第26話 あなたは、私を見ていなかった
面会は、侯爵家の了承を得た正式な形で続けられることになった。
応接室の扉は閉じられているが、完全な密談ではない。リズは壁際に控え、必要があればすぐに人を呼べるようにしてある。侯爵夫妻も、この場でのやり取りはすべて把握したうえで任せていた。
それだけで十分だった。
ここはもう、王都の廊下でも、学園の温室でもない。誰かが空気の流れに乗せて、話を曖昧に運べる場所ではない。
ルシアンは、先ほどよりも少しだけ硬い表情で座っていた。けれど、それでも王子としての端正さは崩していない。背筋はまっすぐで、視線も逃げない。ただ、その整い方の下に、噛み合わないものをどうにか整えたい焦りが薄く透けて見えた。
「改めて言わせてほしい」
ルシアンが低く切り出す。
「きみが急にいなくなってから、王都では妙な噂が流れている。学園でも、社交界でも、必要のない憶測が増えた」
「そうでしょうね」
「私は、それを放っておきたくなかった」
セレフィーナは答えず、続きを待った。
「もし誤解があったのなら、話し合いたいと思った。きみが何をどう受け取っていたのか、きちんと聞くべきだったのかもしれない」
「……」
「私は、きみを傷つけるつもりではなかった」
その言葉は、ひどくまっすぐだった。
取り繕おうとしているわけではないのだろう。
少なくとも、彼自身は本気でそう思っている。
だからこそ厄介だった。
「きみがあそこまで追いつめられていたとは、思っていなかったんだ」
ルシアンは一度だけ息を継いだ。
「何かあるなら言ってくれればよかった。急にいなくなられて、私は……」
そこで彼は、言葉を探すようにわずかに目を伏せた。
「困った」
その一語が、妙に生々しく落ちた。
セレフィーナは、しばらく沈黙した。
怒りがこみ上げたわけではない。むしろ逆だった。ここまで来てもなお、彼が問題をどこに置いているのかが、驚くほどよく見えた。
「殿下」
静かに呼ぶと、ルシアンはすぐに顔を上げた。
「問題は、誤解ではございません」
「……セレフィーナ」
「私が傷ついたかどうか、それだけでもございません」
声は落ち着いていた。
自分でも不思議なほど、冷えていた。
「では、何が問題だと言うんだ」
ルシアンの問いに、セレフィーナは迷わなかった。
「あなたが、ずっと私を見ていなかったことです」
その一言で、応接室の空気がぴんと張った。
ルシアンはすぐには反応しなかった。意味を取り違えたのではない。ただ、その言葉が予想していたより深く刺さったのだとわかる沈黙だった。
「見ていなかった……?」
「ええ」
セレフィーナは彼の目をまっすぐ見た。
「あなたは私を失って困っているのではありません」
「……」
「ずっと黙って支えてくれていたものが、急になくなって困っているだけです」
ルシアンの表情が揺れた。
否定したいのだろう。だが、すぐにはできない。
その揺れだけで、もう十分だった。
「私は、そんなふうに」
「では、どういうふうに見ていらしたのですか」
セレフィーナの声は強くない。
けれど、逃がさない声音だった。
「茶会の席順が乱れなかったこと。学園で誰かが言いすぎる前に空気が収まっていたこと。殿下のまわりの人間関係が、いつも大きく崩れなかったこと。あれを、あなたは私がしていたこととして見ていらしたでしょうか」
「それは……」
「見ていらっしゃらなかったと思います」
リズが壁際で小さく息を呑む気配がした。
セレフィーナは続けた。
「あなたは私を見ていたのではなく、私が埋めていた隙間に甘えていただけです」
その言葉は、先ほどのものよりもさらに静かだった。
だが静かなぶんだけ、深く落ちた。
ルシアンの指が、膝の上でわずかに動く。
「違う、と言いたいのかしら」
「私は……」
ルシアンはそこで初めて、明確に言葉を失った。
違う、と言い切れない顔だった。
思い当たることが、あるのだろう。
茶会で誰かが無遠慮なことを言いかけた時、気づけば話題が変わっていたこと。
面会の順番や席の空き方が、いつの間にかちょうどよく整っていたこと。
ミレイアへ向けられる視線が険しくなりすぎる前に、別の流れが生まれていたこと。
