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悪役令嬢にされる予定でしたが、先に舞台から降ります。【100万PV感謝】  作者: 星渡リン
第1章 配役はもう終わっている

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第4話 母だけが、娘の呼吸を知っている

 翌日の午後、セレフィーナは母の部屋へ向かう途中で、一度だけ足を止めた。


 廊下の窓から差し込む春の光はやわらかく、磨かれた床に淡く落ちている。侯爵家の屋敷は今日も静かで、遠くに使用人たちの気配がかすかに動いているだけだった。


 ほんの少し前まで、自分は王都の空気の中で息を潜めるように立っていたのに、屋敷の中はまるで別の季節みたいだった。


「お嬢さま」


 少し後ろを歩いていたリズが、控えめに声をかける。


「奥様は、きっとおわかりになります」


 セレフィーナは振り返らず、小さく息を吐いた。


「そうだといいのだけれど」


 そう返しながらも、胸の奥にはまだためらいが残っていた。


 母に話すべきだとは思う。思うけれど、自分の危機感がどこまで現実のものとして伝わるのかはわからない。噂が広がっていること。学園の空気が妙に出来すぎていること。舞踏会が“結末の場”になりかねないこと。


 そこまでは言葉にできる。


 けれど、その先にある舞台の匂いだとか、役として処理される現実だとか、そういうものまで口にして、果たしてただの神経質に見えないだろうか。


 十歳からずっと、自分はそれを一人で整理してきた。


 まだ何も起きていないうちから騒いではいけないと思っていたし、誰も信じないだろうとも思っていた。だから見て、測って、紙に書いて、飲み込んできた。


 けれど、もう飲み込める段階ではない。


 あの中庭の光景は、あまりにもよく出来すぎていた。


「お嬢さま」


 リズがもう一度呼ぶ。今度は少しだけやさしく。


「はい」


「お一人で抱えたままにしてよいことでは、ございません」


 セレフィーナはようやくリズの方を見た。彼女は侍女らしい端正な姿勢のまま、けれど目だけはまっすぐこちらを見ている。


 セレフィーナは、ほんの少しだけ口元を和らげた。


「ええ。そうね」


 そしてようやく、応接室の扉の前まで歩み寄る。


 ノックをすると、すぐに中から「どうぞ」と母の声が返ってきた。


     ◇


 小応接室には、午後のやわらかな光が満ちていた。


 薄いレース越しに差し込む日差しが、丸い卓の上のティーセットを白く照らしている。甘すぎない花の香りがして、暖炉には火は入っていないのに、部屋そのものが妙にあたたかく感じられた。


 エヴァリーヌ侯爵夫人は窓辺の椅子に座っていた。深い青のドレスに身を包み、手元には閉じた本が置かれている。セレフィーナが入ると、母はすぐに本を脇へ置いて微笑んだ。


「いらっしゃい、セレフィーナ」


「お母さま。少し、お話ししたいことがあります」


「ええ」


 母はそれだけ言って、向かいの席を静かに勧めた。


 余計な問いを挟まれなかったことに、セレフィーナは少しだけ救われる。説明を求めるでもなく、急かすでもなく、ただ聞く用意をしてくれる。その静けさがありがたかった。


 リズが扉のそばへ控える。エヴァリーヌは彼女にも目を向け、部屋にいて構わないと小さくうなずいた。


 セレフィーナは席に着いたものの、すぐには言葉が出なかった。母は急かさなかった。ただティーポットへ手を伸ばし、二人分の茶を注ぐ。細い湯気が立ちのぼり、カップの縁に光がにじんだ。


