第32話 舞踏会前夜
夜の王都屋敷は、昼より静かで、昼より張りつめていた。
廊下を行き交う足音は抑えられ、扉の開閉も必要以上の音を立てない。誰もが声をひそめているのに、沈黙そのものがざわめいているようだった。
明日、卒業舞踏会がある。
それだけで、屋敷じゅうの空気が薄く研がれていた。
小会議室の卓上には、紙が重ねられている。古びた記録も、最近の帳簿も、神殿の文書も、もう一枚ずつ読む段階は過ぎていた。必要なのは理解ではなく、明日どこで息を止め、どこで言葉を置くかだ。
ノアが最後の束を卓へ置く。
「これです」
軽い調子はなかった。
「神殿が数十年かけて、“個人”を消して、“役”にはめ込んできた証拠は」
部屋が静まり返る。
セレフィーナは、その紙束を見た。
そこに並んでいるのは文字なのに、見ているうちに、人の顔が消えていく感じがした。令嬢の名も、事情も、気持ちも削られて、最後には“選ばれる側”と“退く側”だけが残る。
不気味だった。
ここまで来ると、悪意というより習慣に近い。
誰かが始め、誰かが整え、いつの間にか、そういうものだと皆が思い込んできた仕組みの冷たさだった。
「明日は、それを人の顔に戻すのね」
セレフィーナが言う。
ノアが頷く。
「ええ。だから向こうは嫌がる」
父アシュクロフト侯爵が低く口を開いた。
「社交界側の根回しは済んでいる。少なくとも明日の場で、一方的に話を切るのは難しい」
「ありがとうございます」
「礼は舞踏会のあとでいい」
その声に迷いはなかった。
もう娘の不安をなだめるための場ではない。侯爵家として、どこで立つかを決めた声だった。
「お嬢さま」
リズが静かに言う。
「明日は、何より最初が肝心でございます」
「ええ」
「一歩間違えれば、“場を乱したのは侯爵令嬢だ”という顔をされます」
「そうでしょうね」
セレフィーナは頷いた。
「だから私は、乱しに行くのではなく、立たないのよ」
用意された場所へ。
予定された台詞の位置へ。
誰かを立てるために沈む役へ。
そこへ立たない。
それだけで、舞台は驚くほど脆くなると、もう知っていた。
ノアが小さく笑う。
「暴くというより、成立しなくする」
「ええ」
セレフィーナは、ようやくその言葉に静かな納得を覚えた。
◇
同じ夜、別室で、ミレイアは鏡の前に座っていた。
明日のための衣装は整えられている。淡い色の布地は、祝福される少女のために仕立てられたみたいだった。けれど今の彼女には、それが少しだけ遠い。
膝の上へ置いた手が冷たい。
視線が集まる場所を思うだけで、胸の奥が細くなる。明日、何十もの目が自分へ向くだろう。その中で、自分の声で話す。考えるだけで足が竦みそうになる。
それでも、黙ったままでいる方が、もっと怖かった。
あのまま守られる顔をして、笑って頷いて、誰かが勝手に作った物語へ入れられる方が。
「……話します」
鏡の中の自分へ向かって、ミレイアは小さく言った。
「今度は、ちゃんと」
声は震えていた。
でも、震えていても言えるなら、それでいい。
立派な主役になどならなくていい。
ただ、自分の言葉を持った人間として立てれば、それでいいのだと思った。
◇
別の部屋では、ルシアンが一人で窓辺に立っていた。
王都の灯はいつもどおりだ。王子である自分が何も知らずに立っていた頃と同じように、街は整い、光っている。
神殿の顔を立てる。
学園の体裁を守る。
舞踏会を穏便に終える。
それがいちばん楽な道なのは、よくわかっていた。
だが、それを選べばまた同じことの繰り返しになる。セレフィーナは誰かを立てるための沈黙へ押し込まれ、ミレイアは守られる役として喋らされる。
自分はもう、それを知らないままではいられなかった。
「……楽な方へ戻れば、また見ないままで終わる」
呟いた声は、自分でも驚くほど低かった。
まだ遅い。
まだ足りない。
それでも今回は、自分がどちらの側に立つのかを、誰かに決めさせるわけにはいかなかった。
◇
会議が終わったあと、セレフィーナは一人で窓辺に立った。
王都の夜は灯が多い。どれだけ夜が深くなっても、どこかでまだ何かが動いている気配がある。遠くに見える神殿の塔は、闇の中でも白く浮いていた。
「あちらは今頃、自分たちが用意した台本を読み返しているのでしょうね」
誰にともなく言うと、背後でノアが少しだけ笑った。
「ええ。たぶん、明日もいつもの形で始めるつもりです」
「そう」
「だから助かります」
セレフィーナが振り返る。
ノアは壁に寄りかかり、いつものように軽く見える姿勢のまま、目だけは冴えていた。
「向こうは、あなたがその場所に立つと思っている」
「立たなければ?」
「世界が音を立てて壊れます」
さらりと言う。
けれど、その言葉は妙にあたたかかった。
壊すのは、自分を押しつぶしてきた形の方だと知っている声音だった。
「明日の夜」
ノアは静かに続ける。
「あなたがその場所に立たないだけで、向こうはもう同じ芝居を続けられません」
「……ええ」
「楽しみですね」
不敵な微笑みだった。
セレフィーナはそれを見て、ようやくほんの少しだけ口元を和らげた。
怖くないわけではない。
緊張がないわけでもない。
けれど、もう決まっている。
明日、自分は誰かの台詞を言うために立つのではない。
誰かに配られた場所へ収まるために立つのでもない。
そのことだけは、はっきりしていた。
窓の外で、王都の夜はまだ静かに灯っている。
けれどその光の下で、もう同じ芝居は続かない。
明日、最初の一手で、舞台は変わる。