それらを彼は、誰かの働きとしてではなく、ただ“そうなっているもの”として受け取っていた。
セレフィーナは、その沈黙を待った。
責め立てるためではない。
ここで言葉を重ねすぎれば、彼はまた“言い負かされた側”へ逃げる。そうではなく、自分で立ち止まってもらわなければ意味がない。
やがてルシアンが、絞り出すように言った。
「私に、悪意があったわけではない」
「そうでしょうね」
「きみを苦しめて楽しんでいたわけではない」
「ええ。それも知っております」
セレフィーナは頷いた。
「だから厄介なのです、殿下」
ルシアンが目を上げる。
「悪意があれば、まだわかりやすかったでしょう。けれどあなたは、私を使っていた自覚もなく、私が支えていたことにも気づかないまま、そこにあるものとして受け取っていらした」
「使っていた、など」
「使っていなかったと、本当に言えますか」
答えは返らなかった。
セレフィーナは、自分の言葉がひどく整っていることに気づいていた。
泣きたくなっていないわけではない。
怒っていないわけでもない。
けれど、ここで必要なのは激情ではない。
何が傷だったのかを、取り違えずに言葉にすることだ。
「殿下がいま困っていらっしゃるのは、私がいなくなったからではありません」
セレフィーナは静かに言った。
「私がずっと引き受けていたものが、急になくなったからです」
「……」
「私という人間がどうであるかより、私が黙って埋めていたものの方が、あなたには近かったのでしょう」
ルシアンは、長く息を止めたような顔をした。
反論の言葉はまだ喉元にあるのかもしれない。
だが、それを押し出すだけの確かさがない。
それが何よりの答えだった。
しばらくして、彼は低く言った。
「私は、きみを当然と思っていたのかもしれない」
それは敗北の言葉ではない。
ようやく自分の立っていた床を見る人の、痛い認識だった。
「かもしれない、ではございません」
セレフィーナはやわらかく、しかしはっきりと返す。
「そうだったのです」
応接室に、また沈黙が落ちた。
風の音がかすかに窓を撫でる。
王都のざわめきとは違う、飾り気のない音だった。
「私はもう」
セレフィーナは、その音を聞きながら言った。
「以前の位置へ戻るつもりはありません」
ルシアンの肩が、わずかに動く。
「それは……王都へは戻らないという意味か」
「そうではありません」
セレフィーナは首を横に振った。
「少なくとも、以前の構図には戻らないという意味です」
「構図」
「ええ。黙って空気を整え、誰かの隙間を埋め、当然そこにいるものとして扱われる位置へは、もう戻りません」
その言葉は、絶縁ではない。
けれど、前と同じ形での再接続をきっぱり拒む線だった。
ルシアンはその線を見たのだろう。
以前なら、彼はきっともっと早く言葉を返していた。理を整え、自分の立場から物事をまとめようとしたはずだ。
だが今は違う。
彼は何かを言いかけて、やめた。
そのやめ方が、初めて本当に傷ついた人間のものに見えた。
セレフィーナは、それ以上追い詰めなかった。
この場で必要なのは、勝つことではない。
彼に“ようやく入口に立った”と知ってもらうことだけで十分だった。
「私は、以前のようにはお受けしません」
最後にそう告げる。
「ですから殿下も、その前提でお考えくださいませ」
ルシアンは黙っていた。
けれどその沈黙は、先ほどまでの“まだ話せば戻る”と思っていた人間のものではなかった。
もっと鈍く、もっと重い。
気づくのが遅すぎた人間の沈黙だった。
◇
彼女は冷たいのではなかった。
ルシアンは、遅れてそのことを思い知った。
自分が立っていた場所の下には、いつも彼女の静かな労力があった。
誰かが言いすぎないようにすること。
場が崩れないように支えること。
噛み合わないものを、目立たないまま整えておくこと。
それらを彼は一度も、彼女自身として見ていなかった。
ただ、そうなっているものだと思っていた。
彼女が冷たかったのではない。
自分が、彼女の静かな働きの上に立っていたことを知らなかっただけだ。
知らなかったことは、免罪にはならない。
その痛みが、今さらのように、遅れて胸へ落ちてきた。




