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悪役令嬢にされる予定でしたが、先に舞台から降ります。  作者: 星渡リン
第4部 第2章 非公開はいつも親切

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第89話 先に話しておきましょう

 例外適用申請書という名の、たいへん不親切な紙は、翌日の審議で早くも嫌われ始めていた。


 王都側の役人は、その写しを見るたびに目を細める。神殿側の使者は微笑みを崩さないが、指先だけは紙の中央へ触れようとしない。高位家の代理人は「実務上の負担が増えますな」と穏やかに言ったが、その声には、砂を噛んだような硬さが混じっていた。


 セレフィーナは、その反応を見て、少しだけ満足した。


 使う前から嫌がられる紙は、だいたいよく効く。


 常設化審議は、午前の議題を終え、短い休憩に入っていた。審議室の隣にある控えの間では、茶器の音が小さく鳴り、関係者たちがいくつかの輪に分かれている。


 そこで、柔らかな声が滑り込んできた。


「表へ出す前に、先に少し話しておきましょう」


 セレフィーナの指が、茶碗の取っ手に触れたまま止まった。


 声の主は、王都側の調整役を務める婦人だった。薄紫のドレス。控えめな笑み。声量まで礼儀正しい。隣には、地方神殿の若い助祭と、王都側の進行補佐がいる。


 話題は、次に予定されている小規模な奉仕茶会だった。


 地方神殿の付属慈善院を訪れ、王都と地方の若い令嬢たちが、茶会形式で奉仕と交流を行う。資料上は軽い案件として扱われている。試験運用にも向いている、と添え書きまでされていた。


「案内補助には、エリアナ様がよろしいのでは。柔らかい方ですし、子どもたちも安心しますわ」


「祝辞補助までは大げさでも、最初のお声がけくらいなら」


「正式な依頼ではありませんもの。ご家族のお考えを先に伺うだけですわ」


 短い言葉が、ひとつずつ置かれていく。


 案内補助。

 最初のお声がけ。

 ご家族のお考え。

 先に。


 軽い言葉ばかりなのに、床へ落ちるたび、音もなく積もっていく。


 窓辺にいたエリアナ・ベルク子爵令嬢が、ふとこちらを見た。


 大きすぎない家の令嬢で、控えめで、笑顔が柔らかい。誰かに話しかけられれば丁寧に頷き、場の空気を乱さない返事をする。


 婦人たちの視線が、細い糸のようにエリアナの周囲へ集まっていく。


 向いている。


 安心する。


 最初のお声がけくらいなら。


 誰も声を荒げていない。むしろ、慈悲深い顔をしている。その静けさの中で、エリアナの退路だけが少しずつ細くなっていく。


「いきなりご本人へ打診して、驚かせてしまってはお気の毒ですし」


「ええ。表で急にお名前が出るより、先に整えておく方が安心でしょう」


 エリアナが笑った。


 反射のような笑顔だった。


 けれど、唇が上がる直前、喉元が小さく動いた。息を飲み、顔へ笑みを貼りつけるまでの、ごくわずかな遅れ。薄い砂糖衣の下で、唇の端だけが強張っている。


 ミレイアの指が、控えの紙を握り込んだ。


 胃の奥が、冷たくなる。


 フィオナが鏡の前で笑おうとしていた時の、あの息苦しさがよみがえる。背中に載せられた見えない荷物を、落としてはいけないと思い込んだ人の顔。


 エリアナの背にも、まだ名前のない荷物が載り始めている。


「ご本人のためにも、先に周囲で整えておいた方がよろしいでしょう」


 地方神殿の助祭が、穏やかに言った。


 ミレイアの手が止まる。


 セレフィーナも資料から顔を上げた。


 本人のため。


 その言葉は、昨日から何度も聞いている。神殿儀礼でも、高位家案件でも、例外適用申請書へ赤を入れたばかりの場所でも。


 本人のためという言葉が出るたび、本人の椅子だけが空いている。


 ミレイアが一歩だけ前へ出た。


「そのお話は、エリアナ様ご本人には、もう届いているのですか」


 穏やかな輪が、そこで凍った。


 茶器の触れ合う音だけが、やけに大きく聞こえる。


 婦人は、少し驚いたように瞬きをした。だがすぐに、優しい笑みに戻る。


「まだ正式なお話ではありませんから」


 王都側の進行補佐も頷いた。


「そうです。正式にお伝えする前に、周囲で少し確認を」


「本人へ届いていない話で、家や周囲の意向を先に探るのですか」


 ミレイアの声は荒くない。


 けれど、その一言は、磨かれた硝子へ細い刃を当てるように響いた。


 婦人の扇が、途中で止まる。


「探る、というほどではございませんわ。あくまで、ご本人に負担をかけないための」


「負担があると判断するのは、誰ですか」


 空気が、ぴきりと鳴った。


 助祭の笑みが薄くなる。進行補佐は、手元の茶器へ視線を落とした。婦人の扇は、閉じることも開くこともできず、指の間で止まっている。


 ミレイアは、それ以上声を荒げなかった。


 ただ、エリアナを見た。


 エリアナは、こちらを見ていた。自分の名が会話の中心に置かれたことを、もう理解している。その顔には、場を乱さないための笑みが、まだ乗りきらずに残っていた。


 ミレイアは、セレフィーナへ視線を送る。


 切る場所は、ここではない。


 ここで相手を責めれば、彼女たちは「誤解です」と逃げる。別の部屋で、別の言葉に着替えて、同じことをもう一度する。


 なら、逃げる前に足跡を取る。


 セレフィーナは、もう細い赤ペンを手にしていた。


 資料の余白へ、短く書く。


【本人確認前の内々調整】


 婦人たちの視線が、赤い文字へ落ちた。


 セレフィーナは続けて、冷たく項目を刻んでいく。


【発言者】


 赤いインクが紙へ沈む。


【同意者】


 助祭の指が、茶器の取っ手から離れた。


【対象者不在の理由】


 進行補佐の喉が、小さく動く。


【包囲網の到達度】


 ノアが、横から資料を覗き込んだ。


「裏帳簿をめくっている気分ですね」


「似たようなものかしら」


「帳簿に載せる前なら、まだ動かしていないと言い張れる。そういう金ほど、あとで必ず臭います」


「なら、最初から帳簿に載せるだけよ」


「親切な会話に帳簿ですか」


「親切なら、残っても困らないでしょう」


 ノアは、薄く目を細めた。


「監査が入った時、最初に汗をかく欄ですね」


 セレフィーナは、さらに細い線を引く。


【内々調整記録欄】


 その文字を書いた瞬間、婦人の笑みがはっきり硬くなった。


「もちろん、正式には後ほど」


「ええ、まずはご家族へ」


「ご本人には、負担にならない形で」


 関係者たちの声は、まだどこまでも親切だった。


 その親切な声の下で、セレフィーナのペン先が紙を削る。


 がり、と小さな音がした。


 ミレイアは、セレフィーナの隣へ戻り、低く言った。


「今の言葉、覚えておいた方がいいです」


「ええ」


 セレフィーナは、乾く前の赤字を見下ろした。


「とても親切な声をしていたもの」


 窓辺で、エリアナが婦人へ向けて浅く会釈する。


 セレフィーナの羽ペンが、最後の枠線を引いた。


 かちり、と罠の骨組みが閉じるような音が、紙の上でした。

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