第3話 前世の私は、公演中止を知っている
「……どうして、そこまで言い切れるのですか」
静かな部屋に、リズの声が落ちた。
机の上には紙が並び、燭台の灯りがその白を淡く照らしている。つい先ほどまで整理していたのは、図書室の件、茶会の件、王子の予定確認の件。どれも小さな出来事だ。けれど、小さいからこそ厄介だった。
セレフィーナは、まだ温もりの残る茶器を指先で包んだまま、すぐには答えなかった。
「噂が広がっているのはわかります。舞踏会が危ないかもしれないというのも……でも、お嬢さまは、まるで見てきたようにおっしゃるから」
リズは眉を寄せていた。不安そうで、それでも責める色はない。ただ本当に知りたいのだろう。なぜそんなに確信めいた声が出せるのかを。
セレフィーナはゆっくりと息を吐いた。
「説明しづらいのよ」
「……はい」
「でも、あなたには少し話しておいた方がいいわね」
リズが背筋を伸ばす。
セレフィーナは視線を机上の紙から外し、揺れる燭台の火を見た。橙の光が、遠い記憶の奥にある別の灯りを呼び起こす。
「前世の私は、舞台制作の仕事をしていたの」
リズが目を瞬いた。
「舞台、でございますか」
「ええ。華やかな主演でも、脚本家でもないわ。裏方。進行管理よ」
言葉にした途端、昔の空気が胸の奥に戻ってくる。舞台袖の暗さ。耳に触れるインカムの冷たさ。分刻みで書き込まれた進行表。開演前の客席のざわめき。照明の落ちる位置。音の入る秒数。出演者の出入り。転換の順番。
「公演が事故らないように、全部をつなぐ役目だったの。出演者、照明、音響、道具、開場時間、客席導線、終演後の流れまで。どこか一つでも遅れたり噛み合わなかったりすれば、表に出る前に潰さなくてはいけない」
「そのようなお仕事が……」
「ええ。表から見るより、ずっと細かくて、ずっと神経を使う仕事よ」
セレフィーナは少しだけ口元を和らげた。
「主演の方が直前で体調を崩すこともあったわ。重要な小道具が届かないことも、出演者の不用意なひと言で、開演前から客席がざわつくこともあった。雨で搬入が遅れたり、照明が一列だけ落ちなかったり、客席誘導のひとつの間違いで入口が詰まったりもする」
リズは想像もつかないというように、真剣な顔で聞いている。
「華やかな世界に見えても、裏はそうではないのですね」
「そう。そして、事故る公演には共通の匂いがあるの」
そこで、セレフィーナは言葉を切った。
「段取りが乱れているから事故るとは限らない。むしろ逆よ。一部の人間にだけ都合が良すぎて、誰か一人に無理が集まっている時ほど危ないの。表ではきれいに見えても、裏では歪みが一か所に寄っていく。そういう舞台は、たいてい最後にそこが燃える」
中庭で見た光景が脳裏をよぎる。
ルシアンが現れ、ミレイアを庇い、周囲が息を呑む、あの見事すぎる一場面。
きれいだった。だからこそ、危なかった。
「……だから、あの場面を見ておかしいとわかったのですね」
リズの声は、ようやく何かがつながったように静かだった。
「そう。あまりにも入りが良すぎたもの。困り方も、庇い方も、周囲の視線の流れも。全部が“そう見せたい形”に収まりすぎていた」
セレフィーナは茶器を置いた。
「でも、それだけなら、まだ変わった感覚の持ち主で済んだかもしれないわ」
「それだけ、ではないのですね」
「ええ」
指先を軽く組み、セレフィーナは目を伏せる。
「前世の記憶を思い出したのは、十歳の時よ」
「十歳……」
「高熱を出して寝込んだの。何日も意識が曖昧で、夢と現実の境目がなくなって、その時に一気に戻ったわ」
あの夜のことは、今でも妙にはっきりしている。
額に置かれた冷たい布。熱で重いまぶた。遠くで聞こえるこの世界の鳥の声。その間に、まったく別の世界の音が混じった。電車の走る音。人の多い駅。通知音。舞台袖で飛び交う短い指示。開演五分前の張りつめた空気。
目を開けた時、自分は侯爵令嬢セレフィーナのままだった。けれど同時に、別の世界で別の人生を生きていた記憶も、確かに自分の中にあった。
「最初はひどく混乱したわ。自分が誰なのかわからなくなるくらいに。けれど時間が経つうちに、二つの記憶は混ざらずに並ぶようになったの」
リズは息を潜めている。
