第7話 欠席ひとつで乱れる茶会
茶会は、何事もなく始まるはずだった。
春の花をふんだんに飾った伯爵家のサロンは、窓から差し込む陽光まで計算されたようにやわらかい。白いクロスの上には薄桃色の菓子と琥珀色の茶が美しく並び、集まった令嬢たちの笑みも挨拶も、表向きはいつもどおり上品だった。
少なくとも、最初の数分までは。
ミレイアは勧められた席の前で、ほんのわずかな違和感を覚えた。
「こちらへどうぞ」
主催の伯爵令嬢が笑顔でそう言ったものの、その声は一拍だけ遅れた。誰をどこへ座らせるのがもっとも穏当か、頭の中で計算し直したような小さな間だった。
それだけなら、気のせいで済む。
けれど一人が遠慮し、もう一人が「いえ、こちらでは」と譲り返し、三人目が曖昧に立ち止まったことで、その小さな引っかかりはきれいに消えなかった。
結局、どこか落ち着かないまま全員が席につく。
笑顔は崩れていない。声もやわらかい。なのに、椅子の脚だけがほんの少し揃っていないような、そんな据わりの悪さが残った。
ミレイアは自分の膝の上で手を重ねた。
前なら、こういう場ではただ緊張していればよかった。平民出身の編入生で、学園にも社交にもまだ慣れない娘。少々ぎこちなくても「仕方のないこと」として扱われる側にいられた。
けれど今日は、向けられる視線の重さが少し違う。
自分が気にされているのは前からそうだった。けれど今は、「不慣れで可哀想な子」を見る目ではない。何かを確かめるような、何かが起きるのを待つような、妙に意味ありげな視線が混じっている。
それが何なのか、ミレイアにはまだはっきりわからない。
ただ、ひどく居心地が悪かった。
「最近は少し、学園にも慣れていらして?」
向かいの子爵令嬢が、やさしい口調でそう訊ねる。
「は、はい。皆さまに助けていただいて……」
無難に答えたつもりだった。けれど別の令嬢が、ふわりと扇を動かしながら言う。
「そうですわね。特に殿下には、よくお声をかけていただいていらっしゃるもの」
声音はやわらかい。表面だけ見れば、ただの世間話だ。
それなのに、その一言で卓上の空気がほんの少しだけ変わる。
誰かが笑い、誰かが茶器へ手を伸ばし、主催の令嬢が新しい菓子を勧める。会話は途切れていないのに、つながり方が妙にぎこちない。話題が布の上を滑らず、小さな継ぎ目に何度も引っかかる。
ミレイアは曖昧に笑って視線を落とした。
「今日は、アシュクロフト様はおいでにならないのですね」
別の令嬢が、何気ない口調でそう言った。
それもまた、ただの確認に聞こえる言い方だった。けれどその瞬間、数人がほんの一瞬だけ目を合わせたのを、ミレイアは見てしまった。
「ご静養だそうですわ」
「領地視察も兼ねていらっしゃるとか」
「そうでしたの」
話はそれで終わったはずだった。
けれど終わり方が、どこかきれいではない。
まるで、本来そこへ収まるはずのものが一つ欠けたまま、無理に蓋だけ閉じたような感じがする。
紅茶が注がれ、春の花の話題になり、最近仕立てたドレスの色合いが褒められる。一つひとつは穏やかな会話だ。なのに、誰もきれいに場を受け渡せていないような妙な疲れが、ゆっくりと広がっていった。
以前の茶会では、こんなふうに息が詰まることはなかった気がする。
では何が違うのかと考えて、ミレイアは答えをうまく見つけられない。
ただ、言葉と言葉のあいだにできる小さな隙間を、今日は誰も自然には埋められないのだとだけわかる。
「そのリボン、とても可愛らしいですわね」
主催の令嬢が、やや力の入った明るさでミレイアの袖口に目を向けた。
「あ……ありがとうございます」
「殿下のお好みかしら」
さらりと添えられたその一言に、今度は笑いが少し遅れて起きた。
ミレイアは何と返せばよいかわからず、「いいえ、その……」と曖昧に言葉を濁す。
その濁し方すら、誰かの期待どおりだったような気がして、ますます居心地が悪くなる。
以前なら、こういう時にひやりとした空気が生まれても、すぐ別の話題へ流れていた気がする。誰かが季節の花を褒め、誰かが主催家の新しい温室の話を持ち出し、気づけば笑って終わっていた。
今日は、それがない。
誰も露骨には失礼にならない。けれど、誰も場をきれいに立て直せない。
そしてそのことに、場にいる全員がうっすら気づいているらしいのが、いっそう疲れる。
「そういえば」
上座に近い席の侯爵令嬢が、紅茶を置きながら言った。