「……学園で、少し妙なことが続いているのです」


 ようやくそう切り出すと、母は「ええ」とだけ返した。


 それからセレフィーナは、順番に話した。


 中庭で見たこと。


 ミレイアが令嬢たちに囲まれていたこと。


 そこへルシアンが現れた瞬間、場が美しすぎるくらいに完成してしまったこと。


 図書室で規則を伝えただけなのに、平民出身の編入生を大勢の前で叱ったという噂に変わったこと。


 茶会で席順を整えただけで、身分を振りかざしたと囁かれたこと。


 王子の予定確認が、執着や監視に書き換えられたこと。


 そして来月の卒業前舞踏会が、その空気に結末を与える場所になりかねないことを。


 母は一度も遮らなかった。


 驚いた顔も、怒った顔も見せない。ただ静かに聞き、必要なところでだけ短く問いを返す。


「その図書室には、ほかに誰がいたの」


「同じ学年の令嬢が三人と、下級生が二人ほど。司書は席を外していました」


「茶会の席順を直した時、主催家の令嬢は何か言った?」


「いいえ。ほっとした顔をしていました」


「王子の予定確認は、いつもと違う経路だったのかしら」


「いいえ。普段どおりです」


 そうやって一つずつ、出来事が感情ではなく形を持っていく。


 セレフィーナは話しながら、自分でも少し驚いていた。母の前では、説明がちゃんと説明になる。怯えでも被害妄想でもなく、状況として口にできる。


 それだけで、張りつめていたものがほんの少し緩む。


「……だから、私は」


 そこで初めて、声がわずかに鈍った。


「このままでは、舞踏会で何かが起きる気がするのです。はっきりした証拠があるわけではないのに、そう言うのはおかしいと自分でも思います。でも、あの場に立たされるのが、たぶん私なのだと……」


