第8話 殿下は、まだ気づかない
セレフィーナの欠席を知らされた時、ルシアンはそれを大きな問題とは受け取らなかった。
「アシュクロフト嬢は静養と領地視察のため、しばらく王都を離れております」
朝の予定確認の席で、王子付きの書記官見習いがそう告げる。王宮の小会議室には薄い朝の光が差し込み、机の上にはその日の予定表と招待状の控えが整然と並べられていた。
ルシアンは一枚目の書類から目を上げる。
「静養?」
「はい。侯爵家より正式な文書が届いております」
「そうか」
それだけだった。
体調が優れないのなら休むのは当然だ。領地視察を兼ねるのも、侯爵家としては不自然ではない。多少急ではあるが、セレフィーナならしばらく落ち着けば戻ってくるだろう。
ルシアンの中では、それで話は済んでいた。
「卒業前に戻れる見込みは」
「明言はございません。ただ、長期不在というほどの文面でもなく」
「ならよい」
そう言って、彼は次の書類へ視線を戻した。
少し話せば戻るだろう。
その程度の認識だった。
実際、セレフィーナはこれまでずっと、いるべき場所にきちんといた。多少機嫌が悪そうな時があっても、場を投げ出すような真似はしない。王都を離れたのも、ただ少し休むためだとしか思わなかった。
だから、その日のうちに最初の違和感が生まれた時も、ルシアンはまだそれを単なる偶然だと思っていた。
学園側との卒業前行事の確認は、本来ならもっと短く終わるはずだった。
「順番が逆になっております」
「いえ、それは王宮側の控えが旧版でして」
「ではどちらへ先に返答を」
「本来は昨日のうちに整っていたはずなのですが」
担当教師と王宮側の書記官見習いが、机の上の書類を見比べながら妙に歯切れの悪いやり取りを続けている。
招待状の返答順。挨拶の段取り。学園側の案内係の配置。
どれも、大した問題ではない。
大した問題ではないのに、一つひとつが微妙に噛み合わない。誰かが明確に失敗したと言うほどでもなく、ただ本来ならもっと自然に収まっていたはずのものが、その場その場で小さく引っかかっていく。
ルシアンは指先で予定表の端を軽く叩いた。
「まだ決まっていなかったのか」
責めるつもりで言ったわけではない。だが、教師の方が一瞬言葉を詰まらせた。
「申し訳ございません。すでに整理は済んでいると思っておりましたので」
「思っていた、では困る」
「はい」
それで話は終わったが、釈然としなかった。
以前もこういう確認はあったはずだ。貴族家ごとの事情が絡む以上、細部が面倒なのも珍しくない。だが、ここまで細かなところで何度もつまずいただろうか。
いつもはもっと、気づいた時には整っていた気がする。
ルシアンはそう思ったが、その「整っていた」を、誰がどう整えていたのかまでは、すぐに言葉にならなかった。
午前の終わりには、別の不具合が出た。
「殿下、こちらは本日ではなく明日の面会予定かと」
「いや、伯爵家からは今日だと聞いている」
「ですが返信文には」
「それは子息の方の面会では?」
「では、令嬢への返答はどこへ」
側近たちの声が、珍しく一度でまとまらない。
誰も怠けてはいない。むしろ皆、いつもどおりきちんと働いている。だが、誰がどこへ先に返すべきか、どの家の顔を立てるべきか、誰の言葉をその場で拾っておくべきか、その少し先の配慮が今日は妙に遅れる。
ルシアンは予定表を受け取りながら、眉を寄せた。
「今日はどうした」
問いかけた相手も困ったように視線を落とす。
「いえ、その……手違いが重なっておりまして」
手違い。
便利な言葉だと思う。
便利だが、それで全部片づくほど小さな違和感でもなかった。
昼前、王宮から学園へ戻る短い移動の中で、ルシアンはふと考えた。こうした細部は、以前から本当に側近たちだけで回っていたのだろうか、と。
