第40話 次の配役が始まる前に
会議室の机に、二人分の記録だけが並んでいた。
エステル・ヴァレニエ伯爵令嬢。
リリア・セヴラン。
名前も立場も、表向きはまるで違う。
片方は行事補佐と会計補佐を抱え、言葉が硬く、仕事は正確。
もう片方は、前にいると場がやわらぐと言われる、感じのよい少女。
だが、その二つを横に置いた瞬間、セレフィーナの喉の奥がひやりとした。
押し上げる娘と、静かに椅子からどかす娘。
形を変えただけで、やっていることは前と同じだ。
「……始める気ね」
紙の端が、指先の下でわずかに折れた。
向かいにいたノアが、その癖に気づいたように目を上げる。
「どこまで見えました?」
「十分すぎるくらいよ」
セレフィーナはエステルの記録を手前へ引いた。
「この子は仕事ができる。数字も合うし、指摘も正しい。だから正面からは崩せない」
「ええ」
「だから別のところを削る。硬い、冷たい、場を悪くする。そういう言葉だけを先に育てる」
ノアが小さく頷き、今度はリリアの紙を指先で押した。
「こちらは逆です。失敗がなくても前へ出せる」
「感じがいいから?」
「それもありますが、それだけじゃない。断らなさそうだ」
その一言に、ミレイアの肩がぴくりと動いた。
「リリアさんは……ただ、皆が喜ぶならって」
絞るような声だった。
「前に出ることを、役目だと思わされていました」
セレフィーナはそちらを見た。
ミレイアの指先は強く組まれ、白くなっている。
「私、この手口を知っています」
短い言葉だった。
けれど、その言い方は前のミレイアではなかった。柔らかいまま、刃だけが入っている。
ノアが記録を二枚並べ直す。
「エステル嬢には、こう来るでしょうね。お疲れではありませんか。少し抱え込みすぎです。しばらく休んではどうですか」
そこで彼は紙から目を離した。
「それだけで、椅子は奪えます」
セレフィーナは無言で拳を握った。
あの時の自分にも、似た顔で言われたのだ。
心配している、無理をしなくていい、静養も大事だと。
拒めば、気遣いを踏みにじる娘になる。受ければ、きれいに外される。
「……毒入りの優しさね」
やっとそれだけ言えた。
「私の時には、断る余地すら作られなかったわ」
ミレイアが唇を噛む。
ノアの目が細くなる。
「押し出す方には、もっと厄介な言い方を使います。あなたがいると安心する。空気がやわらぐ。だから少しだけ、前へ」
「少しだけ、ね」
セレフィーナは笑わなかった。
「最初はいつも、その言い方をする」
ノアは肩を竦めたが、その顔にいつもの軽さは薄かった。
「要するに、生贄の予備ですよ。しかも本人が自分から火に近づいたように見せる」
「ひどい……」
ミレイアの声は小さい。だが、怯えより嫌悪の方が濃かった。
誰かの呼吸だけが、やけに近く聞こえた。
セレフィーナはエステルの記録を取り上げる。余白に残された覚え書きが目に刺さる。
不備の指摘は正しい。処理は早い。だが、後ろに付いているのは仕事の評価ではなく、扱いづらい、冷える、柔らかさがない、そんな言葉ばかりだ。
「正しさを、そのまま欠点に書き換えているのね」
「ええ。しかも悪意なく見えるように」
ノアが答える。
「露骨な断罪はもう使えない。だから、褒めたり気遣ったりしながら、立ち位置だけ入れ替える」
セレフィーナは記録の束を閉じた。
乾いた音が、やけに大きく響く。
「本当に変わらないのね」
「変わる気がないんでしょう」
ノアは即答した。
「前の形では止められた。だから今度は、止めにくい形にしただけです」
ミレイアが顔を上げる。
目が揺れていない。
「見過ごせません」
それだけだった。
けれど十分だった。
セレフィーナの中で、怒りの向きが定まる。
前は、自分が傷つく前に降りるしかなかった。
今は違う。どこへ追い込もうとしているのか、もう見えている。
「ええ」
セレフィーナは頷いた。
「今度は、始まる前に潰す」
ノアがわずかに口元を上げた。
「それでこそです」
「あなた、最初からその顔をしていたでしょう」
「まあ」
彼は記録の端を揃えながら、少しだけ息を吐いた。
「ここまで悪趣味な筋書きを見せられると、黙って観客席に座っているのも飽きます」
その言い方に、セレフィーナはほんの少しだけ目を細めた。
軽口に聞こえる。だが、ノアも腹を立てている。長く付き合えば、それくらいはわかる。
セレフィーナは机の端へ手を伸ばした。
昼間、ノアが書庫の奥から引っ張り出してきた補助記録。学園側の裏勘定に近い帳簿だ。表向きの議事録には出てこない数字が、そこにはまだ眠っている。
「例の裏帳簿、どこまで洗えたの」
「かなり」
ノアの返事は早い。
「行事費の名目で動かした金と、補佐役の入れ替え時期が綺麗に重なっています。まだ決定打には足りませんが、叩けばもっと出る」
「十分よ」
セレフィーナは帳簿を引き寄せた。
「向こうが優しさで人を追い詰めるなら、こちらは数字で化けの皮を剥ぐわ」
「賛成です」
ノアが即座に言う。
「数字は泣きませんし、言い逃れもしにくい」
ミレイアも静かに頷いた。
「リリアさんには、私が会います」
「できる?」
「はい」
その返事に迷いはなかった。
セレフィーナはミレイアを見て、短く言う。
「無理はしないで」
「無理ではありません」
ミレイアは一度だけ、自分の手をほどいた。
「今なら、ちゃんと止められる気がします」
セレフィーナは帳簿を開く。
前は、自分が舞台から降りるしかなかった。
けれど今度は違う。
帳簿があり、記録があり、見過ごさないと言う人がいる。
「ノア」
「はい」
「今夜のうちに洗えるところまで洗うわ」
「承知しました」
机の上に、紙の擦れる音が重なる。
もう、やり方は決まっていた。
次の役目が押しつけられる前に、止める。
今度は、そのためにこちらから手を伸ばす。
第2部第1章までお読みいただき、ありがとうございました。
第1部のあと、セレフィーナがどんな立場で次へ進むのか。
そして、あの舞台を壊したあとで王都が本当に変わったのか。
この章では、まずその“続きの空気”を書くことを大事にしていました。
表向きには見直しが始まっていても、実務の奥ではもう次の配役が動き始めている。
しかも今度は、前より少し上品で、少し穏便で、だからこそ見えにくい。
そんな形で第2部の入口を作れたらと思って書いていました。
エステルとリリアは、まだ大きく動いたわけではありません。
けれど、だからこそ「始まる前に気づけるかどうか」が、この先の大事なポイントになります。
そして何より、この章で書きたかったのは、
セレフィーナが“自分が逃げる側”ではなく、“次を止める側”へ立ち始めたことでした。
ミレイアも、ただ守られるだけの位置から少しずつ変わり始めています。
ノアとのやり取りも含めて、第2部らしい形がここからもっと出てくる予定です。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
感想や応援、とても励みになっています。
次章からは、見えにくい形で始まった“次の配役”へ、もう少し具体的に踏み込んでいきます。
この先も見届けていただけたら嬉しいです。




