第38話 厳しい人は置きやすい
学園の資料庫は、王都のどの広間よりも静かだった。
高い窓から差し込む午後の光が、棚に並ぶ帳簿の背を白く撫でている。舞踏会のあとに残るものは、結局どこへ行っても紙になるのだと、ここへ来るたびに思う。
ぱらり、ぱらり、と規則的に紙を繰る音だけが、ひやりとした空気の中に響いていた。
その音の主は、長机の向こうにいた。
年の頃はセレフィーナたちと大きく変わらない。飾り気の少ない灰青のドレスに、低く結んだ栗色の髪。派手さはないのに、そこだけ空気がきりりと締まって見えるのは、彼女の手が一度も迷わず動いているからだろう。
「待ってください。そこ、違います」
入ってすぐ、彼女の声が飛んだ。
机の端で帳簿を抱えていた補佐の男がびくりと肩を揺らす。
「先にその束を戻してください。照合前のものと混ざっています」
「え、あ、ですが、確認印は」
「印の前に順番です。そこを入れ替えると、三か月分やり直しになります」
男は慌てて手を止めた。
たったそれだけのやり取りで、セレフィーナには十分だった。
この人は、仕事ができる。
しかも、かなり。
案内役の若い書記官がようやく一歩前へ出て、どこか引きつった笑みで言った。
「ヴァレニエ様。アシュクロフト侯爵令嬢が、見直し実務の確認にいらっしゃいました」
彼女は一拍遅れて顔を上げ、きちんと一礼した。
「失礼いたしました。資料の照合を優先しておりました」
「構いません」
セレフィーナは答える。
「あなたが、エステル・ヴァレニエ伯爵令嬢ですか」
「はい。行事補佐と会計補佐の一部を担当しております」
簡潔で、よどみがなかった。愛想は薄いが、無礼ではない。
エステルは机上の紙を素早く整えると、上に置いてあった一束を差し出した。
「ご覧になるのでしたら、こちらから。問題のある箇所だけ抜いてあります」
「ずいぶん見やすくまとめたのね」
「元のままでは読みづらかったので」
紙を受け取る。余計な飾りはないのに、必要な情報が一目で追える。どこに何があり、どこで止まっているのかがすぐわかる。読む相手の手間まで考えて整えた跡だった。
セレフィーナが頁をめくっているあいだにも、エステルの目は別の帳簿へ走っていた。
「そちらの控え、一枚足りません」
彼女はまた別の書記へ言う。
「昨年秋の行事分です。抜けたまま写しています」
「そこまで見ていたのですか」
「見ればわかります」
悪気なく、ただ事実として返す。
書記の男は笑ってごまかしたが、その笑みは明らかに引きつっていた。礼を言うより先に、居心地の悪さが顔へ出ている。
その様子を横で見ていた女書記が、やわらかい声で言った。
「ヴァレニエ様は本当にお仕事が正確なんですの。ただ、少しきっぱりしすぎるところがあって」
「きっぱり」
「ええ。正しいことをまっすぐ仰るので、慣れない方は緊張してしまって」
それだけだった。
けれど、もう十分だった。
少し離れた机では、先ほど叱られた補佐の男が露骨に嫌そうな顔をして別の席へ移っている。別の書記は、エステルが近づくたびに背筋だけ妙に固くなる。誰も彼女の能力を否定しない。だが、ありがたがってもいない。
有能。
正しい。
でも、きつい。
その線引きが、もう始まっていた。
セレフィーナは胸の奥で、冷たい既視感が静かに動くのを感じた。
自分が王都で向けられていた視線と、あまりにもよく似ている。
何か決定的な過失があるわけではない。
ただ、硬そう。
冷たそう。
言い方が強そう。
だから、あとから“そういう人だったでしょう”と置くにはちょうどいい。
まだ何も起きていないうちから、役の輪郭だけが先に作られていく。
その嫌な気配を、セレフィーナはもう知っていた。
「こちらもご確認ください」
エステルが別の帳簿を開いた。
「学園側の通常支出へ紛れていますが、これは地方負担へ流している分です」
「わかるの?」
「不自然ですので」
彼女は淡々と答える。
「前後の金額と合いません。こういうずれ方は、後から無理に押し込んだ時に出ます」
数字の細かい説明はしない。だが、そこに迷いはなかった。
彼女はただ帳簿を読むのではない。
帳簿の中で、誰が何を隠したがっているのかまで見ている。
セレフィーナは思わず問いかけた。
「あなた、ずいぶん多くの仕事を抱えているのね」
「人手が足りませんので」
「それでも全部見るつもり?」
「見なければ残ります」
「損をしていると思ったことはないの」
エステルは少しだけ首を傾げた。
「何についてでしょう」
「押しつけられていることについて」
「必要なことをやっているだけです」
あまりにも迷いがない。
机の端には冷めきった茶が置かれていた。
インクのついた指先は細く、紙で少し荒れている。
それでも彼女は気に留める様子もなく、また次の帳簿へ手を伸ばした。
誰かに好かれようとしていない。
誰かに嫌われているとも、たぶん本気では思っていない。
ただ、必要なことを正しい順番で片づければ、それで済むと信じている。
その無防備さが、セレフィーナにはひどく危うく見えた。
正しければ通る。
記録があれば守られる。
不備を潰せば、変な流れにはならない。
王都は、そんなふうにできていない。
正しい記録があっても、人はその横に別の物語を書く。
仕事ができても、“感じがよくない”というだけで役は置ける。
そして、厳しく見えて、愛想が薄く見えて、正しさを曲げない人間ほど、あとから都合よく使われる。
「ヴァレニエ様」
セレフィーナは呼んだ。
エステルが顔を上げる。
「あなたは、正しい記録が残れば十分だと思っているのね」
「はい」
即答だった。
「少なくとも、正しくないまま残るよりは」
「変な話にはならない、と?」
エステルは少し考え、それからごく自然に言った。
「正しい記録が残れば、変な話にはならないはずです」
その言葉は、あまりにもまっすぐだった。
セレフィーナは、そのまっすぐさに痛みを覚えた。
この子は、本当にそう信じている。
だから危ない。
守られるべきものをまだ何ひとつ持っていないのではない。
持っているのに、それで足りると思っているのだ。
セレフィーナは静かに帳簿を閉じた。
エステル・ヴァレニエ伯爵令嬢は、有能だった。
しかも、自分で考え、自分で不備を拾い、自分で支えようとする種類の有能さを持っている。
だからこそ、この王都では危ない。
能力があることと、悪役にされないことは、王都ではまるで別の話だった。