「先日の音楽会、開始が少し遅れたとか」
「ええ、席の案内で少し手間取ったそうですわ」
「そういう時こそ、誰が先に入るかで揉めますものね」
「順番ひとつで印象が変わりますもの」
その流れのまま、別の令嬢が何気なくつけ足した。
「アシュクロフト様は、そういうところをきっちりなさる方でしたわね」
それは褒め言葉というより、事実の確認のような声音だった。
「きっちり、というより、少し厳しすぎるきらいもありますけれど」
「でも、おかげで場が崩れないこともありますわ」
「そうですわね」
そこでまた、一瞬だけ沈黙が落ちた。
その短い沈黙の中で、ミレイアは奇妙な気持ちになった。
セレフィーナのことを思い浮かべた時、胸に最初に浮かぶのは怖さではない。冷たい人だと思ったことはある。近寄りやすい人ではないとも思う。けれど、露骨に傷つけられた記憶はなかった。
むしろ、何かが起きそうになるたび、彼女の方が先にその形を整えていたような気さえする。
それが今になって、いないことで見えてくる。
どうしてなのだろう。
ミレイアには、その答えもまだわからない。
「ミレイア様は、最近とてもお忙しいのでしょう?」
年長の伯爵令嬢が、微笑みながらそう言った。
「殿下も、何かとお声をかけてくださるのでしょうし」
まただ、と思う。
やわらかい言い方なのに、どこか確かめるような響きがある。
「いえ、そんな……私にはまだ、よくわからないことばかりで」
正直に答えたつもりだった。
けれど返ってきたのは、同情とも羨望ともつかない曖昧な笑みだった。
「そうおっしゃる方ほど、案外」
「まあ」
「まだお早いのではなくて?」
小さな笑いが重なる。
その中に、ほんのわずか、棘の立つ気配が混じった。
「でも、いずれははっきりなさるのでしょう?」
誰かのその一言で、主催の令嬢が一瞬だけ顔をこわばらせたのを、ミレイアは見逃さなかった。
たぶん今のは、流すべき類の言葉だった。
誰かを困らせる前に、笑って別の話題へ変えるべき、小さな棘。
けれど今日は、その棘がそのまま卓上に残る。
主催の令嬢が急いで「新しい茶葉を取り寄せましたの」と話題を変えようとしたが、少し遅い。遅かったせいで、今度は露骨に話を逸らしたこと自体が目立ってしまう。
「南方のお茶でしたかしら」
「ええ、ですが私はやはり北方の方が」
「そういえばこの季節は……」
会話は続く。続くのに、ぎくしゃくが消えない。
誰も大きな失敗はしていないのに、ずっと小さなつまずきを繰り返しているようだった。
ミレイアはそっと息を吐いた。
今日は、何を言っても正しい場所に着地しない。
自分のせいばかりではないのに、自分がそこにいることで余計に空気が重くなっている気もする。
前ならただ「慣れないのだから仕方ない」と思っていればよかった。けれど今は違う。皆が自分を見て、何かを待っている。その待たれているものが何なのか、本人だけがわからない。
怖い、というより、息苦しかった。
茶器が一度、静かに皿へ戻される。
その音が妙に大きく聞こえた。
卓を囲む令嬢たちの笑みはまだ崩れていない。けれど全員、うっすら疲れている。主催の令嬢は特にそうだった。優雅に振る舞っているのに、肩口にだけ小さな力みが残っている。
そして、その時だった。
「……アシュクロフト様がいらっしゃらないと、どうにも据わりが悪いわね」
ぽつりと、誰かがこぼした。
主催の伯爵令嬢だった。
言ってしまってから自分で気づいたように、扇の先をわずかに止める。
誰もすぐには答えなかった。
否定しづらかったのだろう、とミレイアは思った。
その一言は、噂でも皮肉でもなく、今日この場にいた全員がうっすら感じていたものを、たまたま言葉にしてしまっただけだったから。
セレフィーナがいない。
そのことが、茶会の最初からずっと、見えないところで利いていた。
席順も、挨拶も、話題の切り替えも、誰かが困る前に差し出される一言も。
誰も彼女の名を挙げて感謝したことはなかったのかもしれない。けれど確かに、皆、その整えられた場の上に座っていたのだ。
ミレイアは、自分のカップに落ちる光を見つめた。
いないはずの人の輪郭だけが、この場では妙に濃い。
それがどういう意味なのか、まだうまく言えない。
けれど少なくとも、セレフィーナが消えたことで楽になった者ばかりではないのだと、それだけははっきりわかった。




