第9話 守られる役は、楽ではない
セレフィーナが王都を離れてから、ミレイアは人の視線の重さが変わったことを、はっきりと感じていた。
学園の回廊を歩けば、誰かが会話を切る。振り向けば、ちょうど今こちらを見ていたのだとわかる程度に目が合う。けれどすぐに逸らされるから、責めることもできない。
前から見られていなかったわけではない。
平民出身の編入生。王子に声をかけられる少女。それだけで、学園の中では十分に目立つ理由になった。
でも、以前の視線はまだわかりやすかった。ただ珍しいものを見る目だったり、少し気の毒そうにしたり、遠巻きに面白がったりする程度のものだった。
今は違う。
皆、何かの続きとしてミレイアを見ている。
しかも、その続きがどういうものなのかを、自分だけが知らないような気がした。
「ミレイア様」
午前の授業のあと、同じ教室にいた令嬢が、やわらかく声をかけてきた。
「ご一緒にお庭へいかが? 今日は日差しがちょうどよろしいですわ」
「ありがとうございます。でも、その前に図書室へ少し……」
「あら、熱心ですこと」
その笑い方は優しい。優しいのに、どこか試されているようで、ミレイアはとっさにうまく笑えなかった。
「殿下も、そういうところをご覧になっているのかもしれませんわね」
さらりと添えられたその一言に、胸の内側がきゅっと縮む。
「わ、私はそんな」
「まあ、謙遜なさらないで」
「そうですわ。つらいことも多かったでしょうし、これからは少しくらい報われても」
別の令嬢まで会話に加わってくる。
誰も責めてはいない。意地悪でもない。むしろ励ましてくれているのだとわかる。わかるからこそ、苦しい。
何を返せば正しいのか、わからない。
否定すれば、控えめで健気だと思われる気がする。曖昧に笑えば、否定しきれないのだと受け取られそうだ。困った顔をすれば、ますます「守られるべき子」に見えてしまう。
「きっとおつらかったでしょう」
その言葉に、ミレイアは一瞬だけ言葉を失った。
つらくなかったわけではない。慣れない貴族の学園で、作法も空気もわからず、失敗しては恥ずかしくなった。自分の存在が場を乱しているように思えて、夜に何度も寝つけなかった。
でも、そのつらさは、今この人たちが思っているものとは少し違う。
ミレイアは小さく唇を結んだ。
「皆さまには、よくしていただいています」
そう答えると、令嬢たちは意味ありげに目を見交わした。
その目配せの意味がわからないわけではない。わからないふりをしているだけだ。
あなたはもう、可哀想なだけの子ではないでしょう。
そう言われている気がした。
図書室へ向かう途中も、ミレイアは落ち着かなかった。すれ違う教師の声が以前よりやさしすぎる。下級生たちは遠くから憧れのような目を向ける。王子付きの侍従が廊下の端で道を譲る、その丁寧さまで妙に重たい。
まるで、皆が何か大切なもののまわりを歩くみたいに、自分へ気を遣う。
そんなつもりはないのに。
そんなふうに扱われる理由も、まだよくわからないのに。
図書室の扉の前で、ミレイアは足を止めた。
そこでふと、セレフィーナの顔を思い出した。
きっちり整った立ち姿。少し冷たく見える目元。間違いを間違いとして、そのまま言葉にする声。
厳しい人だと思ったことはある。近寄りやすい人ではないとも思った。何を考えているのかわからなくて、勝手に怖くなったこともある。
でも、露骨にいじめられた覚えはなかった。
図書室の規則を教えられた時だって、確かに厳しかったけれど、怒鳴られたわけではない。茶会の席順の時も、自分をわざと隅へ追いやったというより、その場を整えるために動いたように見えた。
あの人のことを、好きだとはまだ言えない。
けれど、怖いほど悪い人だったかと問われれば、ミレイアにはどうしても首を縦に振れなかった。
だから今の空気に、うまく乗れない。
皆の言うとおりに、自分が長く傷つけられていた被害者のような顔をすれば楽なのかもしれない。ルシアンの優しさに寄りかかり、ようやく報われる少女として立てば、きっと周囲は美しく納得する。
でも、そんなふうには思えなかった。
