第12話 健気で努力家な弟⑪
――それから、数ヶ月。
屋敷の空気は、少しだけ静かになった。
あれほど騒がしかった日々が嘘のように、淡々と時間だけが流れていく。
エドガーも、レイナも、もうこの屋敷にはいない。
だが、完全に消えたわけではなかった。むしろ問題は、その“残り方”だった。
エドガー・アルヴェルト。
後継候補からの剥奪に加え、過去の業務記録と帳簿の整合性不一致が公的に指摘されたことで、彼の評価は一気に崩れた。
"優秀な養子"という前提そのものが、巧妙に塗り固められた虚飾であったと全否定されたのだ。
本当の彼は、私などが手を貸さずとも十分に優秀だったというのに。
結果として後見権は解除され、社交界での紹介も取り下げられた。
さらに追い打ちとして、彼が日常的に示していた判断の偏りや、私に対する態度から、対人認識の不安定さが問題視され――。
“実務適性に重大な欠陥がある人物”という記録が残された。
公式な身分証書に刻まれたその記録は、単なる能力不足の証明ではない。貴族社会において"他者との意思疎通が不可能な、管理されるべき存在"という烙印に等しかった。
今は地方の管理領で、名目上は"保護観察"という扱いになっていると聞く。だがそれは優しさではない。一人では何もできず、どこへ行くことも許されない、出口のない監禁に近い生活だ。
そしてもう一人。レイナ・アルヴェルト。
彼女の件はさらに深刻だった。
横領そのものも問題だったが、本質はその規模ではなく“構造”にあった。
後継候補を使った資金操作と、帳簿体系そのものの改ざん。それは単なる私欲による不正ではなく、公爵家の財務という心臓部を、主である父以外の意志で動かしていたに等しい"叛逆"だった。
その結果、アルヴェルト家の内部監査は全面的にやり直しとなり、一部の対外信用は凍結された。
そして彼女自身は――公の記録から、その名が完全に消えた。
処罰の詳細も、現在どこにいるのかも一切明示されていない。ただ一つ確かなのは、貴族社会において“名前が残らない”というのは、存在そのものを無に帰す、最も重い制裁の一つだということだ。
誰の記憶からも、記録からも、最初から存在していなかったことにされる。それが彼女に下された、あまりに冷酷な結末だった。
そして私はというと、特に何かが変わったわけでもない。
変わらない日常。変わらない朝。ただ少しだけ、屋敷の静寂が深くなっただけだ。
(……こんなものだったかな)
紅茶を口にしながら、ぼんやりと思う。
あれほど大きく動いたはずの出来事が、今となっては遠い出来事のように感じられる。自分の手で引き起こしたはずなのに、どこか現実味が薄い。
まるで、ゲームのイベントを一つ見終えたかのような、奇妙に冷めた感覚。
知ってしまったからだろうか。この世界が、“乙女ゲーム『聖銀のレガリア』”という物語であることを。
(……だめね)
小さく息を吐く。
考えていても仕方がない。少なくとも、彼らが不正をしていたのは紛れもない事実なのだから。私はただ、それを表に出すきっかけを作ったに過ぎない。
けれど、私がその"きっかけ"さえ作らなければ、彼は学園で魔法の才能を開花させ、いつか正当な後継者として認められる道もあっただろう。彼の未来を、私が奪った事実は変わらない。
◇
「リリアーナ様」
扉がノックされる。
「リネットです」
「入って」
静かに入ってきた彼女は、以前と変わらない落ち着いた所作のまま頭を下げた。
リネットは、正式に私の専属侍女として配置されていた。
トレイの上の紅茶が、ほんのりと湯気を立てている。淡い茶色の液体の色が、どこか今の、割り切れない気分の色に似ていると思った。
「……大丈夫ですか? よろしければ庭の散歩でも。今日は天気が良くて気持ちが良いですよ」
ここ数ヶ月、どこか空虚な表情を見せることが増えた私の様子を、彼女なりに気にしてくれているのだろう。
かつての私の周りには、こんなふうに穏やかに、私の心に寄り添う声をかけてくれる人はいなかった。
(私を思ってくれる人のためにも……いい加減、切り替えないと)
◇
季節がひとつ、ゆっくりと過ぎていく。
そして気がつけば、入学の日はもう目前に迫っていた。
――王立ヴィスカディア魔導学園。
乙女ゲーム『聖銀のレガリア』の、本編が動き出す場所。
ここで聖女としての才能を見出されたヒロインと、攻略対象が学び、能力を上げ、関係を深めていく。そして、悪役令嬢である私が、彼らに断罪される場所でもある。
(次は、そこね)
静かに紅茶を置く。
考えるべきことは、まだ山ほどある。
予定されていた破滅の運命を変えるために。
終わってしまった過去のことではなく、これから起こることのために。
――次の舞台が、始まる。
エドガー編、ここまでお読みいただきありがとうございました。
次回から、学園編スタートです。