 言い切ったあと、ようやく自分がどれだけ力を込めていたのかに気づいた。膝の上で組んでいた手が、少し冷えている。


 母はしばらく黙っていた。


 その沈黙は重くなかった。言葉を探しているのではなく、受け取ったものをきちんと並べている沈黙だった。


「そういう空気の流れがあること自体は、珍しいことではありません」


 やがて、エヴァリーヌは静かに言った。


 セレフィーナは息を止める。


「社交界では、誰かがはっきり言い出す前に、場の方が役割を決めてしまうことがあるの。誰が上に立つか、誰が笑われるか、誰が少し身を引けば“美しく収まる”のか」


 母の声は穏やかだった。穏やかだからこそ、その言葉は重かった。


「露骨な悪意が見えないからこそ、対処しにくいのよ。皆、ただ空気を読んだだけだと言えてしまうから」


 セレフィーナは母を見つめた。


 そこには驚きも否定もなかった。


 あるのは理解だけだった。


「お母さまは……信じてくださるのですか」


 自分でも驚くほど小さな声になった。


 母は少し目を細めた。


「ええ」


 ただ一言。それだけで、胸の奥に張りついていたものが少しだけはがれる。


「それに、私はあなたが最近疲れていることに気づいていました」


「……」


「眠れていないのでしょう」


 セレフィーナは答えられなかった。


 図星だったからだ。寝つけない夜が増えていた。眠れても浅く、朝には肩が重い。けれどそれを、誰にも悟らせていないつもりだった。


「食事の量も少し落ちているし、ここ数日はお茶を飲む回数が増えているわ。あなた、自分で思うよりずっと息が浅いのよ」


 その一言で、セレフィーナの指先がわずかに震えた。


 息が浅い。


 そんなふうに言われたのは初めてだった。けれど思い返せば、王都の学園にいる時の自分は、いつもどこか胸の上だけで呼吸していた気がする。


「私は隠せているつもりでした」


「ええ。たいていの方にはそう見えていたでしょうね」


 母は淡く笑う。


「でも、私は母ですもの」


 その言葉は、不意にやわらかく胸へ落ちた。


 セレフィーナは目を伏せる。泣きたくなるほどではない。ただ、ずっと張っていた糸の一本がようやく緩んだような感覚があった。


「私、考えすぎではないのでしょうか」


 自分の口からそんな言葉が出たことに、セレフィーナ自身が少し驚いた。


 母は即答した。


「考えすぎではありません」


 その声に迷いはなかった。


「あなたが臆病だからそう見えるのではないわ。あなたは今、危うい流れをちゃんと見ているのだと思う」


 セレフィーナは小さく息を吐いた。自分でも気づかないうちに、ずいぶん長く、許しのようなものを待っていたらしい。


「でも」


 それでもすぐに言葉は続いた。


「まだ何も起きていません。私が怖がっているだけかもしれない。侯爵家の娘として立つべき場所から退くようなことを、今の段階で考えるのは……」


 そこまで言ったところで、母が静かに首を振った。


「セレフィーナ」


 呼ばれて、顔を上げる。


 エヴァリーヌの眼差しは、驚くほどまっすぐだった。


「逃げることは、負けではありません」


 その一言は、思っていた以上に深く刺さった。


 セレフィーナは言葉を失う。


 逃げる。退く。降りる。そこにはいつも、どこか敗北の響きがつきまとっていた。立場ある者ならなおさらだ。侯爵家の娘なら、なおさら。王子の婚約候補なら、なおさら。


 そう思っていた。


 けれど母は、それをきっぱり切り捨てた。


「焼かれる場所に自分から立つことを、勇気とは呼ばないわ」


 母の声はやわらかいまま、少しも揺れない。


「我慢できることと、我慢すべきことは違います。あなたが立ち続けることで喜ぶのが、あなたを大事にしない人たちなら、なおさらよ」


 セレフィーナは視界の端が少しだけ滲むのを感じた。


 泣くほどではない。


 でも、ずっと自分の中で認めてはいけないと思っていた考えを、先に肯定された。そのことが思った以上にこたえる。


「……それでも、簡単ではありません」


 声を整えてそう言うのが精いっぱいだった。


「ええ」


 母はうなずく。


「簡単ではないわ。侯爵家の立場もあるし、あなたのお父さまも、すぐには納得なさらないでしょう」


 その現実を、母は甘くぼかさなかった。


 だからこそ信用できる。


「お父さまは、たぶん……『少し耐えれば済む』とおっしゃるかもしれません」


「そうでしょうね」


 苦いほど、簡単に想像できた。まだ何も起きていない。今動けばかえって疑われる。侯爵家の娘として軽率だ。王子との関係にも差し障る。


 きっと父は、そういう言葉を並べるだろう。


 母はカップを置き、静かに言った。


「でも、あなたを一人で立たせる話にはしません」


 セレフィーナが顔を上げる。


「私も一緒に考えるわ。どう動くべきか。何を守るべきか。侯爵家の立場も、お父さまへの話し方も含めて」


「お母さま……」


「私は、あなたがただ耐える前提で話を進めるつもりはありません」


 その言葉に、胸の奥がまた少し熱くなる。


 これまでセレフィーナは、ずっと一人で整理してきた。見て、測って、噂を記録して、危機感に名前をつけてきた。そこに今、初めて並んでくれる人がいる。


 それだけで、世界の重さが少し変わる。


 言葉が途切れたままの娘を見て、母はそっと手を伸ばした。


 卓を挟んで差し出されたその手は、ひどく自然で、ためらいがなかった。


 セレフィーナも無意識に手を差し出す。


 ふわりと包まれた指先は、思ったよりあたたかかった。


「あなたが黙って耐えることで守られるものより」


 エヴァリーヌは娘の手を握ったまま、静かに言う。


「あなたが壊れて失うもののほうが大きいわ」


 その一言で、セレフィーナは初めて、自分がずっと“耐える前提”で考えていたのだと気づいた。


 侯爵家の娘だから。


 婚約候補だから。


 立場があるから。


 そうやって、耐えることばかりを先に数えていた。


 でも母は違うところを見ている。家でも王都でもなく、まず娘の方を見ている。


 セレフィーナは手を握られたまま、小さくうなずいた。


「……はい」


 それ以上の言葉は、すぐには出なかった。


 外の王都の空気は、きっとまだ何も変わっていない。噂は残っているし、舞踏会は近づいている。父への説明も、これからだ。


 けれど、それでも。


 一人で立っているのではないとわかっただけで、胸の中の張りつめた糸が少しだけほどけた。


 午後の光はまだやわらかく、窓辺で揺れている。


 王都の空気は冷たいままでも、この部屋だけはあたたかかった。

 そしてセレフィーナは、そのぬくもりを持ったまま、次に父へ話す言葉を考え始めていた。

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