それではまるで、自分まで知らない物語の続きを演じることになる気がした。
その日の午後、回廊でルシアンに声をかけられた時、ミレイアの胸はかえって重くなった。
「ミレイア」
呼ばれて振り向くと、ルシアンがこちらへ歩いてくる。整った顔立ちも、まっすぐな眼差しも、彼自身には何の偽りもないのだろうとわかる。だからこそ、なおさら苦しかった。
「殿下」
「顔色がよくないな。何かあったのか」
「いえ……」
本当は「少し疲れています」と言いたかった。けれど、その疲れの理由をうまく言えない。
誰もひどいことをしていないからだ。むしろ皆、親切だ。気遣ってくれている。だから苦しいと言いにくい。
「少し、皆さまのご様子が……」
「様子?」
「その……私が気にしすぎているだけかもしれません。でも、今日はどこへ行っても、何かを待たれているような気がして」
ルシアンは眉をひそめた。
何を言いたいのか、すぐには掴めないのだろう。ミレイア自身も、言葉にしきれてはいなかった。
「気にしすぎだろう」
口をついて出たのは、そんな言葉だった。
やさしい声だった。
責めているわけではない。ただ、安心させようとしてくれているのだとわかる。
それなのに、その言葉はミレイアの胸にうまく落ちなかった。
「……そう、かもしれません」
そんな返事しかできない。
ルシアンが近くに立つだけで、廊下の空気は少し変わる。通り過ぎる生徒たちが気にする。視線が集まる。意味が生まれる。
彼はただ心配してくれているだけなのに、その優しさまで何かの材料にされていく。
それが怖かった。
「何か言われたのなら」
「そういうわけではないのです」
「では」
「皆さま、お優しいのです。ですから、余計に……」
そこまで言って、ミレイアは言葉を切った。
うまく言えない。
優しさが重いなんて、どう言えば伝わるのだろう。
ルシアンはしばらく黙っていたが、結局、いつもより少しだけ慎重な口調で言った。
「……体調が悪いなら無理はするな」
「はい」
「何かあればすぐに言え」
「ありがとうございます」
礼は言った。感謝もしている。
それでも、彼が去ったあとに残ったのは安心ではなく、もっと説明しにくい息苦しさだった。
見ていてほしいわけではない。
見捨ててほしいわけでもない。
ただ、自分が誰かの代わりに中央へ押し上げられていくみたいで、怖いのだ。
夕方、部屋へ戻ったミレイアは、椅子に腰を下ろす前に窓辺へ寄った。
西日が長く床を照らしている。昼のあいだずっと向けられていた視線からようやく外れて、一人になったのだと、その時になって初めて気づいた。
肩が重い。
今日一日、ずっと背筋を伸ばして、正しい答えを探し続けていたような気がする。
けれど結局、ひとつも見つからなかった。
自分は誰かを押しのけて前へ出たかったわけではない。
殿下にやさしくされるのはありがたい。助けられたことも、一度や二度ではない。感謝している。それは嘘ではない。
でも、それで急に「報われるべき子」になれるわけではない。
セレフィーナがいなくなったからといって、自分がその場所へ収まるわけでもない。
なのに皆、その続きを期待している。
ミレイアは窓枠にそっと指を置いた。
セレフィーナがいなくなって、楽になった人ばかりではない。昨日の茶会で、それはもうはっきり見えてしまった。いないのに、いないことだけが濃くなる。そんなふうに人の輪郭が浮かび上がることがあるのだと、初めて知った。
では自分は何なのだろう。
守られる子。報われる子。選ばれる子。
周囲がそう呼ぶたび、自分が少しずつ自分ではなくなっていく気がする。
ミレイアは誰もいない部屋で、小さく息を吐いた。
「……私、そんな大事な人になったつもり、ないのに」
声に出してみると、それは情けないほど弱い言葉だった。
けれど、それが今の本音だった。
大事な人になりたかったわけではない。
誰かの代わりに祭り上げられたかったわけでもない。
ただ、うまくやりたかっただけなのに。
窓の外では、夕方の鐘が小さく鳴っていた。
その音を聞きながら、ミレイアはしばらく動けなかった。




