第83話 役は、家格では決まらない
親善行事は、少しだけ歪んだ音を立てながら進んでいた。
楽師の弓が、一拍だけ遅れる。進行役の声も、紙をめくるたびに硬くなる。扇を開く音は揃わず、椅子の脚が床を擦る音だけが、やけに耳に残った。
けれど、進行は止まっていない。
イレーネは実務席に残っている。
フィオナは案内補助の位置へ戻っている。
誰も、笑って引いていない。
その事実が、会場のあちこちに小さな引っかかりを作っていた。
旧来派の年長貴族夫人が、ゆっくりと扇を閉じた。
「手順を大切になさるのは、もちろん結構ですわ」
柔らかな声だった。
先ほどの押しつけが止められた後とは思えないほど、夫人の微笑みは崩れていない。むしろ、今度こそ本題に入ると言わんばかりに、目だけが落ち着いている。
「ただ、親善の場には、親善にふさわしい見え方というものもございますでしょう?」
会場の端で、誰かが小さく頷いた。
セレフィーナは、手元の橋渡し確認書に指を置いた。
「どの家が前に立ち、どの家が支えるか。そこには、長く続いてきた釣り合いというものがございます」
釣り合い。
よく磨かれた皿に、腐りかけの菓子を載せて差し出すような言葉だった。
「もちろん、どなたかに無理をお願いするという意味ではございませんの。ただ、実務に通じた家が支えてくださり、場にふさわしい華のある家が前に立つ。そうしてこそ、親善は自然に整うのではなくて?」
実務に通じた家。
視線がイレーネへ流れる。
華のある家。
次に、フィオナへ。
会場の空気が、わずかに戻りかけた。
大きな家が顔になり、小さな家が支える。
見栄えのよい令嬢が前へ立ち、実務に長けた者が裏を固める。
そういうものだ、と言いたげな沈黙が、客席の間を薄く広がっていく。
進行役も、一瞬だけ迷った。
古い「当然」は、紙より早く人の背中へ乗る。
イレーネの指が、実務記録の端を押さえた。
フィオナの手が、紹介文の控えに触れる。
ミレイアが一歩動きかける。
その前に、セレフィーナは橋渡し確認書の控えを閉じた。
ぱたり、という乾いた音が、会場に落ちる。
「つまり」
セレフィーナは、夫人をまっすぐ見た。
「小さい家には責任を。見栄えのする家には華を。先に押しつけておきたいということですね」
夫人の笑みが、ほんのわずかに薄くなった。
「まあ、そこまで強い言い方ではございませんわ。釣り合いのお話です」
「その“釣り合い”という言葉で、これまで何人を黙らせてきたのでしょうね」
会場が、噛み合わない歯車のようにぎしりと鳴った。
誰かが目を逸らす。衣擦れの音が、やけに大きく響く。補佐役の喉が、不快そうに鳴った。
「セレフィーナ様。それは少々、穏やかではございませんわ」
「穏やかな言葉で、人を役に縫いつける方が、よほど残酷です」
セレフィーナは、イレーネを見た。
「小さい家だから、責任を寄せる」
次に、フィオナを見る。
「顔が向いている家だから、前へ出す」
そして、会場全体へ視線を戻した。
「そうやって先に役を決めるから、人ではなく家が使われるのです」
夫人の扇が、膝の上で小さく軋んだ。
セレフィーナは、短く言い切った。
「役は、家格では決まらない」
その一文だけが、会場の中央に落ちた。
長く飾る必要はなかった。
ルシアンが立った。
王家側の席から伸びた影が、夫人の手元を覆う。扇を握る指が、ほんのわずかに強張った。
「王都としても、家格を理由にした本人意思確認の省略は、今後一切認めない」
声は低く、硬い。
「親善の顔を整えるために、誰かの家を受け皿にする運用は、ここで終わりにする」
夫人の指が、扇の骨をさらに強く押さえた。
ミシ、と小さな音がした。
それでも、夫人はまだ折れなかった。
「……では」
唇だけで笑みを作る。
「万が一、実務に滞りが出た際は、フォルク家が責任を負うということでよろしいのですわね? 実務を継続なさると、ご本人が仰ったのですから」
最後の悪あがきだった。
引かせられないなら、責任だけを貼りつける。
支える役を拒めないよう、失敗の印を先に括りつける。
セレフィーナは、即座に橋渡し確認書を開いた。
紙の端を押さえる音が、乾いて響く。
「いいえ」
短く切った。
「確認書第四条により、不備の責任は依頼元と承認者に帰属します」
夫人の唇が止まる。
セレフィーナは、進行表に挟まれていた費用補足の控えを引き抜き、夫人の目の前へ滑らせた。
王都側責任欄。
そこだけが、空白だった。
「この欄に、あなた方の確認がありません」
セレフィーナの指先が、未記入の枠を軽く叩く。
「責任をフォルク家へ貼りつける前に、ご自分の欄を埋めてからにしてください」
補佐役が、露骨に視線を逸らした。
夫人の頬から、血の気が引く。怒りで赤くなるよりも先に、逃げ道を塞がれた顔だった。
イレーネは何も言わず、実務記録の控えを進行役へ差し出した。
費用欄の未確認箇所。
王都側記入漏れの位置。
関連する照会番号。
きちんと印が入っている。
夫人の目が、その印を追った。
扇の骨が、またミシリと鳴る。
ミレイアは、フィオナの横に立ったまま静かに言う。
「前に立つことが栄誉なら、なおさら本人が決めるべきです」
フィオナは、紹介文の控えを胸元で押さえた。
「私は、自分で選んだ場所なら立てます」
その声は小さい。
けれど、今度は誰も「ほんの一言」とは言わなかった。
イレーネもまた、実務席でペンを持ったまま顔を上げる。
「実務は引き受けます。必要な権限と費用が記録されるなら」
硬い声だった。
「無償の受け皿にはなりません」
会場の沈黙が、旧来派の側へ重く落ちた。
進行役が、橋渡し確認書を確認する。
手元の紙を押さえ、深く息を吸う。
「本行事における役割は、本人意思確認および中間承認に基づき、当初進行の通り継続いたします」
声はまだ少し上擦っている。
けれど、逃げなかった。
「家格を理由とした役割変更は、本手順上の根拠とはなりません」
その一文が、手続きとして会場に残った。
夫人は、しばらく黙っていた。
扇は膝の上で沈黙している。握りしめた指先が、小刻みに震えていた。爪の先が、扇の骨を白く押している。
やがて、夫人はひどく小さな声で言った。
「……承知いたしましたわ」
本心ではない。
けれど、もう十分だった。
今この場で、彼女は引いた。
進行役が、次の項目を読み上げる。
楽師が音を戻した。
けれど、その旋律はひどくぎこちない。最初の一音がわずかに震え、すぐに別の音で取り繕われる。会場の笑みも、塗り固めた漆喰のように固い。
イレーネは実務席で紙をめくる。
フィオナは案内補助の位置へ戻る。
ミレイアは、その少し横に立っている。
ルシアンは王家側の控えに、いまの運用を記録するよう進行役へ目配せした。
セレフィーナは、膝の上で震える夫人の指先を、冷めた目で見つめ返した。