貴族家同士の機微。学園行事での立ち位置。招待や返答の順番。誰の面目がどこで立ち、どこで潰れるか。
そういうことに妙に強い人物が、身近にいた気がする。
気づけば無難に整っていて、誰も困らず、誰も恥をかかない形に収まっていた。けれどそれを、誰の働きだったかと問われると、はっきり答えられない。
その曖昧さが、かえって気にかかった。
午後、学園の回廊でミレイアを見かけた時も、ルシアンはいつもどおりに声をかけた。
「ミレイア」
呼ばれて振り向いた彼女は、きちんと礼をした。だが、以前よりどこか疲れて見える。顔色が悪いわけではない。ただ、笑顔を作る前に一拍ためらうような重さがあった。
「殿下」
「顔色がよくないな。何かあったのか」
「いえ……」
そこでミレイアは目を伏せた。
「少し、皆さまのご様子が」
「様子?」
「その……私が気にしすぎているだけかもしれません。でも、今日はどこへ行っても、何かを待たれているような気がして」
ルシアンは眉をひそめた。
何を言いたいのか、すぐには掴めない。
「気にしすぎだろう」
口をついて出たのは、そんな言葉だった。
以前なら、それで済んでいた気がする。ミレイアが少し不安げなら、大丈夫だと告げればよかった。彼女を守れば場は収まり、その場の正しさも立った。
だが今日は、自分で言っておきながら、その言葉がひどく軽く感じられた。
ミレイアも、安心した顔をしなかった。
「……そう、かもしれません」
そう答えた声は曖昧で、納得しているようには聞こえない。
その曖昧さが、ルシアンの胸に小さな引っかかりを残した。
「何か言われたのなら」
「そういうわけではないのです」
「では」
「皆さま、お優しいのです。ですから、余計に……うまく言えなくて」
そこで彼女は困ったように微笑んだ。
その笑みを見て、ルシアンはますます言葉を失う。
優しいのに困る。
それはどういうことなのか。
少し前までなら、彼にはもっと単純だった。ミレイアは戸惑っていて、周囲には配慮の足りない者がいて、自分がそこへ入れば話は収まる。少なくとも、そう思っていた。
けれど今、彼女の前に立っていても、その「収まり」が見えてこない。
守れば済む、という感じがしないのだ。
回廊を吹き抜ける風が、二人の間をすり抜ける。近くを通った下級生たちが会釈をし、そのまま去っていく。その視線の流れまで、今日はどこか落ち着かない。
「……体調が悪いなら無理はするな」
結局、ルシアンはそうとしか言えなかった。
「はい」
「何かあればすぐに言え」
「ありがとうございます」
礼は返ってきた。けれどその場面は、なぜか以前のようにきれいにまとまらなかった。
ルシアンは立ち去るミレイアの背を見送りながら、説明しにくい苛立ちを覚える。
彼女が悪いのではない。
周囲が悪いとも言い切れない。
なのに、何かがずれている。
自室へ戻ったあとも、その日の小さな引っかかりは頭の中に残り続けた。
学園行事の調整。面会の順番。側近たちの細かな混乱。ミレイアとの会話の収まりの悪さ。
どれも、単体なら取るに足らない。けれど一日の中でいくつも重なると、さすがに偶然とは思いにくい。
セレフィーナは静養しているだけだ。
たったそれだけのはずだった。
それなのに、彼女がいないという事実が、自分の近くでばかり妙に響いている。
以前は、こうした細かなことまで意識したことがなかった。気づいた時には整っていて、問題なく進んでいるのが当たり前だった。
当たり前だった、はずだ。
ルシアンは机の上の予定表へ視線を落とした。
今日だけで、いくつ書き直しが入っただろう。紙面の端には小さな修正が重なり、普段より明らかに見苦しい。
それを見つめたまま、彼は心の中で低くつぶやく。
……おかしい。
こんな小さな欠席で、ここまで崩れるものなのか?