「その時、この世界が、前世で見た物語に似ていることにも気づいたわ」
「物語、でございますか」
「ええ。前世で妹が遊んでいた乙女ゲーム」
聞き慣れない単語にリズは首を傾げたが、口は挟まない。
「物語の中で、平民出身の少女が学園へ入り、王子に見初められるの。周囲から浮きがちな彼女を、高位貴族の令嬢が妬み、いくつかの出来事を経て、最後は卒業前の舞踏会で断罪される」
リズの表情が少しずつ強張っていく。
「……高位貴族の令嬢」
「ええ」
「それが、お嬢さまに」
「きれいに重なるのよ」
侯爵令嬢。王子の婚約者候補。厳格で、隙がなく、編入生とは対照的な立場。
並べてしまえば、自分がどちら側の役なのかは、あまりにも明白だった。
「だから昔から、自分がその位置にいることはわかっていたわ」
セレフィーナはあえて淡々と言った。
「もっとも、知っていたからといって、何かできたわけではないけれど」
「……どうしてですか」
「何も起きていないうちから騒げば、それこそおかしいでしょう。『私は将来、悪役令嬢として断罪されるかもしれません』なんて言ったところで、誰が信じるの。むしろ、不穏なことを考える娘だと思われるのが関の山よ」
だから観察するしかなかった。
王子の動き。学園の空気。編入生の立場。自分に向けられる視線。どこまでが偶然で、どこからが“物語の型”へ寄り始めているのかを、長いあいだ測り続けてきたのだ。
「……それでも、お嬢さまが今夜ここまで警戒しているのは、物語に似ているからだけではないのですね」
リズは慎重に言葉を選びながら問うた。
セレフィーナは小さくうなずく。
「そう。そこが一番大事なの」
燭台の火が揺れ、机上の紙の影がわずかに震えた。
「ゲーム知識だけなら、まだ半信半疑でいられたのよ。似ているだけかもしれない。立場が重なっているだけかもしれない。そう思えた」
「ですが今は……」
「今は違う」
静かな声だった。静かだからこそ、冷えていた。
「噂の広がり方が、事実ではなく“役柄”で決まっている。王子は守る人。ミレイア嬢は守られる人。なら、その反対側に立つ誰かが必要になる。そしてその役に都合がいいのが、私」
図書室の件。茶会の件。王子の予定確認。
どれも、それだけなら小さな行き違いだった。けれど一度“高位貴族の令嬢が平民出身の少女を追い詰める”という型にはめてしまえば、全部きれいに悪意へ変換できる。
「つまり、怖いのは筋書きそのものじゃない」
セレフィーナは、ゆっくりと言葉を重ねた。
「現実の人間たちが、物語の形で現実を処理しようとしていることよ」
リズの唇がわずかに震えた。
「それでは……誰かが明確にそうしようとしているというより……」
「皆が少しずつ、その形へ寄せているの」
王子は善意で守る。令嬢たちは空気を読む。生徒たちは面白がって見ている。教師は波風を立てたくない。
誰か一人が中心でなくても、十分に出来上がってしまう。
それが一番、質が悪い。
前世で何度も見た。悪い公演というのは、たいてい誰か一人の失敗ではない。全員が「まあ、このくらいなら」と流した結果、最後に事故になるのだ。
「私は、脚本を知っているから怖いのではないの」
セレフィーナは机上の紙へ視線を戻した。
白い紙に並ぶ黒い文字。小さな出来事の記録。それなのに、もう十分すぎるほどひとつの方向へ流れ始めている。
「現場の空気が、それを本当に起こせる形になっているから怖いのよ」
リズは黙った。
部屋は静かだ。けれどその静けさの中に、昼間の中庭のざわめきがまだ薄く残っている気がした。
王子の声。周囲の視線。庇われる少女。引き下がる令嬢たち。
きれいに整った一場面。
事故る舞台の匂いが、あの中には確かにあった。
セレフィーナはゆっくり息を吸う。
前世で、自分は何度も公演中止の判断に立ち会った。見栄えのために無理を通せば、最後に壊れるのはたいてい人だ。だから本当に危ない時は、誰かが止めなくてはならない。
今、王都にはその匂いがある。
まだ幕は上がっていない。けれど、上がれば誰かが焼かれる。
そしてたぶん、その誰かは自分だ。
私は、脚本を知っているから怖いのではない。
現場の空気が、それを本当に起こせる形になっているから怖いのだ。




