ取った。
彼の手を掴む。
右足で地面を蹴る。
左足を踏み板へかける。
腕を引かれた勢いのまま腰を捻り、荷台へ飛び込んだ。背中が扉へ当たる寸前、トールビョルンの腕が回る。
二人まとめて座席へ倒れ込む。
ヴィーヴェカは彼の胸を押して起き上がり、指輪を自分の指へ通した。
それからボーディルを挟んだ反対側ではなく、トールビョルンの隣へ座った。
よし。
返事はした。
口ではしていない。そこが重要である。重要ったら重要だ。今さら「はい」などと言えば負けた感じがするではないか!
トールビョルンが指輪のはまった手を持ち上げた。
「俺の勝ちだな」
「なぜです?」
「求婚が成功した」
「これは勝利品として受け取っただけです」
「誰の勝利品だ」
「私の」
「俺が用意した」
「最後の競作を捨てたのは同点。先に求婚したあなたは、返事を待った分だけ減点です」
「意味が分からない」
「分からない方が負けです」
「では指輪を返せ」
ヴィーヴェカは指輪の手を胸へ抱え込んだ。
「一度渡した勝利品を取り返すのは規則違反です」
「いつ規則ができた」
「今」
「最低だな」
「結婚しても勝負は続けます」
言ってから、ヴィーヴェカは口を閉じた。
トールビョルンも止まった。
車輪だけが、がらがらと夜道を進む。
彼の目が細くなる。笑う寸前の顔だ。まずい。今のは、かなり、決定的な——。
中央席から、包帯の手が持ち上がった。
ボーディルが片目だけ開けている。
「まだ勝負してるの」
「しています」
「俺は勝った」
「私です!」
御者が前を向いたまま言った。
「指輪は手荷物一個へ数えません」
「では勝利品です」
「結婚指輪だ」
「まだ決まっていません!」
「指にはめたまま言うな!」
馬車は速度を上げた。
ヴィーヴェカは指輪を返さなかった。




